孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

太陽王ルイ14世と女たち。リュリ『魔法の島の歓楽』『ヴェルサイユの国王陛下のディヴェルティスマン』~ベルばら音楽(2)

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ルイ13世と王妃アンヌ・ドートリッシュに囲まれた幼少のルイ14世(背後に宰相リシュリュー枢機卿

太陽王の出生の秘密

ルイ14世(1638-1715)は1638年9月5日に、ルイ13世(1601-1643)と王妃アンヌ・ドートリッシュ(1601-1666)の王子として生まれました。

王妃は〝オーストリアのアンヌ〟の名の通り、フランス・ブルボン王家の宿敵、ハプスブルク家の王女で、政略結婚。

夫妻の不仲は有名で、アレクサンドル・デュマの小説『三銃士』では、ダルタニャンと三銃士が王妃とその愛人、英国のバッキンガム公爵との不倫の証拠隠滅のため活躍?する場面があるほど。

ふたりはほとんど別居状態で、23年間子供ができませんでしたが、ある日、狩りをしていたルイ13世は急に悪天候に見舞われ、やむなく近くにあった王妃の城館に泊めてもらいました。

王妃が懐妊したのはその夜だった、と言われています。

しかし、夫妻が一緒にいたのはたった一夜だったので、ルイ14世にはずっと出生についての疑惑がささやかれ、父親には宰相のリシュリュー枢機卿マザラン枢機卿の名前まで巷では挙げられています。

真実は永遠に闇の中ですが。

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マザラン枢機卿

権力を握るまで

ルイ13世が1643年に41歳の若さで薨去すると、ルイ14世はわずか4歳で即位することになり、母后アンヌ・ドートリッシュが摂政となり、前王の敏腕宰相リシュリュー枢機卿の腹心、マザラン枢機卿が宰相に任命されました。

しかし、当時はまだ貴族の力が強く、反乱(フロンドの乱)が起こり、王一家はパリ脱出を余儀なくされました。

反乱軍はルイ14世の寝室まで押し寄せ、王は寝たふりをして難を逃れた、ということさえあり、こうした体験から、ルイ14世は成長してから貴族を手なづけ、その力をそぐことに腐心し、絶対王政を確立していったのです。

1661年にマザラン枢機卿が死去すると、王は宰相を置かないことを宣言、親政を開始

コルベールを財務総監に任命して財政を立て直し、富国強兵策に邁進します。

ヴェルサイユ宮殿の造営開始

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造営初期のヴェルサイユ宮殿

親政開始の年、父王ルイ13世の狩りの小さな館があった、パリ郊外のヴェルサイユに大宮殿の造営を始めます。

フロンドの乱の苦い思い出のあるパリを離れたかった、という説もありますが、自然豊かな広い土地に、自分の思い通りの世界を実現したかった、というのが本当のようです。

しかし、湿地で水利も悪い土地で、工事は困難を極め、宮廷が移るのは20年後の1682年になりました。

宮殿の造営には、建築家のル・ヴォー、造園家のル・ノートル、画家・室内装飾家のシャルル・ルブランら、当代最高の技術者が腕を振るいました。

その間、ルイ14世は諸国との戦争に明け暮れますが、そのさなかでも、暇さえあればヴェルサイユを訪れ、細かく指図し、気に入らないところはやり直させました。工事に携わる人たちの悲鳴が聞こえてきそうです。

1664年、旧城館を改築する第一期工事が竣工すると、ルイ14世は600人をヴェルサイユに招いて盛大な祝典を開きました。

これが『魔法の島の歓楽』です。

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『魔法の島の歓楽』のパレード

『魔法の島の歓楽』

これは、ヴェルサイユを舞台とした、今のテーマパークのようなストーリーを伴った大スペクタクルでした。

物語は、イタリアの空想小説、アリオストの『狂えるオルランド』を元に、自由に改変したものです。

オルランド〟は、カール大帝の名高い家臣ローランのことで、彼の英雄的冒険を、魔法あり、怪物あり、恋愛ありで描いた創作叙事詩です。月に行くことまで出てきます。

もう一人の主人公、英雄ルッジェーロは、美しい魔法使いのアルチーナに誘惑され、魔法の島にある宮殿で彼女と快楽にふけります。

しかし、助けにきた本当の恋人に目を覚まされ、魔法の壺を壊して、美魔女アルチーナからの束縛から解放されて幕となります。

この物語は当時大人気で、ヘンデルもこのテーマでリナルド』『オルランド』『アルチーナの3作のオペラを書いているのです。

この祝典では、ルイ14世はルッジェーロに擬され、その〝魔法の島〟での歓楽が再現されました。

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ルッジェーロに扮したルイ14世

当時の証言です。

王は、これが郊外の館かと思うような設備を備えた場所で、一風変わった祝宴を催して妃たちやすべての廷臣を楽しませたいと思い、パリから4リーグほど離れたヴェルサイユを選ばれた。この城が魔法の宮殿と呼ばれるのも当然かもしれない。なぜなら、芸術的な装飾が自然の神のなされた配慮を補い、完全なものとしているからである。この美しい場所に宮廷全体が移動したのは5月5日であり、14日まで王は600人以上もの人々をもてなした。その他にも、踊りや劇のために多くの人が必要であった。また、あらゆる職人がパリから来たが、あまりに大勢だったので、まるで小さな軍隊のように思われた。

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『魔法の島の歓楽』のイベント

魔法の島の歓楽。馬上での騎馬試合。舞台効果を考えた軽食会。舞踏と音楽を伴うモリエールの喜劇。アルチーナの宮殿でのバレエ。花火。その他にも国王によって、1664年5月7日に優雅で壮麗な催しがヴェルサイユで催され、さらに数日間続けられた。

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『魔法の島の歓楽』で上演された劇

ここで活躍したのも劇のモリエール音楽のリュリのコンビでした。

3日続いた『魔法の島の歓楽』では、最終日にはアルチーナの宮殿が花火で豪快に爆発するという、大フィナーレが用意されていました。

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『魔法の島の歓楽』アルチーナの宮殿の爆発

愛人のご機嫌を取るための大イベント

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王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュ(1638-1683)

この祭典は、実は本物の〝美魔女〟のために開催されたものだったのです。

ルイ14世は父と同じくハプスブルク家から、スペイン王フェリペ4世の王女マリー・テレーズを1660年に妃に迎えますが、政略結婚で愛は抱けなかったようで、女性遍歴を繰り返すことになります。

翌年には、なんと弟オルレアン公の妃アンリエット・ダングルテールと恋仲になり、フォンテーヌブローの森で密会を重ねます。

アンリエットは、清教徒革命で処刑されたイングランドチャールズ1世の王女で、現王チャールズ2世の実妹でもあります。

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アンリエット・ダングルテール(ヘンリエッタ・アン・ステュアート)(1644-1670)

倫理上は言うまでもなく、外交上、国際上も問題になりかねない事態に、アンリエットはさすがにヤバいと思い、王は自分ではなく、侍女のもとに通っているのだ、ということにしてカモフラージュしようとしましたが、ルイ14世はあっけなくその侍女ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールに惚れてしまいます。

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女神アルテミスに扮したルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール(1644-1710)

彼女は敬虔な人物で、王妃への罪の意識に苛まれますが、侍女の身で王の愛を拒むこともできず、悶々としていました。3人も王の子を産みますが、2度も修道院に駆け込む騒ぎを起こしています。

『魔法の島の歓楽』は、実はそんな愛人のご機嫌を取るために催されたイベントで、それは誰一人知らぬ者のない周知の事実だったのです。

リュリの音楽の一部をご紹介します。

ディヴェルティスマン」とは〝余興〟といった意味で、踊り、歌の入った自由な劇のことです。

リュリ:ディヴェルティスマン『魔法の島の歓楽』

J.B.Lully:Les Plaisirs de L'ile Enchantée ,

演奏:ウィリアム・クリスティ指揮 レザール・フロリサン

William Christie & Les Arts Florissants

二重唱『ねえクリメーヌ、恋ってなんでしょう?』

恋について語る甘美なデュエットで、イタリアオペラのスタイルで書かれています。

序曲と、祭典の様子を描いた銅版画の動画です。


Jean-Baptiste Lully - Les Plaisirs de l'Ile Enchantée, extraits

やり手の寵姫、モンテスパン夫人

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モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイス(1640-1707)

1668年。ヴェルサイユの工事も進み、庭園も、遠近法を利用した並木道、岩の洞窟、噴水、生垣の迷路、野外劇場が出来上がったため、ルイ14世は再びこの地で愛人のために壮大なディヴェルティスマンを挙行しようと思いつきました。

この時の愛人は、『魔法の島の歓楽』のときのルイーズ・ド・ヴァリエールではなく、新たな寵姫モンテスパン夫人でした。

彼女は1666年に亡くなった母后アンヌ・ドートリッシュの追悼ミサで王に知り合いましたが、自ら王の寵姫になる野望を抱き、以前からチャンスをうかがっていたのでした。

ちょうど夫のモンテスパン侯爵が遠くの戦地に単身赴任にした隙に王に近づき、まんまと愛人になりおおせたのです。

夫人は金髪に青い目の豊満な魅力的な女性で、快活で才気と機知に富み、ユーモアあふれる会話術で王をとりこにしました。

夫の侯爵は何も知らずにパリに戻った折、モリエールの喜劇『ジョルジュ・ダンダン』を観て大爆笑していました。

この劇は『やりこめられた亭主』という副題で、貴族の娘を身分不相応に妻に迎えた平民亭主が、妻の浮気にさんざん振り回されるという筋だったのです。

これに大笑いしているモンテスパン侯爵こそ〝知らぬは亭主ばかりなり〟とパリ中の笑いものになってしまったのです。

やがて事実を知った侯爵は激怒しますが、相手が王ではどうにもなりません。

嫌味に〝貞操の喪〟と称して喪服を着て王宮に出仕するなどしますが、当然王に疎んじられて領地に追い返され、結局、手切れ金を渡されて強制的に離婚させられます。

そして、王の愛を独占したモンテスパン夫人は、王妃まで愚弄するなど、傍若無人ぶりを発揮して大顰蹙を買いますが、長く続いた寵愛もやがて衰える日が来ます。

宮廷を追われた夫人は、かつてその地位を奪い、修道院に入ったルイーズ・ド・ヴァリエールのもとを訪れ、心の平穏を得るにはどうしたらよいか教えを乞うた、ということです。

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修道女となった晩年のルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール

ルイーズは王妃に常に敬意を払い、念願かなって修道院に入るときには王妃の足元に身を投げ出して許しを乞いました。。

王妃は控え目なルイーズにはずっと好意をもっており、『野にひそやかに咲くすみれのような方』と評し、一方王妃をないがしろにして傍若無人なふるまいのモンテスパン夫人には『いずれこの女により国が滅ぼされる』と嘆いていたということです。

華麗なるリュリの音楽

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ジャン・バティスト・リュリ(1632-1687)

さて、この時のリュリの音楽を聴きましょう。

歌や合唱を省き、管弦楽組曲に仕立てた録音です。

まぶしいほどに輝きを増し、絢爛豪華な王朝絵巻が目の前に広がりますが、その陰にあったドロドロした権力争いや愛憎劇などの人間模様に思いを馳せるのも一興です。

リュリ『ヴェルサイユの国王陛下のディヴェルティスマン』LWV38

J.B.Lully:Le Bourgeois Gentilhomme , LWV28

演奏:ホルディ・サヴァール指揮 コンセール・デ・ナシオン

Jordi Savall & Le Consert des Nations

ネプチューンの踊り

海の神ネプチューンが登場するように重々しくも華やかな序曲です。ティンパニのリズムがなんとも心地よく打たれます。

ネプチューンのスイヴァン

速いアレグロの楽章で、前曲と合わせてフランス風序曲を形作ります。タンバリンの音も楽し気で、華麗なダンスが目に浮かびます。

トランペットのプレリュード

〝王者の楽器〟トランペットのスカッとするようなファンファーレです。

男と女の武器

王の力を象徴する剣の舞いです。

強制結婚の儀式

『強制結婚』は、モリエールの戯曲で、そこにつけたリュリの音楽が引用されています。しっとりと落ち着いた哀愁のロンドです。

強制結婚のブーレー

同じく『強制結婚』のためにリュリが書いた舞曲、ブーレ―です。短調ですが活気あふれる祝祭的なダンスです。

シャンボールのディヴェルティスマンのブーレ―

シャンボール城で上演されたディヴェルティスマンからの引用です。管楽器とタンバリンがこの世の愉しみを謳歌するかのように歌い、踊ります。

歓楽のシンフォニー

緩やかな情感あふれる曲です。フルートのしっとりとした音色が心を癒してくれます。

奴隷

生々しい太鼓のリズムが野趣を醸し出し、盛り上げていきます。

トランペットのメヌエット

組曲の終曲はやはりメヌエットです。フィナーレにふさわしく、トランペットが高度な技を繰り広げ、にぎにぎしく王の祝宴を締めくくります。

ヴェルサイユの〝中身〟とは?

バロック様式の見本とされたこの豪奢な宮殿は、諸外国を驚かせ、ヨーロッパ中の王侯貴族が競って真似をしました。

幼いモーツァルトが転び、助け起こしてくれた王女マリー・アントワネットに『御礼にお嫁さんにしてあげる』と言ったオーストリアシェーンブルン宮殿

大バッハの息子カール・フィリップエマニュエル・バッハが、フルートを吹くフリードリヒ大王の伴奏をして活躍したプロイセンのサン・スーシ宮殿。

往時そのままの宮廷オペラ劇場が今に残るスウェーデンドロットニングホルム宮殿

ハイドンが30年務めたハンガリーエステルハーザ宮殿など、枚挙に暇なく、またいずれも音楽史上重要な舞台となりました。

では、本家本元のヴェルサイユでは、どんな音楽が流れていたのでしょうか。

パリを訪れる観光客は必ず半日をヴェルサイユ宮殿観光にあて、その豪華さに目を奪われますが、それは宮殿の外側、いわば殻を観ているにすぎません。

ヴェルサイユの〝中身〟は、そこで繰り広げられた音楽とダンスにあります。

逆に言えば、音楽を聴けば、日本にいながらにしてヴェルサイユ宮殿の〝中身〟に触れられるということです。

それをこれから年代を追って聴いてみたいと思います。

 

今回もお読みいただき、ありがとうございました。


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フランス人をコーヒーのとりこにしたトルコからの使者。リュリ&モリエール:コメディ・バレ『町人貴族』~ベルばら音楽(1)

オーストリアオスマン・トルコ、そしてフランス

ヨーロッパとオスマン・トルコの攻防の歴史と、その影響で流行したトルコ風音楽を聴いてきましたが、さらなるエピソードをご紹介していきたいと思います。

オスマン・トルコ帝国が〝黄金のリンゴ〟と呼んで、どうしても手に入れたがったオーストリアの帝都ウィーン

第2回ウィーン包囲(1683年)に先立ち、外交上不穏な動きがありました。

オスマン・トルコの侵略の矢面に立ったオーストリアハプスブルク家は、神聖ローマ皇帝を保持し、ヨーロッパ世界の盟主として君臨していました。

その長年のライバルは、フランス王

中世以来、イタリアの支配をめぐって、ドイツとフランスは戦い続けていました。

太陽王ルイ14世の野望

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ルイ14世

フランスでは、1589年に成立したブルボン朝が、第3代のルイ14世(在位1643-1715)に至って絶頂期を迎えていました。

朕は国家なり』で世界史に名高い〝太陽王ルイ14世は、王権神授説を掲げ、絶対王政の確立に成功していました。

そして今や、ヨーロッパの覇権を手にすべく、周辺諸国に盛んに戦争を仕掛けていました。

最大のライバルはもちろん、オーストリアハプスブルク家です。

しかし敵は強大な皇帝。手段は選んでいられません。

敵の敵は味方、ということで、あろうことか、ハプスブルク家を圧迫していたオスマン・トルコ帝国と手を結ぶことにしたのです。

挟み撃ちにしようというわけです。

いくらなんでも、異教徒にヨーロッパを支配されてしまったら本末転倒と思いますが、ルイ14世の野望は、オスマン・トルコとハプスブルク家に死闘をさせて、漁夫の利を得ようというものでした。

オスマン・トルコがハプスブルク家を倒したら、そこで、戦いに疲弊しているであろうトルコを追い払い、キリスト教世界の守護者として、いにしえのフランクのカール大帝のように、西ローマ皇帝として全ヨーロッパに君臨するつもりだったのです。

尊大なトルコからの使者

そんな遠大な策に基づき、1669年、ルイ14世メフメト4世の遣わした使者をパリ郊外のヴェルサイユ宮殿に迎えます。

ヴェルサイユは、バロック芸術の粋を尽くし、ヨーロッパの諸王室が競って真似をした、贅を尽くした宮殿です。

ルイ14世は、ここで大国フランスの財力と威光を使者に見せつけるべく、1400万リーブルになるというダイヤモンドを散りばめたガウンを仕立てさせ、飾り立てた玉座で迎えます。

使者は、ソリマン・アガ(スレイマン・アヤ)というスルタンの側近でした。

彼は、なんと簡素な平服でやってきて、輝かしいヴェルサイユの威容にも何も動じません。

スルタンの書簡をルイ14世に差し出すと、王が座ったまま受け取ったことに対し、無礼であるとして怒り出します。

また、書簡を読み上げたフランスの大臣は、そこに「全権大使」の文言がないことに気づきます。

大国には全権大使を派遣するのが外交上の儀礼ですが、オスマン・トルコはフランスを格下の国と見下げていたわけです。

ソリマン・アガは大使ではなく、単なる使者だったのです。

これを正装で迎えたルイ14世こそ、いい面の皮。大恥をかかされました。

トルコ人を笑いものにせよ!

退出したソリマンが、ルイ14世に会った感想をきかれると、『トルコ皇帝がお出ましになるときは、馬でさえもっと豪華な衣装をつける』などとうそぶきました。

これを聞いたルイ14世はさらに怒り心頭、ブチ切れました。

しかし、例の作戦もあることから国交断絶するわけにもいかず、お気に入りの劇作家モリエールと、音楽家リュリを呼び、トルコをバカにした喜劇を作って上演するよう命じました。

劇でトルコ人を笑いものにして、いささかでも留飲を下げようというのです。

太陽王にしてはかなりセコい意趣返しですが、こうして出来たのが、名作コメディ・バレ『町人貴族』です。

音楽界の絶対王者、リュリ

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ジャン・バティスト・リュリ(1632-1687)

ジャン=バティスト・リュリ(1632-1687)は、イタリア出身ですが、ルイ14世に気に入られ、その寵愛をほしいままにし、当時のフランス楽壇に絶対王者として君臨した作曲家です。

彼は、バレエ好きで、自らも踊ったルイ14世のために、数々のダンスを作曲、演奏しました。

ルイ14世が〝太陽王〟と呼ばれるのは、その威光が太陽に匹敵するという意味のように思われがちですが、バレエで太陽の神アポロンの役を演じたことによります。

リュリは、音楽の分野でルイ14世絶対王政を支えたといえます。

リュリとルイ14世の信頼関係は、映画『王は踊る』に描かれています。

こちらは、即位したばかりの若き国王ルイ14世のダンス。バレエで王の権威を確立しようというところです。摂政の母后アンヌ・ドートリッシュと宰相マザラン枢機卿が見守ります。


Le Roi Danse J.B Lully Ballet de la Nuit 1653 (Ouverture) Le Roi représentant le soleil levant

こちらは親政開始後、自信たっぷりにリュリの指揮で踊るルイ14世です。このとき、音楽は統治の力そのものだったのです。


"Le Roi danse" - Idylle Sur La Paix (Air pour Madame la Dauphine)

リュリは、フランスの古典音楽を確立し、ヴェルサイユ宮殿と同様、ヨーロッパ諸国に〝フランス風音楽〟として広がっていきました。

特にフランス風序曲」はスタンダードな形式となり、バッハの『管弦楽組曲ヘンデルの『王宮の花火の音楽』はまさにそのスタイルで書かれているのです。

死因は指揮棒!?

また彼は〝指揮棒を誤って自分に刺して死んだ〟ことでも有名です。

といっても、当時はまだ今のタクトはなく、その時リュリは重い杖で床を打ちながらリズムをとって指揮をしていました。

その杖で誤って自分の足を突いてしまったのです。痛い!

で、傷口が化膿してしまい、あっけなくこの世を去ってしまいました。

モリエールの代表作『町人貴族』

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ジャン・バティスト・モリエール(1622-1673)

台本を担当したジャン・バティスト・モリエール(1622-1673)は、コルネイユラシーヌとともに、フランス古典主義3大作家のひとりで、その主宰した劇団はのちにコメディ・フランセーズになります。

風刺を効かせた数々の名作喜劇を生み出し、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』の元となった『ドン・ジュアン』も作りました。

町人貴族』は、まさに当時最高のコンビが作った作品なのです。

あらすじは、金持ちの商人ジュルダン氏が、貴族になりたくてたまらず、教養や剣術、ダンスなどの素養を身につけようとしますが、見栄っ張りで単純な性格を周囲に利用されてばかり。結局、豪華な服にしか興味がわきません。

娘には結婚したい相手がいましたが、ジュルダン氏は相手は貴族でなきゃならん!と許しません。

そこで娘と恋人は一計を案じ、恋人はトルコの王子ということにして、その妃の父はトルコの〝ママムーシ〟という貴族に叙される、という話をもちかけます。

ジュルダン氏は、トルコでもなんでも貴族になれるなら、とこの話を受け、貴族の位を与えるトルコの愉快な儀式が行われます。

この場面で、トルコ人が滑稽に描かれ、バカにされているわけです。

ここでは、序曲と、そのトルコの儀式の場面をご紹介します。

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ジュルダン氏

リュリ:コメディ・バレ『町人貴族』LWV43

J.B.Lully:Le Bourgeois Gentilhomme , LWV43

演奏:ホルディ・サヴァール指揮 コンセール・デ・ナシオン

Jordi Savall & Le Consert des Nations

序曲

典型的なフランス風序曲です。前半の「緩」の部分は重々しい付点リズムで、場を厳粛なムードにします。喜劇とはいえ、国王臨席ですので、露払いが必要なわけです。続く「急」の部分は、速い音楽になりますが、ここで王がお出ましになり、席に着きます。

トルコの儀式のための行進曲

ジュルダン氏に爵位を授ける儀式の始まりの音楽です。このマーチに合わせて、滑稽な恰好をしたトルコ人たちが次々に入場してきて、ジュルダン氏の目を丸くさせる場面です。まさに〝トルコ行進曲〟そのものです。

上記の演奏は行進曲のみですが、続く歌の場面を含んだ音楽は下記です。イスラムの大祭司(ムフティ)が出て来て、めちゃくちゃな儀式を進めます。まさにトルコ人を愚弄していて、ルイ14世は腹をかかえて笑ったことでしょう。ジュルダン氏はモリエールが、大祭司はリュリが自ら演じたということです。

トルコの儀式の場面

演奏:グスタフ・レオンハルト指揮 ラ・プティト・バンド

Gustav Leonhardt & La Petite Bande

トルコの儀式のための行進曲(第1の曲)

トルコ人たち

アラーは偉大なり

大祭司(ジュルダン氏に)

知ってたら返事しろ

知らなきゃだまってろ

わしは大祭司

お前は誰だ

分からなきゃだまってろ

大祭司(トルコ人たちに)

トルコ人よ 、言え、この者は何者か?

再洗礼信者か? 再洗礼信者か?

ツヴィングリ派か? コプト派か?

フス派か? モーロ派か? 瞑想派か?

トルコ人たち

いいえ、いいえ、いいえ

大祭司

いいえ、いいえ、いいえ、か。

では異教徒か? ルター派か? 清教徒か?

バラモン教徒か? モフィン教徒か? ズリン教徒か?

トルコ人たち

いいえ、いいえ、いいえ

大祭司

いいえ、いいえ、いいえ、か。

イスラム教徒だな? イスラム教徒だな?

トルコ人たち

はい、神かけて。はい、神かけて。

大祭司

名はなんという?名はなんという?

トルコ人たち

ジュルディーナ。ジュルディーナ。

大祭司、トルコ人たち

ジュルディーナ?ジュルディーナ?ジュルディーナ?

大祭司

マホメットよ、ジュルディーナのために我は祈る。

夜も、昼も。

パラダンたらしむるために。

ジュルディーナに、ジュルディーナに、

ターバンを与えよ、半月刀を与えよ

ガレー船と帆船とともに、パレスティナを守るために。

マホメットよ、ジュルディーナのために我は祈る。

夜も、昼も。

大祭司

ジュルディーナは、よきトルコ人なりや?

トルコ人たち

はい、神かけて

大祭司とトルコ人たち

ハ・ラ・バ、バ・ラ・シュ、バ・ラ・バ、バ・ラ・ダ

(第2の曲)

トルコ人たち

ウ、ウ、ウ、偉大なり

大祭司

なんじはペテン師ではなかろうな?

トルコ人たち

いいえ、いいえ、いいえ

大祭司

なんじは悪者ではなかろうな

トルコ人たち

いいえ、いいえ、いいえ

大祭司

ターバンを与えよ

トルコ人たち

なんじはペテン師ではなかろうな

いいえ、いいえ、いいえ

なんじは悪者ではなかろうな

いいえ、いいえ、いいえ

(第3の曲)

大祭司とトルコ人たち

なんじは貴族なり、おとぎ話にあらず、剣をとれ

(第4の曲)

大祭司とトルコ人たち

打て、打て、杖で

(第3の曲)

大祭司とトルコ人たち

恥を知らぬは、これぞ最大の恥なり

実際の舞台はこちらです。演出によって、かなりの違いがあります。でもどうでしょう?まるで現代のミュージカルのように生き生きとした音楽と思いませんか?今から300年以上も前の曲なのに。


La cérémonie turque (Le Bourgeois Gentilhomme, de Molière e Lully)

コーヒー文化のはじまり

『町人貴族』は、ルイ14世臨席のもと、ロワール渓谷のシャンボール城の大広間で上演され、大喝采を浴びました。

ルイ14世の気がどこまで済んだか分かりませんが、太陽王をコケにしたトルコの使者ソリマン・アガは、ひょんなところでヨーロッパの文化に大きな影響を与えました。

それは、コーヒーを流行らせたことです。

この黒い液体は、既にヨーロッパに伝わってはいましたが、まだ得体の知れない飲み物でした。

ソリマン・アガはパリ滞在中、宿舎をトルコの宮殿風に豪奢に飾り付け、客人をコーヒーでもてなしました。

テーブルではなく、床に敷いた豪華な絨毯の上でクッションに座らされ、見たこともない〝ジャポン〟という東洋の磁器で振舞われる、香ばしい魅惑の飲み物。

ソリマン・アガは、コーヒーに慣れないヨーロッパ人向けに、砂糖をたっぷり入れて供したそうです。

客人はたちまちカフェイン効果で気分は高揚、まるでアラビアンナイトの世界にいるような陶酔感に包まれたのです。

これをきっかけに、コーヒー文化はヨーロッパに広まっていったのです。

茶、カカオとともに、この異世界の飲み物が歴史に与えた影響ははかり知れません。

音楽との関りも深いですが、それはあらためて取り上げるとして、まずはしばらく、フランスのヴェルサイユ宮殿に花開いた音楽「ヴェルサイユ楽派」、いわば〝ベルばら音楽〟を聴いていきましょう。

 

今回もお読みいただき、ありがとうございました。


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ベートーヴェンのトルコ行進曲。アテネからブダペストへ、古代への熱き思い。ベートーヴェン『アテネの廃墟』作品113

もうひとつのトルコ行進曲

トルコ行進曲〟は、前回取り上げた、モーツァルトのほか、ベートーヴェン作曲のものもあります。

モーツァルトに比べると一般的なポピュラー度は少し低いかもしれませんが、ピアノを練習している人にはよく弾かれ、親しまれている曲です。

でもこちらはもともとはピアノ曲ではなく、ベートーヴェン1811年に作曲した劇の付随音楽『アテネの廃墟』作品113の第6曲で、オーケストラ曲です。

今回はこの曲ができたエピソードのご紹介です。

昔は「ブダ」と「ペスト」だった

1812年ハンガリーペスト市「ドイツ劇場」が新築されました。

ベートーヴェンの『アテネの廃墟』は、この劇場のこけら落とし公演の演目のひとつだったのです。

〝ドナウの真珠〟と讃えられ、ヨーロッパ有数の美しい都市といわれる、今のハンガリーの首都ブダペストですが、もともとは、ドナウ川を挟んで西岸は「ブダ」、東岸は「ペスト」という違う街でした。

「ブダ」はハンガリー王の王宮があり、政治の中心地。「ペスト」は商業の盛んな街でした。ちょうど「福岡」と「博多」に似ています。

くさり橋を作った人

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ブダペストセーチェーニ鎖橋

このふたつの街は近くにありながら、ドナウ川があって行き来は不便。

舟橋がかかっていましたが、不安定ですし、冬は流れてくる氷に壊されてしまうので解体されました。

冬季は川が凍って渡ることができましたが、1820年の12月、まだ川が凍っていないのに、冬の準備で舟橋は解体されていた時期、父の訃報を聞いて対岸に駆けつけようとしたある伯爵が、渡るに渡れず、渡し舟を手配するのに大変時間がかかってしまいました。

その伯爵は、自分の体験から、絶対不可能といわれていた、大河ドナウへの架橋を決意しました。

そして、30年もの間、大変な苦労と努力を重ねた末、1849年に完成したのが、ブダペストの象徴となっているくさり橋です。

今では、橋の建造に尽力した伯爵の名を讃えて、セーチェーニ橋と呼ばれることも多くなっています。

この恒常的な橋の完成によってふたつの街は有機的に結ばれ、1873年に「ブダ」と「ペスト」は合併して「ブダペスト」となったのです。

これは19世紀も後半のことですから、ベートーヴェンの時代には、まだ街は分かれていました。

オーストリアオスマン・トルコに挟まれて

歴史的には、ハンガリーオスマン・トルコと神聖ローマ帝国との係争の地であり、スレイマン大帝による第1回ウィーン包囲(1529年)につながる侵略で、1526年のモハーチの戦いで敗れて以来、140年もの間オスマン・トルコ領ハンガリーと、ハプスブルクハンガリーに分割されました。

前回取り上げた1683年の第2回ウィーン包囲オスマン・トルコが失敗したのち、ヨーロッパ側は攻勢を強め、1699年のカルロヴィッツ条約ハンガリーハプスブルク家の帰属となり、ようやくオスマン帝国の勢力をハンガリーから駆逐することができました。

以後、ハンガリー王位はハプスブルク家の皇帝が兼ねることになり、ベートーヴェンの時代もその状態が続いていたのです。

ちなみに、ハイドンが仕えたハンガリーの大貴族、エステルハージ侯爵家は、対トルコ戦で代々ハプスブルク家に忠誠を尽くし、多大の功績を上げてきました。

その結果、皇帝から多くの当主が「帝国軍元帥」に任命され、多くの領地を得て、ハンガリー国内での所領はハプスブルク家のものを凌駕したといわれています。

新劇場のこけら落とし公演

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オーストリア皇帝フランツ2世(1768-1835)

さて、そんなペスト市に新しく「ドイツ劇場」が完成し、そのこけら落としに際して上演されたのが、祝祭劇「アテネの廃墟」です。

戯曲を書いたのはアウグスト・フォン・コッツェブー(1761-1819)という劇作家でしたが、内容的には文学的に深いものではなく、皇帝を讃えるものでした。

時の皇帝はフランツ2世(1768-1835)。モーツァルトを贔屓にしたヨーゼフ2世の甥にあたりますが、ナポレオンに敗れて「神聖ローマ皇帝」は退位し、1804年からは「オーストリア皇帝」となっていました。

劇に使われる曲をベートーヴェンが作曲し、序曲と付随音楽8曲を書いています。

トルコ行進曲はその1曲です。

17世紀に大爆発したパルテノン神殿

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パルテノン神殿

アテネの廃墟〟とは、世界遺産のシンボルとなっている、ギリシャアテネアクロポリスの丘にそびえるパルテノン神殿のことを指します。

紀元前438年に、ペルシア戦争の戦勝記念として建てられた、古代ギリシャ建築の最高傑作です。

現在、修復が進められていますが、かなりの瓦礫の山の上に立っています。

紀元前の建築ですから壊れているのも無理もありませんが、壊滅的な破壊は比較的近年の、1687年に起こっています。

ギリシャは15世紀からオスマン・トルコの支配下になっていましたが、トルコ軍はこの神殿をなんと火薬庫として使っていました。

そして、ヴェネツィア共和国との戦いの最中、砲弾が当たり火薬に引火、爆発炎上して、今のような瓦礫の山になってしまったのです。

17世紀末まで、2000年以上もかなりまともに残っていたと思われるのに、残念至極です。

この劇は、そんなギリシャ文明をテーマにし、ギリシャ神話の女神アテナを主人公にしています。

知略の女神アテナ

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失われたフェイディアスのアテナ女神像をローマ時代に摸作したといわれる像

アテナは大神ゼウスの娘で、ラテン名ではミネルヴァと呼ばれ、知恵、芸術、工芸、知略をつかさどるアテネの街の守護神です。

神話によれば、アテネの街ができたとき、守護神の座をアテナと、海神ポセイドン(ラテン名:ネプチューンが争いました。

市民は、街に役に立つものをプレゼントしてくれた方を守護神にする、と言いました。(神様に対してずいぶんと図々しい市民たちですが…)

ポセイドンは塩の泉(一説には馬)を、アテナはオリーブの樹を授け、市民はオリーブオイルの方が体にいい、ということでアテナを選んだということです。

街の名前も、アテナにちなんでつけられました。

パルテノン神殿には、名工フェイディアス作のアテナ女神立像が本尊として祀られていたといわれていますが、今は跡形もありません。

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私がアテネで買ったお土産物の花瓶?に描かれたアテナとポセイドン

戯曲『アテネの廃墟』のあらすじ

劇のあらすじは次のようなものです。

女神アテナは、アテネの哲学者ソクラテスが裁判にかかったとき、これを見殺しにしたとしてゼウスの怒りを買い、2000年もの間眠らされていました。(神話にはそんな話はなく、創作です)

ようやく目覚めてアテネの街に帰ると、そこはオスマン・トルコの支配下

古代の文物も破壊し尽され、荒廃しきっていました。

女神はかつての自分の街の惨状にあっけにとられて立ち尽くし、その側をトルコ兵が軍楽を派手に鳴らしながら闊歩していきます。

トルコ行進曲はこの場面の音楽なのです。

絶望したアテナのもとに、神の使いヘルメス(ラテン名:マーキュリー)が訪れ、ミューズ(芸術)の神はすでにギリシャを去って他国に移り、ハンガリーの都ペストに新たな芸術の殿堂が生まれた、と告げます。

その殿堂が、この新しい「ドイツ劇場」というわけです。

ヘルメスに伴われてペストを訪れたアテナは、古代からの芸術を保護した皇帝フランツの胸像に月桂冠を飾ってその功績を讃え、幕となります。

まさに、劇場の完成を祝い、そのパトロンである皇帝を讃えるために特別に創られた劇なのです。

貴族を利用した?ベートーヴェン

ベートーヴェンといえば、権力者には反抗的なイメージがあります。

人民の英雄として尊敬していたナポレオンが、自ら皇帝になったと聞き、激怒して彼に献呈しようとして『ボナパルト』と名付けた第3シンフォニーの表紙を破り、『ある英雄の思い出のために』に変えた、といわれていますし、次のようなエピソードもあります。

文豪ゲーテと庭を散歩していたとき、向こうからオーストリアの皇族一行がやってきました。

ゲーテは帽子を取って道の脇に寄り、うやうやしくお辞儀をしました。

ベートーヴェンはむしろ帽子を深くかぶりなおし、ふんぞり返っているので、皇族の方から挨拶をしてきました。

皇族が去ると、ベートーヴェンゲーテに『あなたと私という芸術家がいるのですから、そんなにへりくだる必要はないではありませんか。』と言ったということです。

ふたりはお互いに〝この人とはやっていけない〟と思い、交際は短く終わりました。

しかし、ベートーヴェンの作品リストを見ると、王侯貴族を讃えるための曲が意外にあります。

評論家のアーノルド・ショーンバーグは次のように述べています。

モーツァルトが貴族世界の周辺を動き、ドアを一心に叩いても本当の意味で中に入れてもらえなかったのに対し、ベートーヴェンはドアを蹴り飛ばして押し入り、自分の住み家にした。*1

こうした曲は、ベートーヴェンが貴族社会の一員として活動していたことを示しているのです。

ギリシャをヨーロッパに取り戻そう!

また、この劇のテーマが象徴しているのは、ギリシャがトルコの支配下にある現状に対するヨーロッパ人の思いです。

ヨーロッパの歴史で、教会の支配のもと人間性を抑圧されていた長い中世から、人間らしさに光を当てたルネサンス

人類は、古代ギリシャ、そしてそれを受けついだ古代ローマにおいて、文化、芸術、学問、民主政治、哲学、科学、建築、社会など、あらゆる分野で一度発展の頂点に達しました。

その後、蛮族の侵入などによって、その輝かしい古代文明の成果は西ヨーロッパから失われてしまいましたが、オスマン・トルコによるコンスタンティノープルの陥落によって、ビザンツ帝国に細々と、連綿に受け継がれていた古代文明の遺産が西ヨーロッパに入ってきました。

それは、カトリック教会からすれば呪うべき異教徒の文物でしたが、ヨーロッパ人はかまうことなく、その素晴らしさに魅せられ、もっと古代のような人間らしさを取り戻そう、と文芸復興ののろしを上げました。

これがルネサンスです。

クラシックとは

さらに時代が進むと、もっと古代ギリシャ・ローマを模倣しよう、ということになります。

これは古典主義といわれます。

古代ギリシャ・ローマは、後世の見本となる完成された文化の時代として「古典古代」すなわちクラシック、と呼ばれます。

18世紀後半には、ナポリ近郊でベスビオ火山の噴火で埋もれたポンペイの街が発見され、タイムカプセルを開けるようなその発掘が盛んになり、憧れの古代がリアルに人々の目の前に現れた時期でした。

古代への憧れにさらに拍車をかけたのです。

オペラはまさに古代ギリシャ劇の再現を目指したものですし、芸術の世界は古代の復活がメインテーマとなりました。

音楽の世界では、ハイドンモーツァルトベートーヴェンらは「ウィーン古典派」とされていますが、そのような時代の風潮を表した呼び名です。

ただ、本人たちの作品は「古代」を積極的に手本にした、というわけではありません。

むしろ、音楽の世界では、自分たちが〝後世の手本〟になっています。

ですから〝クラシック〟の意味も、現代ではズレて使われています。

クラシック音楽」は、古代ギリシャ・ローマの復興をめざした音楽、という本来の意味から、それ自体が、後世の見本となりうる普遍的価値をもった音楽、という意味合いに変わっているのです。

独立戦士バイロン

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第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(1788-1824)

それはさておき、そんな古代に憧れている西ヨーロッパ人にとって、自らの精神のふるさとであるギリシャが、いまだにオスマン・トルコの支配下にあるのは残念なことでした。

この『アテネの廃墟』が作曲されてから10年後の1821年、ギリシャ人が独立を目指して蜂起し、ギリシャ独立戦争が始まります。

すると、ヨーロッパ列強諸国はこれに介入し、1832年に独立が承認されました。

英国貴族にして詩人のバイロン(1788-1824)は、ギリシャ独立戦争に参加するべく、ギリシャに上陸しましたが、戦闘を前に熱病で亡くなりました。

これも、当時の〝古代熱〟が伺えるエピソードです。

戯曲『アテネの廃墟』の一見他愛ない内容にも、これらの歴史的背景が秘められているわけです。

今回は、付随音楽の中でも演奏機会の多い「序曲」と、「トルコ行進曲」の2曲を聴いてみます。

ベートーヴェン:劇音楽『アテネの廃墟』作品113

L.V.Beethoven : Musik zu “Die Ruine von Athen” Op.113

演奏:ジョス・ファン・インマゼール指揮 アニマ・エテルナ

Jos van Immerseel & Anima Eterna

序曲

ト短調のアンデンテ・コン・モートの不穏な序奏から始まり、祝祭らしくない不安な雰囲気になりますが、ほどなくト長調の明るい主部になります。

オーボエファゴットが呼び交わす軽やかな旋律には癒されます。

最後には、ベートーヴェンらしく大いに盛り上げて終わります。

第4曲 トルコ行進曲

劇中で、失望した女神アテナの側を、トルコ軍楽隊が遠くからやってきて、やがて去っていく、という情景を描いた曲です。

モーツァルトにしてもハイドンにしても、トルコ風の音楽は短調で書いていますが、これは変ロ長調の明るい調子です。

オスマン帝国の恐ろしいイメージはなく、おもちゃの兵隊の行進のような愛らしささえあります。

今ではピアノ編曲で演奏される方が圧倒的に多いですが、原曲は実はベートーヴェン自身のピアノ変奏曲のテーマから取られています。

フルートの代わりにピッコロを使い、シンバル、大太鼓、トライアングルを加えているのは、モーツァルトの『後宮からの誘拐』と同じく、当時のトルコ風音楽の定石に従っています。

 

ポピュラーなピアノ編曲版も掲げておきます。

トルコ行進曲

ピアノ:アレッシオ・バックス Alessio Bax

 

珍しい、ラフマニノフの演奏も見つけました。

 

今回もお読みいただき、ありがとうございました。


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*1:『大作曲家の生涯・上』亀井旭・玉木裕共訳 共同通信社

クロワッサン、ベーグル、コーヒー、そしてトルコ行進曲。モーツァルト『ピアノ・ソナタ 第11番 イ長調 K.331〝トルコ行進曲つき〟』

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オスマン・トルコによる第2次ウィーン包囲(1683年)

トルコ趣味の音楽、その背景

モーツァルトの結婚にまつわる曲として、オペラ『後宮からの誘拐を取り上げましたが、これはトルコのハーレムを舞台にした作品でした。

これは当時のヨーロッパ人のトルコ趣味に合わせたものですが、トルコはヨーロッパのクラシック音楽にも大きな影響を与えましたので、そのお話をしていきたいと思います。

オスマン・トルコ帝国は、1453年にコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を陥落させ、東ローマ帝国ビザンツ帝国)を滅ぼしてから、ハンガリーにも侵攻し、ヨーロッパ諸国を震え上がらせました。

その攻撃の矢面に立ったのは、神聖ローマ皇帝位を独占していたーストリアのハプスブルク家です。

1529年にはスレイマン大帝率いるトルコ軍に2ヵ月にわたってウィーンを包囲され、陥落は免れましたが、 実に危ういところでした。この第1回ウィーン包囲を行ったレイマン大帝の皇后は、実はヨーロッパ女性だった、というお話はこちらでご紹介しました。

www.classic-suganne.com

第2回ウィーン包囲

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ウィーン救援に駆けつけたポーランド国王ヤン3世ソビエス

最盛期を築いたスレイマン大帝の死後、オスマン帝国はじわじわと衰退の途をたどっていきますが、17世紀になってもまだまだヨーロッパにとっては脅威であり続け、オーストリアハンガリーをめぐって小競り合いを繰り広げていました。

その陰には、ヨーロッパにおけるオーストリアハプスブルク家の最大のライバル、フランスのブルボン家がいました。

フランス絶頂期の君主、太陽王ルイ14世は〝敵の敵は味方〟ということで、なんと異教徒であるオスマン帝国と手を結び、オーストリアを背後から圧迫させたのです。

そして、1683年。オスマン・トルコはついにふたたび、大軍でウィーンを包囲したのです。

皇帝であるスルタンは政治の実権を失っており、率いたのは大宰相カラ・ムスタファ・パシャでした。

ハプスブルク家の皇帝オポルト1世はウィーンを脱出し、諸侯に救援を求めました。

これに真っ先に応えたのが、ポーランド国王ヤン3世ソビエス(1629-1696)。

ポーランド・リトアニア共和国の精鋭騎兵「フサリア」3万を率いて救援にかけつけ、集まったドイツ諸侯とともに、油断していたトルコの包囲軍に速攻をかけ、これを散々に打ち破りました。

第1回ウィーン包囲は、トルコ軍の兵糧不足などによる撤退で終わりましたが、追撃はできず、かならずしも勝ったとはいえません。

しかし、第2回ウィーン包囲はヨーロッパ側の完勝でした。

以後、トルコはもはやヨーロッパの脅威ではなくなり、恐怖の対象から、エキゾチックなオリエントの国として、異国趣味の対象になっていったのです。

クロワッサン、ベーグル、そしてコーヒー

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ヨーロッパを異教徒から救った英雄として描かれたヤン3世ソビエス

この劇的な勝利は、いくつかの〝伝説〟を生みました。

まずは、クロワッサン

トルコ軍の勝利の記念として、トルコの旗にある三日月を食べてまえ!ということで作られたパン、という説があります。

しかし、残っているクロワッサンのレシピで最も古いものは20世紀初めのもので、それまで何もクロワッサンの記録はないため、これは創作された話とされています。

そもそもクロワッサンはフランスのパンであり、当時フランスはトルコの味方、オーストリアの敵だったのですから、歴史の背景から見てもおかしな話です。

また、同じパンのベーグルも、ウィーンのユダヤ人パン屋たちが、ヤン3世への感謝の印として、馬のあぶみの形をしたパンを献上したのが始まり、という話があります。

しかし、これも確かな証拠はなく、伝説の域を出ていません。

やや信ぴょう性があるのはコーヒーです。

敗走したトルコ軍の陣地から、大量のコーヒー豆が見つかり、これをポーランド・リトアニア共和国軍のイェジ・フランチチェク・クルチツキが払い下げを受け、彼は軍を辞めて1686年にウィーンでカフェ『青いボトルの下の家』を開き、ここからウィーンにコーヒー文化が広がった、というものです。

これは事実のようで、コーヒーは既にヨーロッパに入ってきていましたが、普及したきっかけはウィーン包囲以後です。

いずれにしても、トルコとの戦争が、ヨーロッパの文化、芸術にも大きな影響を与えたのです。

強烈なトルコの軍楽

音楽に与えた影響は、トルコの軍楽隊でした。

トルコ軍は士気を高めるため、軍楽隊を伴っていました。

ウィーンへの遠征でも軍楽隊が同行し、その迫力はヨーロッパ人を大いに驚かせたのです。

トルコの軍楽は「メフテル」といい、確かに、独特のリズムと、哀愁を帯びた旋律は一度聴いたら忘れられません。

有名なものはこちらで、かつて「世界ふしぎ発見!」で紹介されて話題になりました。

これは20世紀に入ってから作曲された曲ですが、雰囲気は昔と同じです。

このトルコの軍楽マーチを模したのが、トルコ行進曲です。

第1拍に強烈なアクセントを置いたリズムが〝トルコ風〟ととらえられていたようです。

有名なものはモーツァルトと、ベートーヴェンのものですが、まずはポピュラーなモーツァルトのものから聴きましょう。

モーツァルトの曲は、ピアノ・ソナタ 第11番の第3楽章です。

この曲は1783年にウィーンで作曲されたと考えられていますが、それは第2次ウィーン包囲の勝利からちょうど100周年にあたります。

後宮からの誘拐』が前年の1782年初演ですから、ウィーンが〝祝・トルコ戦勝100周年〟で湧いていたのが伝わってきます。

モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第11番 イ長調 K.331(300i)〝トルコ行進曲つき〟

W.A.Mozart : Piano Sonata no.11 in A major, K.331(300i)〝Alla Turca〟

演奏:リチャード・フラー(フォルテピアノ)Richard Fuller

第1楽章 アンダンテ・グラティオーソ

このピアノ・ソナタは、モーツァルトソナタでも最も有名なものですが、全く異例な構成で、いわば異端児です。

そもそも、第1楽章がソナタ形式をとっておらず〝ソナタなのにソナタじゃない〟のです。

第1楽章は変奏曲で、テーマと6つの変奏からなっています。

テーマはゆったりとした子守歌風で、私はなぜか古い歌〝〽なーつがくーれば思い出すー、はるかな尾瀬、遠い空〟を思い出してしまうのです、

思わず心地よい眠りに誘われそうですが、そこはモーツァルト、聴く人を引き付けてやまない魅力的な変奏が続きます。

華やかで技巧的な第2変奏に続き、第3変奏は短調で哀愁が漂います。

第4変奏は夢の中のまどろみのように、美しく、不思議な世界にいざなわれます。

第5変奏はアダージョで、情感はさらに深くなり、あふれる思いがおさえきれないようなやるせなささえ感じます。この曲のクライマックスといえます。

第6変奏はアレグロで、元気に、そして華やかに曲を締めくくります。

モーツァルトは、コンサートのメイン種目のひとつとして、変奏曲を数多く書いていますが、なぜこの曲はソナタに組み込まれ、単独ではないのか、どうして第1楽章なのか、謎は尽きません。

第2楽章 メヌエット

メヌエットも、ピアノ・ソナタには普通入ってこないので、異例といえますが、全く前例がないわけではありません。

曲調も、ふつうの典雅なメヌエットとは一線を画していて、長調ですが、トリオでは短調に転じて、強いリズムになります。これももしかしたら〝トルコ風〟なのかもしれません。

かなり工夫の凝らされた曲です。

第3楽章 アラ・トゥルカ:アレグレット(トルコ行進曲

いよいよ有名なトルコ行進曲ですが、題は〝トルコ風〟ですので、どこにも行進曲とは書いてありません。

しかし、前述したように、トルコ音楽は軍隊の行進曲なので、そう呼ばれるようになったのでしょう。

モーツァルトといえば、まずこの曲が頭に浮かぶ人は多いでしょうが、どこが〝トルコ〟なのかはあまり知られていないかもしれません。

でも先ほどの「メフテル」を聴けば、モーツァルトの狙った効果が分かりやすいのではないでしょうか。

この曲の個人的な思い出ですが、1980年代、高校生の頃、伊豆七島の三宅島に行った際、帰りの船中で大学生たちがコンパをしており、船客を相手に様々な芸をしていました。

その〝演目〟の中に〝トルコ行進曲〟があり、一列に並んだ学生の頬を、この曲を先輩がビンタで奏でていくという、今だったら問題になりそうなネタですが、抱腹絶倒し、大学生ってすごいな、と、大学に行くのが楽しみでもあり、不安にもなったものです。

実際に大学生になっても、その芸をやらされることはありませんでしたが。

飲み会のネタになるほど、モーツァルトの曲でここまで親しまれているものはないでしょう。

ただ、モーツァルトの世界を、この曲からぜひ広げて行ってもらいたいものです。 

 

次回は、ベートーヴェントルコ行進曲です。

 


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ほんとに4日で書いたの!?モーツァルト『交響曲 第36番 ハ長調 K.425〝リンツ〟』と、永久欠番の『交響曲 第37番』

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オーストリアリンツの街

最後の帰郷を終えて

3年ぶりにウィーンから故郷ザルツブルクに帰郷した新婚のモーツァルト夫妻。

生まれたばかりの赤ちゃんを残してのハネムーンでしたが、滞在は3ヵ月に及びました。

結婚に猛反対していた父レオポルト姉ナンネルと、どれだけ和解できたのか分かりませんが、衝突した形跡もありません。

モーツァルトの日常が分かるのは主に父宛の手紙ですが、当然滞在中は手紙は書かないので、姉ナンネルの日記が頼りです。

しかし、それも淡々としたもので、日が間違っていたりして、十分なものとはいえません。もちろん、書いてくれていてよかったですが。

故郷に錦を飾るべく作曲した『ハ短調ミサ』の演奏の翌日、10月27日に夫妻はザルツブルクを後にします。

当日のナンネルの日記です。

27日。チェッカレッリ、ヴェークシャイダー、ハーゲナウアーが訪ねてくる。ヴァレスコも。9時半、弟と義妹出発。午後、パパと私、グレートゥル、アンリで、グニーグルで鳥を食べる。ボローニャも同行。芝居に行く。お天気。

朝、何人かの友人が訪ねて来て、モーツァルトを見送ったのでしょう。

ヴァレスコザルツブルクの司祭であり台本作家で、かつてミュンヘンで上演したオペラ『クレタの王イドメネオ』の台本を書きました。

後宮からの誘拐』の次作を、ヴァレスコに台本を書いてもらえないか、というのも今回のザルツブルク旅行の目的でもありました。

皇帝ヨーゼフ2世の意向を受け、『後宮』によってドイツ語オペラ「ジングシュピール」の価値を高めたモーツァルトでしたが、ウィーン聴衆の興味は早くもイタリアオペラに戻ってしまっていました。

そこで、ヴァレスコとザルツブルクで打ち合わせしたのですが、書き始められたオペラ『カイロの鵞鳥』は、結局、第1幕を作ったところで未完に終わりました。

ヴァレスコの創作した劇の筋が第2幕で破綻し、彼は台本を完成させることができなかったのです。

今でも、ドラマの収録途中で筋を変えることもあるようですが、これはどうしようもなく、打ち切りになってしまったわけです。

次に作曲を始めた『だまされた花嫁』も未完に終わり、イタリア・オペラの完成は『フィガロの結婚』を待たなければなりません。

リンツへの寄り道

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リンツの広場

そんなわけで、いろいろあった末、ザルツブルクを後にしたモーツァルト

父は後にウィーンに来て再会しますが、姉ナンネルとはこれが永遠の別れとなりました。

ウィーンに帰る途中、夫妻はリンツの街に立ち寄ります。

リンツは、ウィーンとザルツブルクの間に位置し、今のオーストリアでもウィーン、グラーツに次ぐ第3の都市です。

そこで、熱狂的なモーツァルトファン、トゥーン・ホーエンシュタイン伯爵に歓待されます。

結局、夫妻はリンツに3、4週間寄り道で滞在したようです。

リンツに着いたのは10月31日。

無事到着したことを、同日に父に知らせた手紙にこうあります。

11月4日の火曜日に、ぼくは当地の劇場で音楽会をします。それに交響曲を1曲も持ち合わせていないので、大急ぎで新作を書いていますが、これはその時までに仕上げなければなりません。

こうして出来たシンフォニーが『交響曲 第36番 ハ長調 K.425〝リンツ』です。

後期6大シンフォニーのひとつで、とても人気のある傑作です。

モーツァルトのシンフォニーで、街の名前が愛称になっているのは〝パリ〟〝リンツ〟〝プラハ〟の3曲です。

〝4日で作曲〟の謎

それにしても、到着したのが10月31日。演奏会が11月4日。

作曲するのに、中3日しかありません!

到着日に着手してるということですから、4日間。

リハーサルは当時の慣習ではほとんどなく、オーケストラは初見で演ったでしょうから、リハの時間は無くていいとしても、コピー機のない時代。演奏会は夜でも、当日は写譜しないと間に合わないはず。

シンフォニーの前作、第35番〝ハフナー〟は、超多忙の中、父にせっつかれ、書き飛ばして出来た楽章から送りつけたのですが、後日ゆっくりその曲を見返して、なんて素晴らしい曲なんだ!と自分でびっくりしたエピソードはすでにご紹介しました。

また、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』の序曲を、初演前夜に寝落ちして書けず、明け方3時間くらいで完成させた、という有名な逸話もあります。

このように速筆の伝説の多いモーツァルトですが、この4楽章ある堂々たる傑作を、たったの3、4日で、というのは最短記録です。

モーツァルトは頭の中ですでに曲を完成させており、楽譜に書き起こすだけだった、という話もありますが、それにしたって、書くだけでも大変な量の音符です。

幻の〝第37番シンフォニー〟

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ミヒャエル・ハイドン(1737-1806)

モーツァルトには、ここリンツで作ったといわれる、もう1曲のシンフォニーがありました。

それが『交響曲 第37番 ト長調 K.444』です。

モーツァルトの死後、妻コンスタンツェが所有する楽譜の山から出てきたもので、19世紀の間はモーツァルトの作品とされて、通番の『第37番』がふられました。

しかし20世紀初めに、筆跡鑑定などから、この曲は第1楽章の序奏部分だけがモーツァルトの作で、それ以外は、前回ご紹介したハイドンの弟、ミヒャエル・ハイドンの作品であることが判明したのです。

でも「第37番」を削除したら、これ以降の3大シンフォニーの番号まで繰り下げねばならず、すでに定着した「第40番」が「第39番」になったりしたら混乱するので、「第37番は欠番」ということになりました。

そして、4日間で作曲したというシンフォニーも、〝リンツ〟ではなく、この序奏だけだったら可能、ということになり、いくらなんでもそりゃそうだよね、ということでいったんは落ち着きました。

やっぱり4日で作曲していた!!

しかし、近年の研究で、それがまたくつがえります!

楽譜の紙質やインクの科学的分析が進み、M.ハイドンのシンフォニーにつけた序奏は、ウィーンに戻ってから書かれたことが判明したのです。

ウィーン帰還後のモーツァルトは演奏会でひっぱりだこになり、コンサートの前後で演奏するシンフォニーが足りなくなりました。

モーツァルトの手紙には『M.ハイドンのシンフォニーの海賊版楽譜を手に入れたので、それで間に合わせた』という記述もあるのです。

結局、リンツで数日で作曲したシンフォニーは、やっぱり〝リンツのシンフォニー〟だった、ということが有力になりました。

やはり、モーツァルトは常識では考えられない天才、ということになったのです。

そんな思いを馳せながら〝やっつけ〟で作ったとはとても信じられない、この素敵な曲をぜひ味わってみてください。

私はリンツに行ったことはまだないのですが、かつてウィーンからザルツブルクに向かう途中、高速道路から遠くにリンツの街を眺め、頭の中でこの曲を響かせました。

モーツァルトの滞在した館も残されているということなので、ぜひ一度訪ねたい街です。

モーツァルト交響曲 第36番 ハ長調 K.425〝リンツ〟』 

W.A.Mozart : Symphony no.36 in C major, K.425  “Linz”

演奏:フランス・ブリュッヘン指揮 18世紀オーケストラ

Frans Brüggen & Orchestra of the 18th Century

第1楽章 アダージョアレグロ・スピリトーソ

フルートもクラリネットもない小編成ですが、それはリンツのオーケストラ事情だったのでしょう。でも、トランペットとティンパニが入っているので、響きは華やかです。

特にこの演奏ではトランペットの活躍が強調されています。

モーツァルトのシンフォニーで初めて、ハイドン風の序奏がつけられています。

重い付点リズムですが、後の〝プラハ〟や第39番ほど荘重ではなく、いくぶん軽いテイストです。

しかし、オーボエのただよわす哀感が深みを感じさせます。

続くアレグロは、弦が静かに奏でる魅力的なフレーズから始まり、ほどなく〝元気に〟と書かれてある通り、晴れやかで軽快なマーチ風なテーマに入っていきます。

わくわくするようなクレッシェンド、各楽器に次々に受け渡されるテーマの模倣、まさに手に汗をにぎるような進行です。

展開部では、オーボエがシリアスな音色を奏で、ひとときの落ち着きを経て、再び明朗な晴天のもとに還っていきます。

まるで、森の中でドワーフたちが無邪気に踊るかのような、屈託のない、天真爛漫な音楽です。

第2楽章 アンダンテ

前回取り上げた、ミヒャエル・ハイドンのために代作したヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲の2曲目、変ロ長調 K.424の第2楽章に似たメロディで、この曲がザルツブルク旅行の一連の流れの中で出来たことを示しています。

ヘ長調で、しかもゆっくりした緩徐楽章にトランペットとティンパニが加えられているのは極めて異例です。

ヨーゼフ・ハイドンの〝びっくりシンフォニー〟のアンダンテを思わせ、意表をつかれますが、驚かせるほどではなく、気の利いたアクセントになっています。

第1ヴァイオリンが歌う旋律は優雅の極みで、展開部では憂いの影が忍び寄りますが、あまり深刻にはならず、美しい一幅の叙景画に仕上がっています。

第3楽章 メヌエット

古式ゆかしい、端正で貴族的なメヌエットです。

トリオでは、オーボエファゴットがカノンを使って呼び交わします。

第4楽章 プレスト

モーツァルトが〝プレスト(速く)〟と書いたら本気です。笑

スピード感あふれるこの楽章は〝旅の途中で書いたから、駅馬車が快走しているイメージになった〟とか〝急いで書いたから、息つく暇もない曲になった〟などと、色々言われています。

それはともかく、まさに馬が疾走しているかのように爽快です。

第1主題は先輩ハイドンの影響を受け、ひとつのテーマが広がっていきますが、第2主題ではその枠を飛び出して、変幻自在、自由に飛翔していきます。

それはまるで、風に吹かれた落ち葉が、夕陽を浴びながら舞うかのようです。

うらを見せ 表を見せて 散るもみぢ ー良寛

展開部では、テーマの転回と模倣が、本当に息つく暇もなく繰り出され、聴く人を圧倒します。

何度聴いても飽きない、素晴らしいフィナーレです。

顔を紅潮させたトゥーン伯爵の喝采が聞えるようです。

 

古今の人気曲

この〝リンツのシンフォニー〟は、ウィーンに帰ってからのコンサートでも何度も演奏され、また父にも送られてザルツブルクでも演奏された記録があります。

モーツァルトの生前に各地で演奏された人気曲で、ピアノ編曲版も大いに売れたということです。

ここでは古楽器の演奏を取り上げていますが、このシンフォニーは古今の名曲ですので〝巨匠〟たちの名演も数多くあります。

中でも、カルロス・クライバー(1930-2004)がウィーン・フィルを振った映像は、その優雅の極致というべき流麗な指揮ぶりに魅了されます。

1982年の〝テレーズ事件〟(ウィーン・フィルのリハーサル中、ベートーヴェンの第4シンフォニーの第2楽章で『そこは〝マリー、マリー〟じゃない、〝テレーズ、テレーズ〟だ!』と指示を出したが、オケは〝マリー、マリー〟としか演奏できず、クライバーは怒って指揮棒を折って出て行き、定期演奏会をキャンセルし、ウィーン・フィルと絶交した事件。最近ジュリーも同じようなことをしましたが…)のあと、1988年に和解した〝仲直り公演〟の映像です。

このような演奏風景はモーツァルトの時代にはありませんでしたが、近代のもたらした新たな愉しみがあります。

それは、コンサートは演奏者が観客を楽しませる目的で開かれるわけですが、逆に、演奏者が楽しんでいる姿を観て、味わうことです。

この映像の醍醐味は、クライバーが聴衆など関係なく、〝リンツ〟を全身で楽しみ、堪能している姿を観ることなのです。


Mozart Symphony # 36 "Linz" - CARLOS KLEIBER / VIENNA PHILHARMONIC

モーツァルトとミヒャエル・ハイドンの合作

では、モーツァルトが序奏をつけた『交響曲 第37番 ト長調 K.444(425a)』、実はミヒャエル・ハイドンの『交響曲 第25番 ト長調 Perger No.16』も聴いてみましょう。

モーツァルト交響曲 第37番 ト長調 K.444(425a)(序奏のみ)』/ミヒャエル・ハイドン交響曲 ト長調 Perger No.16』

W.A.Mozart : Symphony no.37 in G major, K.444(425a)/M.Haydn : Symphony in G major , Perger no.16

第1楽章 アダージョ・マエストーソーアレグロ・コン・スピリート

モーツァルトの序奏は、〝ハフナー・シンフォニー〟を思わせる、ユニゾンの跳躍で始まりますが、〝マエストーソ〟と書かれているように荘重な雰囲気があります。

しかし、ほどなく明るい調子になり、少しそぐわない感じもしますが、それは、続くM.ハイドンの曲の明るさに合わせたのでしょう。

ハイドンアレグロは屈託のない、明朗そのものの音楽で、確かにこの時期のモーツァルトにあるような深みはありませんが、モーツァルトが若い頃、ザルツブルク時代に書いた多くのシンフォニーにそっくりです。

19世紀の人がこの曲をモーツァルトのものと信じ込んでいたのも無理はありません。

逆にモーツァルトが若き日に、どれだけ先輩M.ハイドンの影響を受けたか、ということを思い知ります。

それはもしかしたら、兄J.ハイドンからのものよりも大きかったかもしれません。

第2楽章 アンダンテ・ソステヌート

抒情豊かなこの楽章も、ザルツブルクの若き日を思わせます。

中間部でファゴットが奏でる哀愁ある旋律と、弦の絡み合いは感動的です。

後半にオーボエが登場して奏でる歌も素晴らしく、こうした詩情はモーツァルトの専売特許ではなかったのです。

まさにミヒャエル・ハイドンは一流の作曲家でした。

メヌエットはなく、イタリア風に3楽章になっています。

第3楽章 フィナーレ:アレグロモルト

ユーモラスで素朴なテーマは、さすがにモーツァルトっぽくないですが、主題の展開はモーツァルト並み、いやむしろモーツァルトハイドン兄弟の真似をしたのだ、ということを実感します。

悲しみを乗り越えて

3ヵ月ぶりにウィーンに戻ったモーツァルト夫妻を待っていたのは、乳母に預けてあった最初の赤ちゃん、ライムント・レオポルトが生後わずか2ヵ月で腸閉塞で亡くなっていた、という悲しい報告でした。

ふたりの悲しみは記録には残っていませんが、察するに余りあります。

しかし、夫妻はこの不幸も乗り越えて、再びウィーンでの忙しい日々に突入していきます。

そして生み出されるのは、『フィガロの結婚』をはじめとした不朽の名曲の数々。

モーツァルトの結婚をめぐる曲を聴いてきましたが、喜びと悲しみを共にする生涯の伴侶を得てから、その作品はますます深みを増していくのです。

 


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