孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

バッハが作ったコーヒーのCMソング!バッハ「コーヒー・カンタータ」BWV211『おしゃべりはやめて、お静かに』

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バッハが演奏したコーヒーハウス

前回は、コーヒーの起源と、ヨーロッパに入ってきたプロセスに触れ、「コーヒーハウス」が、英国では近代市民社会への扉を開き、フランスでは革命の口火を切ったさまをみました。

今回はドイツです。

北ドイツへのコーヒー輸入の道筋は、前回ご紹介した4ルートのうち、オランダ東インド会社ルート〟です。

ヘンデルと違ってイタリアに行ったことのないバッハが、ヴィヴァルディなど、イタリア最先端の音楽を知ったのは、当時、世界の情報と物産が集まったアムステルダム経由でしたが、コーヒーも同様に、アムステルダムからハンブルクを経て入ってきたのです。

音楽もコーヒーも、嗜好品として同じ流れをたどっているのが面白いですね。

ライプツィヒには、18世紀前半には8軒のコーヒーハウスがあり、そのうち3軒で音楽がライブ演奏されていたということです。(当時はライブしかありませんが…)

ライプツィヒのコーヒーハウスは、英国でのように、情報交換、議論、商取引の場であったと同時に、音楽など文化・芸術の発信源でもあったわけです。

バッハが、コレギウム・ムジークムを指揮して毎週金曜日の夜、いわば〝花金〟に演奏していたツィンマーマン経営のコーヒーハウスは、カタリーナ通り14番地にあり、1715年頃に建てられました。

4階半建てのバロック建築で、ワンフロアに2部屋があり、それをつなぎ合わせていました。

1部屋は8×10m、もう1部屋は5.5×10mだったということですから、あわせて135平米、ざっと80畳間くらいの広間ということでしょうか。

ここにオーケストラと聴衆が集まったわけで、テーブルやイスもあったでしょうから、かなり緊密な空間だったでしょう。

バッハはここで、これまで取り上げたコンチェルトやフランス風序曲の数々を演奏しましたが、まさにコーヒーにちなんだ、コーヒーハウスの出し物として作曲されたのが、有名な『コーヒー・カンタータです。

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ツィンマーマンのコーヒー・ハウス

バッハはなぜオペラを作曲しなかったのか?

カンタータは、その名の通り〝歌われるもの〟といった意味ですが、ジャンルとしては、一定の筋があり、独唱や合唱を組み合わせた比較的大規模な作品を指します。

レチタティーヴォで物語が進められていくのはオペラと同じですが、演技はありません。

何といってもバッハの作品は、教会での典礼や行事のために書かれた膨大な「教会カンタータが有名ですが、宗教とは関係ない内容の世俗カンタータも何曲か書いており、このカンタータはそのうちの1曲です。

内容は、喜劇風の〝小噺〟ですが、オペラを約50曲書いたヘンデル 、約40曲書いたテレマン に比べて、1曲も書かなかったバッハにあっては、貴重な作品です。

〝バッハがオペラを書いたら、こんなだったかも〟と想像させてくれる曲なのです。

では、バロック音楽の真髄ともいうべきジャンルであるオペラを、バロックの大家であるバッハがなぜ書かなかったのでしょうか。

確かに、数々の教会カンタータマタイ受難曲をはじめとするバッハの宗教音楽の荘厳、厳粛さに触れると、荒唐無稽な神話やくだらない色恋沙汰がテーマになりがちなオペラは、とてもバッハには似合わない、と思う人は多いでしょう。

ベートーヴェンもオペラからは縁遠く、フィデリオ1曲しか書きませんでしたが、これは芸術的理由からでした。

ベートーヴェンは、モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』や『コジ・ファン・トゥッテ』の〝不道徳〟な内容に我慢がならず、〝モーツァルトはくだらない作品にせっかくの才能を浪費した〟といって残念がりました。

〝音楽性の違い〟ってやつです。

一方で、ベートーヴェンが満を持して作曲した『フィデリオ』は、貞淑な妻がわが身を犠牲にして夫を救う、という〝崇高〟な筋書きでしたが、ほとんど聴衆受けはせず、商業的成功は収めませんでした。

しかし、自身の芸術的ポリシーに基づいて作曲する、というのは、ベートーヴェンが近代市民社会を背景に始めたことですので、バッハの時代にはありえません。

職人バッハは、注文さえあれば、どんな曲でも作曲できました。

オペラを作らなかったのは、単に〝頼まれなかったから〟だと思います。

バッハのこれまでの職場は田舎の宮廷ばかりですから、大都市の華であるオペラ劇場そのものがありませんでした。

ライプツィヒには、かつてオペラ座が存在し、盛んにドイツ語オペラが上演されていたのですが、バッハが来る直前、1720年には経営的に行き詰まり、閉鎖されていました。

これが存続してたら、バッハが作品を提供したのも十分ありえることです。

〝自分はあらゆる作品を作れる〟と自負していたバッハが断ることは考えられません。

もちろん、世間的にウケるかどうかは別で、ヘンデルやラモー、モーツァルトのように、聴衆の気まぐれに苦しめられたかもしれませんが。

でも『コーヒー・カンタータ』を聴くと、しゃれたオペラを作っていたのではないか、と想像がふくらみます。

バッハには珍しい、愉快な曲

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さて、『コーヒー・カンタータの内容ですが、登場人物は3名。

そのうち1名は、受難曲のエヴァンゲリスト福音書記家)のような〝語り部〟で、実質は、父(バス)と娘(ソプラノ)の会話がすべてです。

父の名はシュレンドリアン氏で、〝旧弊氏〟などと訳されますが、〝古い石頭の頑固親父〟といったような意味です。

娘はリースヒェンといい、これが大のコーヒー狂いで、朝から晩まで飲んでいて、それを親父が怒ってやめさせようとするのが、このカンタータの筋書きです。

前回の記事では、英国の妻たちが、夫のコーヒー・ハウス通いをやめさせるよう、コーヒー禁止運動を起こした、という話を取り上げましたが、これは逆で、娘のコーヒー好きを父親がとがめているのです。

当時のドイツでもコーヒーは男の飲みものとされていたはずですが、だんだんとそれが家庭にも広がり、女性も嗜む時代になっていったようです。

古臭い考えの親父はそれが気に入らず、〝コーヒーなんて若い娘の飲むもんじゃない〟と説教。

しかし娘は、頑固親父の娘だけあって、頑として聞き入れません。

親父は、外出禁止にするぞ、服や装飾品を買ってやらないぞ、などと脅しますが、娘は屈しません。

そこで最後の手段、結婚禁止を言い渡すと、娘は降参。

逆に、コーヒーはもう飲まないから、早く素敵なお婿さんを探してきて、と父親のお尻を叩きます。

当時は結婚は親が手配するものだったようです。

しかし娘は内心〝コーヒーを自由に飲ませてくれることを、相手に結婚の条件として約束させればいいわ〟とほくそ笑む、というオチです。

そして、女だってみんなコーヒーが大好き、というコーヒー賛歌で終わります。

まさに、コーヒーハウスのCMソングのようなもので、女性もどんどんコーヒーを飲みましょう、〝女が飲むもんじゃない〟なんて価値観は古いですよ、という内容なのです。

当時、女性がコーヒーを飲むと不妊になる、などといったデマも流れていたので、自身もコーヒー好きだったといわれるバッハも、コーヒー普及に一役買ったというわけです。

それでは、曲を聴いていきましょう!

バッハ「コーヒー・カンタータ」BWV211『おしゃべりはやめて、お静かに』

Johann Sebastian Bach:Coffee Cantata, BWV211 “Schweigt stille, plaudert nicht”

演奏:クリストファー・ホグウッド指揮(チェンバロ)&アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック、エマ・カークビー(ソプラノ)、ロジャース・カヴィ・クランプ(テノール)、デイヴィッド・トーマス(バス)

Christopher Hogwood & Academy of Ancient Music, Emma Kirkby, Rogers Covey-Crump, David Thomas

第1曲 レチタティーヴォテノール

語り部

おしゃべりはやめて、お静かに

今から始まることの次第をお聞きあれ

ほら、その名もいかめしい、シュレンドリアン(古臭い頑固親父)氏がお出ましだ

娘のリースヒェンの首根っこをぐいっとつかんで

まるでミツバチの巣をひっつかんだ熊のよう

どんな仕打ちを娘に受けたのか

理由はすぐに分かりましょう

まず、語り部テノールレチタティーヴォで、〝おしゃべりはやめて、お静かに〟と呼びかけます。

まさに、議論やおしゃべりが白熱していた当時のコーヒーハウスを彷彿とさせてくれます。

おもむろに出し物が始まるよ~ということで、拍手が巻き起こったことでしょう。

頑迷オヤジが、娘を追いかけて入場してきます。

第2曲 アリア(バス)

シュレンドリアン

さても子供というやつは

厄介千万、きわまりない

毎日毎日、口をすっぱくして

娘のリースヒェンに言い聞かせても

右から左へ聞き流しおる

オヤジは自分の言うことをきこうとしない娘に手を焼いているさまを歌います。弦のリトルネッロが、親のイライラを見事に表現しています。自由なダ・カーポ形式のアリアです。

第3曲 レチタティーヴォ(バス・ソプラノ)

シュレンドリアン

この不良娘め、はねっかえりめ

ああ!いつになったらお前はわしの言うことをきいて

コーヒーをやめてくれるのか!

リースヒェン

お父さま、そんなに厳しくおっしゃらないで!

もしも私が日に三度

いつものコーヒーを飲めなくなったら

それこそ私つらくって

干からびたヤギの肉みたいになっちゃうわ

娘はオヤジの怒りなどまったく恐れず、コーヒーがなかったら死んじゃう、と言い、小粋なアリアを歌います。 

第4曲 アリア(ソプラノ)

リースヒェン

ああ!コーヒーのおいしさったら

千のキッスより甘く

マスカットワインより優しい

コーヒー、コーヒー

あなたなしではいられない

私に何かしてほしいなら

コーヒー淹れてくれるだけで十分よ

娘のアリアは、フルートのオブリガートがついたロ短調で、バッハのまさに〝鉄板〟の曲です。先のオヤジのアリアがニ長調なので、ふたりは対立しながらも、やはり家族ということで、親近調が選ばれているのです。ドイツは甘い白ワインが有名ですが、それよりもコーヒーが美味しい、ということです。また、甘さが強調されているので、当時は砂糖をたっぷり入れて飲んでいたこともうかがえます。暗く重い調をあえて選んだことで、コーヒーへの愛が、気高くも切なく歌われます。

第5曲 レチタティーヴォ(バス・ソプラノ)

シュレンドリアン

お前がコーヒーをやめないのなら

パーティーにも行かせないぞ

いや、外出だって許さん

リースヒェン

ええ、けっこうよ!

でもコーヒーだけは許してね!

シュレンドリアン

何という態度だ、生意気娘め!

流行りのスカートももう買ってやらないぞ

リースヒェン

それでも平気よ

シュレンドリアン

窓辺から町を眺めるのも禁止だ!

リースヒェン

なんでもないわ

でもお願い、コーヒーだけは許してね!

シュレンドリアン

もうわしのこの手で

金や銀のリボンを帽子につけてやることもないぞ!

リースヒェン

ええ、それでもいいわ、お父さま!

でも私の楽しみだけは取り上げないで!

シュレンドリアン

なんと手に負えない娘だ、リースヒェンめ

コーヒーのほかには何もいらんというのか?

娘のアリアを苦々しく聴いていたオヤジは、様々に娘を脅します。歌詞からは、それまでオヤジがどれだけ娘を溺愛し、甘やかしていたかも暗示され、わがまま娘に育ってしまったのも自業自得…というわけです。 

第6曲 アリア(バス)

シュレンドリアン

わがままで自分勝手な娘ども

言うことをきかせるのもひと苦労

だが、最後の泣き所をグッと突けば

おお、そうだ、きっとうまくいくだろう

ホ短調通奏低音バッソ・オスティナーソだけを伴奏としたアリアで、オヤジの絶望感を表わしています。しかし、オヤジは最後の手段を思いつきます。

第7曲 レチタティーヴォ(バス・ソプラノ)

シュレンドリアン

では聞くがよい、この父の言うことを!

リースヒェン

何でもおっしゃって

でもコーヒーのこと以外ならね

シュレンドリアン

そうか、それなら覚悟せい

一生結婚できぬとな

リースヒェン

あら!お父さま、結婚ですって!

シュレンドリアン

そうだ、結婚させんと言っておる

リースヒェン

私がコーヒーをやめないうちは?

まあそれなら!コーヒーもこれかぎり!

お父さま、聞いて

私はもう決して飲みません

シュレンドリアン

やったぞ、それならお前にいい婿殿を見つけてやろう!

オヤジの最後通牒は、結婚させない、ということでした。当時の結婚は、親の許可はもちろんのこと、見合い話も親頼みだったようです。これには娘もあっさり降参。それどころか、逆に父親に、早く素敵なお婿さんを探してきて、と急かします。

第8曲 アリア(ソプラノ)

リースヒェン

きょうのうちにも、お父さま

どうかそうしてくださいな!

ああ、素敵なだんなさま!

それこそ、ほんとの私の願いなの!

コーヒーやめたご褒美に

話がトントン拍子にうまく進んで

今夜ひとりでベッドに入る前に

いいひとが見つかりますように!

ト長調で、チェンバロ通奏低音の域を超えてオブリガートの役割を果たし、娘の結婚に対する憧れと、逸る気持ちをきらびやかに表現します。きょう中に、きょう中に、とせがむ様は、コーヒーよりもしょせん男か!と聴衆を沸かせたことでしょう。

第9曲 レチタティーヴォテノール

語り部

こうしてシュレンドリアン氏は

その娘リースヒェンのために

ただちに花婿探しに出かけました

しかし、リースヒェンはそっと独り言

〝どんないい男性が現れてもすぐには家に入れないわ

『私の好きなときにいつでもコーヒーを飲んでいい』

と約束して、結婚証書に書いてくれなくちゃ〟

この曲の歌詞は、当時のライプツィヒの流行詩人で、『マタイ受難曲』の詞も書いたピカンダー(1700~1764、本名はクリスティアン・フリードリヒ・ヘンリーチ) ですが、実は彼のテキストは前曲までで、この第9曲と第10曲は、誰の手によるものなのか不明なのです。しかし、このくだりが無いと、物語のオチがつきません。もしかすると、バッハ自身が書いたのかもしれません。

第10曲 合唱(ソプラノ・テノール・バス)

猫にゃネズミ捕りやめさせられない

娘にゃコーヒーやめさせられない

ママがコーヒー好きなら

おばあちゃんも大好き

なのに娘だけやめさせられるわけがない!

合唱なので、シュレンドリアン氏も加わって、フルートの音色も楽し気に、コーヒー賛歌を歌います。娘だけ禁じても、お母さんもおばあさんも好きなのだから、コーヒーの縁は切れないよ、と愉快に結ぶのです。

当時、この曲を楽しみながら飲むコーヒーの味は、格別だったことでしょう。

 

こちらの全日本コーヒー協会のHPにさらに詳しい曲の解説があります。

 http://coffee.ajca.or.jp/webmagazine/wonderland/music/music70

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バッハ『コーヒー・カンタータ』自筆譜

自筆譜のマグカップを見つけました。これでコーヒーを飲みたいものです(笑)

 フリードリヒ大王とコーヒー

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フリードリヒ2世(大王)

『コーヒー・カンタータは人気曲となり、ドイツ各地に広まって演奏された記録が残っています。

しかし、その後のドイツではコーヒーは受難の歴史をたどります。

バッハの次男、カール・フィリップエマニュエル・バッハが仕えたプロイセンのフリードリヒ大王もコーヒー好きでしたが、シャンパンを入れて沸かし、最後に胡椒をかけて飲んだということです。さすが英雄、真似できない飲み方です…

フリードリヒ大王は、オーストリア女帝のマリア・テレジア、フランス王の愛妾ポンパドゥール夫人、ロシアのエリザヴェータ女帝の、3人の女性権力者による〝3枚のペチコート作戦で包囲され、苦戦を強いられますが、軍国主義の富国強兵策で対抗します。

その中で、国民のコーヒー消費により、アムステルダムから年間70万ターラーもの大金が流出するのを問題視し、国民に対し、コーヒーには毒がある、と言いふらしました。

しかし、同じくフリードリヒ大王が国民食とするべく普及奨励していたじゃがいもにも、芽に毒があるので、あまり説得力がありませんでした。

それでも、無理矢理コーヒー禁止令を出すなりしたので、チコリーやテンサイなど、苦い作物や、あらゆる穀物を焦がすことで、〝代用コーヒー〟を作ることがドイツでは広まっていきました。

ナポレオン、ベートーヴェンとコーヒー

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フリードリヒ大王の死後、これが役に立つときがきます。

それは、ナポレオンの大陸封鎖です。

英国を経済的に孤立させるための政策ですが、これによって、ヨーロッパ大陸にはコーヒーが入ってこなくなりました。

そのため、ドイツの代用コーヒーは一大産業となり、〝ドイツ・コーヒー〟といえば代用コーヒーを指すようになり、ヨーロッパ中に広まりました。

もっとも、コーヒーのもつ覚醒作用はカフェインによるもので、これはヨーロッパに従来ある作物には一切含まれない成分だということは、1819年に、文豪ゲーテからもらったコーヒー豆を分析したフルードリープ・ルンゲによって発見されました。

一方、密輸は横行しており、〝ペストによる死者のもの〟とされてハンブルクの港に持ち込まれ、検査を逃れた棺の中身はコーヒーだった、というエピソードもあります。

しかし、ナポレオン時代、本物のコーヒーは庶民には手の出ないものとなってしまいました。

ベートーヴェンは、一杯のコーヒーを飲むのに、豆を必ず60粒数えて淹れたといわれています。

これは彼の偏屈さや几帳面さを示すエピソードというより、コーヒーの貴重さを示す話なのかもしれません。

当初、人民のために戦うナポレオンを尊敬し、シンフォニアエロイカ(英雄交響曲)』を彼のために作曲したベートーヴェンでしたが、自分で皇帝に即位したときいて、怒って楽譜の表紙を破いた、というのは有名な話ですが、〝奴はコーヒーの値段まで高くしやがって…〟と毒づきながら豆を数えていたのかも。

後にロシア遠征で敗けたナポレオンを、ドイツ連合軍が破って失脚に追い込んだライプツィヒの戦いについて、カール・マルクスは『砂糖とコーヒーの欠乏が、ドイツ人をナポレオン打倒に立ち上がらせた』と評しています。

確かにドイツ人のコーヒー好きもかなりのもので、晩年、貧窮の底にあったモーツァルトの遺品目録の中にも、2つのコーヒー・ミルが含まれています。

ドイツ人からコーヒーを奪ったナポレオンは、戦い破れ、大西洋の絶海セント・ヘレナでその生涯を閉じますが、その最後の日にもコーヒーを欲しがったということです。

彼の部下の証言です。

その朝、彼はコーヒーを飲ませてくれと20回ほども頼んだ。

『だめです』

『医者はスプーン1杯ならば、許してくれるのではないだろうか?』

『だめです、とにかくいまはだめです。あなたの胃は大変悪くなっているから、おそらく吐いてしまいますよ』*1

スプーン1杯だけでも、とは、なんともあわれな英雄の末路ですが、ヨーロッパ人に、そして世界の社会、文化に、コーヒーがこんなに影響を与えるなんて、〝アラブの偉いお坊さん〟はとても想像できなかったに違いありません。 

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今回もお読みいただき、ありがとうございました。

 

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*1:『珈琲の世界史』旦部幸博著・講談社現代新書

【コーヒーの歴史と音楽】みんな陽気に飲んで踊ろう、コーヒー・ルンバ!昔アラブの偉いお坊さんが何をした?

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ロンドンのコーヒーハウス

「コーヒーハウス」は時代を変えた!

前回まで、バッハフランス風序曲や、チェンバロ協奏曲の数々を聴いてきました。

これらの曲は、ライプツィヒの、ツィンマーマンが経営する「コーヒーハウス」をコンサート会場として、大学生を中心としたアマチュア・オーケストラ、コレギウム・ムジークムによって演奏されたものです。

「コーヒーハウス」がコンサート会場?と言われても、今の喫茶店を思い浮かべると、違和感しかありません。

その疑問を解決するには、当時のコーヒーハウスがどんなものだったのか、を知る必要があります。

結論から言えば、コーヒーハウスは「貴族社会」から「近代市民社会」へと時代を変えた施設と言っても、おおげさではないのです。

このブログでは、クラシック音楽の中でも、昔の楽器と奏法をできる限り再現した「古楽器」「オリジナル楽器」「ピリオド楽器」の演奏にこだわってきましたが、その時代は主に17世紀から18世紀の「バロック」と「古典派」ということになります。

それは「貴族社会」から「市民社会」への大きな移り変わりの時代で、それが音楽に与えた変化、あるいは逆に、巨匠から創り出された音楽が時代を変えていったさまをみていくのが、このブログのメインテーマでもあります。

そこで、大バッハが、その偉大な生涯の最後に、骨を埋める地となったライプツィヒにて、聖トーマス教会で荘厳な宗教音楽を生み出すかたわら、コーヒーハウスで市民のための新しい音楽の演奏を試みていたのは、実に象徴的なできごとといえます。

バッハは、コーヒーハウスでの出し物として、愉快な『コーヒーカンタータを作曲しています。

その曲を聴くのは次回にして、今回は、時代と世界を変えた飲み物「コーヒー」と「コーヒーハウス」の歴史をたどってみます。

♪♪♪ コーヒー・ルンバ ♪♪♪ 

現代日本でも、コーヒーのない社会は考えられません。

街にはコーヒーショップが軒を連ね、味と安さ、店の居心地やサービスにしのぎを削っています。

サラリーマンは、外回りの営業でもしようものなら、好むと好まざるとにかかわらず、一日に何杯もコーヒーを飲むことになります。

私も朝、出社前にはコーヒー店に立ち寄り、昼食後にはコーヒーを頼み、さらに職場のコーヒーマシンでも飲んだりします。

ただ、個人的にはコーヒーが特別好き、というわけではなく、オフの日に家では緑茶や紅茶を飲む方が多いのですが、オンのときにはコーヒーなくしてはやってられない気がします。

どうしてコーヒーは、ここまで社会になくてならない飲み物になったのでしょうか。

コーヒーの歴史を紐解いてみます。

コーヒーをテーマにした曲といえば、なんといっても『コーヒー・ルンバ』でしょう。

高速のSAによく置いてある自動販売機でも流れています。

その日本語歌詞には、コーヒーの起源がこう歌われています。

昔アラブの偉いお坊さんが

恋を忘れた あわれな男に

しびれるような 香りいっぱいの

琥珀色した 飲み物を教えてあげました

やがて心うきうき とっても不思議このムード

たちまち男は 若い娘に恋をした

 

コンガ マラカス 楽しいルンバのリズム

南の国の 情熱のアロマ

それは素敵な飲みもの コーヒー モカマタリ

みんな陽気に 飲んで踊ろう

愛のコーヒー・ルンバ*1

羊飼いカルディの物語

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カルディ伝説

日本語歌詞では、〝アラブの偉いお坊さん〟がコーヒーを教えた、ということになっています。

コーヒーの起源は伝説化しており、大きく2つの話があります。

ひとつは、『羊飼いカルディ』の伝説です。

アラビアでヤギを飼っていたカルディが、あるときヤギを連れて放牧に出かけました。

すると、ヤギたちがなぜかやたらと興奮して、夜も寝ないで騒ぐようになってしまいました。

困ったカルディが近くの修道院に相談にいき、修道院長のスキアドリが調べてみると、ヤギがある木の実を食べているのが分かりました。

院長がその実をいろいろと試し、煎じて飲んでみると、夜眠れなくなりました。

これはいい!と 、修道院長は夜の礼拝で居眠りをする修道僧たちに飲ませるようになり、これがコーヒーの起源、というお話です。

「カルディ」は、これにちなんでコーヒー販売店の名前になっていますね。

アラブの偉いお坊さんって誰?

もうひとつは、アラブの聖者、アリー・イブン・ウマルの物語です。

ウマルは、アラビア半島の先端、イエメンのモカで人々の信仰を集めた聖者で、14世紀後半に実在した人ともいわれています。

あるときモカの町に疫病が流行し、ウマルの法力で多くの人々が命を救われました。

王の美しい娘も病にかかってしまったため、ウマルのもとを訪ね、数日一緒に過ごすと、病は治りました。

しかし、王はふたりの関係を疑い、ウマルをモカから追放してしまいます。

町を追われたウマルは、ウザブの山の中で、木の実を食べて飢えをしのいでいましたが、ある実を煮立てて飲むと、気分がよくなることを発見しました。

モカの町をふたたび流行り病が襲ったとき、人々はウマルを探して、呼び戻しました。

ウマルは、その実を煮立てた黒々とした汁を、『ザムザムの泉と同じ霊験がある』と言って人々に飲ませ、やがて病は撲滅されたのです。

「ザムザムの泉」は、イスラムの聖地メッカに湧く、聖なる泉です。

『コーヒー・ルンバ』の歌詞は、このウマルをイメージしていると思われます。

それにしても、恋を忘れた男を、恋に目覚めさせるのが〝偉いお坊さん〟の役目なんですかね?

しかも、そのお坊さんは、王女に手を出した、と疑われてるし…苦笑

コーヒー・ルンバの原曲とは

でもこの歌詞は、日本で新しく作られたもので、原曲を訳したものではないのです。

原曲は、ベネズエラの作曲家ホセ・マンソ・ペローニが、1958年に作詞・作曲した『モリエンド・カフェ(日本語訳「コーヒーを挽きながら」)』で、それを甥のウーゴ・ブランコが、ラテンアメリカの民族的楽器、アルパで弾いたものが、そのエキゾチックな魅力で世界的にヒットしました。

アルパは、ハープのような楽器で、ラテンハープ、インディアンハープ、パラグアイハープとも呼ばれます。

こちらがウーゴ・ブランコの曲です。リズムは正確にはルンバではなく、ブランコが生み出した「オルキデア」というものだそうです。


Moliendo Cafe Hugo Blanco HD

日本でのカバーの多いこと!

日本で最初にカバーしたのは、1961年、西田佐知子です。

例の歌詞は中沢清二氏が、原曲と関係なく作詞しました。


コーヒー・ルンバ / 西田佐知子

その後、続いて、森山加代子、国実百合、荻野目洋子、井上陽水工藤静香小野リサ福山雅治伴都美子坂本冬美神保彰葛城ユキ、渥美二郎、町田謙介…

Apple Music に入ってる曲だけで、いったい何人カバーしているやら!!

もはや国民的楽曲です。

最近バブル時代の曲が懐かしく取り上げられているので、とりあえず荻野目っちのと、珍しい福山のを載せておきます。


21 コーヒールンバ


コーヒールンバ(2015) live

みんながそれぞれのテイストで〝アラブの偉いお坊さんが…〟って歌っているのは、珍妙でさえありますが、こんなに親しまれている曲もなかなかないですね。

まさにコーヒーの魔力でしょうか。

戒律厳しいイスラム世界でコーヒーが広まるまで

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コーヒーを飲むスーフィーレンブラント

コーヒーの起源の話に戻ります。

先の話は伝説ですが、いずれにしても、イスラム神秘主義の僧侶「スーフィーがコーヒーの普及に関わっているのは間違いないといわれています。

コーヒーに含まれるカフェインがもたらす高揚感、覚醒作用が、宗教的なフィーリングに結び付いたのでしょう。

コーヒーの実をつけるコーヒーノキの原産は、アフリカのエチオピアで、いつの時代かに、紅海を渡ってアラビアのイエメンに持ち込まれたようです。

そして、15世紀には、酒が禁止されたイスラム教世界に瞬く間に広がっていったのです。

ただ、すんなりと受け入れられたわけでもなく、時には賛否両論が繰り広げられました。

反対理由としては、その作用がコーランで禁止されている酒と同じだ、人体に有害だ、人々を堕落させる、風紀を乱す、コーヒーを飲みながらする政治談議が危険だ、など、様々な点が挙げられました。

時には禁止令が出され、1511年には、聖地メッカでコーヒーの大弾圧が行われました。(メッカ事件)

また、イスラム世界を席捲、支配したオスマントルコ治下、1633年には首都イスタンブール「コーヒー・タバコ禁止令」が出て、一説には3万人が処刑されたといわれています。

今こんな法律ができたら、罰せられる人はケタ違いでしょう。もっとも、タバコに関しては、増税、隔離政策と、愛煙家にとっては〝大弾圧〟かもしれませんが。

しかし、コーヒーの魅力は、これらの宗教的、政治的弾圧を跳ね返し、イスラム世界を象徴する飲みものとなったのです。

それでは、コーヒーはどのようにしてヨーロッパに伝わったのでしょうか。

4つのルートがあったといわれています。

ヨーロッパに伝わった4つのルート

まずは「地中海ルート」

イスラム世界とヨーロッパを結んでいたのは、なんといっても地中海での貿易ルートで、コーヒーの伝播もこのルートが最初でした。

地中海の東方貿易を独占していたのはヴェネツィア商人で、地中海東岸の貿易都市レヴァントから輸入したといわれています。

その年代は正確には分かりませんが、16世紀末にはヴェネツィア人はコーヒーを飲んでいたようです。

しかし、フランスでも地中海沿岸のマルセイユあたり止まりで、そこからはあまり広まりませんでした。

コーヒーの代名詞「モカ」の起源

次なるルートはオランダ東インド会社ルート」です。

オランダ商人は、長崎の出島にも商館を出したように、大航海時代に世界征服を先行させていたスペイン、ポルトガルに追いつき、追い越せ、といった勢いで、東インド会社を使って世界に貿易網を張り巡らせ、各地の珍奇な物産を取り扱って大儲けをしました。

コーヒーにも目をつけ、1620年にはイエメンの港町モカに商館を置き、ここでコーヒーを買い付け、喜望峰を回ってヨーロッパに輸出を始めたのです。

これが大当たりするのは、ロンドンでコーヒーハウスが大流行する17世紀後半まで待たなければなりませんが、輸出港「モカ」はコーヒーの代名詞となり、今でも最高のブランドとされています。

今、街中で「カフェ・モカを注文すると、エスプレッソにチョコレートシロップが加えられたものが出てきますが、これは、モカのコーヒーにカカオに似たフレーバーがある、とされたことによります。

ルイ14世をコケにして

さて、次は、以前このブログでも取り上げた「パリ・ルート」です。

フランス絶頂期の王、太陽王ルイ14世は、宿敵ハプスブルク家を倒すため、〝敵の敵は味方〟ということで、あろうことか異教徒のオスマン・トルコと同盟を結ぼうとしました。

そこで、パリにやってきたトルコの使者、ソリマン・アガを、ヴェルサイユ宮殿に迎え、最高に豪奢に飾り立てた装束で出迎えますが、アガは平服で現れ、全く動ずるどころか、ルイ14世玉座から立ち上がらずに国書を受け取ったことにクレームをつける始末です。

そして退出後には、王の衣装について、『トルコでは、皇帝の馬だってもっと豪華に着飾っている』などとうそぶきます。

実はアガは「全権大使」でもなく、大国に対する儀礼を欠いていることも発覚しました。

大恥をかかされたルイ14世は怒り心頭、しかしトルコに攻めていくわけにもいかず、モリエールリュリに命じて、トルコ人をコケにした芝居を作らせて大笑いし、かろうじて溜飲を下げました。

これが、モリエール脚本、リュリ作曲の『町人貴族』です。モリエールが主役のジャルディーノ役、リュリがトルコの大祭司役を演じました。これが、その後ヨーロッパに流行したトルコ風音楽のハシリです。

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こちらは、映画『王は踊る』のトルコの儀式の場です。


Le Bourgeois gentilhomme Marche pour la cérémonie des Turcs

ソリマン・アガは、パリ滞在中、自邸をトルコの宮殿風に飾り付け、そこにパリの人々を招いて、トルコ風にもてなしました。

床に豪華な絨毯やクッションを置いて直に座り、高価な中国製の磁器で供される、香り高い黒い液体。

まさにアラビアンナイトの世界で、そのエキゾチックでゴージャスな雰囲気に、フランスの貴族も庶民も、すっかり虜となったのです。

〝黒いスープ〟の甘い罠

4つめは、これも以前の記事で取り上げた「ウィーン・ルート」

オスマン・トルコは、ビザンツ帝国を滅ぼして中近東にまたがる大帝国を築き、次なる狙いはヨーロッパ。

まずはハンガリーを席捲しましたが、そのときもコーヒーが一役買っています。

首都のブダ攻略に際し、ハンガリー側と偽りの講和会議を開き、ハンガリー貴族たちをご馳走攻めにします。

そして、帰ろうとする貴族たちを、最後に〝黒いスープ〟でもてなします。

貴族たちがこれを味わっている間に、指揮官不在のブダの町は陥落していた、というわけです。

これがコーヒーなのは言うまでもありません。

食後のコーヒータイムに攻め落とされたわけで、その後、ハンガリーでは〝黒いスープ〟というのは毒まんじゅうのようなたとえにされています。

そしてハンガリーを手中に収めたオスマン軍は、〝黄金のリンゴ〟といわれた、ハプスブルク家の首都ウィーンを目指し、これを包囲しますが、第1回包囲は、冬が来て兵糧不足により撤退。

後に、1683年には第2回包囲を行いますが、これは来援したポーランド・ドイツ諸侯連合軍により撃破されます。

そして、戦功のあったポーランド兵士のコルシツキーが、トルコ軍が敗走のときに残していった大量のコーヒー豆を褒美としてもらい、ウィーン初のカフェ『青い瓶の下の家(ホフ・ツア・ブラウェン・フラシェ』を開店します。

これは作り話の可能性も高いですが、今もウィーンのカフェにはコルシツキーの肖像が飾ってあり、アメリカの「ブルーボトル・コーヒー」もこれに由来します。

ウィーンでは、トルコ文化が流行り、一大コーヒー消費都市となり、モーツァルトベートーヴェンが〝トルコ行進曲〟を作曲したのです。

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文化のるつぼ、ロンドンの「コーヒーハウス」

さて、こうしてヨーロッパの人々に浸透してきたコーヒーですが、英国ロンドンで、爆発的な流行がはじまります。

その担い手となったのが「コーヒーハウス」です。 

ロンドンで初めてのコーヒーハウスは、1652年に、アルメニア出身のパスカ・ロゼという人が開店しました。

それから30年後には、人口50万人のロンドンに、3000軒ものコーヒーハウスがあったといわれます。

なぜロンドンでそんなに流行したのか、というと、それは「市民革命」が関係していました。

1649年の清教徒革命は、国王チャールズ1世を処刑するなど過激化しましたが、その後王政復古を経て、再び名誉革命が起きるなど、国王の圧政に対し、市民たちが自分たちの権利を求めて対抗する局面が続きました。

市民たちが、政権を批判し、自分たちのあるべき姿を求めて議論する場が、まさにコーヒーハウスだったのです。

それまで、庶民が集う場は酒場でしたが、酒が入ると議論は白熱しがちなものの、今も昔もまともな結論にはなりません。最後には喧嘩になったり、収拾がつかなくなるのがオチです。

しかし、コーヒーなら!酔っぱらうこともなく、冷静に意見を交換することができます。逆にカフェイン効果で頭が冴え、いいアイディアさえ浮かんできます。

今もビジネスの場でコーヒーが欠かせないのと同じです。

男たちがコーヒーハウスに入りびたるので、妻たちにより〝コーヒーは夫に妻の相手をおろそかにさせ、子供の出生率を下げる〟という反対運動が起こるほどでした。

それはともかく、コーヒーハウスは、古代ギリシアのポリスで男たちが政治について議論を戦わせたアゴラ(広場)のように、民主主義を推し進める自由な議論の場となり、近代市民社会を開く役割を果たしたのです。

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ロンドンで発行されたパンフレット『コーヒーに反対する女性の請願』(1674年)

「コーヒーハウス」が生み出した近代社会に欠かせないツール

さらに、コーヒーハウスは、我々の現代社会につながる、近代的な仕組みを次々と生み出しました。

英国商人は、オランダに追いつき、追い越せとばかり、七つの海に乗り出して、世界貿易を進めていました。

そのためには、各地の商品価格の動静や、政治情勢などの情報が欠かせません。

当時、「新聞」は政府が出す〝公報〟しかありませんでした。

そこで、コーヒーハウスに集まる人々の情報をもとに新聞が作られ、コーヒーハウスで販売されました。

情報伝達には「郵便」も重要ですが、当時の国の郵便制度はあまり整っておらず、頼りになりませんでした。

そこで、コーヒーハウスのネットワークを使った、私的な郵便サービスが始まります。

コーヒーハウスにある袋に郵便を入れると、定期的に配達してくれるのです。のちには、この制度を国が公的なものとするくらいでした。

そうして貿易が盛んになり、資本主義が発展してくると、新たに事業を始めるのに資金集めが重要になってきます。

そこで、「株式の取引」もコーヒーハウスで行われるようになりました。

コーヒーハウスは、初期の株式取引所、商品取引所の役目を果たしたのです。

貿易が盛んになると、リスク管理も重要になってきます。貿易品を満載した船が難破したり、海賊に遭ったりすれば、船主は破産しかねません。

そこで、コーヒーハウスにおいて、船主を相手にした「保険」サービスが生まれます。

保険業者はそれまでも個人経営のものがありましたが、コーヒーハウスの経営者、エドワード・ロイズは、集まる情報を『ロイズ・ニュース』として刊行し、信頼できる情報を武器に、後に世界最大の保険会社に成長します。

人が集まるところに情報あり。情報がビジネスのカギであるのは、今も昔も変わりません。

企業家には、自分で事務所を構えるより、コーヒーハウスの一角に専用の居場所を定め、そこでビジネスをする人もいました。

取引先も、顧客も、皆コーヒーハウスに集まっているのですから、まさにうってつけの事務所です。

「世論」はコーヒーハウスから

そして何より重要なのが、「民主政治」です。

公衆の議論の場となったコーヒーハウスは、まさに「世論」が形成される場でした。

「マイルズ」というコーヒーハウスには、「ロータ・クラブ」という私設国会までありました。そこでは、真ん中にウェイターがコーヒーを運ぶ通路があり、テーブルには投票箱があって、重要事項は投票で決められたのです。

さすがに、政府から閉鎖命令が出たこともありますが、コーヒーハウスから上がる税収も国家としては重要であり、あまり過激な議論にはならないよう、店主たちも気を配ったりして、英国流の民主主義がコーヒーによって醸成されていったのです。

しかし、18世紀も後半になると、英国のコーヒーハウスは数を減らし、衰退していきます。

色々な原因が考えられますが、公開の場としての社会的機能が衰えてきたのも一因とされています。

その役割は、それぞれテーマ別の閉鎖的な「クラブ」に置き換わっていきました。

また、英国人の好みが紅茶へシフトしていきました。

それまでコーヒーはあくまでも男の飲みものでしたが、紅茶は女性たちに爆発的な人気を呼びました。

これまでコーヒーハウスに入り浸っていた英国紳士たちは、レディーファーストを心がけないと物事がうまくいかないことを悟ったかのようです。

英国は、コーヒーから紅茶へのステップを経ることによって、19世紀には大英帝国として世界に君臨することになったのです。

フランス革命の引き金を引いたカフェ

さて、そうはいかなかったのがフランスです。

パリでも、コーヒーハウスにあたる「カフェ」が隆盛を極めましたが、その代表格が「カフェ・プロコップ」です。

内装はヴェルサイユ宮殿風に装飾されており、貴族に憧れる富裕層や中産階級が集まりました。

ソリマン・アガのスタイルに魅せられたように、フランスでのコーヒー文化は〝ファッション〟の要素から始まったのです。

「プロコップ」と人気を二分したのが、パレ・ロワイヤル前に開店した「カフェ・ド・レジャンス」で、摂政(レジャンス)オルレアン公にちなんでその名がつけられました。

ここではチェスが盛んに行われたということですが、王位継承権をもち、江戸時代でいえば〝御三家〟だった歴代のオルレアン公は、ブルボン王家への対抗から、自由主義を掲げ、その居館、パレ・ロワイヤル周辺のカフェは、絶対王政に不満を持つ人々の溜まり場になっていました。

そして、1789年7月14日、パレ・ロワイヤルの回廊にある「カフェ・ド・フォワのテラスから、一人の青年カミーユ・デムーランが、市民派の財務長官ネッケルをルイ16世が罷免したというニュースに接して怒りを爆発させ、人々に蜂起を呼びかけます。

これに呼応した市民がバスチーユ監獄を襲い、フランス革命の火ぶたが切って落とされたのです。

コーヒーは、英国では穏やかに、フランスでは過激に作用して、近代市民社会への道を拓いていったのです。

それでは、バッハのいるドイツではどうだったか。それは次回に。

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カフェのテラス席で蜂起を呼びかけるカミーユ・デムーラン

コーヒーの歴史については、次の2書を参考にさせていただきました。音楽もコーヒーも、歴史を知るとより味わい深くなります。

コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液 (中公新書)

コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液 (中公新書)

 
珈琲の世界史 (講談社現代新書)

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今回もお読みいただき、ありがとうございました。

 

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*1:ose Manzo Perroni 作詞・作曲
中沢清二 日本語独自詞

巨匠の合作!バッハがアレンジしたヴィヴァルディとは。バッハ『4台のチェンバロのための協奏曲 イ短調 BWV1065 』

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アントニオ・ヴィヴァルディ(1678-1741)

チェンバロが4台!?

バッハの複数台のチェンバロのためのコンチェルトの最後は、なんと4台のチェンバロのための曲です。

バッハの曲の中でも、ひときわ奇曲といえるでしょう。

なぜ?どうして?という疑問がいくつも湧いてきます。

こちらも、ライプツィヒコレギウム・ムジークムでの演奏のために作曲されましたが、まずは、4台ものチェンバロを揃えることができたのか?ということ。

バッハ、持っていたんです。チェンバロを何台も。

遺産目録には、大型チェンバロ4台、小型チェンバロ2台が記されているのです。

ツィンマーマンのコーヒーハウスに運ぶのは大変だったでしょうが…。

バッハは、複数のチェンバロのによる演奏効果を、これらで実験していたのです。

次に、4人もの奏者を集められたのか?ということ。

前回取り上げた3台のチェンバロのためのコンチェルトは、バッハとふたりの息子、長男フリーデマン・バッハと、次男カール・フィリップエマニュエル・バッハで弾きましたが、当時のバッハには優秀な弟子たちもいました。

ヨハン・ルートヴィヒ・クレプスヨハン・ゴットフリード・ベルンハルト・バッハの名が残されています。

当時のライプツィヒの音楽生活は、バッハとその仲間たちに彩られていたのです。贅沢この上ありません。

むしろ現代の方が、この曲を演奏するハードルが高いといえるでしょう。4台ものチェンバロとその奏者を集めるなんて、とても難しいことです。

ヴィヴァルディの人気曲をアレンジ

さて、この曲の原曲は、これまでの曲と違って、バッハのものではありません。

ほかならぬ、ヴィヴァルディ(1678-1741)の作品です。

それも、有名なコンチェルト集『調和の霊感(L’estro armonico レストロ・アルモニコ) 作品3』の中の1曲(第10番 ロ短調 RV580)です。

『調和の霊感 作品3』は、ヴィヴァルディ初の協奏曲集で、1711年にアムステルダムのE.ロジェから出版されました。

〝調和の霊感〟はちょっと分かりづらい訳ですが、〝ハーモニーのインスピレーション〟といったような意味です。

そのタイトルに込めたように、ヴィヴァルディの斬新で野心的な試みに満ちていて、あっという間にヨーロッパ中に広まり、〝Op.3〟は大人気を博しました。

コレッリの古典的完成の極致〝Op.6〟に続く、イタリア音楽の聖典となったのです。

ヴィヴァルディといえば『四季』ですが、それはもっと後の作品で、『和声と創意への試み Op.8』に含まれています。

バッハが若き日、ワイマール公の宮廷に仕えていた頃、オランダに留学していたエルンスト公子が帰ってきました。

公子は、当時、世界中の情報が集まるアムステルダムで、ヴィヴァルディを始めとする最先端のイタリア音楽に触れ、大いに刺激を受けて帰郷してきたのです。

そして、バッハに『調和の霊感』をオルガン曲に編曲するよう依頼しました。

この経験で、バッハはイタリア音楽に深く触れ、研究することができ、後の作曲に決定的な影響を受けたのです。

それから10数年後、バッハはこのライプツィヒの地で、ヴィヴァルディの編曲に取り組むことになりました。

ヴィヴァルディの原曲は、4つのヴァイオリンと1つのチェロのためのコンチェルトで、そのヴァイオリン・ソロを、バッハはそのまま4つのチェンバロに置き換えました。(ロ短調からイ短調に移調)

基本単旋律のヴァイオリンが、10本の指で弾くチェンバロになったのですから、メロディもハーモニーも、より複雑になりました。

弦楽パートにもかなり加筆を行いましたが、それでも、原曲の性格はほとんどそのまま残されています。

最後の謎は、なぜバッハは、自作ではなくヴィヴァルディの曲を編曲したのか?ということ。

単純に、同じ4つのソロ楽器のコンチェルトを作っていなかった、ということもあるでしょうが、あえて、当時のヒット曲をアレンジした、ということではないかと思います。

4つのチェンバロを使う、という冒険的な実験をするのに、誰もが知っている人気曲を使った方が、聴衆はその効果を実感しやすかったことでしょう。

実際、この曲の自筆譜は残されていませんが、筆写譜はたくさん残っているのです。それは、これがバッハの作品の中でも人気があったことを示しています。

では、原曲と聴き比べてながら聴いていきましょう。

バッハ『4台のチェンバロのための協奏曲 イ短調 BWV1065』

Johann Sebastian Bach:Konzert für Cembali und Streicher A-moll BWV1065

演奏:トレヴァー・ピノック指揮&チェンバロ、ケネス・ギルバート(チェンバロ)、ラルス・ウルリク・モールテンセン、ニコラス・クレーマー、イングリッシュ・コンサート

Trevor Pinnock, Kenneth Gilbert, Laus Ulrik Mortensen, Nicholas Kraemer & The English Concert 

第1楽章 テンポ指示なし

明らかにバッハのものではない、ストレートなテーマを、第1チェンバロが孤独に歌いはじめ、トゥッティが続きます。ヴィヴァルディの原曲は、ソロ楽器(コンチェルティーノ)が4つのヴァイオリンと1つのチェロ、合奏(リピエーノ)がヴィオラ2部にチェロと通奏低音ですが、バッハは独奏はチェンバロ4台とし、合奏にヴァイオリン2部、ヴィオラ通奏低音としています。いずれにしてもソロの存在感が高く、トゥッティの部分は、ソロが加わるからこそ強弱の対比が成り立っているといえます。ヴィヴァルディの確立した活気あふれるリトルネッロ形式で、繰り返される力強いリズムに思わず体が動いてしまいます。4台のチェンバロが同時に演奏されるのはトゥッティの部分だけですが、ソロ部分を代わりばんこに受け継いでいくチェンバロの超絶技巧に圧倒されます。このコンチェルトでは、独奏と合奏の掛け合いと、独奏同士の掛け合いの、両方が同時に楽しめるというわけです。

原曲はこちらで、演奏は同じく、ピノック指揮イングリッシュ・コンサートです。

【原曲】ヴィヴァルディ:『調和の霊感 作品3』協奏曲 第10番 ロ短調 第1楽章 アレグロ

第2楽章 ラルゴ

これもバッハのオリジナルではありえない、直截的な和音で始まります。両端楽章のつなぎ、といった趣ですが、やがて、チェンバロたちが、ざわめくようなアルペジオ(分散和音)を奏で始めます。原曲のヴァイオリンも、異なった運弓法とアーティキュレーションで変化を富ませていますが、チェンバロ版ではそれがより神秘的に聞こえます。再び、冒頭の和音を再現し、劇的に最終楽章につなげます。

【原曲】ヴィヴァルディ:『調和の霊感 作品3』協奏曲 第10番 ロ短調 第2楽章 ラルゴ

第3楽章 アレグロ

テーマはトゥッティで示され、リズム、拍子はジーグのものです。ソロは、4台のチェンバロが、時には単独で、時には全員で、時にはペアで、エキサイティングに奏でます。そのテーマは、リトルネッロと関連が強く、第1楽章より一体感が増しています。その緻密さは原曲に由来するもので、バッハはヴィヴァルディのこのような斬新な構成に大いに刺激されて、この曲を取り上げることになったのでしょう。

【原曲】ヴィヴァルディ:『調和の霊感 作品3』協奏曲 第10番 ロ短調 第3楽章 アレグロ

動画でも、4つの楽器の動きを見てみてください。

バッハの曲はこちら。


J.S. Bach, Concerto in a minor (BWV1065) for 4 harpsichords (Live and unedited)

ヴィヴァルディの原曲はこちらです。


Vivaldi Concerto for 4 violins in B minor, RV 580 Il Giardino Armonico

 

管弦楽組曲フランス風序曲)ではフランス音楽を、協奏曲ではイタリア音楽を、大胆に利用しつつ、自家薬籠中の物として独自の世界を作り出したバッハは、まさに偉大というほかありません。

 

今回もお読みいただき、ありがとうございました。

 

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