孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

アイルランドに響いた受難の歌。ヘンデル:オラトリオ『メサイア』あらすじと対訳(7)

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ヘンデルメサイアの第2部に入ります、第22曲から第31曲までを聴きます。

キリスト教の立場では、イエスこそ、旧約聖書に預言されたメシアでしたが、人間の罪を背負い十字架にかかることによって、人々を救うことになります。

そしてそのことも、驚くべきことに旧約聖書に預言されていたのでした。

覚悟のこととはいえ、イエスの受けた苦しみの深さに、音楽も痛切の極みです。

ヘンデルメサイア』HWV56

Handel : Messiah HWV56

エマニュエル・アイム指揮ル・コンセール・ダストレ

Emmanuelle Haim & Le Concert D’Astree

第2部『受難と復活』

第22曲 合唱

見るがいい

あの方こそ、世の罪を取り除く神の小羊だ

(ヨハネ 1:29)

降誕の喜びにあふれた第1部から、悲しみに満ちた受難の第2部の導入にふさわしい曲です。これは、イエスヨルダン川で洗礼を授けた洗礼者ヨハネが、荒野をさまようイエスを初めて目にしたときに、弟子に語った言葉です。子羊というのは従順で、神の生け贄にされます。イエスが人間の罪を償うために、子羊のように自ら犠牲になる運命を見抜いた、深い意味があります。聖母マリアは、大天使ガブリエルから受胎告知を受けたあと、その助言で、高齢で妊娠した親戚のエリザベトを訪問しましたが、その時、エリザベトのお腹にいて踊ったのがヨハネでした。胎児同士が、大人になってついに出会ったのです。その経緯はこちらに前述しました。

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第23曲 アリア(アルト)

彼はさげすまれ

人々に拒絶された

苦しみの人で

人生の悲嘆を知り尽くしていた

(イザヤ書 53:3)

彼はむち打とうとする者には背中をさらし

ひげを抜こうとする者には頬を差し出した

彼は、辱めと唾から顔をそむけはしなかった

(イザヤ書 50:6)

アルトで歌われる絶唱です。イエスが十字架にかけられる前に受けた、侮辱やむち打ちに思いを馳せています。旧約聖書の記述は成就してしまったわけです。受けた苦難の惨さと、それを甘受するイエスの姿を歌い上げます。中間部での〝むち打ち〟の音型には、イエスがむち打たれる光景がまざまざと浮かび、人々は目をそむけたくなる思いになったことでしょう。『メサイア』はロンドンではなく、まずアイルランドのダブリンで初演されたのですが、その際、英国の第二の国歌といわれる『ルール・ブリタニア』を作曲したトーマス・アーンの妹で、高名な歌手シバ夫人がこの曲を歌いました。場内感動につつまれ、観客であった牧師が興奮のあまり立ち上がり、『ご婦人、あなたのすべての罪がこの歌で許されますように!』と叫んだと言います。創世記によれば、エデンの園で神の言いつけを破り、蛇にそそのかされて知恵の実を先に食べたのはイブ(エヴァ)なので、女性の方が男性より罪深い、と考えられていたからです。男性(アダム)も食べたのですが、イブに勧められて断りきれず、ということで、いくぶん罪は軽い、というわけです。この曲は、全曲の中でも核心に位置づけられます。

第24曲 合唱

まことに、彼は私たちの苦悩を背負い

私たちの悲しみを担った

彼は私たちの罪ゆえに刺し貫かれ

私たちの咎のために打ち据えられた

私たちに平安を与えるため

彼は自ら懲罰を受けた

(イザヤ書 53:4-5)

ついに、イエスは十字架につけられます。この内容は、バビロン捕囚時代に迫害に遭った預言者の苦難を語り継いだものと考えられていますが、不思議なほどにイエスの受難と一致しているのです。

第25曲 合唱

そして、彼が受けた傷によって

私たちは癒された

(イザヤ書 53:5)

哀切きわまりないフーガですが、テーマの4つの音は〝十字架の音型〟になっています。イエスの受けた傷の深刻さを表現しています。

第26曲 合唱

私たちは羊の群れのように道に迷い

それぞれ勝手な方角に向かって行った

そして、その私たち全ての罪を

主は彼に負わせられた

(イザヤ書 53:6)

エスが十字架にかかったのは自分たちのためなのに、勝手なことばかりして収拾がつかない愚かな状況を、滑稽な音楽で表しています。羊飼い不在で、迷う羊たちのように。そして、そんな愚かな人々のために、罪を一人でかぶるキリスト。最後のアダージョは、親の心子知らず、と叫んでいるのです。

第27曲 レティタティーヴォ・アコンパニャート(テノール

彼を見る者は皆、彼を嘲笑い

唇を突き出し、頭を振って言った

(詩編 22:7)

なすすべなく十字架にかかったイエスを群衆が無情にもあざ笑います。リズムは自分たちが何をしているのか分かっていない愚かな民を批判しているかのようです。

第28曲 合唱

『神が助けてくれると思っているのだったら神に助けてもらえばいい。

彼は神のお気に入りなのだから。』

(詩編 22:9)

厳粛なフーガですが、あざ笑う群衆の言葉です。バッハの『ヨハネ受難曲』における群衆のヒステリックな叫びに通じるものがあります。

第29曲 レティタティーヴォ・アコンパニャート(テノール

彼は謗りに心を打ち砕かれ

望みを失った

彼は同情を求めて周りを見回したが

誰もいなかった

憐れんでくれる人はおらず

慰めてくれる人もいなかった

(詩編69:20)

短いレチタティーヴォですが、転調を繰り返し、身の置き所のない悲しみを表現しています。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ主よ、主よ、どうして私をお見捨てになったのですか)』と叫んだ、イエスの有名な十字架上の言葉に対応しています。

第30曲 アリオーソ(テノール

見よ、そして探してみよ

彼ほどの苦しみがあるだろうか

(エレミヤの哀歌 1:12)

何とも哀切極まりない、テノールの挽歌です。イエスの生誕より遥か昔に書かれた旧約聖書に、このようにメシアの受難を予言したかのような句があるのです。

第31曲レティターヴォ・アコンパニャート(テノール

彼は生ける者の地から断たれた

民の罪ゆえに

彼は打たれたのだ

(イザヤ書 53:8)

この句で、イエスの死が示され、なぜイエスは十字架にかからなければならなかったかを振り返っています。ここで、つらい受難の場面は終わり、一筋の希望の光が差すのです。

 

今回もお読みいただき、ありがとうございました。


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