孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

箱根駅伝、悔し涙へのエール。司馬遷『史記・伯夷伝』とワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』

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司馬遷(BC145?-BC87?)

箱根の悲喜こもごも

新春恒例の箱根駅伝が閉幕しました。

今年も大学生たちの、全力を振り絞ったドラマを見ることができ、万感胸に迫る思いです。

普通に歩くだけでも大変な距離を、大きなプレッシャーを背負って疾走するのですから、肉体的にも精神的にも、ただただすごいとしか言いようがありません。

その努力が優勝として報われればいいのですが、レースが終わって笑顔なのは優勝校と、予想以上の成果が挙げられた一部の学校だけで、多くの選手たちは悔しい顔をしています。

さらに、チームプレイですから、自分のせいで順位を落としてしまったり、タスキをつなげられなかったりした選手の心のうちは察するに余りあります。

また、今大会ではありませんでしたが、過去には、自分のリタイアのせいで記録が残らなかったり、母校の出場記録を途絶えさせてしまったりした人がたくさんいました。

そんな人たちの中には、たとえ周囲が責めなくとも、自責の念を一生十字架のように背負っていく人もあるでしょう。大変な努力をしたのに、なんという残酷なことでしょうか。

さらに、TVに映らない、出場できずに悔しい思いをしている人も、どれだけいることでしょう。

しかし、箱根で真に感動を与えてくれるのは、栄冠に輝いた人よりも、そんな悔し涙だと思うのです。

司馬遷の描いた、人生の不条理

歴史をひもといて、たくさんの先人たちの人生を追っていると、報われなかった人がなんと多いことか、と感じます。

大変な努力をしたのに、あるいはとても人々に貢献したのに、不運な最期を遂げる人ばかりです。

駅伝と比べるのは大げさかもしれませんが、悔し涙を見ていると、人生の不条理というか、そもそも人生とは不条理なものなのか、などと、1年の初めに、そんなことに思いを馳せたくなりました。クラシックとは関係ありませんが。

この不条理を、 今から2100年ほど前、紀元前に指摘した歴史家がいます。

古代中国の歴史書史記』を著した司馬遷(BC145?-BC87?)です。

彼は前漢武帝の時代、正式な歴史を記す官職、太史令の司馬談の息子として生まれました。

中国はようやく統一国家としての安定期を迎えていたので、父は、これまでの中華の歴史を体系的にまとめて、後世に残すことを、自分に与えられた天命だと考えていました。

しかし、武帝が、秦の始皇帝が行って以来どの皇帝もできなかった、天下泰平を天地に報告する『封禅』の儀式を行うことになったのに、父は立ち会うことを許されず、悔しさのあまり憤死してしまします。

死に際して父に歴史書を託された司馬遷は、完成に向かって日夜奮励します。

そんなとき、友人の武将、李陵が、武帝の前で大言壮語をして、辺境を犯していた北方騎馬民族匈奴を討ちに出撃したものの、捕虜になって投降するという事件が起こります。

武帝は激怒し、李陵の家族を処刑するよう命じますが、そこで司馬遷が、李陵は善戦したものの時に利あらず、捕虜になったが、必ず後日の巻き返しを期して投降したものだ、と弁護します。

武帝の怒りは司馬遷に向かい、死罪を言い渡されます。

当時、死罪を免れるためには、多額の献金をするか、宮刑を受けるか、でした。

司馬遷には大金などありませんでしたので、死を免れるためには宮刑を受けるしかありませんでした。

宮刑は、男性器を切除するという屈辱的な刑で、かなりの確率で命を落とすこともありました。

通常はそんなことならむしろ死を選ぶのですが、司馬遷には父との約束、歴史書を完成させるという使命がありました。そのためには生き長らえなければならない、と決意し、刑を受けます。

そして、苦痛と屈辱に耐え、ついに史記130巻を完成させるのです。

史記は『紀伝体』、つまり人々の伝記を集めて歴史を叙述するという形式をとりました。年表のように時間を追って叙述するのは『編年体』で、今の歴史の教科書などはこの形といえます。

紀伝体では、人間にスポットを当てていますので、それだけにドラマチックです。

帝王の事績は『本紀』、諸侯の歴史は『世家』と名付けられ、個人の伝記が『列伝』とされました。

そして、列伝の一番初めが『伯夷列伝』(略して伯夷伝)なのですが、ここには伯夷個人の話よりも、司馬遷歴史観(人間観)がつづられているのです。

伯夷伝の絶叫

まず冒頭、孔子がいにしえの聖人、賢者、仁者たちを無条件に讃えていることに疑問を呈します。

孔子が『伯夷は仁者であり、自分が他人からされた悪事を忘れ、恨んでいない』『伯夷は仁を行おうとして、実際に仁を行うことができたのだから、何を恨むことがあろうか』と言っているが、そんなことはない、彼が作った詩を読むと、恨んでいるのではなかろうか、というのです。

そして、伯夷と、その弟叔斉の物語を、次のようにつづります。(意訳しています)

言い伝えによると、伯夷と叔斉は孤竹国の君主の二子である。父は弟の叔斉を愛し、後継ぎにしようとした。父が亡くなると、叔斉は兄である伯夷に後継ぎの座を譲った。しかし伯夷は、父の命であるといって受けず、国を出て行った。叔斉も、兄を差し置いて君主になることはできないと言って、兄を追って国を出てしまった。国の人々は困って、結局その間の子を主君に立てた。

伯夷と叔斉は老いるまでふたりで諸国を放浪したが、西の国、周の諸侯、西伯昌(のちに周の文王とおくり名される)が、老人を大切にしてくれると聞いて、周に向かった。しかし、到着してみると、西伯昌は亡くなっていて、その子の武王が軍を起こし、主君である殷の紂王が暴虐であるとして、これを討つために出発するところだった。

ふたりは武王の馬をおさえて言った。『父が亡くなって葬儀もしていないのに、戦いを起こすのは孝といえましょうか。臣下でありながら、主君を殺すのは仁といえましょうか。』

武王の家来たちはふたりを殺そうとしたが、軍師の太公望が止め『これは義人である』と言って立ち去らせた。

ついに武王は殷を滅ぼし、周の天下となった。

伯夷と叔斉は周に養われるのは潔しとせず、首陽山に入ってワラビを食べて命をつないだが、ついに飢え衰え、次の歌を作った。

かの西山に登って、そのワラビを取る

暴を以て暴にかえ、その非を知らず

神農、虞、夏、忽然として終わる

我、いずくにか帰らん

ああ、逝かん、命衰えたり

そして、ついに餓死した。これを見れば、伯夷と叔斉は、世を恨んだのか、恨んでいなかったのか。

神農、虞、夏は、いにしえの聖人たちです。今はそんな人たちはいなくなってしまった、と嘆いているのです。

暴を以て暴にかえ、その非を知らず

暴力を抑えるために暴力を使う過ちに気づかない。これも、攻撃と仕返しが果てしなく続くテロの連鎖、指導者同士の威嚇の応酬、いつのまにかエスカレートしつつある軍拡競争など、今の国際情勢に照らしても、胸に刻みたい、はるかいにしえの言葉です。

さらに司馬遷は続けます。

はえこひいきなく、常に善人に味方する、という。では、伯夷と叔斉は善人ではなかったのか。仁義の行いを重ねたというのに、餓死することになったのはどういうわけか。また、孔子は七十人に及ぶ弟子の中で、ひとり顔淵だけを高く評価していたのに、彼は貧困のせいで糠のような粗食さえ満足に食べられず、若死にしてしまった。一方、盗跖は毎日のように罪のない人を殺し、人の肉を料理し、乱暴の限りを尽くして、子分数千人を従えて天下に横行したが、天寿を全うした。盗跖が何の徳行をしたというのか。このふたつは、善人が報いられず、悪人が罰せられないという、はっきりした例である。

現代でも、行いが人の道に外れ、人には言えないような不正をしていても、一生遊び楽しみ、財産を築いて子孫も繁栄する者がいるし、逆に、慎重に立場をわきまえ、必要な時だけ意見を出すようにし、常に道を踏み外さないように心がけ、公正でないこと以外にはむやみに怒らない人が、不幸な目に遭うことも数えきれない。

私ははなはだ当惑する。天の道は正しいのか、正しくないのか。

この文章は、まだ紙も発明されていない時代に、竹に墨で書きつけられたものなのです。自身の不幸も重ね合わせながら、なんという憤りでしょうか。

努力は必ず報われる。

天は正しい人の味方。

2100年前に、本当にそうなのだろうか?と疑問を呈しているのです。

天道、是か、非か。

まさに魂の絶叫です。

 

しかし、だからといって、頑張るのも、正しい行いをするのも意味がない、と言っているわけではありません。

歴史家として、その不条理な人生の中で、もがいた先人たちの赤裸々な姿を、正しく後世に伝えるのが、司馬遷とその父の目的なのです。

そして、彼らが描いた歴史は、多くが報われなかった人々の群像だったのです。

〝きれいごと〟に疑問を呈した伯夷伝なのですが、読み返すたびに、なぜか逆に気持ちがスッと軽くなって、力が湧いてくる思いがするのです。理想だけが人を励ますとは限りません。

駅伝で悔しそうな思いをしている選手たちを見ながら、こんな感慨を抱いたので記してみました。

 

最後に、彼らに届けたい曲として頭に浮かんだのは、グレン・グールドが弾く、ワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー前奏曲のピアノ編曲版です。

来年、または新しい舞台に向かって、悔しさを胸に頑張る若者へのエールにふさわしいのではないでしょうか。

ワーグナーニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕への前奏曲 (ピアノ編曲版)

作曲:R. ワーグナー Richard Wagner

演奏:グレン・グールド(ピアノ) Glenn Gould

 

今回もお読みいただき、ありがとうございました。

 

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