孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

競馬に入れ込んだ英国王の物語。ハイドン『交響曲 第102番 変ロ長調』

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1791年、アスコット競馬場でのバロネット号とチフニー騎手

フランス革命戦争はじまる

ハイドンの第2回ロンドン訪問も、終盤に差し掛かってきました。今回は、第2期ザロモン・セットの4曲目、シンフォニー第102番です。

ヴァイオリニストにして興行主のザロモンは、2度にわたってハイドンをロンドンに招き、『ザロモン・コンサート』を開いて大成功したのですが、ここで、情勢に大きな変化が生じました。

1789年に勃発したフランス革命は、次第に激化し、1793年には国王ルイ16世を処刑するに至りました。

革命が自分の国に波及してはたまらない、とヨーロッパ諸王国は、革命をつぶすべく、フランスに宣戦布告し、フランス革命戦争が起こったのです。

戦争によってザロモンは、大陸の優れた歌手、演奏家たちと契約することができなくなりました。産業革命によって経済的に繁栄した英国ですが、文化、芸術は、洗練された大陸から輸入して消費していたのです。

そこでザロモンは、英国にいる演奏家たちを結集し、いくつかあったコンサートをひとつにすることを呼びかけました。

これは、オペラ座で行われたために『オペラ・コンサート』と呼ばれています。

ハイドンはこのコンサートのために、最後の3曲のシンフォニーを提供したのです。

オーケストラの人数は60人に及ぶ大規模なものでした。

英国王室せいぞろいの前夜祭

第1回のオペラ・コンサートは1795年2月2日に開催されましたが、この前日に、ハイドンはオペラ・コンサートの主要なメンバーとともに、プリンス・オブ・ウェールズ王太子に王宮に招かれ〝壮行会〟のような演奏会を行いました。

その様子をハイドン自身が次のように伝えています。

1795年2月2日に、私は、プリンス・オブ・ウェールズから、ヨーク公の邸の音楽演奏会に招待された。これには、国王や王妃とご家族の全員、オレンジ公などが出席された。演奏されたのは私の作品ばかりだった。私はクラヴィーアの前にすわった。最後には私も歌わなくてはならなかった。国王は、これまでヘンデルの作品しか聴くことができず、また他のものは聴こうとなさらなかったのだが、大変ご親切であった。国王は私に話しかけられ、王妃に紹介してくださった。王妃は私にお褒めの言葉を賜った。私は自作のドイツ語の歌『我は幸せ者』を歌った。2月3日にはプリンス・オブ・ウェールズに招待され、また1795年の4月15日、17日、19日にも招待された。21日には王妃からバッキンガム宮殿に招かれた。

時の国王は、ヘンデルを召し抱えて『水上の音楽』を作ることになったジョージ1世のひ孫、ジョージ3世(1738-1820)でしたが、英国ではまだヘンデルがもてはやされていたことがわかります。

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ハイドンはまさに、英国にとってヘンデル以来の〝黒船〟でした。

ハイドンを歓迎し、親しく交際した王太子プリンス・オブ・ウェールズは後のジョージ4世(1762-1830、在位1820-1830)ですが、この人は大変な競馬好き、ギャンブラー、浪費家で有名です。

このエピソードは後程ご紹介します。

ハイドンによる競馬の実況中継

さて、第1回オペラ・コンサートで初演されたのが、交響曲第102番変ロ長調です。

この曲には愛称がついていないので、演奏の機会は少ないですが、前にご紹介したシャンデリア落下事件の奇跡は、実はこの曲の演奏時に起こったと考えられるので、〝奇跡〟の愛称は、本来であれば第96番ではなく、この曲につくはずのものでした。

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しかし、私としては、この曲にぜひ〝競馬〟という愛称をつけたいのです。

それは、フィナーレの第4楽章が、パカラン、パカラン、という馬の蹄の音、そして手に汗握るレースの実況を表しているとしか思えないからです。

その証拠は何もないのですが、ハイドンは、1回目のロンドン訪問時、1792年6月14日に、競馬発祥の地英国の名門、アスコット競馬場を訪れ、レースに興奮して次のように記しているのです。

用意が整うと、2度目のベルが鳴り、一斉にスタートする。2マイルの円周を回り、出発点に真っ先に戻ってきた者が賞金を獲得する。第1レースは騎手が3人で、彼は円周を止まらずに2度回らねばならなかった。このダブル・コースを5分間で回った。実際にレースを見なければ、これは信じられないだろう。第2レースは騎手が7人で、彼らが円周の中央部に来た時、7頭すべてが同列に並んだが、決勝点に近づくにつれて、ある者は遅れた。しかし10歩以上の差にはならなかった。1頭がゴールに近いと思われ、この時間に多数の人々がこの騎手に賭けた直後に、別の騎手がギリギリのところで彼を追い越し、信じられないほどの力で決勝点に着く。騎手たちは非常に軽い絹の服を着ており、識別をたやすくするため一人ひとり違った色となっている。長靴ははかず、頭に小さい帽子をかぶり、猟犬のように痩せ、自分たちの乗馬のように痩せている。どの騎手も計量され、馬の実力に従って一定の重さが差し引かれる。もし騎手が軽すぎるときは、重い服を着るか、鉛をつけなければならない。大きなスタンドが設置され、そこで掛け金を張る。国王は一つの隅に専用のスタンドを持っている。私は最初の日に5回のレースを見たが、大雨だったのに満員の馬車2千台と、その3倍にあたる庶民が徒歩で来た。このほか人形芝居、行商人、怪談劇などがレース開催中ずっと続いた。おやつを売る多くのテント、あらゆる種類の酒とビール…

どうでしょう、GⅠレースで賑わう今の競馬場と変わらない光景です。ハイドンのこの記述は、貴重な初期の競馬の記録でもあるのです。

アスコット競馬場は、大の競馬好きだったアン女王が、1711年、馬車から広大な丘を見つけて『この場所こそ、競走馬が全力で走るのにふさわしい』と言って建設を命じた、今でも王室所有の競馬場です。

競馬の開催は年に1度、6月にロイヤル・アスコット開催と呼ばれる王室主催の4日間のみで、ハイドンは観戦したのはこれでしたが、第2次大戦後には『キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス』など、王室主催以外のレースが行われています。

ハイドンが馬券を買ったのか、そして勝ったのかどうかは分かりませんが、これだけ興奮していて、サービス精神旺盛な彼が音楽にしないわけがないと思うのです。

さらに、ハイドンを歓待したプリンス・オブ・ウェールズ、すなわち後の英国王ジョージ4世が、常軌を逸した競馬好きであったので、彼に対するオマージュでもあったのではないかと思えてならないです。

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王太子時代のジョージ4世(1792年)

競馬の負けを議会が補填

ジョージ4世は、1762年に国王ジョージ3世の嫡男として生まれ、すぐに英国王太子の称号であるプリンス・オブ・ウェールズに叙されました。

しかし若いうちから、叔父である遊び人のカンバーランド公から、酒、女、そして賭け事を教わったといわれています。

カンバーランド公は賭け事の中でも競馬に打ち込み、1780年にダービーが創設されると、たびたび持ち馬を出走させました。

カンバーランド公に競馬場にしょっちゅう連れ出されたジョージは、1783年ジョッキークラブへの加入が認められる21歳になると、さっそく競馬を始めます。

ジョージは欲しい馬には金に糸目をつけず買い込み、1786年には24頭を所有し、そのうち2頭をダービーに出走させることができました。

しかし、この浪費は当然のことながら破綻し、この年には1頭を残してすべて手放すことになりました。

にもかかわらず、英国議会は王太子ジョージに16万1千ポンドを与えることを承認しました。

それは、ナポレオンと渡り合った当時の名宰相、小ピット(1759-1806)が大の競馬好きだったからだといわれますが、競馬で破綻した王太子に、さらに大金を与える首相と議会。さすが競馬発祥の国です…。

ジョージはまたすぐに競走馬を買い集め、1788年にはサートーマス号によって、王族初のダービー優勝を果たしたのです。

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第1回オートランズステークス。アタマ差で負けたエスケープ号(1790年)

伝説のオートランズステークス

1790年に、アスコット競馬場で、英国最大の競馬レースが創設されました。オートランズステークスと呼ばれ、ハンデをつけて、どの馬にも勝つチャンスを持たせた競馬史上初のレースでした。これにより、馬主以外の第3者が賭ける魅力が高まり、競馬が大衆に広まるきっかけとなりました。ハイドンが感嘆した騎手の計量はこのことです。

ジョージは、破綻したときに泣く泣く手放したエスケープ号を大金を出して取り戻して出走させました。結果は惜しくも頭差で2着。1着の馬主は、父ジョージ3世が嫌った野党ホイッグ党の党首フォックスでしたが、ジョージと彼とは酒、女、ギャンブルを楽しむ〝悪友〟でした。

さてジョージは、翌年の第2回オートランズステークスでの必勝を期します。

めぼしい馬を買い漁り、その中から選びに選んで、エスケープ号バロネット号の2頭の出走を決めました。

このレースは話題となり、アスコット史上空前の4万人の観衆を集め、賭け金の総額は10万ポンドを超えましたが、中にはバリモア伯爵のように一人で2万ポンドも賭けた者さえいたのです。

ジョージはエスケープ号での優勝を狙っており、お抱え騎手のサミュエル・チフニーに騎乗を命じていました。

しかし、レース寸前のエスケープ号の様子を見て、チフニー騎手は馬の調子が悪いと感じ、急いで馬券売り場に走ってバロネット号に賭けました。当時は騎手も賭けることができたのです。

そして、ジョージに直談判をして、エスケープ号は調子が悪いので、バロネット号に騎乗したい、と申し出ました。ジョージはチフニー騎手に自信のほどを尋ねると、確約はできないが、勝機はかなりある、と答え、許可されました。

このとき、調教師のレイクは、エスケープ号の調子は悪くない、と反対したという説もあります。

またチフニー騎手は、ジョージはエスケープ号にたくさん賭けているはずだから、バロネット号が勝った場合に大損になりませんか、と心配して尋ねました。

すると王太子は、これは他言無用だが、実は保険としてバロネット号にもこっそりたっぷり賭けているから大丈夫だ、とささやいたといいます。

レースは、エクスプレス号が先行し、4馬身差でバロネット号が続く展開となりました。さらに2馬身遅れて、ジョージの本命馬エスケープ号が続きます。

ゴールまであと半マイルというところで、バロネット号騎乗のチフニーはエスケープ号を見捨てる決断をし、エクスプレス号との勝負に出、両頭並んでゴールまで激しく争い、ついにゴール寸前で半馬身差をつけてバロネット号が優勝しました。

王太子ジョージが英国一の馬主となった瞬間でした。

将来の国王となる息子のギャンブル狂いを普段からとがめていた父ジョージ3世も、このときばかりは喜び、『お前のバロネットはよく稼ぐ。わしは先週14人にバロネットを授けたが、奴らは1ペニーだってよこさない』と冗談を言ったとのことです。

〝バロネット〟とは、爵位の『準男爵』を意味します。

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バロネット号、半馬身差で勝利の瞬間(1791年)

大スキャンダル、エスケープ号事件

ところが、このあと、ジョージとチフニー騎手、エスケープ号は、競馬史に残るスキャンダルを引き起こします。

ニューマーケット競馬場で行われたレースで、彼らによる八百長が行われた、というのです。

1番人気だったエスケープ号&チフニー騎手が不可解な大敗をしました。

そこで、翌日のエスケープ号のオッズが高くなったのですが、そこでエスケープ号は本来の実力を出してぶっちぎりで優勝したのです。

ジョージとチフニーはこれで大儲けをしたのですが、前日のレースでの大敗は、チフニー騎手が故意に手綱を締めてわざと負けたという非難の声が上がりました。オッズ操作疑惑です。

ジョージもチフニーもインチキは否定しましたが、金の動きにあやしい状況証拠もあり、結果としてジョージはニューマーケットのジョッキークラブから追放されます。

この結末は競馬界から歓迎され、ジョッキークラブが、次期国王といえども忖度や譲歩をせず、レースの公正を守った事件として競馬史に残っているのです。

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エスケープ号事件の風刺画。手綱を絞るチフニー騎手と、右手で報酬を約束するジョー王太子

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即位したジョージ4世(1820年

競馬の擁護者、ジョージ4世

王太子ジョージは、晩年に精神異常をきたして廃人同様に幽閉された父ジョージ3世の摂政を務めていましたが、1820年に父王が崩御すると英国王ジョージ4世として即位しました。

即位後もジョージは競馬に打ち込み、アスコット競馬場のほか、リゾート競馬としてブライトン競馬場やルイス競馬場を拡張、整備しました。

さらに、アイルランドの秋競馬に臨席しましたが、これは1399年にリチャード2世がアイルランド征服に出征して以来、420年ぶりのイングランド国王のアイルランド訪問となりました。

また、アスコット競馬の開幕日に王室でパレードを行うのもジョージ4世が始め、今でも続いています。

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アスコット競馬開幕日の王室パレード

1807年にはアスコット金杯も創始し、ジョージ4世はこの金杯レースでの優勝に血道を上げ、大金をつぎ込みましたが、夢を果たすことなく、1830年ウィンザー城で崩御しました。

英王室は時々スキャンダルに見舞われますが、歴史を見ると、むしろスキャンダルが伝統なのでは、という思いがします。

ハイドンは、この国王と王太子時代に出会ったご縁からも、このシンフォニーで競馬を描いたと思うのです。

ぜひ、お聴きください!

ハイドン交響曲 第102番 変ロ長調 Hob.Ⅰ:102  

F.J.Haydn : Symphony no.102 in B flat major, Hob.Ⅰ:102

マルク・ミンコフスキ指揮レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル

Marc Minkowski & Les Musiciens du Louvre

第1楽章 ラルゴーアレグロ・ヴィヴァーチェ

不安に満ちた序奏から始まります。ベートーヴェンのシンフォニー第4番変ロ長調は、この曲に雰囲気がよく似ています。ベートーヴェンがこの曲を意識し、お手本にしたのは間違いないと思います。主部のテーマはトゥッティで思い切り元気よく始まります。序奏はこの明るさを引き出すためのものです。展開部は手に汗握ります。ロンドンの名演奏家が一同に会し、空前の規模で演奏されたこの曲は、その迫力で聴衆を圧倒したことでしょう。どこまでもエネルギッシュな、私の愛してやまない曲です。

第2楽章 アダージョ

チェロのオブリガートが心に沁みる、抒情豊かな楽章です。これも〝巨人に囲まれたギリシアの乙女〟と呼ばれたベートーヴェンの第4番第2楽章がお手本にしたと思われます。谷間に揺れる百合の花を見ているかのようです。

第3楽章 メヌエット:アレグロ

元気いっぱいの楽しいメヌエットです。刻むようなリズムに心躍ります。素晴らしいのはトリオ。オーボエファゴットの歌がのどかな田舎で深呼吸をするように癒してくれます。

第4楽章 フィナーレ:プレスト

私の考える〝競馬の曲〟です。最初は、木管がパカラン、パカラン、と馬の蹄の音を表しているように聞こえてならないです。そして、トゥッティに移ると、さあ、ゲートが開きました!各馬一斉にスタートです‼︎ という競馬の実況中継を聴くような思いがするのです。そして、ゴール前の緊迫したレース展開。1着はどの馬だったでしょうか!

 

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