孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

【コーヒーの歴史と音楽】みんな陽気に飲んで踊ろう、コーヒー・ルンバ!昔アラブの偉いお坊さんが何をした?

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ロンドンのコーヒーハウス

「コーヒーハウス」は時代を変えた!

前回まで、バッハフランス風序曲や、チェンバロ協奏曲の数々を聴いてきました。

これらの曲は、ライプツィヒの、ツィンマーマンが経営する「コーヒーハウス」をコンサート会場として、大学生を中心としたアマチュア・オーケストラ、コレギウム・ムジークムによって演奏されたものです。

「コーヒーハウス」がコンサート会場?と言われても、今の喫茶店を思い浮かべると、違和感しかありません。

その疑問を解決するには、当時のコーヒーハウスがどんなものだったのか、を知る必要があります。

結論から言えば、コーヒーハウスは「貴族社会」から「近代市民社会」へと時代を変えた施設と言っても、おおげさではないのです。

このブログでは、クラシック音楽の中でも、昔の楽器と奏法をできる限り再現した「古楽器」「オリジナル楽器」「ピリオド楽器」の演奏にこだわってきましたが、その時代は主に17世紀から18世紀の「バロック」と「古典派」ということになります。

それは「貴族社会」から「市民社会」への大きな移り変わりの時代で、それが音楽に与えた変化、あるいは逆に、巨匠から創り出された音楽が時代を変えていったさまをみていくのが、このブログのメインテーマでもあります。

そこで、大バッハが、その偉大な生涯の最後に、骨を埋める地となったライプツィヒにて、聖トーマス教会で荘厳な宗教音楽を生み出すかたわら、コーヒーハウスで市民のための新しい音楽の演奏を試みていたのは、実に象徴的なできごとといえます。

バッハは、コーヒーハウスでの出し物として、愉快な『コーヒーカンタータを作曲しています。

その曲を聴くのは次回にして、今回は、時代と世界を変えた飲み物「コーヒー」と「コーヒーハウス」の歴史をたどってみます。

♪♪♪ コーヒー・ルンバ ♪♪♪ 

現代日本でも、コーヒーのない社会は考えられません。

街にはコーヒーショップが軒を連ね、味と安さ、店の居心地やサービスにしのぎを削っています。

サラリーマンは、外回りの営業でもしようものなら、好むと好まざるとにかかわらず、一日に何杯もコーヒーを飲むことになります。

私も朝、出社前にはコーヒー店に立ち寄り、昼食後にはコーヒーを頼み、さらに職場のコーヒーマシンでも飲んだりします。

ただ、個人的にはコーヒーが特別好き、というわけではなく、オフの日に家では緑茶や紅茶を飲む方が多いのですが、オンのときにはコーヒーなくしてはやってられない気がします。

どうしてコーヒーは、ここまで社会になくてならない飲み物になったのでしょうか。

コーヒーの歴史を紐解いてみます。

コーヒーをテーマにした曲といえば、なんといっても『コーヒー・ルンバ』でしょう。

高速のSAによく置いてある自動販売機でも流れています。

その日本語歌詞には、コーヒーの起源がこう歌われています。

昔アラブの偉いお坊さんが

恋を忘れた あわれな男に

しびれるような 香りいっぱいの

琥珀色した 飲み物を教えてあげました

やがて心うきうき とっても不思議このムード

たちまち男は 若い娘に恋をした

 

コンガ マラカス 楽しいルンバのリズム

南の国の 情熱のアロマ

それは素敵な飲みもの コーヒー モカマタリ

みんな陽気に 飲んで踊ろう

愛のコーヒー・ルンバ*1

羊飼いカルディの物語

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カルディ伝説

日本語歌詞では、〝アラブの偉いお坊さん〟がコーヒーを教えた、ということになっています。

コーヒーの起源は伝説化しており、大きく2つの話があります。

ひとつは、『羊飼いカルディ』の伝説です。

アラビアでヤギを飼っていたカルディが、あるときヤギを連れて放牧に出かけました。

すると、ヤギたちがなぜかやたらと興奮して、夜も寝ないで騒ぐようになってしまいました。

困ったカルディが近くの修道院に相談にいき、修道院長のスキアドリが調べてみると、ヤギがある木の実を食べているのが分かりました。

院長がその実をいろいろと試し、煎じて飲んでみると、夜眠れなくなりました。

これはいい!と 、修道院長は夜の礼拝で居眠りをする修道僧たちに飲ませるようになり、これがコーヒーの起源、というお話です。

「カルディ」は、これにちなんでコーヒー販売店の名前になっていますね。

アラブの偉いお坊さんって誰?

もうひとつは、アラブの聖者、アリー・イブン・ウマルの物語です。

ウマルは、アラビア半島の先端、イエメンのモカで人々の信仰を集めた聖者で、14世紀後半に実在した人ともいわれています。

あるときモカの町に疫病が流行し、ウマルの法力で多くの人々が命を救われました。

王の美しい娘も病にかかってしまったため、ウマルのもとを訪ね、数日一緒に過ごすと、病は治りました。

しかし、王はふたりの関係を疑い、ウマルをモカから追放してしまいます。

町を追われたウマルは、ウザブの山の中で、木の実を食べて飢えをしのいでいましたが、ある実を煮立てて飲むと、気分がよくなることを発見しました。

モカの町をふたたび流行り病が襲ったとき、人々はウマルを探して、呼び戻しました。

ウマルは、その実を煮立てた黒々とした汁を、『ザムザムの泉と同じ霊験がある』と言って人々に飲ませ、やがて病は撲滅されたのです。

「ザムザムの泉」は、イスラムの聖地メッカに湧く、聖なる泉です。

『コーヒー・ルンバ』の歌詞は、このウマルをイメージしていると思われます。

それにしても、恋を忘れた男を、恋に目覚めさせるのが〝偉いお坊さん〟の役目なんですかね?

しかも、そのお坊さんは、王女に手を出した、と疑われてるし…苦笑

コーヒー・ルンバの原曲とは

でもこの歌詞は、日本で新しく作られたもので、原曲を訳したものではないのです。

原曲は、ベネズエラの作曲家ホセ・マンソ・ペローニが、1958年に作詞・作曲した『モリエンド・カフェ(日本語訳「コーヒーを挽きながら」)』で、それを甥のウーゴ・ブランコが、ラテンアメリカの民族的楽器、アルパで弾いたものが、そのエキゾチックな魅力で世界的にヒットしました。

アルパは、ハープのような楽器で、ラテンハープ、インディアンハープ、パラグアイハープとも呼ばれます。

こちらがウーゴ・ブランコの曲です。リズムは正確にはルンバではなく、ブランコが生み出した「オルキデア」というものだそうです。


Moliendo Cafe Hugo Blanco HD

日本でのカバーの多いこと!

日本で最初にカバーしたのは、1961年、西田佐知子です。

例の歌詞は中沢清二氏が、原曲と関係なく作詞しました。


コーヒー・ルンバ / 西田佐知子

その後、続いて、森山加代子、国実百合、荻野目洋子、井上陽水工藤静香小野リサ福山雅治伴都美子坂本冬美神保彰葛城ユキ、渥美二郎、町田謙介…

Apple Music に入ってる曲だけで、いったい何人カバーしているやら!!

もはや国民的楽曲です。

最近バブル時代の曲が懐かしく取り上げられているので、とりあえず荻野目っちのと、珍しい福山のを載せておきます。


21 コーヒールンバ


コーヒールンバ(2015) live

みんながそれぞれのテイストで〝アラブの偉いお坊さんが…〟って歌っているのは、珍妙でさえありますが、こんなに親しまれている曲もなかなかないですね。

まさにコーヒーの魔力でしょうか。

戒律厳しいイスラム世界でコーヒーが広まるまで

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コーヒーを飲むスーフィーレンブラント

コーヒーの起源の話に戻ります。

先の話は伝説ですが、いずれにしても、イスラム神秘主義の僧侶「スーフィーがコーヒーの普及に関わっているのは間違いないといわれています。

コーヒーに含まれるカフェインがもたらす高揚感、覚醒作用が、宗教的なフィーリングに結び付いたのでしょう。

コーヒーの実をつけるコーヒーノキの原産は、アフリカのエチオピアで、いつの時代かに、紅海を渡ってアラビアのイエメンに持ち込まれたようです。

そして、15世紀には、酒が禁止されたイスラム教世界に瞬く間に広がっていったのです。

ただ、すんなりと受け入れられたわけでもなく、時には賛否両論が繰り広げられました。

反対理由としては、その作用がコーランで禁止されている酒と同じだ、人体に有害だ、人々を堕落させる、風紀を乱す、コーヒーを飲みながらする政治談議が危険だ、など、様々な点が挙げられました。

時には禁止令が出され、1511年には、聖地メッカでコーヒーの大弾圧が行われました。(メッカ事件)

また、イスラム世界を席捲、支配したオスマントルコ治下、1633年には首都イスタンブール「コーヒー・タバコ禁止令」が出て、一説には3万人が処刑されたといわれています。

今こんな法律ができたら、罰せられる人はケタ違いでしょう。もっとも、タバコに関しては、増税、隔離政策と、愛煙家にとっては〝大弾圧〟かもしれませんが。

しかし、コーヒーの魅力は、これらの宗教的、政治的弾圧を跳ね返し、イスラム世界を象徴する飲みものとなったのです。

それでは、コーヒーはどのようにしてヨーロッパに伝わったのでしょうか。

4つのルートがあったといわれています。

ヨーロッパに伝わった4つのルート

まずは「地中海ルート」

イスラム世界とヨーロッパを結んでいたのは、なんといっても地中海での貿易ルートで、コーヒーの伝播もこのルートが最初でした。

地中海の東方貿易を独占していたのはヴェネツィア商人で、地中海東岸の貿易都市レヴァントから輸入したといわれています。

その年代は正確には分かりませんが、16世紀末にはヴェネツィア人はコーヒーを飲んでいたようです。

しかし、フランスでも地中海沿岸のマルセイユあたり止まりで、そこからはあまり広まりませんでした。

コーヒーの代名詞「モカ」の起源

次なるルートはオランダ東インド会社ルート」です。

オランダ商人は、長崎の出島にも商館を出したように、大航海時代に世界征服を先行させていたスペイン、ポルトガルに追いつき、追い越せ、といった勢いで、東インド会社を使って世界に貿易網を張り巡らせ、各地の珍奇な物産を取り扱って大儲けをしました。

コーヒーにも目をつけ、1620年にはイエメンの港町モカに商館を置き、ここでコーヒーを買い付け、喜望峰を回ってヨーロッパに輸出を始めたのです。

これが大当たりするのは、ロンドンでコーヒーハウスが大流行する17世紀後半まで待たなければなりませんが、輸出港「モカ」はコーヒーの代名詞となり、今でも最高のブランドとされています。

今、街中で「カフェ・モカを注文すると、エスプレッソにチョコレートシロップが加えられたものが出てきますが、これは、モカのコーヒーにカカオに似たフレーバーがある、とされたことによります。

ルイ14世をコケにして

さて、次は、以前このブログでも取り上げた「パリ・ルート」です。

フランス絶頂期の王、太陽王ルイ14世は、宿敵ハプスブルク家を倒すため、〝敵の敵は味方〟ということで、あろうことか異教徒のオスマン・トルコと同盟を結ぼうとしました。

そこで、パリにやってきたトルコの使者、ソリマン・アガを、ヴェルサイユ宮殿に迎え、最高に豪奢に飾り立てた装束で出迎えますが、アガは平服で現れ、全く動ずるどころか、ルイ14世玉座から立ち上がらずに国書を受け取ったことにクレームをつける始末です。

そして退出後には、王の衣装について、『トルコでは、皇帝の馬だってもっと豪華に着飾っている』などとうそぶきます。

実はアガは「全権大使」でもなく、大国に対する儀礼を欠いていることも発覚しました。

大恥をかかされたルイ14世は怒り心頭、しかしトルコに攻めていくわけにもいかず、モリエールリュリに命じて、トルコ人をコケにした芝居を作らせて大笑いし、かろうじて溜飲を下げました。

これが、モリエール脚本、リュリ作曲の『町人貴族』です。モリエールが主役のジャルディーノ役、リュリがトルコの大祭司役を演じました。これが、その後ヨーロッパに流行したトルコ風音楽のハシリです。

www.classic-suganne.com

こちらは、映画『王は踊る』のトルコの儀式の場です。


Le Bourgeois gentilhomme Marche pour la cérémonie des Turcs

ソリマン・アガは、パリ滞在中、自邸をトルコの宮殿風に飾り付け、そこにパリの人々を招いて、トルコ風にもてなしました。

床に豪華な絨毯やクッションを置いて直に座り、高価な中国製の磁器で供される、香り高い黒い液体。

まさにアラビアンナイトの世界で、そのエキゾチックでゴージャスな雰囲気に、フランスの貴族も庶民も、すっかり虜となったのです。

〝黒いスープ〟の甘い罠

4つめは、これも以前の記事で取り上げた「ウィーン・ルート」

オスマン・トルコは、ビザンツ帝国を滅ぼして中近東にまたがる大帝国を築き、次なる狙いはヨーロッパ。

まずはハンガリーを席捲しましたが、そのときもコーヒーが一役買っています。

首都のブダ攻略に際し、ハンガリー側と偽りの講和会議を開き、ハンガリー貴族たちをご馳走攻めにします。

そして、帰ろうとする貴族たちを、最後に〝黒いスープ〟でもてなします。

貴族たちがこれを味わっている間に、指揮官不在のブダの町は陥落していた、というわけです。

これがコーヒーなのは言うまでもありません。

食後のコーヒータイムに攻め落とされたわけで、その後、ハンガリーでは〝黒いスープ〟というのは毒まんじゅうのようなたとえにされています。

そしてハンガリーを手中に収めたオスマン軍は、〝黄金のリンゴ〟といわれた、ハプスブルク家の首都ウィーンを目指し、これを包囲しますが、第1回包囲は、冬が来て兵糧不足により撤退。

後に、1683年には第2回包囲を行いますが、これは来援したポーランド・ドイツ諸侯連合軍により撃破されます。

そして、戦功のあったポーランド兵士のコルシツキーが、トルコ軍が敗走のときに残していった大量のコーヒー豆を褒美としてもらい、ウィーン初のカフェ『青い瓶の下の家(ホフ・ツア・ブラウェン・フラシェ』を開店します。

これは作り話の可能性も高いですが、今もウィーンのカフェにはコルシツキーの肖像が飾ってあり、アメリカの「ブルーボトル・コーヒー」もこれに由来します。

ウィーンでは、トルコ文化が流行り、一大コーヒー消費都市となり、モーツァルトベートーヴェンが〝トルコ行進曲〟を作曲したのです。

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文化のるつぼ、ロンドンの「コーヒーハウス」

さて、こうしてヨーロッパの人々に浸透してきたコーヒーですが、英国ロンドンで、爆発的な流行がはじまります。

その担い手となったのが「コーヒーハウス」です。 

ロンドンで初めてのコーヒーハウスは、1652年に、アルメニア出身のパスカ・ロゼという人が開店しました。

それから30年後には、人口50万人のロンドンに、3000軒ものコーヒーハウスがあったといわれます。

なぜロンドンでそんなに流行したのか、というと、それは「市民革命」が関係していました。

1649年の清教徒革命は、国王チャールズ1世を処刑するなど過激化しましたが、その後王政復古を経て、再び名誉革命が起きるなど、国王の圧政に対し、市民たちが自分たちの権利を求めて対抗する局面が続きました。

市民たちが、政権を批判し、自分たちのあるべき姿を求めて議論する場が、まさにコーヒーハウスだったのです。

それまで、庶民が集う場は酒場でしたが、酒が入ると議論は白熱しがちなものの、今も昔もまともな結論にはなりません。最後には喧嘩になったり、収拾がつかなくなるのがオチです。

しかし、コーヒーなら!酔っぱらうこともなく、冷静に意見を交換することができます。逆にカフェイン効果で頭が冴え、いいアイディアさえ浮かんできます。

今もビジネスの場でコーヒーが欠かせないのと同じです。

男たちがコーヒーハウスに入りびたるので、妻たちにより〝コーヒーは夫に妻の相手をおろそかにさせ、子供の出生率を下げる〟という反対運動が起こるほどでした。

それはともかく、コーヒーハウスは、古代ギリシアのポリスで男たちが政治について議論を戦わせたアゴラ(広場)のように、民主主義を推し進める自由な議論の場となり、近代市民社会を開く役割を果たしたのです。

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ロンドンで発行されたパンフレット『コーヒーに反対する女性の請願』(1674年)

「コーヒーハウス」が生み出した近代社会に欠かせないツール

さらに、コーヒーハウスは、我々の現代社会につながる、近代的な仕組みを次々と生み出しました。

英国商人は、オランダに追いつき、追い越せとばかり、七つの海に乗り出して、世界貿易を進めていました。

そのためには、各地の商品価格の動静や、政治情勢などの情報が欠かせません。

当時、「新聞」は政府が出す〝公報〟しかありませんでした。

そこで、コーヒーハウスに集まる人々の情報をもとに新聞が作られ、コーヒーハウスで販売されました。

情報伝達には「郵便」も重要ですが、当時の国の郵便制度はあまり整っておらず、頼りになりませんでした。

そこで、コーヒーハウスのネットワークを使った、私的な郵便サービスが始まります。

コーヒーハウスにある袋に郵便を入れると、定期的に配達してくれるのです。のちには、この制度を国が公的なものとするくらいでした。

そうして貿易が盛んになり、資本主義が発展してくると、新たに事業を始めるのに資金集めが重要になってきます。

そこで、「株式の取引」もコーヒーハウスで行われるようになりました。

コーヒーハウスは、初期の株式取引所、商品取引所の役目を果たしたのです。

貿易が盛んになると、リスク管理も重要になってきます。貿易品を満載した船が難破したり、海賊に遭ったりすれば、船主は破産しかねません。

そこで、コーヒーハウスにおいて、船主を相手にした「保険」サービスが生まれます。

保険業者はそれまでも個人経営のものがありましたが、コーヒーハウスの経営者、エドワード・ロイズは、集まる情報を『ロイズ・ニュース』として刊行し、信頼できる情報を武器に、後に世界最大の保険会社に成長します。

人が集まるところに情報あり。情報がビジネスのカギであるのは、今も昔も変わりません。

企業家には、自分で事務所を構えるより、コーヒーハウスの一角に専用の居場所を定め、そこでビジネスをする人もいました。

取引先も、顧客も、皆コーヒーハウスに集まっているのですから、まさにうってつけの事務所です。

「世論」はコーヒーハウスから

そして何より重要なのが、「民主政治」です。

公衆の議論の場となったコーヒーハウスは、まさに「世論」が形成される場でした。

「マイルズ」というコーヒーハウスには、「ロータ・クラブ」という私設国会までありました。そこでは、真ん中にウェイターがコーヒーを運ぶ通路があり、テーブルには投票箱があって、重要事項は投票で決められたのです。

さすがに、政府から閉鎖命令が出たこともありますが、コーヒーハウスから上がる税収も国家としては重要であり、あまり過激な議論にはならないよう、店主たちも気を配ったりして、英国流の民主主義がコーヒーによって醸成されていったのです。

しかし、18世紀も後半になると、英国のコーヒーハウスは数を減らし、衰退していきます。

色々な原因が考えられますが、公開の場としての社会的機能が衰えてきたのも一因とされています。

その役割は、それぞれテーマ別の閉鎖的な「クラブ」に置き換わっていきました。

また、英国人の好みが紅茶へシフトしていきました。

それまでコーヒーはあくまでも男の飲みものでしたが、紅茶は女性たちに爆発的な人気を呼びました。

これまでコーヒーハウスに入り浸っていた英国紳士たちは、レディーファーストを心がけないと物事がうまくいかないことを悟ったかのようです。

英国は、コーヒーから紅茶へのステップを経ることによって、19世紀には大英帝国として世界に君臨することになったのです。

フランス革命の引き金を引いたカフェ

さて、そうはいかなかったのがフランスです。

パリでも、コーヒーハウスにあたる「カフェ」が隆盛を極めましたが、その代表格が「カフェ・プロコップ」です。

内装はヴェルサイユ宮殿風に装飾されており、貴族に憧れる富裕層や中産階級が集まりました。

ソリマン・アガのスタイルに魅せられたように、フランスでのコーヒー文化は〝ファッション〟の要素から始まったのです。

「プロコップ」と人気を二分したのが、パレ・ロワイヤル前に開店した「カフェ・ド・レジャンス」で、摂政(レジャンス)オルレアン公にちなんでその名がつけられました。

ここではチェスが盛んに行われたということですが、王位継承権をもち、江戸時代でいえば〝御三家〟だった歴代のオルレアン公は、ブルボン王家への対抗から、自由主義を掲げ、その居館、パレ・ロワイヤル周辺のカフェは、絶対王政に不満を持つ人々の溜まり場になっていました。

そして、1789年7月14日、パレ・ロワイヤルの回廊にある「カフェ・ド・フォワのテラスから、一人の青年カミーユ・デムーランが、市民派の財務長官ネッケルをルイ16世が罷免したというニュースに接して怒りを爆発させ、人々に蜂起を呼びかけます。

これに呼応した市民がバスチーユ監獄を襲い、フランス革命の火ぶたが切って落とされたのです。

コーヒーは、英国では穏やかに、フランスでは過激に作用して、近代市民社会への道を拓いていったのです。

それでは、バッハのいるドイツではどうだったか。それは次回に。

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カフェのテラス席で蜂起を呼びかけるカミーユ・デムーラン

コーヒーの歴史については、次の2書を参考にさせていただきました。音楽もコーヒーも、歴史を知るとより味わい深くなります。

コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液 (中公新書)

コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液 (中公新書)

 
珈琲の世界史 (講談社現代新書)

珈琲の世界史 (講談社現代新書)

 

 

  

今回もお読みいただき、ありがとうございました。


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*1:ose Manzo Perroni 作詞・作曲
中沢清二 日本語独自詞