孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

マリア・テレジアの娘たち。五女マリア・エリザベト(リースル)の物語。ハイドン、悪妻と結婚する!『オルガン協奏曲 ハ長調』

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ハイドンの妻マリア・アンナ・アロイジア・ケラー

伯爵夫人の色香にドギマギ

1759年、27歳でボヘミア貴族のモルツィン伯爵楽長に就任したハイドン

青年時代を食うや食わずの飢餓線上を彷徨いながら、叩き上げの修業を積み、ようやくまともな定職に就くことができたのです。

生活が安定してきた青年の次の目標は、結婚。

仕事も忙しく、内助の功を必要としていました。

これまで、若きハイドンの女性関係についての記録は、本人の老年期の回顧からも窺えません。

とても、女性とお付き合いできる境遇ではなかったでしょう。

そんな彼の、奥手ぶりが伝わっている微笑ましいエピソードを、伝記作家のグリージンガーが伝えています。

あるときハイドンは、チェンバロの前に座って、歌が好きなモルツィン伯夫人の伴奏を務めていました。

美しい伯爵夫人は、ハイドンの上に身をかがめて楽譜を覗き込んでいましたが、ふと彼女の肩掛けが落ち、肌が露わになりました。

ハイドン自身は次のように述懐しています。

そういう眺めは私にとってはじめての経験だったから、すっかりあわててしまって、伴奏を途中でやめた。指が鍵盤の上で止まってしまったのだ。『どうしたの?ハイドン。何か具合の悪いことがあって?』と伯爵夫人が問いかけたのに対して、こう答えないわけにゆかなかった。『いいえ、奥様。けれども誰が取り乱さないでおれましょうか。』*1

若い青年のうぶさが伝わってきて、微笑ましい逸話です。

恋した女性は、尼寺に…

そんなハイドンも、ついに恋をしました。

副業で音楽教師もしていたハイドンの教え子に、ヨハン・ペーター・ケラーという、かつら師のふたりの娘がいました。

ハイドンは、美しい妹のテレーゼに密かな恋心を抱いていたのです。

しかし、奥手のハイドンが具体的なアクションに出れずにいる間に、信心深い両親は、この美しい妹を尼僧院に入れてしまいました。

手の届かないところに行ってしまった、愛しい人。

ハイドンは放心状態になります。

その気持ちに気づいたケラーは、テレーゼのマリア・アンナ・アロイジアを、ハイドンの妻に勧めます。

彼女はこのとき31歳で、ハイドンより3つ年上。

年はともかく、この姉は、容姿は妹のように優れておらず、性格にも大いに難ありで、両親はこのままでは売れ残ってしまうと考え、ハイドンに押し付けた、と言われています。

楽家の3大悪妻!

そして、ハイドンは1760年11月26日、28歳で彼女と結婚します。

これは、生涯最大の過ちでした。

楽家の3大悪妻、といわれるのは、モーツァルトの妻コンスタンツェチャイコフスキーの妻アントニーナ・ミリューコヴァ、そしてこのハイドン夫人なのです。

モーツァルトも、姉のアロイジアに失恋し、その妹のコンスタンツェと結婚したのですが、少なくともモーツァルト自身は妻を愛していました。

妻に対する説教じみた手紙は残っていますが、彼が妻のことを誰かに愚痴ったり悪口を言ったりした形跡はありません。

家計を浪費してモーツァルトを困窮に追いやった、また、葬式のときに妻でありながら埋葬にも立ち会わず、そのせいでどこに埋められたのかも分からなくなってしまった、などの話から、後世の人から悪妻と言われてしまっているのです。

コンスタンツェは、「音楽家3大悪妻」のみならず、さらにソクラテスの妻クサンティッペトルストイの妻ソフィア・アンドレエヴナと並べられて、「世界3大悪妻」にまで数えられてしまっていますから、相当に気の毒です。

モーツァルトが知ったら、絶対にかばい立てすることでしょう。

しかし、ハイドンの妻は、夫自身がずっと愚痴っているので、間違いなしです。

伝記作家のガイリンガーの評です。

ケラー一家が、ハイドンに対してどういう圧力をかけたのかは知らない。だが、不幸にして、彼らは成功した。この作曲家は、おそらく生涯の伴侶として選びうるもっとも不適当な相手を妻としたのであった。概してハイドンが、人間の性情について鋭い判断力をもっており、また他人との交渉に際しては練達と賢明とを発揮した多くの証拠から考えると、この極度の盲目と消極は、まったく理解しがたい。ハイドンは、結婚することの必要を感じていたのである。そして、ほんとうに必要だった人が近づきがたいところへ行ってしまった今となっては、結婚の相手自体は、彼にとって重要なこととは思われなかったのであった。マリア・アンナ・アロイジアは、彼より3つ年上で、美しくもなく、愉快な性質でもなく、また音楽に興味をもっていなかったが。彼は1760年11月26日に結婚式を挙げた。これは、破滅的な誤謬であった。おそらく彼が生涯で犯した唯一のあやまちであったに違いない。ハイドンは結婚に対して、快適で平和をもたらし、大好きだった子供を授かることなどの期待を寄せていた。こうした希望は、ひとつもかなえられなかった。マリア・アンナは、喧嘩好きで、嫉妬深く、偏屈な女であり、よきハウスキーパーでなかったばかりか、とくに彼女が浪費家であった点がハイドンは我慢ならなかった。

不幸な家庭生活が生み出したもの

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ハイドンの愛人ルイジア・ポルツェリ

ハイドンは、『彼女は、私が芸術家であろうと靴直しであろうと、いっこうに構わない女だ』とも述懐しています。

家にあったハイドンの自筆譜を、紙くず扱いして破いて野菜や菓子を包んだりしました。

オラトリオ『天地創造が大成功したときも、『評判がいいようだね。べつに私の知ったことじゃないけどさ。』と言ったと伝えられています。

妻が浪費するため、ハイドンが節約に励んでいると、「ケチ」と罵るしまつ。

ハイドンは、時には妻のことを「あの地獄のけだもの」とまで言っているのです。

マリア・アンナは、ハイドンが女弟子や歌手とふたりきりでレッスンしていることにも嫉妬し、口うるさく咎めました。

夫が自分の美しい妹に恋していた事実も、彼女を苛立たせていたかもしれません。

ハイドンは、耐えに耐えていましたが、結婚して20年経った47歳のとき、ついに20歳の若い既婚歌手、ルイジア・ポルツェリと不倫関係となりました。

ふたりは、お互いの配偶者が死んだら一緒になろう、と話していましたが、ルイジアの夫が亡くなったのはハイドンが60歳のとき。

ハイドンの妻が世を去ったのはさらに7年後ですから、ついにふたりが一緒になることはありませんでした。

ハイドンは伝記作家に、この不倫について、『私の妻は子供を産めなかったので、私は他の女性の魅力にふつうの人より無関心ではいられなかった。』と言い訳しています。

しかし、家庭で幸せを得られなかったため、仕事に打ち込み、芸術の道に邁進していった成果が、ハイドンの、気が遠くなるくらい大量の偉大なる作品群だとすれば、〝悪妻のおかげ〟なのかもしれません。

五女マリア・エリザベトの生涯

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マリア・エリザベト

さて、女帝マリア・テレジアの娘たちの生涯を引き続き追っていきます。

今回は、1743年に生まれた、五女マリア・エリザベト(1743-1808)です。

成年まで無事育った娘としては、3番目になります。

女帝の娘たちは、その人生で明暗を分けていますが、この皇女の運命はとても悲しいものでした。

彼女は、マリア・テレジアの娘の中で、最も容姿端麗、最高の美女と言われました。

女帝も、「艶やかな美人(eine Kokette der Schönheit)」と評して可愛がりました。

政略結婚の道具として、最高の価値を認めたのです。

ただ、才能は凡庸で、性格も気まぐれでした。

自分でも自らの容姿に惚れ込み、シェーンブルン宮殿大鏡で日がな一日、自分の姿を眺めてうっとりし、見飽きることはなかったといいます。

美貌の彼女には、数多くの貴公子たちが群がり、いささかノリの軽い彼女には恋の噂も絶えませんでした。

早くから彼女にはヨーロッパ王侯から結婚の申し込みがありましたが、マリア・テレジアは、そんじょそこらの王子は相手にせず、大物中の大物、フランス国王ルイ15世に白羽の矢を立てました。

プロイセン戦略の中で、フランス・ブルボン家との同盟は主軸でしたから、フランス王妃をハプスブルク家から出す、というのは悲願でした。

ルイ15世は、王妃マリー・レグザンスカを亡くしたばかりでしたが、このとき58歳。

孫とおじいちゃんくらいの歳の差でしたが、国家戦略の前では問題になりません。

しかし、王の愛妾(公妾)デュ・バリー夫人が、こんな若い美女に王妃になられては自分の身が危ういと猛反対し、この話はお流れになりました。

デュ・バリー夫人は今回は防御に成功したものの、後に、マリア・エリザベトの妹、マリア・アントニア(マリー・アントワネット王太子妃になるのは阻止できず、輿入れ後に彼女とメンツをかけたいさかいを起こすのは、『ベルサイユのばら』で有名な話です。

鏡を見て、茫然自失

さて、フランス王妃にまでなりかけたマリア・エリザベトを、思わぬ悲劇が襲います。

24歳のとき、天然痘に罹ってしまったのです。

命は助かりましたが、顔が醜いあばただらけとなってしまい、本人にとっては命より大事な美貌が失われてしまったのです。

彼女のショックは察するに余りあります。

まるで、美貌を自慢しすぎて罰を受けたギリシャ神話の登場人物のようです。

このため、王妃どころか、次女マリア・アンナと同じように、結婚すらあきらめなければならない境遇となりました。

1780年マリア・テレジア薨去すると、兄ヨーゼフ2世から宮廷からも追放され、母が亡き夫フランツ1世のために作ったインスブルック修道院に入り、修道院長となりました。

しかし、もともとわがままな性格が、さらにこの不幸でひねくれてしまったためか、きつい言葉で人を責めたてる怖い院長となってしまい、恐れられました。

庶民からは「こぶだらけのリースル」というあだ名をつけられましたが、これは年を取るにつれ、肥満によってあばたがどんどん大きくなってしまったことによると言われています。

〝かぐわしいバラのよう〟と讃えられた若い頃を思うに、なんという諸行無常でしょう。

歴史をひもとくとき、何ともいえない運命の残酷さに出遭うことになります。

前回の、幸せな生涯を送った姉、ミミとの違いに驚かされます。

初恋の人への別れのコンチェルト?

さて、今回はハイドンの若い頃の作品、オルガン・コンチェルトを取り上げます。

この曲の作曲年代は未確定ですが、ハイドンの作品の中でも最初期のものです。

後年の出版楽譜には「チェンバロ協奏曲」と書いてあり、ペダルのパートが無いためチェンバロでも演奏可能ですが、自筆譜には「オルガン協奏曲」と明記されており、音域やパッセージもオルガンを想定しています。

自筆譜にはクラリーノ(トランペット)の欄がありますが、音符が書かれていません。

時間がなく、別なパート譜が書かれていたかもしれず、初演ではクラリーノティンパニが加わって、賑々しく演奏されていた可能性が高いと言われています。

今回取り上げる演奏では、そのパートが復元されています。

密かに愛したテレーゼの修道院入りに際し、涙をこらえてその修道誓願の祝典用に書いた、という説もあります。

永遠に手の届かないところに行ってしまう彼女に、精一杯の音楽を捧げたとすれば、この華やかな調べもひときわ味わい深く感じます。

ハイドン:オルガン協奏曲 ハ長調

Joseph Haydn:Organ Concerto in C major, Hob. Ⅷ : 8

演奏:クリストファー・ホグウッド(指揮とチェンバー・オルガン)、アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック

第1楽章 モデラー

華やかで雄大な楽想で、とても初期の作品とは思えません。オルガンということは、教会で演奏されたのは間違いありませんが、宗教的な厳粛さは一切なく、祝祭気分にあふれています。書法には、師匠ロイターやヴァーゲンザイルの影響があるとされ、バロック時代の名残も感じられます。展開部では、シンフォニーに見られるような画期的な転調が見られ、イ短調からト短調に揺らいでいきます。華やかさから一転、オルガンの神秘的な音色に引き込まれていきます。再現部でも転調に工夫があり、オルガンは縦横無尽、天空を舞います。ここまでの装飾的なコンチェルトは後年の曲でも見られないのです。オルガンのカデンツァはありません。

第2楽章 ラルゴ

落ち着いた昼下がりのような、アンニュイな雰囲気もまとった緩徐楽章です。ひとしきりの弦のあと、オルガンが第1主題をト長調で歌い、やがてニ長調で第2主題を奏で、語り継いでいきます。

第3楽章 アレグロモルト

ロンドのように跳ねるテーマが、トゥッティとオルガンでかわりばんこに歌われます。オルガンの名人芸が際立ちます。オルガンは、春の草原をゆくように陽気にウキウキと奏でていきますが、時々見せる陰にハッとさせられます。

私も若い頃から愛してやまない1曲です。

 

今回もお読みいただき、ありがとうございました。

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*1:大宮真琴『新版ハイドン音楽之友社