運命の、国王裁判
1792年末から、国民公会では、元国王、ルイ16世の処遇についての議論が戦わされていました。
国民公会は間接選挙ながら男子の普通選挙で選ばれた議員で構成され、立法機関であるとともに、諸委員会には執行権もあり、行政機関でもありました。
この、三権分立になっていない体制が、権力の集中を生み出し、恐怖政治を可能にしたのです。
議会は、国王を擁護する王党派とフイヤン派、裁判に慎重なジロンド派、処刑を求める山岳派(ジャコバン派)に分かれていましたが、若いジャコバン派の活動家、サン・ジュストが『国王であること自体が罪なのだ』と演説すると、大勢は国王有罪に傾いてゆきます。
1793年1月15日より、「市民ルイ・カペー」の処遇についての投票がはじまります。
1回目の投票は「有罪であるか否か」で、定数749の議員のうち、賛成693、反対28(欠席23・棄権5)で、結果は有罪となりました。
議員はひとりひとり檀上で意見を表明せねばならず、へたに国王の肩を持つと、群衆に虐殺されかねない状況での投票でした。
穏便に済ませたいジロンド派が、「王の処遇は重大なので人民投票にかけるべき」と主張すると、第2回投票として「ルイに対する判決は人民投票によって批准されるべきか否か」が問われました。
これは賛成292、反対423(欠席29、棄権5)で否決。
ジロンド派の作戦は敗れました。
そして第3回投票。
「ルイは如何なる刑を科されるべきか」という刑罰を決める投票になりました。
これは賛否ではなく、意見を言うことになります。
結果、「無条件の死刑」が387名、「執行猶予付き死刑」が46名、「禁錮刑かつ追放刑」が 286名、「鉄鎖刑」が2名となり、死刑が確定。
王位を狙い、パレ・ロワイヤルを拠点に陰から革命を扇動してきた、自称〝平等公(フィリップ・エガルテ)〟オルレアン公フィリップも死刑に賛成します。
しかし彼も王にはなれず、恐怖政治の中でギロチンの露と消えますが。
「無条件の死刑」の中に、「マイユ条項つき死刑」が26名いて、これを執行猶予つき死刑に加算し、361対360の1票差でルイ16世の死刑が決まった、とされることがありますが、マイユ条項というのは、マイユ議員が「死刑賛成が最多数を占めた場合には死刑を延期すべきかを国民公会で改めて討議する」と条件をつけたもので、執行猶予とは異なります。
そのため、53票差で決まった、というのが実態です。
第4回投票で、死刑延期の賛否が投票されましたが、これも賛成310、反対380(欠席46・殺害1・棄権12)で、70票差で否決。
元国王の「市民ルイ」は、即時に死刑になることが決まってしまいました。
家族との別れ
第4回投票が終わったのが1月19日。
死刑執行は1月21日と決まりました。
タンプル塔内で、すでに家族と部屋を引き離されていたルイ16世は、前日1月20日に判決を聞きます。
役人たちは、部屋で家族と最後の別れをさせますが、その場に立ち会った者はおらず、想像画があるのみです。
ただ、叫び声や大きな泣き声は聞こえなかったといいます。
ルイ16世は、持ち前の鈍感力を発揮したのか、それとも王としての威厳を示したのか、家族の前でうろたえることはなく、しっかりと別れを告げたのだと想像できます。
夜10時に王は席を立ち、「また明日来る」と告げて去ったといわれていますが、それは家族への気遣いに違いありません。
王者にふさわしい最後
1793年1月21日、ルイ16世は朝にタンプル塔を出て、革命広場(今のコンコルド広場)に連れてこられます。
そこに聳えるのは、悪名高い断頭台、ギロチン。
しかしこれは、受刑者に苦痛を与えない、「人道的な刑具」として発明されました。
それまでの「斬首刑」は斧で行われましたが、人間の首は固い骨があるので、うまく骨の間を切らないと、簡単に首は落ちません。
英国のモンマス公などは、腕の悪い処刑人に当たってしまい、数時間も断末魔で苦しむ羽目になりました。
鍛冶仕事に通じていたルイ16世は、ギロチンの刃を斜めにした方がスムーズに切れる、と意見したといわれていますが、これには異説もあります。
いずれにしても、フランスでは、絞首刑よりも苦痛が少ないとされ、1981年9月の死刑廃止までギロチンが使われたのです。
死刑執行人は、名高いシャルル=アンリ・サンソン。
サンソン家は代々パリの死刑執行人を務め、恐れを込めて「ムッシュ・ド・パリ」と呼ばれていました。
人々からは敬遠されていましたが、人間の体の構造については医師以上に通じており、医療行為も行って、貴族並みの裕福さでした。
ギロチンが導入されてから、斬首に特別な技術は不要となりましたが、法的に死刑には「ムッシュ・ド・パリ」と立ち会いが義務付けられており、シャルル=アンリ・サンソンは、この後に続く恐怖政治の間も執行人を務め、生涯で2700余名を処刑したといわれています。
苦痛が少ないからか、受刑者はギロチンを前にしても取り乱すことは少なかったといいます。
例外が、ルイ15世の公妾で、マリー・アントワネットと対立したデュ・バリー夫人で、彼女は大声で泣き喚き、命乞いをしたので、観衆たちも憐れに思ったといいます。
サンソンは、娼婦をしていた夫人と若い頃関係もありましたが、処刑後の日誌に『みんなデュ・バリー夫人のように泣き叫び命乞いをすればよかったのだ。そうすれば、人々も事の重大さに気付き、恐怖政治も早く終わっていたのではないだろうか。』と記しています。
さて、ルイ16世の最後は、王者にふさわしく、立派なものでした。
「三銃士」を書いたアレクサンドル・デュマは、当時まだ生まれていませんでしたが、人から聞いた処刑の様子を次のように書き残しています。
朝、二重の人垣を作る通りの中を国王を乗せた馬車が進んだ。革命広場を2万人の群集が埋めたが、声を発する者はなかった。10時に王は断頭台の下にたどり着いた。王は自ら上衣を脱ぎ、手を縛られた後、ゆっくり階段を上った。王は群集の方に振り向き叫んだ。「人民よ、私は無実のうちに死ぬ」。太鼓の音がその声を閉ざす。王は傍らの人々にこう言った。
「私は無実のうちに死ぬ。私は私の死を作り出した者を許す。私の血が二度とフランスに落ちることのないように神に祈りたい」という、フランスへの思いが込められた一言だった。しかし、その言葉を聞いてもなお、涙するものはなかった。
彼は凡庸な王のレッテルを貼られていますが、死を前にして、こんな悲劇は自分で終わりにしてほしい、というメッセージを堂々と述べるなど、凡人にできることではありません。
フランスはついに「国王殺し」の国となりました。
しかし、王様を殺しても、平和で豊かな暮らしはやってこなかったのです。
元王妃マリー・アントワネットは、市民ルイ・カペーの未亡人となり、さらにタンプル塔での暮らしを続けることになります。
前回に続き、王家に仕え、革命を乗り越えた音楽家の音楽を聴きましょう。
王妃マリー・アントワネットのクラヴサン教師を務めた、クロード=ベニーニュ・バルバトル(1724-1799)です。
大ラモーと同じディジョンで、オルガニストの息子として生まれました。
その縁もあって、ラモーの後援で1750年にパリに出ます。
1755年には公開演奏会コンセール・スピリテュエルにデビュー。
高評価を得て1760年にはノートルダム寺院のオルガニストに任命されます。
彼がクリスマスに弾くノエル(クリスマス音楽)は大評判となり、聴衆が押しかけたといいます。
1776年にはルイ16世の弟プロヴァンス伯(後のルイ18世)付きのオルガニストに任命、さらに王妃マリー・アントワネットにもクラヴサンの手ほどきを行い、宮廷で大いに出世しました。
革命とともに地位を失いましたが、ラ・マルセイエーズ、サ・イラなどの革命歌を編曲して革命におもねり、災難に遭うことはありませんでした。
しかし、貧窮のうちに1799年に74歳で没します。
今回聴くのは、1759年に出版したクラヴサン組曲です。
「第1集」と題されていますので、続編も出すつもりだったと思われますが、第1集だけで終わってしまいました。
弟子であったカーズ夫人に献呈され、楽譜には次のような献辞が捧げられています。
マダム、私は貴女に娯楽のため、そして日頃の感謝の気持ちを表すため、このクラヴサン曲集を捧げます。しかしわたしが貴女にこの曲集を贈り敬意を示したとしても、貴女からいただいている恩恵には到底及びません。わたしにできることは、貴女に心からの尊敬の意を示すことだけです。
全17曲が所収されており、ひとつひとつ題名がついているのも、先輩クープランやラモーの影響と考えられます。
しかし、抽象的な題ではなく、作品を献呈した実在の人物の名前になっているのです。
それだけ、たくさんの顧客がいて、彼が大人気であったことをうかがわせます。
それぞれの人々の、音楽による肖像画(ポルトレ)、という説もありますが、これは確証はありません。
音楽は時に優しく、時にダイナミックでありつつも、独特のメランコリーをはらんでおり、今を時めく王侯貴族たちの、その先の悲しい運命を予告しているように感じられてなりません。
マリー・アントワネットも、王妃時代、師匠のこの組曲を、練習曲として弾いたはずです。
彼女がタンプル塔の中でしみじみと述懐した、過ぎ去りし遠い日々の幻影といえましょうか。
Claude-Bénigne Balbastre:Pieces de Clavecin Premier Livre
演奏:クリストフ・ルセ(クラヴサン)【2017年録音】
第1曲 ラ・ド・カーズ
La De Caze. Ouverture 序曲:誇りをもって、ひとつひとつの音をはっきりと、生き生きと
ハ短調、2/4拍子
曲集の献呈者であるカーズ夫人こと、シュザンヌ・フェリックス・レカルモティエに捧げられた曲です。その夫であるアンヌ・ロベール・ド・カーズは、楽譜や本の収集に莫大なお金を費やす人だったそうです。序曲と題され、第8曲の「ラ・ベロー」までC調になっており、第9曲「ラ・ラマルク」も序曲とされていますから、第8曲までが前半のまとまりとなっています。今回はその前半を聴いていきます。同じ系統の調でまとめるのはこの時代の組曲の伝統的なスタイルでした。
国王が劇場に入場するときの音楽、フランス風序曲の付点リズムで重々しく始まり、献呈者へのオマージュとなっています。音階の華やかさがヴェルサイユ宮殿のバロック様式を思わせます。曲が進むと、Fort(力強く)やMoelleux(柔らかく)という表情豊かな指示がでてきて、二段の鍵盤を交互に使ってピアノとフォルテが対比されます。
第2曲 ラ・デリクール
La D’Héricourt 高貴に、遅くはなく ハ短調 2/4拍子
大会議議員だったエリクールという人物に捧げられました。この曲集でも白眉の美しい曲です。ルフランという主部を、クープレと呼ばれる楽想を挟んで数回繰り返す、いわばロンド形式です。低音部が特徴的で、高貴な中に陰鬱さも秘めています。
バルバトルはクラヴサンにこだわり、当時出回り始めたピアノフォルテの製作者、パスカル・タスカンに向かって、「この新人(ピアノフォルテ)は荘厳なクラヴサンに取って代わることは絶対にない!」と断言したということですが、クラヴサンの強弱二段の鍵盤を使って効果を上げているバルバトルの作品は、ピアノでも素晴らしく響きます。
次の演奏は、往年の名奏者、ロベール・ヴェイロン=ラクロワが、まさにパスカル・タスカンが1788年にパリで製作したピアノフォルテを弾いたものです。高音部がまるでクラヴサンのように響き、ちょうど両者の中間のような不思議な響きです。バルバトルが、この不完全な響きの楽器が、いずれフル・オーケストラに匹敵する音域と音量、表現力を持つ楽器に成長するとは、見抜けなかったとしても無理はありません。
動画はエルンスト・ストルツの演奏です。
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第3曲 ラ・セギュール
La Ségur. Gavotte ガヴォット:優雅に~第2ガヴォット ハ短調 2/2拍子
セギュール侯爵フィリップ・アンリの妻、ルイズ・アンヌ・マドレーヌ・ヴェルノンに捧げられた曲です。彼女は西インドのフランス植民地ハイチの支配層の生まれで、教養深く、知的で優雅な女性だったそうです。パリの貴婦人と一味違い、明るく大らかであったことが曲想から伝わってきます。
第4曲 ラ・モンマルテル あるいは ラ・ブリュノワ
La Monmartel ou la Brunoy アレグロ:ハ長調 12/8拍子
ふたつの名が記されているのは献呈者が複合姓であるためで、ジャン・パリ・ド・モンマルテルの息子、ブリュノワ侯爵です。彼は変わった趣味の持ち主で、宗教儀式や葬儀に莫大な財産を浪費したということです。アレグロという表記のとおり、イタリア式ソナタです。軽快な明るい曲です。
第5曲 ラ・ブロンニュ
La Boullongne (Rondeau) 誇りをもって、ひとつひとつの音をはっきりと ハ短調 2/4拍子
パリ王立絵画彫刻アカデミーの准教授、ジャン・ニコラ・ブロンニュに献呈されました。その息子はヴァイオリニストで作曲家でした。短調と長調のふたつのロンドーからなる曲です。第1ロンドーは重厚な低音が響き、ブロンニュ教授の権威を示します。第2ロンドーの中間部はクラヴサンの音色を変えるバフ・ストップを使って上下鍵盤をユニゾンで響かせます。当時ヨーロッパ各地を旅し、音楽評論を書いていた英国の音楽学者チャールズ・バーニー博士は、バルバトルの家を訪問した際、『そこには見事なルッカースのクラヴサンがあった。この楽器の音色は、力強いと言うよりはむしろ繊細である。ユニゾンのひとつはバフ・ストップで得られるが、大変甘い音色で好ましい。』とそのテクニックを絶賛しています。
動画はマルコ・メンコボーニの演奏です。中間部でバフ・ストップを操作し、音色を変えて上下ふたつの鍵盤で同時にユニゾンを弾く効果が、動画だとよく分かります。
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第6曲 ラ・カステルモール
La Castelmore. Air Champêtre 田園風エール:ルレ~優雅な第2エール ハ長調 2/4拍子
オーストリア継承戦争の際、ルイ15世が自ら出陣して辛くも英国軍に勝利したフォントノアの戦いに若くして従軍し、戦功を立てたカステルモール子爵に献呈された曲です。フランス音楽の華というべき田園音楽、ミュゼットの響きを左手の持続低音が表します。この曲の中間部もバフ・ストップで2つのエールが見事に対比されます。
第7曲 ラ・クルテイユ
La Courteille. Air エール、第2エール ハ長調 3/4拍子
クルテイユ侯爵ジャック・ドミニク・ド・バルブリー、もしくはその妻、侯爵夫人マリー・マドレーヌ・フィオに献呈された曲。短調のエールと長調のエールが組み合わされます。逡巡するような音の動きが、無邪気な子供の遊びを思わせます。
第8曲 ラ・ベロー
La Bellaud 活気をもって ハ長調 2/4拍子
前半の締めくくりとなるフィナーレ曲です。クラヴサン製作家であり。王立音楽アカデミーの調律師、ルイ=シャルル・ベローに献呈されました。イタリア風の難しい技巧を尽くした曲で、左手はアルベルティ・バスと呼ばれる軽快な分散和音で伴奏し、途中で伴奏を華麗に右手に変えるという技巧が使われ、賑々しく幕を閉じます。
次回は後半を聴きます。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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