これまで、いわゆるバロック音楽のヴィヴァルディを聴いてきましたが、前項【エンターテインメントとしてのクラシック】で触れた、モーツァルトのパリ・シンフォニーについて書きたいと思います。
ヴィヴァルディは1678生まれの1741年死去。1756年生まれの1791年死去ですから生涯はカブっていませんが、同じ18世紀に活躍した音楽家ということになります。
この項では18世紀の音楽を中心に聴いていきますが、気分次第でかなり飛びますのでお許しください…。
お嫁さんにしてあげる
モーツァルトはオーストリアのザルツブルクで宮廷音楽家の子として生まれました。
5歳で作曲を始め、楽器の演奏も神。まさに神童ということで、ステージパパのはしりである父レオポルトに連れられ、ヨーロッパ各地を旅して王侯貴族の前で演奏し、喝采を浴びました。
ウィーンのシェーンブルン宮殿で演奏の際、転び、助け起こしてくれた王女マリー・アントワネットに『将来お嫁さんにしてあげる』と言ったというのは有名なエピソードです。
しかし、現代の子役タレントに時々見られる悲劇のように、成長すると神童としての価値が薄れ、なかなか良い仕事に就けません。
ザルツブルクは大司教の治めるカトリックの宗教都市であり、父と一緒に大司教の宮殿で宮廷音楽家として雇われましたが、宮廷でのBGMやミサ、その他のイベント用音楽の作曲と演奏ということで、かつてヨーロッパ全土を熱狂させたモーツァルトとしては、田舎領主の召使いのような仕事に満足できませんでした。
就活の旅
せめて、もっと大きい宮廷での職につきたいということで、就活のため父子ともにザルツブルク大司教に休暇を願い出ましたが、もちろん、転職活動のための休暇など、今の企業でももらえないのと同様、許されません。
やむなく辞職を願い出たのですが、父は許されず、やむなく母と一緒に西に向かって求職の旅に出ることになりました。
時に1777年、モーツァルト21歳。まさに新卒の就活と同じような年代です。
まず、ミュンヘンでバイエルン選帝侯宮廷にエントリー。
しかし、あっさり“お祈り”されてしまいます。
次に向かったのはマンハイムのプファルツ選帝侯宮廷。ここの君主、カール・テオドールは芸術をこよなく愛し、そのオーケストラ水準は天下に鳴り響いていました。
ザルツブルクのオーケストラは少人数で、管楽器はオーボエ、ホルン、派手な曲でトランペット、という編成でしたが、ここでは、フルートにクラリネットという最先端の楽器がありました。
モーツァルトはその効果に興奮して、父に手紙で報告しています。
練習も徹底され、大人数にもかかわらず一糸乱れぬ揃った動きを見せるそのオーケストラは“将軍たちで編成された軍隊”という評判で、弱音のピアノから大音量まで上り詰めるクレッシェンドは、特に“マンハイム・クレッシェンド”ともてはやされていました。モーツァルトは、すっかりその素晴らしさに魅了され、自分の音楽もその影響を大きく受けたのです。
マンハイムでは、アロイジア・ウェーバーという若い歌手と出会い、その才能にすっかり魅了されて片思いの恋に落ちるのですが、この恋は結局実ることはなかったのです。
さて、音楽の先進地マンハイムでの4か月半に及ぶ滞在は、とても有意義で貴重な経験となりましたが、就活はまた失敗に終わりました。
そしてドイツ圏を出て、大国フランスに向かうことになります。
パリへ
当時パリは、言うまでもなくヨーロッパ随一の大都会であり、ここでは国王宮廷の仕事だけではなく、たくさんの“聴衆”がいて、それを目当てにした公開演奏会、すなわち「コンサート」というビジネス形態が存在していました。
当時の音楽家の生活の道は、まずは何といっても宮廷や教会の公職に就くこと、王侯貴族のパトロンを得ることですが、そのためには名声を獲得しなければなりません。
それには当時最高の娯楽、オペラの作曲が近道なのですが、そのチャンスはパリでは得られませんでした。
その代わり、『コンセール・スピリチュエル』という公開演奏会があり、そこの依頼で作曲、演奏したのが、『パリ・シンフォニー』なのです。
曲のご紹介は次回にします。
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