
『ゴールトベルク変奏曲』初版の表紙
前回に引き続き、今回はゴールトベルク変奏曲の中身をご紹介したいと思います。
冒頭、今度はグレン・グールドの金字塔、衝撃のデビュー作の旧録を掲げておきます。
1955年の録音ですが、リマスター技術もあり、60年以上前の衝撃が今もフレッシュに伝わってきます。新録よりも全体のテンポが速いのが特徴です。(新録は旧録よりテンポが遅い、と言い方が正確ですが)
バッハ『ゴールトベルク変奏曲 BWV988』
The Goldberg Variations BWV988
演奏:グレン・グールド(ピアノ) Glenn Gould 1955年録音
バッハの数ある曲の中でも、特に不滅の名曲と讃えられる『ゴールトベルク変奏曲』の成り立ちには、有名な逸話があります。
ドレスデン駐在のロシア大使、ヘルマン・カール・フォン・カイザーリンク伯爵(1696-1764)は、大の音楽好きで、ヨハン・ゴットリーブ・テオフィルス・ゴールトベルク(1727-1756)という10歳の天才クラヴィーア奏者を召し抱え、常にそばに置いて演奏させていました。
〝クラヴィーア〟はドイツで鍵盤楽器を総称する言葉で、チェンバロ時代は主にチェンバロを、ピアノ時代は主にピアノを指しますが、厳密には分けられません。
伯爵は不眠症気味で、眠れない夜には隣室でゴールトベルクにチェンバロを演奏させたといいます。
TVもラジオもCDもスマホもない時代ですから、夜はシーンとしていたことでしょう。TVつけっぱなしでないと眠れない、という人もいますから、気持ちは分かります。
カイザーリンク伯爵は、ドレスデンで客演したバッハのオルガン演奏を聴いてすっかり大ファンになってしまい、バッハに眠れない夜のための、特別な曲の作曲を依頼します。
その注文内容は、『穏やかでいくらか快活な性格をもち、眠れぬ夜に気分が晴れるようなクラヴィーア曲』でした。
バッハがそれに応えて書いたのが、この曲です。
出来上がったのは、眠れるどころか、かえって興奮して目が覚めるんじゃないかと思われるような、壮大で充実した大作でしたが、伯爵はこの曲に満足し、バッハに〝ルイ金貨が100枚つまった金杯〟を贈り、この曲を〝私の変奏曲〟と呼んで終生愛したということです。
このエピソードは、フォルケルという伝記作家が、半ばうっとりした調子で伝えているのですが、マユツバ、とする研究者も多いです。
それは、当時ようやく14歳だったゴールトベルクが演奏できるとは思えない難曲だということと、バッハがこの曲を『クラヴィーア練習曲集 第4部』として出版した際、伯爵について全く言及していない、ことなどからです。
もしかすると、依頼に基づいたものではなくて、バッハが先に作曲して、伯爵に献呈した、ということかもしれません。
しかし、フォルケルはバッハの子供たちにも取材していますし、この曲の他の記述には信憑性が高いものもあるので、多少話は盛ったとしても、ある程度の史実は反映しているでしょう。
14歳にはとてもこれは弾けないだろう、というのも、逆に根拠はありません。音楽界には早熟の天才はしばしば現れますから。
数学的な構成
さて、曲の中身ですが、バッハはなぜか『変奏曲』というジャンルをあまり書いていません。この曲のほかには2曲ほどしかありません。
また、この曲を聴くと、〝どこが変奏曲なの?〟と思います。
ヘンデルの『調子の良い鍛冶屋』や、モーツァルトの『きらきら星変奏曲』のように、メインテーマが明確に聞こえてこず、分かりづらいのです。
それは、テーマが低音の基本線であり、各変奏は、そのテーマをさらに自由に低音で再現させているからです。
しかし、曲の構成は、バッハらしく、かなり計算された、しっかりしたものです。
1曲目にメインテーマを示した『アリア』があり、これをダ・カーポといって、最後にもう一度持ってきています。
そして、その間に、第1変奏から第30変奏まで、30曲展開させています。(つまり、計32曲、ということになります)
その性格はそれぞれに変幻自在なのですが、3曲ごとにカノン(輪唱のようなもの)が置かれていて(つまり3の倍数の曲はカノン)、しかも、カノンの音程が1曲目は1度(ユニゾン)、2曲目は2度、3曲目は3度、というように増えていって、最後の第27変奏は9度のものになるのです。
また、第16変奏がフランス風序曲になっていて、ここで大きく前編と後編に分かれています。
この曲はもちろんピアノが普及する前のものですので、2段鍵盤の大型チェンバロが指定されていて、曲ごとに、原則第1鍵盤と第2鍵盤のどちらを使うか指定されています。
チェンバロは鍵盤を強く叩いても弱く叩いても出る音は同じなので、鍵盤を分け、音色と音量に変化を出しているのですが、第2鍵盤の方が強めになっていて、後編では第2鍵盤の使用が多くなっています。
そのため、楽譜に忠実に弾くのはピアノでは不可能ということになりますが、ピアニストたちはそれぞれに工夫をして弾いています。各変奏にはほとんど速度指定もないので、演奏者の解釈のしどころでもあります。グールドの旧録は、その速さに皆度肝を抜かれました。
チェンバロでの演奏、ピアノでの演奏、それぞれに趣きと良さがありますので、その聴き比べも楽しみなのです。
この曲は、正式には『2段の手鍵盤をもつチェンバロのためのアリアとさまざまな変奏』と記されています。
以下には、バッハのオリジナルの響きに近い、チェンバロでの演奏を掲げます。ぜひ、グールドのピアノと聴き比べてください。
バッハ『ゴールトベルク変奏曲 BWV988』
The Goldberg Variations BWV988
演奏:トレヴァー・ピノック(チェンバロ) Trevor Pinnock
アリア
舞曲のサラバンド風の、静かで含蓄深い味わいの曲です。これから始まる壮大なドラマの序章であり、眠れない人を優しく慰めているかのようです。
第1変奏
わくわくするような2声のプレリュードです。グールドの新録では、最初の音がすごいフォルテで、いきなり目が覚めます。(笑)第4変奏までは第1鍵盤使用です。
第2変奏
少し落ち着いた感じです。3声で進んでいきます。
第3変奏
カノンの1曲目。ユニゾン(同音)です。バスの基本線が分かりやすいです。
第4変奏
背筋が伸びるような高らかな歌です。グールドの新録では彼の鼻歌も一段と高く聞こえます。
第5変奏
1段または2段鍵盤で演奏される、軽やかに走るような曲想です。
第6変奏
1段鍵盤用の2度のカノンで、小川のせせらぎのように流れていきます。
第7変奏
落ち着いたシシリア―ノのリズムで、優しく心に響いてきます。やや憂いを含んだところも印象的です。1段または2段鍵盤用です。
第8変奏
また、走り出します。2段鍵盤用で、ピアノで弾くのは難しい曲です。
第9変奏
1段鍵盤で弾く、3度のカノン。風に吹かれるような爽快な曲調です。
第10変奏
1段鍵盤による、一度聴いたら忘れられない、つい口ずさんでしまうような4声のフーガです。1段鍵盤用。
第11変奏
2段鍵盤のための、光が静かにきらめくような、美しい曲です。
第12変奏
強い調子の、4度の転回カノンです。
第13変奏
2段鍵盤によりますが、繊細な感じの、優しく撫でるような曲です。
第14変奏
2段鍵盤による毅然とした曲。はるか高みから流れ落ちる音階の部分では、新録ではグールドの大きなハミングが聞こえます。
第15変奏
1段鍵盤による5度のカノン。この曲だけ、速度がアンダンテに指定されています。深夜の憂愁を示すような深い音楽です。
第16変奏
全曲の憂愁を吹き飛ばすような、高貴で雄大な序曲です。緩→急のフランス風序曲で、後編の始まりを告げます。変奏とは関係ないように思えますが、緩、急両方の部分で、ちゃんと低音の基本線は維持されているのです。
フランス風序曲についてはこちら。
www.classic-suganne.com
第17変奏
2段鍵盤用の、2声の流麗な曲です。
第18変奏
1段鍵盤用の6度のカノン。全体に落ち着いた調子です。
第19変奏
1段鍵盤用。無邪気で可愛い雰囲気の、ダンス風音楽です。
第20変奏
2段鍵盤用の複雑で華麗な曲です。ピアノで弾くには相当なテクニックが必要な難曲です。
第21変奏
半音階的な悲壮さも感じる7度の重々しいカノン。
第22変奏
フーガ風のバッハらしい、充実した曲。
第23変奏
2段鍵盤用で、音階が華やかに上下する、めくるめくような色彩の曲です。
第24変奏
1段鍵盤用の8度のカノン。軽やかにスキップするようなカノンです。
第25変奏
悲しげな短調の深い曲です。めずらしくアダージョの速度指定があります。2段鍵盤用。
第26変奏
気を取り直すように、毅然として立ち向かうような曲想です。
第27変奏
2段鍵盤用の、9度の最後のカノンです。前曲と同じように背筋を伸ばしたような調子です。
第28変奏
玉を転がすようなトリルが印象的な、2段鍵盤用の曲です。現代的な響きを感じます。
第29変奏
1段または2段鍵盤用で、大変テクニカルで輝かしい曲です。こんな曲を聞いたら、とても眠ってはいられません。
第30変奏
1段鍵盤で演奏される、〝クォドリベット〟という特別な曲です。ふたつの民謡のメロディを同時に歌って一つの曲にするもので、バッハ一族が集まったときなどに、宴会での余興として皆で歌ったそうです。バッハはここで、低音の基本線を前面に出しながら、ふたつの民謡を乗せるという離れ業をやっています。ふたつの民謡とは、イタリア民謡の『キャベツにカブが、俺を追い出した。母さんが肉を料理してくれれば家出しなくてすんだのに。』と、ドイツ民謡の『長い間ご無沙汰だったな、さあさあ、おいで。』です。
冒頭のアリアの繰り返しですが、同じ曲なのに、祭のあとのような、充実感と寂しさと心地よい脱力感が感じられるのが不思議です。
眠れないときはもちろんのこと、生活のどんな場面で聞いても、悩みを忘れさせ、元気をくれる、かけがえのない曲です。
チェンバロの味わいも大好きなのですが、バッハ×グレン・グールドの最強タッグは、どれだけの人々を感動させてきたことでしょうか。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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