定年退職、そして第2の人生
ハイドンのシンフォニーの最高傑作群、『ザロモン・セット(ロンドン・セット)』を聴いていきます。
ハイドンはハンガリーのエステルハージ侯爵家に30年もの間勤勉に仕え、主君ニコラウス侯とは『生死をともにしたい』というほどの信頼関係を築きました。
バッハにたくさんの素晴らしい器楽曲を生み出させた、ケーテンのレオポルト公との関係に似ています。
王侯貴族は人民を搾取する存在ではありましたが、芸術の理解者、保護者として文化史上大きな役割を果たした人物は枚挙に暇ありません。ニコラウス・エステルハージ侯爵も間違いなくその一人です。
しかし、ついに別れの時がやってきました。
1790年9月28日、ニコラウス侯は72歳の生涯を閉じたのです。
後を継いだアントン侯には、音楽の趣味が全くなく、高名なエステルハージ楽団を解散させてしまいました。
ハイドンには、ニコラウス侯から1000グルデンの年金を遺贈されていましたが、アントン侯はさらにこれに400グルデンを加え、〝名誉楽長〟として実際の職務から解きました。
これは、ハイドンにとって決して悪い話ではありませんでした。
ハイドン、58歳。ちょうど日本企業でも定年にあたる年頃です。定年退職し、これまでの束縛から解放され、第2の人生を歩む機会を与えられたのです。
ハイドンの名声は全ヨーロッパに轟いており、君主の飼い殺しから離れ、自由な活動をするには絶好の機会でした。しかも十分な退職年金を得て。
ハイドンは大器晩成型の天才でした。彼がモーツァルトと同じ36歳で世を去っていたら、歴史に名は残らなかったはずです。
今も広く親しまれているハイドンの名曲の数々は、これからの〝第2の人生〟で生み出されたのです。40代も後半の私にとっても、まだまだこれから、と勇気づけられる話です。私にはそんな才能はないものの。
再雇用のオファー
『ハイドンがフリーになった』というニュースはまたたく間に知れわたり、ウィーンに居を移したハイドンのもとにさっそく2つのオファーが来ました。
ひとり目は、エステルハージ家の縁戚であったプレスブルクのグラッサルコヴィッツ伯爵。しかし、再びサラリーマン生活に戻るつもりはなかったので、これを辞退しました。
ふたり目は、以前から親交のあったナポリ王のフェルディナンド4世。この王様からは過去にも招きがあり、ハイドンも音楽の本場イタリアに行きたいという思いはあったのですが、オペラよりもシンフォニーを作りたかったハイドンは、これも熟慮の末辞退しました。
最終的にハイドンが応じたのは、英国からの招きでした。
やり手の興行主、ザロモン
招いたのは、ヨハン・ペーター・ザロモン(1745-1815)というヴァイオリニスト。ベートーヴェンの生まれた町、ボンの出身で、まさにベートーヴェンと同じ家に住んでいたこともありました。ずっと後にザロモンが亡くなったとき、ベートーヴェンは『ザロモンの死は私をひどく悲しませた。なぜなら彼は、私が子供のころから知っている人のうちで最も偉大な心の持ち主だったからだ。』と嘆きました。
あの皮肉屋のベートーヴェンにここまで言わせるのですから、すごい人物だったのでしょう。
ザロモンはヴァイオリニストとしてドイツ各地で活躍、パリで名を上げ、ロンドンに移って自らコンサートを主催する興行主になっていました。
産業革命発祥の地ロンドンにはヨーロッパ最先端の市民社会が生まれ、たくさんの〝聴衆〟がいました。ヘンデルが後半生は王侯貴族に仕えることなく、市民がメインの聴衆相手にオペラやオラトリオで大成功したのは前述しました。
ザロモンは最初、そうした聴衆相手に興行を行う『プロフェッショナル・コンサート』という団体の設立に関わりましたが、内部の意見対立から、ハノーヴァー・スクエアで独自のコンサートを主催し、ハイドンやモーツァルトのシンフォニーを紹介していたのです。
その人気に手ごたえを感じていたザロモンは、ライバルのコンサートに差をつけるためにもハイドンをロンドンにかねがね招きたいと考えていましたが、イタリアに歌手との契約に行った帰り、ドイツのケルンでニコラウス侯の訃報を知り、チャンス到来とウィーンに駆けつけ、ハイドンとの契約に成功したのです。
まさに現代のビジネスマン顔負けの早業でした。
ザロモンがハイドンをロンドンに招くにあたって提示した条件も破格のものでした。
新作のオペラ1曲に300ポンド、12曲のシンフォニーに1曲300ポンドの作曲料、その版権に200ポンド、シンフォニー以外の作品20曲に200ポンド、ハイドンの出演料として1回120ポンド、そのほか慈善コンサートの出演料200ポンドと伝えられています。
ハイドンの心を動かしたのは金だけではなかったでしょうが、1回ロンドンに行くだけでひと財産築ける条件だったのです。
とはいえ、エステルハーザとウィーンしか往復したことのなかったハイドンにとって、ドーバー海峡を渡るなどは生涯初めての大旅行でした。
ウィーンの友人たちには止められ、とくにモーツァルトは大反対しましたが、そのあたりのエピソードはまたの機会に紹介するとして、ザロモンのために作曲した『第1期ザロモン・セット』の1曲目、第93番から聴きましょう。
通し番号は作曲順や初演順ではなく、出版されたときの番号で、この曲は作曲・初演は3番目になります。
F.J.Haydn : Symphony no.93 in D major, Hob.Ⅰ:93
マルク・ミンコフスキ指揮レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル
Marc Minkowski & Les Musiciens du Louvre
この曲は、ハイドンがロンドンに来て2年目のコンサート・シーズンの初めを飾りました。序奏はユニゾンの力強く、迫力のあるものです。続く主部は静かに歌うように始まり、盛り上がっていきます。まるで、年に似合わず着飾った老ハイドンが舞踏会で踊っているかのようです。微笑みながら、ゆっくりと、ゆったりと、そして優雅に。
シンフォニーなのに、弦楽四重奏で始まる趣向です。ほどなくオーケストラ全体のトゥッティとなりますが、短調の悲劇的な響きで、四重奏の静かな歌との対比が見事です。それからも、抒情豊かな部分と哀愁を漂わす部分、そしてピアノとフォルテの間を揺れ動き、聴く人を引き込んでいきます。初演ではこの楽章がアンコールされたと伝わっています。終わり近くのファゴットのフォルテが人を驚かせます。
楽しくも緊張感のある、引き締まったメヌエットです。トリオではトランペットが軍隊調の信号音を響かせます。〝軍隊〟という愛称のシンフォニーは第100番ですが、それが無ければ、こちらにその名がついていたかもしれません。
第4楽章 フィナーレ:プレスト・マ・ノン・トロッポ
魅力的なテーマが静かに歌いだされ、続いてカノン風に展開していきます。登って下る力強い音型が出ますが、これは1回きりで、続いてオーボエが新しいテーマを歌うなど、随所に工夫が凝らされています。ラストのコーダもユーモアたっぷりに楽しませてくれます。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
にほんブログ村
クラシックランキング