きょうから4月ですが、東京ではもう桜吹雪が舞っています。
シャンデリアの落下でしばらく脱線しましたが、ハイドンのロンドン旅行のお話に戻ります。
定年退職後、59歳で新たな第2の人生を歩むべく、ウィーンを出てロンドンに向かったハイドンでしたが、その旅立ちには多くの友人が反対しました。
中でも一番反対したのはモーツァルトだと言われています。
ハイドンとモーツァルトは、年の差を越えて、互いを尊敬し合い、深い友情で結ばれていました。
ふたりの出会いは、ハイドンがまだエステルハージ侯爵家に仕え、時々主君のお供で訪れたウィーンで、1780年代頃と言われています。
モーツァルトは、先輩ハイドンの作品に大きな影響を受けていました。
ハイドンが1781年に出版した『ロシア四重奏曲 作品33』に衝撃を受けたモーツァルトは、それをお手本に6曲の弦楽カルテットを作曲し、ハイドンへの有名な献辞を添えて出版しました。これが『ハイドン・セット』です。
モーツァルト作曲の『ハイドン・セット』ですから、ややこしいですが…。
1785年、たまたまモーツァルトの父レオポルトがモーツァルトの家に滞在した際、ハイドンが訪ねてきました。
その場で、モーツァルトの『ハイドン・セット』のうちの3曲が試演された時の様子を、レオポルトは次のように手紙に書いています。
土曜日の夕方、ヨーゼフ・ハイドン氏とふたりのティンディ男爵とが家にみえ、新しい四重奏曲が演奏されました。演奏したのは新作の3曲だけで、そのほかに、もう3曲あるのです。それらはいくぶん軽い調子のものでしたが、なかなかよく書けていました。
ハイドン氏は私にこう言ってくれました。
『私は正直な人間として神に誓って申し上げますが、私の直接間接に知っているかぎり、あなたの息子さんは最も偉大な作曲家です。美についてのよい趣味をお持ちですし、そのうえ優れた作曲の技術を身につけておられます。』*1
ヨーロッパ一の高名なハイドンに褒められて、モーツァルトのウィーン行きに猛反対していた父レオポルトも、うれしかったことでしょう。
モーツァルトも、ハイドンに対する尊敬を度々口にしています。
『ハイドン・セット』の献呈についても、『それは義務だったのです。四重奏曲をどうやって書かなければならぬかということを、私はハイドンから学んだのですから。』と述べています。
また、ある作曲家がハイドンの四重奏曲の批判をしたとき、モーツァルトはこう言いました。
『あなた!私たち二人がいっしょになったところで、一人のハイドンには遠く及びませんよ。』
また別のときに同じ作曲家がハイドンの曲について〝俺ならこんな風に書かないのに〟と揶揄した時には、『私だってそうです。けれども、それがどうしてか、お分かりになりますか?あなたや私にはこんな素晴らしい考えは思いつかないからです。』と見事に切り返したのです。
ハイドンの方も、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』がウィーンで上演されたとき、このオペラに対する非難を耳にしてこう言いました。
『私はこの論争を解決することはできません。けれども私は、モーツァルトがこの世における最も偉大な作曲家であることを知っています。』
また晩年になってからは、『モーツァルトがヴァイオリン四重奏曲とレクイエム以外のものを何も書かなかったとしても、それだけで彼は不滅の人となったでしょう。』と述べ、さらに最晩年には『モーツァルトのクラヴィーア演奏を生涯忘れることはできない。それは胸に響くものだった。』と涙を浮かべながら述懐したということです。
ふたりの別れ
ハイドンがザロモンの招きでロンドン行きを決意したとき、反対していたモーツァルトは、ザロモンを交えた会食の席でこう言いました、
『あなたは長くはロンドンに我慢することはできないで、多分すぐ戻って来られるでしょう。あなたはもう若くはないのですから。』
ハイドンは答えました。
『いや、私はまだ達者だし、十分に元気です。』
また、別に機会にモーツァルトは、こう言って引き止めました。
『パパ!あなたは広い世界をご存知ないし、外国語だってほとんど話せないのに。』
これに対するハイドンの答えは有名です。
『いや、私の言葉は世界中の人が理解してくれます。』
音楽を通じて、ハイドンの思いは、国どころか時間さえ超えて、今も伝わっているわけです。
ついにハイドンが出発するときがやってきました。
ハイドンも友人たちも涙を流して別れを惜しみましたが、特にモーツァルトは激しく泣いたそうです。ハイドンが心配でならず『私は心配なんです、パパ。最後の別れをのべているみたいで!』 と抱きしめました。
馬車が出発し、ハイドンはもう一度振り返って挨拶し、姿が遠ざかっていきます。モーツァルトは馬車が見えなくなっても、しばらく立っていたそうです。
1790年12月15日。実際、これがふたりの永遠の別れとなってしまいました。
世を去ったのは、ハイドンの体を心配していたモーツァルトの方だったのです。ハイドンがロンドンに出発した、ちょうど1年後、1791年12月5日のことです。
ハイドンは訃報をロンドンで聞き、ウィーンのある貴婦人にあてて、次のような手紙を書いています。
私は途方もなく家に帰りたい。そして私の友人たちすべてを抱擁したいのです。けれどもただひとつ残念なことは、あの偉大なモーツァルトがもはや友人たちのあいだにいないということです。もしそれがほんとうだとしても、彼が死んだなどとはとても信じられません。のちの世の人々は、これほどの才能の人を、百年のあいだ、ふたたび見ることができないに違いありません。
ハイドンは常々、『モーツァルトの音楽を聴いてなにかを学びとらないことはない』と口癖のように言っていました。
まさに、英雄、英雄を知る、ということでしょう。
ハイドンのザロモン・セットの充実ぶりには、モーツァルトの音楽が大きく影響しているのです。
今回はその5曲目、第97番です。
F.J.Haydn : Symphony no.97 in C major, Hob.Ⅰ:97
マルク・ミンコフスキ指揮レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル
Marc Minkowski & Les Musiciens du Louvre
ザロモン・セットの中で、唯一のハ長調で、その通り平明な響きの曲です。奇をてらったようなところはなく、実際の演奏の機会はかなり少ないですが、何度も聴きたくなる魅力をもっています。序奏から、静かな展開で、他の曲に見られるような短調の緊張感もありません。安心して聴ける曲です。主部は、威厳をもって始まり、弦と管の掛け合いで進み、サビの部分は雄大で、しびれるようにカッコいいです。
第2楽章 アダージョ・マ・ノン・トロッポ
第94番〝驚愕〟アンダンテと同じような変奏曲です。テーマは広々とした草原で深呼吸をするようにのびやかなものです。第2変奏はこの曲で初めて短調になり、激しい調子です。管楽器の彩りが豊かな抒情を醸し出しますが、このあたりにモーツァルトの影響があるかもしれません。第3変奏はリズミカルで、飽きることなく楽しませてくれます。コーダも管楽器が活躍し、実に印象的に曲を締めくくります。
第3楽章 メヌエット:アレグレット
ティンパニ轟く、ハ長調らしい端正なメヌエットです。トリオでは、オーボエ、ファゴット、第1ヴァイオリンが旋律を受け持ちますが、繰り返し部分ではコンサート・マスターのザロモンのソロが1オクターヴ高く奏でられます。
第4楽章フィナーレ:プレスト・アッサイ
急げ急げ、と言われているかのような、活発なフィナーレです。時々、フェルマータで一息つくのも、運動会風な感じです。コーダの前にピチカートがチョン、と鳴るのも気が利いています。ハイドンのフィナーレは、息つく暇もないものもあれば、この曲のように、わざと息をついて、この後どうなるの?と聴衆に気を持たせるものもあり、まさに変幻自在です。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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