これから取り上げるモーツァルトのオペラ『後宮からの誘拐』は、今一般に親しまれている、上演の機会の多いモーツァルトの7つのオペラのうちでは早い頃の作品です。
作曲されたのは、前回と前々回にご紹介した、定職を捨ててフリーの道を選び、コンスタンツェとの恋愛のさなかで、まさに新しい生活への希望に満ちた頃の作品です。
旧弊な封建君主、ザルツブルク大司教のくびきから脱し、新天地ウィーンで名を上げるには、皇帝からの評価が不可欠ですが、まさにその皇帝ヨーゼフ2世直々のオーダーを受けたのがこの曲であり、さらにヒロインの名は偶然にも、婚約者コンスタンツェ。
仕事とプライべートの両面での飛躍となるまたとないチャンス。
張り切らないわけがありません。
音楽は、時には〝若気の至り〟も感じるほど元気はつらつ。
内容も、モーツァルトのオペラの中でも最も親しみやすく大衆的なもので、モーツァルトの生前に、ヨーロッパ各地で最もさかんに演じられた、大ヒット作だったのです。
ドイツ・オペラの先駆け
このオペラは、ドイツ語で書かれています。
今でこそ、オペラは作られたそれぞれの国の言葉で書かれるのが当たり前ですが、そもそもオペラはイタリアで生まれたもの。
つまりオペラはイタリアのものですから、18世紀までは、イタリア以外の国でもイタリア語で歌われるのが当たり前でした。
自国の文化に自身をもっているフランスだけは、歌よりもバレエを重んじたフランス語オペラを確立しましたが、それでも、イタリアオペラ愛好者との間で、フランスオペラとイタリアオペラのどちらが優れているか、国論を二分して『ブフォン論争』や『グルック・ピッチンニ論争』という大議論を巻き起こしています。
特に後者の争いは激しく、貴族たちは初対面の相手に『貴殿はグルック派なりや?ピッチンニ派なりや?』と確かめ、違う派であれば即敵対、という有様でした。
ヘンデルも、英国での活躍の前半は、イタリア・オペラを盛んに上演していました。
しかし、後半生は国民の嗜好の変化を読み取り、『メサイア』をはじめとした英語のオラトリオに転向しています。
それは、英国民が他国への憧れを捨てて、自らの国民文化を志向する時期にちょうど合致したわけです。
そして英国は、世界の支配者への歩みを始めます。
ドイツでも、英国より遅れて同じ動きが出て来て、この音楽における担い手はモーツァルトに託されたのです。
なかなかまとまらないドイツとイタリア
「ドイツ」という国ができたのは、モーツァルトのこのオペラができた頃から、さらに90年後の1871年ですから、それまではドイツというのは単なる地域名でした。
もともと、中世初期に今のドイツ地域の王だった東フランク王が神聖ローマ皇帝になってから、ドイツの王は西ローマ帝国の後継者を自任していましたから、イタリア統治に熱心で、ドイツ国内の統治はおろそかになり、ドイツは大小たくさんの諸侯国、すなわち半独立国の割拠状態なりました。
ザルツブルク大司教のような、聖職者でありながら領地をもった〝聖界諸侯〟も多く、その任命権が皇帝にあるのか、教皇にあるのかということが争われた『聖職叙任権闘争』は世界史のハイライト。皇帝が教皇に屈した〝カノッサの屈辱〟がそのクライマックスです。
イタリア国内の貴族たちも「皇帝派(ギベリン党)」と「教皇派(ゲルフ党)」に分かれて争い、『ロミオとジュリエット』の悲劇もそこから生まれました。
皇帝は選挙制で、選挙権をもった大諸侯は「選帝侯」と呼ばれました。
モーツァルトが以前求職活動をした相手ですが、これでは皇帝の権力は強まりません。
しかし15世紀以降、帝位はオーストリア大公のハプスブルク家が独占、事実上の世襲に成功します。
ハプスブルク家の支配地はドイツ、イタリアのみならず、スペイン、ベルギー、シチリアなどに及び、世界中に植民地をもって〝太陽の沈まぬ帝国〟と言われましたが、さすがに広すぎるのでスペイン系とオーストリア系に分かれました。
海洋帝国を形成したスペイン系に比べると、ヨーロッパ内にとどまったオーストリア系はやや地味ではありますが、大帝国だけあって、首都ウィーンには様々な文化が流れ込みました。
やはりもてはやされたのは文化の先進地、イタリアとフランスの文化でした。
蛮族ゲルマン人の末裔であるドイツ文化は野蛮人の文化とされていたのです。
リベラル皇帝、ヨーゼフ2世
さて、モーツァルトの時代に戻りますが、時の皇帝ヨーゼフ2世(1741-1790)は、有名な女帝マリア・テレジア(1717-1780)の長子で、マリー・アントワネットの兄であり、父帝が崩御した1765年に皇帝に即位しましたが、母が共同統治者になっていたので、実権は母に握られていました。
マリア・テレジアは女帝といっても正確には皇帝ではなかったのですが、まさにゴッド・マザーでした。
啓蒙専制君主はなぜ2世が多いのか?
しかしヨーゼフ2世は、あろうことか母の仇敵、プロイセンのフリードリヒ2世を尊敬し、同じような「啓蒙専制君主」になろうとしました。
啓蒙専制君主とは、当時のヨーロッパで流行していた啓蒙思想に感化された君主たちです。
啓蒙思想とは、中世以来の因習や迷信、宗教の束縛などを排し、人間の理性の光を世の中に当てて、無知蒙昧の闇を啓いていこう、という思想です。
ルネサンスを受け継ぎ、近代精神に目覚めた考え方です。
啓蒙専制君主は、プロイセンのフリードリヒ2世、オーストリアのヨーゼフ2世、そしてロシアのエカチェリーナ2世がその代表とされています。
人民の権利を尊重し、封建主義を打破しようとした〝リベラル〟な君主たちで、素晴らしい王様たちに見えますが、しょせん〝上からの改革〟であり、限界がありました。
啓蒙専制君主たちは、みな〝2世〟ですが、かつて世界史教師が『こいつらはみなニセ者なんだ。だから2世なんだ!』と鉄板ギャグを言っていたものです。
打破しようとしたのは、中間で人民を搾取する封建領主や聖職者たちであって、それによって自らの権力を強くしようとした「専制君主」だからです。
下からの革命ではなく、上から〝人民のため〟と称した改革は、歴史の例を見ると危険な結果をもたらしがちです。
それまでの王権は〝神の名において〟行使されていましたが、〝人民の名において〟得た権力はもっと強大なのです。
権力者がちゃんとやってくれればいいのですが、えてして腐敗したり、反対者の粛清に血道を上げたりするようになるのが歴史の常です。
人民の権利が確立した近現代の方が、恐ろしい独裁者が生まれているのです。ヒトラー、スターリン、毛沢東らに比べたら、古代の暴君ネロなどかわいいものです。
政治家が国民のために働くのは当たり前ですが、国民のため、と称して権力を強化することには、歴史の教訓として警戒しなければなりません。
ヨーゼフ2世のやりたかったこと
さて、そんなヨーゼフ2世のリベラル路線は、母マリア・テレジアの嫌うところだったので、ゴッド・マザーとかなりの対立になりましたが、1780年に母が亡くなると、ようやく自分のやりたいようにできるようになりました。
ちょうど、モーツァルトがウィーンに来る直前のことです。
ヨーゼフ2世も、偉大な母の支配からの卒業を果たしたところだったのです。
彼は、1781年に農奴解放令を出しましたが、これはフランス革命前で最も近代的な改革でした。さらに宗教寛容令を公布し、これまで制限されていたプロテスタント系の公民権を平等にしました。
いずれもリベラルな改革でしたが、農民を領主のものから国家直属にし、またカトリック教会の力を弱めるなど、自らの権力基盤強化につなげるものでもありました。
領主兼聖職者であるザルツブルク大司教のもとを飛び出したモーツァルトを可愛がったのも、そんな背景があるのです。
彼の政策は〝ヨーゼフ主義〟と言われ、〝民衆王〟〝皇帝革命家〟〝人民皇帝〟などの異名を取り、農民から人気もありました。
しかし、その急進的な改革はほとんど挫折し、彼は自らの墓に『よき意思を持ちながら、何も果たせなかった人、ここに眠る』と自虐的な墓碑銘を刻ませることになったのです。
ドイツ語のオペラを
ヨーゼフ2世は、ドイツ文化の興隆にも力を入れました。
これまでイタリア語で上演されていたオペラですが、これを人民も分かりやすいドイツ語で、しかもレベルの高いものはできないか、というのが彼の願いでした。
『ジングシュピール』というドイツ語による歌芝居はありましたが、場末の芝居小屋で演じられるようなもので、ヨーゼフ2世はこれをオペラレベルに引き上げようと考えたのです。
1776年にヨーゼフ2世は、宮殿のそばにあるブルク劇場を「ドイツ国民劇場」と改称し、貴族以外の人民にも開放する勅令を発しました。
そして翌年には、ドイツ語によるジングシュピールの稽古を始めよ、という命令を下しました。
モーツァルトはこのニュースを聞いて、そのオペラを作れるのは俺しかいない!と張り切り、父レオポルトも、モーツァルトのことが皇帝の耳に入るよう、ウィーンの知人と言う知人に手紙を書く工作をしました。
それが、モーツァルトがウィーンに定住するに及んで、ついに実を結んだのです。
それは父が望んだ形ではありませんでしたが。
映画『アマデウス』でも、その場面は重要なシーンです。新しいオペラは何語にするかを皇帝と臣下たちが議論します。
イタリア人の宮廷楽長ボンノは、皇帝に恐る恐る言上します。
『陛下、ドイツ語は歌うには・・・失礼ながら、野蛮すぎます。』
これに対し侍従長は『陛下、そろそろドイツ語のオペラが出来てもよい頃でございます。人民のために、分かりやすい言葉で。』と進言。
このやり取りを聞いていたモーツァルトは興奮し、『ぜひ、ドイツ語でやらせてください!いい台本があるんです!!」』と叫ぶのです。
この御前でのやりとりはフィクションですが、ヨーゼフ2世がモーツァルトを指名したのは事実でした。
モーツァルトが、ブルク劇場の俳優で台本作家のゴットリープ・シュテファニー(1741-1800、同名の兄がいるため、〝弟の方のシュテファニー〟といわれます)から台本を受け取ったのが1781年7月30日。
父レオポルトと転居をめぐって激しいやりとりをしていた手紙に、そのことが書かれています。
さて一昨日、弟の方のシュテファニーが、ぼくに作曲させるため台本を持ってきました。この人は、ほかの人たちに対してはどんなに悪い人間か知りませんが、正直のところ、ぼくにとっては、とてもいい友だちです。台本は実にいいものです。主題はトルコ風で、『ベルモンテとコンスタンツェ、または後宮からの誘拐』といいます。シンフォニア(注:序曲)と第1幕 の合唱とフィナーレの合唱は、トルコ風の音楽で書きます。カヴァリエリ嬢、フィッシャー氏、アダムベルガー氏、ダウアー氏、それにヴァルター氏が歌います。この台本を作曲するのが、とても楽しいので、カヴァリエリの最初のアリア、アダムベルガーのアリア、第1幕を結ぶ三重唱は、もう出来上がりました。時間はギリギリ、その通りです。9月半ばにはもう上演されることになっていますから。しかし、これが上演されるころにはこれに関連する事情や、要するに、他のすべてのもくろみが、ぼくの気持ちを朗らかにしてくれるので、ぼくは最大の情熱を持って机にとびつき、最大の喜びをもってそこに座っています。
ロシアの大公(注:後のロシア皇帝パーヴェル1世)がこちらに見えます。それでシュテファニーから、もしできたら、この短い間にそのオペラを書いてくれないかと、頼まれました。皇帝(注:ヨーゼフ2世)とローゼンベルク伯爵(注:劇場長官)が間もなくおいでになるので、その時、何も新しいものが用意されていないのかと、尋ねられるだろう。するとあの人は得意になって、ウムラウフ氏が(もう以前から温めている)自分のオペラを書き上げるだろうし、ぼくも特別に書いている、と申し上げることができる、というわけです。ぼくがこんな理由で、それをこの短期間に作曲することを引き受けた以上、あの人はきっとぼくの功績を認めてくれるでしょう。(1781年8月1日 父宛)*1
と、いうわけで、1ヵ月半後にせまったロシア大公という国賓の来訪に合わせ、突貫工事で作曲するはずでした。
そして、早書きこそモーツァルトの得意とするところですから、自分の名を上げる絶好のチャンスと思ったわけです。
台本を見て、即気に入り、あっという間にもう3曲も作ってしまったくらいです。
でも、実際にはロシア大公のウィーン訪問は延び延びになり、結局その来訪時には他のオペラが上演され、このオペラが舞台にかかったのは1年も先になったわけです。
そのため、より完成度が高いものになりましたが。
さて、オペラの中身については次回に取り上げるとして、さっそく序曲を聴きましょう。
このオペラの舞台はトルコなので、モーツァルトの手紙にあるように、トルコ風に書かれています。
このオペラの作曲中は、前述のように、離職、結婚についてモーツァルトと父レオポルトとの間に、緊張したやりとりが続けられた時期でした。
モーツァルトは父を安心させるためか、説得するためか、このオペラの作曲経過を逐一、譜例とともに、どういう効果を狙って曲を書いたのか、解説しています。
これは、モーツァルトの作曲をポリシーを知る超・超貴重な資料なのです。
ほかのオペラでは残念ながら、ここまでの資料は残されていません。
モーツァルト自身の解説つきで楽しめるのがこのオペラでもあるのです。
序曲については、次のように書かれています。
序曲は14小節しかお送りしていません。これはまったく短いのですが。フォルテとピアノがたえず入れかわります。そしてフォルテの時は、いつもトルコ風の音楽がはいってきて、その響きで転調しつづけ、それを聴いていると、たとえひと晩中眠らなかった人でも、眠ってはいられないだろうと思います。(1781年9月26日 父宛)
徹夜明けでも眠ってはいられない音楽、ぜひ聴いてみましょう!
W.A.Mozart : Die Entführung aus dem Serail K.384
演奏: ジョン・エリオット・ガーディナー指揮 イングリッシュ・バロック・ソロイスツ、モンテヴェルディ合唱団
John Eliot Gardiner & The English Baroque Soloists , The Monteverdi Choir
大太鼓、シンバル、トライアングルといった〝トルコ風〟の楽器が賑やかに、騒がしく、盛り上げていきます。賑やかで元気いっぱいで、独特のリズム、でも短調、というのがトルコ風なのですが、これはあくまでもヨーロッパ人から見たトルコ風であって、トルコ人が聴いたら、ヨーロッパ風以外の何物でもないそうです。日本のイメージが、フジヤマ、ゲイシャ、というのと同じです。しかし、オーストリアはオスマン・トルコ帝国と境を接し、かつて二度にわたってウィーンを包囲されていますので、トルコに対する様々な思いは、他の国よりも格別でした。そのあたりは、これまでハイドンのシンフォニー〝軍隊〟でも見たところです。曲の中間部の短調の物悲しいメロディは、そのまま長調に移行されて、冒頭のベルモンテのアリアになります。この有機的なつながりはモーツァルトのアイデアで、素晴らしい着想です。
次回、第1幕の幕が上がります。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
にほんブログ村
クラシックランキング