孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

音楽に殉じた伝説のトランペッターの受難。バッハ:世俗カンタータ 『おのが幸いを讃えよ、祝福されしザクセン』

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コーヒーカップを持つザクセン選帝侯兼ポーランド国王アウグスト3世(選帝侯としてはフリードリヒ・アウグスト2世)(1696-1763)

急な来客!それも王様!!

『コーヒー・カンタータ以降、バッハ世俗カンタータを聴いています。

今回の曲は、前回取り上げたカンタータと関係してますので、おさらいも含めて、成立したエピソードからご紹介します。

前回のカンタータ(BWV206)は、バッハが音楽監督をしていたライプツィヒが属するザクセンの選帝侯にして、ポーランド国王アウグスト3世(選帝侯としてはフリードリヒ・アウグスト2世)(1696-1763)の誕生日を讃えるために作られました。

王様本人に聴かせるつもりではなく、街のイベント用に用意していたのですが、急遽、王本人が誕生日前にライプツィヒを来訪することになりました。

イベントは1734年10月7日の予定でしたが、王の来訪は10月2日。

来訪が市に知らされたのは、わずか3日前。

〝そうだ、ライプツィヒ行こう!〟と急に思いついたのでしょうが、当時の王侯の気まぐれにも困ったものです。

あわてた市の幹部たちは、突貫工事で歓迎の行事の準備にとりかかります。

10月7日のためにバッハが用意していたカンタータは誕生日用。

王の表敬式典が行われる10月5日は、ポーランド国王即位1周年記念日

即位記念をテーマとした内容に差し替えなければなりません。

ライプツィヒ市の音楽を担当していたコレギウム・ムジークムの学生たちは、大急ぎで歌詞を文学者のクラウダー氏に、音楽をバッハに依頼しました。

歌詞を作る時間も考えると、バッハに与えられた時間は3日もないはずで、その短い間に40ページ以上のスコアを書き、パート譜を作り、リハーサルをしなければなりませんでした。

そのため、音楽は多くが以前の作品のパロディ(流用)ではないかといわれています。原曲が失われているものも多いので、すべてが判明しているわけではありませんが。

ヘンデルが他人の作品の流用をたくさんしたという話は以前取り上げましたが、バッハもまたしかりでした。

でも、それは手抜きではなく、このような1度きりの機会のための音楽が、それっきりというのはあまりにももったいないわけで、何度も使われるのはむしろ当然といえます。

当時の政治情勢を盛り込んだ歌詞

歌詞には、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世が、ポーランド王位を獲得するに至った、ゴタゴタしたいきさつが盛り込まれました。

前回も触れましたが、ドイツの諸侯であるザクセン選帝侯が、隣国の大国ポーランドの王位を兼ねることになったのは、強王とうたわれた父フリードリヒ・アウグスト1世のときでした。

ポーランドの王は世襲ではなく選挙で選ばれるため、強引に立候補したのです。

同じドイツ、隣の諸侯であるブランデンブルク選帝侯は、すでに、神聖ローマ帝国の域外であるプロイセン王位を獲得していました。

ワンランク上である隣国の王を兼ねて、帝国内での影響力拡大を狙ったのです。

日本史でいえば、江戸時代のはじめ、薩摩藩琉球王国を征服し、以後、将軍の代替わりのたびに琉球の使者を江戸に連れてきて、異国を支配していることを幕府に暗に誇示したのに似ています。

琉球は清国の属国だったため、島津侯が琉球王を兼ねることはできませんでしたが。

ポーランド継承戦争勃発

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スタニスワフ1世レシチニスキ(1677-1766)

さて、選挙制であることを利用してポーランド王位を獲得したものの、その制度でいけば息子にすんなり継がせることもできません。

アウグスト2世の死後、その息子フリードリヒ・アウグスト2世はザクセン選帝侯は継ぎましたが、ポーランド王には簡単にはなれませんでした。

というのも、アウグスト2世が追い出した先々代の国王、スタニスワフ1世レシチニスキ(1677-1766)が、フランスの援助で御者に身をやつして突如ワルシャワに現れ、ポーランド議会に乗り込んで、先に国王に選出されたからです。

以前も触れたように、スタニスワフ1世レシチニスキの娘、マリー・レクザンスカフランス王ルイ15世の王妃でした。

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ルイ15世王妃マリー・レクザンスカ

ルイ15世は、追い出された王の娘にもかかわらず、この王妃を愛し、10人もの子を生ませますが、毎年の妊娠、出産に体力的な限界を感じた王妃は王を拒否するようになり、王はポンパドゥール夫人をはじめとする数々の愛妾にのめり込んでいきます。

しかし、王妃への愛は変わらず、何とか義父を再びポーランド王に返り咲かせたいと願っていました。

ラモーが、オペラ『インドの優雅な国々』ポーランド人の踊り」を盛り込んでいたのにはそんな政治事情があります。

そこに、アウグスト2世の訃報が舞い込んできたわけです。

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しかし、ポーランドへの影響力を維持したい東の大国ロシアは、フランスの息のかかった王など認められません。

オーストリアと同盟して先代の嫡子、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世を支持して、1733年10月5日、賛成派だけを集めたインチキ臭い選挙でポーランド王に選出させました。

そして、ロシアは2万の大軍を送り込み、スタニスワフ1世レシチニスキに宣戦布告しました。これがポーランド継承戦争です。

凄惨を極めたダンツィヒ攻囲戦

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ダンツィヒ攻囲戦(1734年)

翌1734年2月22日には、ロシア軍はレシチニスキ立てこもる港湾都市ダンツィヒ(現ポーランドグダニスクを包囲、有名なダンツィヒ攻囲戦が始まりました。

これは史上初めてのフランス対ロシアの直接戦闘となりました。

フランスは当然、レシチニスキを救うべく援軍を出しますが、英国など中立国を気にして、艦隊を出したものの引き返したりして、予定よりはるかに少ない軍勢しか送れませんでした。

一方ロシア側も、装備は不十分で8,000名の犠牲を出しましたが、優勢な海軍力で6月30日、ついにダンツィヒを陥落させました。

レシチニスキは陥落の2日前、今度は農民に変装して脱出。各地を転戦しますが劣勢を回復するには至らず、1736年に正式に王位を放棄してフランスに戻ります。

ルイ15世はこれを気の毒に思い、後にオーストリア継承戦争で得たロレーヌの公とします。

オーストリア継承戦争は、神聖ローマ皇帝カール6世に男子がいなかったため、女系継承が認められない皇帝位を皇女マリア・テレジアに継がせようとして諸国の反発を招き勃発しましたが、泥沼の戦争の末、マリア・テレジアの夫、ロレーヌ公フランソワ3世を皇帝とすることで妥協し、講和に至りました。

それを認める代わりにフランスはロレーヌ公領を得たため、ルイ15世はそれを一代限りの条件で義父に与えたのです。

ロレーヌ地方(ドイツ語ではロートリンゲン)は、レシチニスキの死後はフランス領となりますが、その後、アルザス(エルザス)とともに、独仏の係争の地となります。

そのオーストリア継承戦争講和記念のため、ラモーはオペラ『ナイス』を、ヘンデルは『王宮の花火の音楽』を作曲したのはこれまでも触れました。

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戦火冷めやらぬ中でのカンタータ作曲

さて、ダンツィヒ陥落が1734年6月30日、アウグスト3世のライプツィヒ訪問が同年10月2日ですから、バッハたちが慌てて準備していたのはまだ戦火冷めやらぬ時期だったといえます。

根拠地を失ったとはいえ、まだ敵のレシチニスキが抵抗していた頃ですから、王のライプツィヒ訪問は、自領のザクセンの支持をしっかり固めるという意味もあったと考えられます。

前回のカンタータでも、ポーランドを流れるヴィスワ川(ドイツ語でヴァイセクル川)に屍が流れた、という歌詞がありましたが、新しいカンタータにも、そんな政治状況が生々しく反映しています。

ライプツィヒは、街をあげて何があろうとアウグスト3世陛下を支持します〟ということをアピールするのが、バッハと演奏者たちに課せられた役目だったのです。

出来上がったバッハの作品は、とても野心的な、華やかで高度なものでした。

特に、3本のトランペットが超絶技巧を披露します。

伝説のトランペッター、ライヒ

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ゴットフリート・ライヒェ(1667-1734)

トランペットはこの時代、特別な楽器でした。

キリスト教において最重要な観念最後の審判で、大天使ガブリエルが天の国が来たことを告げる楽器とされ、神聖視されました。

また、ひいては、王者の栄光を讃えるのも、軍隊の士気を高め勝利に導くのも、トランペットの役目でした。

また、当時の管楽器はバルブがついていませんから、正しい音程を出すのは至難で、熟練の名人芸が必要でした。

そんなことから、トランペット奏者は他の楽器の奏者とは別格で、給与も破格です。

ライプツィヒ市は、そんなトランペッターを4名直接雇用していました。

彼らは「シュタットプファイファー(都市のラッパ手)」と呼ばれ、市から様々な義務を課せられており、諸行事や冠婚葬祭に音楽を提供し、また毎日、市庁舎の塔から合奏音楽(塔の音楽)を作曲、演奏しなければなりませんでした。

高給取りである一方、大変な業務量と拘束を受けていたのです。

当時、ライプツィヒのシュタットプファイファーの親方は、ゴットフリート・ライヒ(1667-1734)でした。

彼の超絶テクニックの名声は全ドイツに鳴り響いており、バッハの難曲の数々も、彼の存在があってのものといわれています。

トランペットの華麗なソロを持ち、ソプラノのレパートリーとして名高いバッハの教会カンタータ『全地よ、神に向かいて歓呼せよ』 BWV51も、ライヒェのために書かれましたので、ここに挙げておきます。

このカンタータでも、リハーサルの時間がほとんどないにもかかわらず、バッハは容赦なく、非常に難しいトランペットパートを書いたのです。

ライヒェに対するバッハの信頼ぶりがうかがえます。

いよいよ本番、御前演奏

そして迎えた10月5日の本番。

ザクセン選帝侯がライプツィヒを訪れた際の定宿は、市庁舎に隣接したアーペル邸と決まっており、この音楽は、夜、600人の学生が捧げ持つ松明に囲まれて、市庁舎広場で演奏されました。

アウグスト3世は、王妃、王子たちと窓から音楽に耳を傾けたのです。

この日について、当時の記録は次のように記しています。

5日、陛下の戴冠が贅を尽くして祝われた。夜の7時、大砲を合図に、町全体が一斉にイルミネーションに照らし出された。市庁舎の塔とバルコニーは、さまざまな色の明かりで飾られていた。トーマス教会とニコライ教会の塔は、バルコニーから鐘楼にいたるまで、美しくまたうまく照らし出されており、数マイル離れた田舎からも見ることができた。

明かりは12時まで消えなかった。田舎から大勢の人々が見物に訪れた。朝の7時になっても、まだ灯火の一部は燃え残っていた。

夜の9時頃、当地の学生は、楽長殿にしてトーマス教会カントル、ヨハン・セバスティアン・バッハが作曲した、トランペットと太鼓を伴う実にうやうやしいセレナーデを、陛下とその家族に捧げた。 

この曲のために600人の学生が松明を持ち、4人の伯爵が音楽を捧げる時の式典係の役割をつとめた。行列は、王の宿舎へと向かった。

歌詞が贈られた時、4人の伯爵は陛下の手に接吻することを許された。その後、陛下と妃殿下、王子殿下は、音楽が終わるまで窓のそばを離れずに熱心に耳を傾け、たいそうお気に召された様子であった。*1

この日ではありませんが、ライプツィヒ近郊のイェナでコレギウム・ムジークムが同じように邸宅を囲んでコンサートを行った情景が次のような絵に残されています。

当日の演奏はこれをもっと大規模な形にして行われたことでしょう。

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アウグスト3世は、たいへんな戦争の末に王位を獲得しましたが、政治にはあまり興味はなく、絵画や音楽が大好きでした。

歴史上の事績もなく、ポーランド王位も子供に継がせることはできませんでしたが、バッハの音楽には喜んで、最後まで熱心に耳を傾けたのです。

それにしても、今目の前で、自分を讃えるために演奏している音楽家が、まさか史上最高の作曲家であり、〝音楽の父〟とはるか後世まで、全世界に讃えられるようになる人物とまでは思ってもみなかったでしょうけれど。

大成功の裏の悲劇

大成功に終わった演奏でしたが、翌朝、思いもかけない悲劇が起こりました。

トランペットを吹いていたライヒが、疲弊のあまり家に帰る途中で卒中に倒れ、そのまま息を引き取ってしまったのです。

直前の曲の差し替えを伴う当日までの突貫工事の準備、バッハの新曲スコアの要求する難易度の高さ、しかもそれをほとんど初見で王の御前で演奏するという極度の緊張、さらに、ただでさえ息継ぎが難しく酸欠になりがちな曲を、おびただしい松明が上げる煙や煤を吸い込みながら演奏する過酷さ。

無理からぬことですが、バッハの衝撃は大きかったことでしょう。

まさに、音楽に殉じた伝説のトランペッターとして語り継がれています。

前置きが長くなりましたが、そんな多くのエピソードを秘めたカンタータを味わっていただければと思います。

バッハ:カンタータ 第215番『おのが幸いを讃えよ、祝福されしザクセン』BWV215

Johann Sebastian Bach:Cantata, BWV215 “Preise dein Glücke, gesegnetes Sachsen”

演奏:鈴木雅明指揮 バッハ・コレギウム・ジャパン

Masaaki Suzuki & Bach Collegium Japan

第1曲 合唱

おのが幸いを讃えよ、祝福されしザクセン

神がその王の玉座を支えておられるのだ

喜びに満ちた国よ

天に感謝し、手にくちづけせよ

おのが幸せを日々はぐくみ

おのが民を安らかにしてくださる王の手に

トランペットの華麗な響きを背景に、アウグスト3世に支配されたザクセンの地の幸福を讃える技巧的な二重合唱です。音楽は残っていませんが、父王アウグスト2世の聖名祝日のために作ったカンタータ『万歳、王よ、国の父よ』の冒頭を流用したとされています。また、バッハは後にこの音楽を『ロ短調ミサ』の『オサンナ』にも使っています。

第2曲 レチタティーヴォテノール

偉大なる力をお持ちのアウグスト陛下よ

われらはどうして

この偽らざる尊敬と、忠誠と、愛からなる強い思いを

無上の喜びを持たないまま

あなたの足元に差し出すことができましょうか?

父なるあなた様の御手から

われらの国に

天の恵みの祝福が

豊かな流れとなって

注ぎ込まないことがありましょうか?

そしてわれらの望みが

かなわないことがありましょうか?

あなた様の保護と、あなた様の人となりのなかに

偉大なる父君の面影と

業績を読み取らぬことなどありえましょうか?

テノールが、特徴的なオーボエの伴奏で、いわばお決まりの王を讃える言葉を宣べます。特に、亡くなったばかりの偉大な父王にも劣らないことを付け加えています。

第3曲 アリア(テノール

言うまでもなく

御名アウグストは

いとも高貴な神々の

一族であることを示すゆえ

死の力をことごとく退ける

そして一切の民は

かくも徳の高いプリンスのもと

黄金時代を生きる

王の名、アウグストを讃えるアリアです。アウグストは、言うまでもなく古代ローマの初代皇帝アウグストゥスからとられていますが、アウグストゥスは死後に神として祀られました。テノールのコロラトゥーラが高貴さを表します。 これも原曲は残っていませんが、以前の作からとられていると考えられています。

第4曲 レチタティーヴォ(バス)

サルマティアよ

何がお前を突き動かし、

お前の玉座の前に、

高貴なアウグストの偉大な息子である

ザクセンのピャスト家を

何を差し置いても引き立てたのか?

やんごとなき父祖の光だけでなく

その持つ国々の力でもなく

いや!その徳の輝きこそが

あらゆるお前の臣下をなびかせ

あまたの民の心をなびかせたのだ。

かの御方だけが

輝かしい家柄と

受け継がれた栄光もさりながら

跪かずにはいられないほどに皆をなびかせる。

確かに妬みと羨望が

残念なことに!しばしば冠の黄金を

鉛や鉄より見下げ果て

あまつさえお前に憤怒をたぎらせて、

おお、偉大な王よ!あなた様の幸福を呪いもしました。

さりながら彼らの呪いは祝福に転じ

彼らの怒りは取るに足らぬほどとなり

盤石の岩の上に安らぐ幸せを

いささかも揺るがせることはありません。

王の即位に至るまでの、政治的な経緯が生々しく、しかしやや曲げて語られます。サルマティアというのはポーランドの別名ですが、事実と異なり、ポーランド王位はアウグスト王が奪ったものではなく、ポーランド自身がその徳を慕って捧げたものだということになっています。戦争になったのは、妬みと羨望からであり、今ではそんな敵は恐るるに足らず、と切り捨てます。

第5曲 アリア(バス)

荒れ狂え、不埒な者どもよ

おのれ自身のはらわたの中で!

無礼な腕を洗うがよい

怒りを込めて

罪もない同胞の血で。

われらは軽蔑し、お前は苦しむ!

なぜならば

お前の妬みより生じる毒と憎しみは

アウグストの治世にではなく

お前自身に降りかかるのだから

王の敵を侮蔑し、責めるバスの攻撃的なアリアで、鋭い弦の響きが勇壮に、時に不気味に伴奏します。これも原曲があったと言われています。

第6曲 レチタティーヴォ(ソプラノ)

そうなのです!

神はわれらのすぐそばにおられ

救いを与えてくださり

アウグストの王座を守ってくださいます。

神はあの御方が王位に即くことにより

全ての北方の国々に平和がもたらされるようにされました。

バルト海の国々はすでに

ヴィスワ川の河口が征服されたことにより

アウグストの王国と

その武力を思い知ったのではないでしょうか?

そしてアウグストはかの街に

かくも長く逆らい続けたあの街に、

憎しみよりも恩愛を感じさせたのではないでしょうか?

それこそが、あの御方の喜びとする、

臣下らの心を

支配ではなく愛でつなぎとめることなのです

テノール、バスの攻撃的な調子が一転し、清澄なソプラノが平和を宣します。北方の国々を平定したことが歌われますが、それは主に、父王の時代からザクセン、ドイツに敵対していた強国、スウェーデンを指します。スウェーデンはかつてバルト帝国といわれるほどの勢力を誇り、三十年戦争北方戦争でドイツ、そしてロシアと覇権を争ってきましたが、この頃には凋落の一途をたどっていました。ヴィスワ川の河口のあの街、というのは、同年陥落し、アウグスト王の勝利を決定づけたダンツィヒであることは言うまでもありません。このレチタティーヴォと、続くアリアは、今回書き下ろされた新曲と考えられています。

第7曲 アリア(ソプラノ)

血気盛んな武器により

敵を打ち滅ぼすことは

多くの者に栄誉と名声をもたらす

しかし、憎しみに善行で報いることこそ

英雄にのみできること

アウグストならではのこと

ソプラノが、王は征服した街に、復讐ではなく恩愛で報いる、それは戦いの勝利より尊いのだ、と讃えます。2本のフルートがユニゾンで優しいオブリガートを奏で、ソプラノはオーボエが彩りを添える、とても繊細で優美な名曲です。通奏低音の伴奏が鳴りをひそめているのは、澄んだ王の真心を純粋に、清らかに表現するためです。

第8曲 レチタティーヴォ

テノール

お許しください、おお、いとも畏き国父よ

われらのムーサらが

あなた様にとって

かくもめでたい日となりました、

昨年のこの日、

サルマティアがあなた様を王に選んだこの日、

清らかに安らかに

あなた様を讃え、歌うことを

(バス)

いつの日か

われらを四方から囲み

武器がきらめき轟こうとも

そう、フランスの軍勢が、

すでに何度も撃退された軍勢が、

南から、北から

祖国を剣と炎で脅そうとも

この街は安寧を保ち

あなた様、われらの菩提樹というべき

力強い守護神を

さらにあなた様のみならず

この国の太陽である奥方様

われら臣下の癒しであり喜びである御方を

その懐に抱くのです

(ソプラノ)

かくもおびただしい幸せに囲まれ

なぜにピンダス山が満ち足りて

幸せに見えないはずがありましょうか!

(3人)

天よ、妬みを退けたまえ

かくのごとき神々の守護のもと

われらの時代の幸福を

子々孫々へと伝えたまえ!

まずテノールが、自分たちを芸術の女神にたとえ、ライプツイヒ市民として王を讃える僭越をお許しください、と語ります。続いてバスが、敵国フランスを名指しし、その軍勢に囲まれたとしても、ライプツイヒの街は決して屈しない、と、その戦いの決意をトランペットの勇壮なファンファーレで示します。そしてハプスブルク家出身の王妃を慕う気持ちも添えます。ソプラノが、ギリシャの山を引き合いに出して、当地ザクセンの幸せを歌い、最後には3人で声を合わせ、天にこの幸せな支配が子々孫々続くよう祈りを捧げ、フィナーレの合唱を導入します。

第9曲 合唱

王国を打ち建てた方

王冠を得た方が

アウグストのものである玉座を築かんことを

かの御方の家を飾り付けよ

変わることのなり幸せでもって

われらをこの国々に平和のうちに住まわせよ

かの御方が正義と恩寵で守る国々に

最後の合唱も、書き下ろしの曲とされています。教会カンタータの神への賛歌に似た、親しみやすく、にぎにぎしい終曲で、トランペットの華々しさが目立ちます。最後の力を振り絞って懸命に吹いているライヒェの姿、そして王一家の満足気な顔が目に浮かびます。

 

バッハの世俗カンタータは、単なる芸術作品ではなく、このように当時の政治状況、社会状況を生々しく反映しているのです。

このカンタータは王の即位を祝う作品ですが、内容をみると、ヨーロッパの歴史では、王位というのは、血で血を洗う戦いや陰謀、策略を尽くして勝ち取るものだったことが分かります。

先日、日本でも即位礼正殿の儀が無事行われ、世界各国からの賓客が、世界で一番古い王朝といわれる日本皇室の行事に見入っていました。

日本の皇位が長い間変わらず、平穏に受け継がれてきたことは、確かに世界史的には奇跡に近いことです。(戦乱も多かったですが、それは皇位の奪い合いではなく、天皇の奪い合いといえます)

しかし一方で、国民に敬愛される皇室像というのは、決して昔からというものではなく、明治以降の天皇や皇族の個人的な努力によるものであることも忘れることはできません。

J.S.バッハ : 世俗カンタータ Vol.8 / 鈴木雅明 | バッハ・コレギウム・ジャパン (J.S. Bach : Celebratory Cantatas / Masaaki Suzuki | Bach Collegium Japan) [SACD Hybrid] [Import] [日本語帯・解説・対訳付]
 

 

今回もお読みいただき、ありがとうございました。

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*1:『ドイツ音楽の興隆』ジョージ・J・ビューロー編 音楽の友社