
コンスタンティヌス大帝とニケーア信条
最晩年に取り組んだ企画
バッハ不滅の音楽『ロ短調ミサ』、今回は第2部の『ニケーア信条 Symbolum Nicenum』です。
通常のミサでは第3章『クレド』(信仰宣言)に当たります。
前回まで聴いた第1部の『キリエ』『グロリア』がひとつの「ミサ」として完結し、1733年にザクセン選帝侯に献呈され、おそらく同年にドレスデンで演奏されました。
カトリックの典礼であるミサ曲のうち、プロテスタントではこの2章までは使用を認められていたのです。
主君はポーランド王位を得るために、ど顰蹙をかいながらもカトリックに改宗していましたが、ドレスデンの領民はガチガチのプロテスタントですから、この曲は君主と民衆の両方から受け入れられる内容でした。
しかしその後、バッハはその死の3年前になる1747年頃、カトリックのミサとしては不完全なこの曲に、残りの3章を加えて、完全なミサ(ミサ・トータ)とすることに取り組み始めます。
そしてそれは、死の間際まで続けられ、ついに完成したのです。
前々回に記した通り、完成したミサ曲はもちろんプロテスタントの礼拝では使えませんし、カトリックにもふさわしくない文言と構成でした。
そもそも、長すぎて礼拝では使えず、バッハの生前に演奏された記録も形跡もありません。
バッハの偉大なる〝終活〟
ではなぜ、バッハは最晩年にこんな取り組みをしたのか、ということですが、この時期のバッハは、人から依頼や職務に基づかない曲を作っています。
教会オルガン芸術の技巧の粋を集めた『クラヴィーア練習曲集第3部(通称ドイツ・オルガン・ミサ)』(1739年)、伝統的対位法の集大成『フーガの技法』(死後の1751年に出版)などです。
これら、仕事にも収入にも結びつかない曲に注力したバッハは、既に自分の体の衰えを感じ、自らの技を後世に伝えるべく、筆をふるったとしか考えられません。
つまり、生涯の創作活動の総決算を行い、お手本としてまとめ、後に続く人材のために伝えようと志したのです。
そしてそれは結果的に、それまでのヨーロッパ音楽の総括にもなりました。
バッハは教師としての本分を最後まで貫き、その義務を果たしたのです。
なんという見事な〝終活〟!
こんな偉大な人物がほかにいるでしょうか。
『ロ短調ミサ』は、教会合唱音楽の分野の総括にあたります。
バッハは旧作の『キリエ』と『グロリア』はそのままとし、第3章の『クレド』にあたる『ニケーア信条』から書き始めました。
作曲にあたっては、新作もありますが、かなりの部分が旧作からの流用(パロディ)になっています。
これを〝手抜き〟などと思ってはいけません。
実際の演奏の機会は想定していないのですから、締め切りも納期もなく、手抜きをする必要性はありません。
バッハは、これまで書いたもののうち、最高のものを選び出し、さらなる彫琢を施したのです。
それは、場合によっては新しく書いた方が早いと思われるような仕事でした。
全ての作品が出版されたわけではありませんから、その時々にバラバラに書いた音楽は、散逸の恐れがあります。
実際に、原曲が失われ、パロディによって後世に伝わったものも数多くあります。
流用こそが、このロ短調ミサが〝バッハの集大成〟といわれるゆえんなのです。
異端を排除したニケーア公会議

ニケーア公会議の図。下部に論争に敗れ異端とされたアリウスが断罪されている。
さて、『ニケーア信条』は、ニカイアとも、また信経とも訳されますが、高校の世界史で必ず教わる「ニケーア公会議(宗教会議)」での決議文に基づいています。
313年、古代ローマ皇帝コンスタンティヌス大帝は、これまで帝国としてさんざん迫害、弾圧してきたキリスト教を、ミラノ勅令によって公認します。
世界史の大転換です。
当時、原始キリスト教にはさまざまな宗派がありました。仏教のことを考えれば当たり前のことですが、キリスト教を逆に統治の手段として利用し、傾きかけたローマ帝国を立て直そうともくろんでいた皇帝としては、各宗派が争っているとかえって混乱のもとです。
そこで、325年に、イスタンブールにほど近い、今のトルコにあるニケーア(ニカイア)に約300人の司教たちを集め、自ら議長となって黄金の椅子に座り、キリスト教の正統な教義を決める会議を開きました。
これが「第1ニケーア公会議」です。
争論のメインは、アリウス派とアタナシウス派の対決でした。
神学論争なのでその詳細は私も理解できていませんが、乱暴に解釈してしまうと、〝キリストは神か、人か?〟という議論ととらえられます。
アリウス派はキリストに人性を認め、アタナシウス派は神と「同質」と主張しました。
日本では実在の人物が死後、神として祀られるのは珍しいことではありません。
菅原道真、平将門、徳川家康しかり、また明治天皇、西郷隆盛、乃木希典、東郷平八郎といった近代の人物まで神様になっています。
その感覚からすれば、イエスは人間だけれども死後神様になった、ということでいいのでは?と思ってしまいますが、キリスト教世界ではそんなことでは済まされない大問題でした。
結果、アタナシウス派が勝利し、「父(神)」「子(神の子キリスト)」「霊(聖霊)」は一体である、とする「三位一体」説が正統なキリスト教の教義ということになり、アリウス派その他の説は異端として追放されました。
アリウス派はローマ帝国から追い出されましたが、帝国外のゲルマン人に広がった、というのも有名な史実です。
さらに、後に諸ゲルマン民族の中でフランク族のクローヴィスがアタナシウス派に改宗し、ローマ・カトリック教会と結びついて、カール大帝による西ローマ帝国の復興につながった…というのも世界史の基本中の基本ですね。
さて、ここで採択されたのが「原ニケーア信条」で、ここにはアリウス派への呪いの言葉も含まれていましたが、381年のコンスタンティノポリス公会議でより内容が洗練されたものになり、採択された「ニケーア・コンスタンティノポリス信条」が現在まで東西教会で用いられている「ニケーア信条」と呼ばれているものです。
バッハが曲をつけたのは、基本的にこのテキストになります。
『ニケーア信条』の構成

『ニケーア信条』バッハの自筆譜
その構成は、『グロリア』と同様、9曲が『十字架につけられ(クルチフィクスス)』を中心に、リズムや調性が左右対称のように配置されています。
1.クレド 5部合唱 ニ長調 4/2拍子
2.パトレム・オムニポテンテム 5部合唱 ニ長調 2/2拍子
3.エト・イン・ウヌム・ドミヌム ソプラノⅡ、アルト&独奏オーボエ・ダモーレ ト長調 4/4拍子
4.エト・インカルナトゥス・エスト 5部合唱 ロ短調 3/4拍子
5.クルチフィクスス 4部合唱 ホ短調 3/2拍子
6.エト・レスレクスィト 5部合唱 ニ長調 3/4拍子
7.エト・イン・スピリトゥム・サンクトゥム バス独唱&独奏オーボエ・ダモーレ(愛のオーボエ) イ長調 6/8拍子
8.コンフィテオル 5部合唱 嬰ヘ長調 2/2拍子
9.エト・エクスペクト 5部合唱 ニ長調 4/4拍子
この曲については、礒山雅氏が著書『バッハ=魂のエヴァンゲリスト(東京書籍)』で素晴らしい解説をされていますので、適宜引用させていただきます。
バッハ:ロ短調ミサ BWV232 『ニケーア信条(クレド)』
Johann Sebastian Bach:Mass in B Minor, BWV232, Symbolum Nicenum
演奏:ジョン・バット(指揮)ダニーデン・コンソート&プレーヤーズ、スーザン・ハミルトン(ソプラノ)、セシリア・オズモンド(ソプラノ)、マルゴット・オイツィンガー(アルト)、トーマス・ホッブス(テノール)、マシュー・ブルック(バス)
John Butt & Dunedin Consort & Players
使用楽譜:ジョシュア・リフキン校訂ブライトコップ版/2006年
5部合唱
われは信ず、唯一なる神を
通常ミサでは「クレド」と呼ばれる信仰宣言の章です。
『グレゴリオ聖歌に由来する定旋律を用いた七声(七は神の完全性の象徴)の古様式フーガで、ここでは「クレード」の語が四十三回(クレードの文字数)歌い出される。<礒山雅氏前掲書>』
『グロリア』の派手な冒頭と対照的に、地味に落ち着いた雰囲気で始まります。テノールから、古い聖歌の旋律がバス、アルト、ソプラノⅠ、ソプラノⅡの順でポリフォニーで歌われ、ヴァイオリンがそれに続き、全7声の織物となります。通奏低音が一定のリズムと音型を繰り返し、その下地を形作ってるのが印象的です。
第14曲 パトレム・オムニポテンテム
5部合唱
われは信ず、唯一なる神、全能の父
天と地の創造者
見ゆるものと見えざるものすべての造り主を
高音の3声が前曲の歌詞を重ねて歌うのに合わせて、バスが〝全能の父〟と新しい歌詞を歌い始め、これがだんだんと広がってゆき、トランペットも加わって天にも届けとばかり神への賛美を高めていきます。原曲のカンタータは1729年の元旦に初演されたものとされています。
第15曲 エト・イン・ウヌム・ドミヌム
二重唱(ソプラノⅠ、アルト)
しかして信ず、唯一なる主イエス・キリストを
こは神のひとり子にしてよろず世の先に父より生まれたまえり
神の神、光の光、まことの神よりのまことの神
父より生まれし者にて、成りし者なれば
父と質を同じくし、万物はこれによりて成りたり
この御子はわれら人の子のため
またわれらを救わんために天より降りたまえり
オーボエ・ダモーレ(愛のオーボエ)がアンダンテでしっとりとした前奏を奏で、ソプラノとアルトが天国的なデュエットを紡いでいきます。ここで〝神とキリストは同質〟というニケーア信条の基本理念が示されます。
『キリストと父なる神の一体性を歌うものであるが、音楽はここでカノン風の二重唱となり、父と子の似て非なる性格が、同じ音型に付されたアーティキュレーションの区別によって、たくみに象徴される。<礒山雅氏前掲書>』
第16曲 エト・インカルナトゥス・エスト
5部合唱
しかして肉体をとりて
聖霊により乙女マリアより生まれ
人の子と成りたまえり
一転、ロ短調の幻想的な合唱になります。ここでは、イエスが処女懐胎によって「受肉」したというキリスト教信仰の根幹である神秘が歌われます。階段を一歩一歩降りていくような下降音型が繰り返されますが、それは天からキリストが人間の姿となって地上に降りてくることを示しています。それが喜ばしい音楽になっていないのは、それが十字架上での受難という悲惨な結末になるからです。
『続いて神秘的な合唱曲「聖霊によりて処女マリアより肉体を受け」が歌われる。この曲は四十九小節(七×七)からなり、背景の弦楽器には、受肉の帰結を示唆するかのような十字架音型が姿を見せている。<礒山雅氏前掲書>』
小節の数も十字架を象徴しているわけです。
第17曲 クルチフィクスス
4部合唱
のみならずポンテオ・ピラトのもと
われらのために十字架につけられ
受難し、葬られたまえり
この章の中心に位置するこの曲は、イエスの受難を歌います。当然音楽は悲哀に満ち、通奏低音には半音階的に下降する4度の音程が用いられていますが、これは教会音楽で伝統的に受難を表わす「ラメント・バス」 といわれるものです。最後には合唱はア・カペラになり、悲しみが極まります。この曲の原曲は若き日、ワイマール時代に1714に作った、カンタータ第12番『泣き、嘆き、憂い、怯え』の冒頭合唱です。まさに生涯にわたっての名作の永久保存版といえます。
『こうして音楽は、「十字架につけられ」の合唱曲に至り、嘆きのシャコンヌの形式を借りつつ、十字架の苦悩の迫真的な表現を行う。<礒山雅氏前掲書>』
第18曲 エト・レスレクスィト
5部合唱
しかして聖書に記されたるごとく
3日後によみがえり、天に昇りて
父なる神の右に座したもう
またかしこより栄光をもてふたたび来たり
生ける者と死せる者の上に裁きをなし
しかして御国は限りなからん
十字架上の受難は終わり、一転、トランペットも高らかに、イエスの復活が輝かしく歌われます。原作は、ザクセン選帝侯の誕生日を祝うセレナードではないかと推定されています。
『しばしの緊迫ののち、「三日目によみがえり給い」の合唱曲が復活の喜びを壮大に告げると、「ニケーア信経」は、輝かしい後半部に入ってゆく。<礒山雅氏前掲書>』
第19曲 エト・イン・スピリトゥム・サンクトゥム
バス
しかして信ず、聖霊を
こは生命を与えたもう主にして
父と子より出で来たり
父と子とともに拝され
栄光を分かちたもう
聖霊は預言者たちによりて語りたまえり
しかして信ず、唯一にして聖なる公の使徒的教会を
オーボエ・ダモーレが優しい音色を奏でる中、バスが安らぎに満ちたアリアで聖霊の神秘と教会への信頼を歌います。
『第七曲「いのちの主なる聖霊を信ず」のバス・アリアで信仰告白は「普遍なる教会」へと向けられ、二本のオーボエ・ダモーレ(愛のオーボエ)が、新旧教会の和解を象徴するようなデュエットをくりひろげる。<礒山雅氏前掲書>』
テキストにある「公の使徒的教会」はニケーア公会議で決議されたアタナシウス派の信条を教義とした、後のローマ・カトリックに続く正統な教会組織を指しますが、それに反した者は異端の名のもと、中世を通じて弾圧、迫害を受け、時には悪魔と手先とされて火あぶりになりました。近世になり、ルター、ツヴィングリ、カルヴァンといった宗教改革者が腐敗したカトリック教会を見限り、新教を立ち上げた後も、プロテスタントとカトリックの争いは血で血を洗う悲惨なものとなりましたが、特にドイツでは30年戦争(1618-1648)で諸国係争の舞台となって荒廃、人口は激減、ヨーロッパの中ですっかり後進地域になってしまいました。バッハがこの曲に両派の和解への望みを託していたとすれば、その意義はとても深いものとなります。
第20曲 コンフィテオール
5部合唱
われは証言す
罪の赦しを得させる唯一なる洗礼を
しかして待ち望む、死人の復活を
5声のフーガが通奏低音のみを伴い、原罪の赦しの手段である洗礼のありがたみを歌います。やがてアダージョにテンポが落ちて、死後の復活を神秘的に祈り、そのまま切れ目なく、華やかな終曲につながっていきます。リフキンはロ短調ミサ全曲のうち、この曲だけは確実に書き下ろしだとしています。
『続く第八曲「唯一の洗礼を認む」は、定旋律をもつ、古様式の合唱フーガ。その終わり、復活を待望する部分で神秘的な気分がかもし出されたあと、「死者のよみがえりを待ち望む」の合唱曲がきて、近代的な手法によって華麗な効果を盛り上げつつ、「ニケーア信経」を閉じる。<礒山雅氏前掲書>』
第21曲 エト・エクスペクト
5部合唱
しかして待ち望む、死人の復活を
また来たるべき世の生命を
アーメン
前の曲の最後の一行が、今度は喜びをもって繰り返され、トランペットとティンパニも華やかに、死のあとにくる永遠の生命を待ち望む終曲となります。合唱は新しい技法で自由に扱われ、伝統的な作りの前の曲と好対照を成しています。1728年か1729年にライプツィヒ市参事会議員の交代式で演奏されたカンタータ第120番『神よ、人はひそかに汝を誉め』BWV120の第2曲を原曲としながら、自由なアレンジを加えています。
『以上の簡単な記述によっても「ミサ曲 ロ短調」が、数理や象徴を駆使した崇高な真理表現の楽曲であることが明らかだろう。その意味でもこの作品は、宗教音楽家としてのバッハの活動の総決算を示す、不滅の金字塔とみなすことができる。バッハを愛する人のたどりつく、究極の世界のひとつがここにある。<礒山雅氏前掲書>』
バッハの次男、〝ベルリンのバッハ〟〝ハンブルクのバッハ〟と呼ばれたカール・フィリップ・エマニュエル・バッハは、父の死後36年たった1786年に、ハンブルクのチャリティーコンサートで、この『ニケーア信条』を『クレド』 の題名で演奏したという記録が残っています。
父の偉大なる遺産に光を当てたことになりますが、全曲の演奏には至りませんでした。やはり長大すぎたのでしょう。
ロ短調ミサ全曲が演奏された最古の記録は、バッハの死後100年以上過ぎた1859年なのです。
次回は、第3部と最後の第4部です。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。


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