孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

【楽譜出版の歴史】音符がオタマジャクシになったわけ。ヴィヴァルディ:協奏曲集『調和の霊感 作品3』第7番~第9番

はじめは原始的な木版刷りから

ヴィヴァルディのコンチェルト集『調和の霊感』は、アムステルダムの出版社エティエンヌ・ロジェ社発行の印刷楽譜によって、全ヨーロッパに普及しました。

当時はレコードなどありませんから、音楽の伝播は楽譜に頼るしかありませんでした。

筆写では限界がありますから、当然、印刷が必要となります。

これから、楽譜印刷、出版の歴史をたどってみましょう。

中世、楽譜印刷のはじめは木版から始まりましたが、これは非常に手間がかかり、また多数部を刷ると版木が耐えられません。

手で書き写すのとどちらが手間か?というレベルでした。

音符の形は四角だったり菱形だったりしますが、それは音符の祖先、中世初期にできたネウマ符からきています。

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木版楽譜の版木(15世紀末のものの複製)

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木版の印刷物(前出の版木から)

活版印刷で作られた楽譜とは

1445年頃、グーテンベルク活版印刷を発明すると、ほどなく楽譜印刷にも応用されます。

ところが、活字は、音符や記号だけでなく、五線(当時は四線が主流)までこま切れでしたから、これをまっすぐに並べるだけでも大変な作業でした。

当然ズレも出てしまいます。

字は多少ズレても読めればいいですが、音符は不協和音になりかねませんから厄介です。

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活字式の楽譜

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五線のズレ

銅板刷りの登場

このたどたどしい印刷を劇的に変えたのが、ヴェネツィアオッタヴィアーノ・ペトルッチでした。

彼が1501年に印刷した『オデカトン』が、本格的な楽譜印刷の始まりとされています。

ペトルッチは、まず線を刷り、次に音符を刷り、それから歌詞と記号を刷るという、3度刷りの技術を完成させたのです。

ミリ単位の細かい工程が求められましたが、これによって、美しく正確な楽譜印刷が可能となりました。

この技術はフランスでさらに発展し、ピエール・オルタンピエール・アテニャンといった印刷師が、線と音符を同時に刷る方法を開発し、普及させました。

16世紀末には、活字ではなく、銅板に楽譜を彫る、という銅板刷り(エングレービング)の技法が開発され、さらに楽譜印刷は大きな発展を遂げました。

銅板刷りは大変美しく、また大量印刷にも耐えうるものでした。

ここで、音符の符頭は、丸い鏨のようなスタンプをハンマーで打ち込むため、それまでの菱形から、現代のオタマジャクシ形になったのです。

その凹版にインクを入れて印刷するため、字が浮き上がるようでとても高級感が出ます。今でも紙幣や、皇室の招待状の印刷などに使われています。

しかし、銅板は扱いが難しく、修正も困難でした。そのため、時代が進むと、などから作られた合金、ピューターが代わりに使われるようになりました。

ピューター版は扱いやすく、修正も比較的容易でした。版刻には職人芸が必要ですが、これによって楽譜印刷は新しい時代を迎えたのです。

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ピューター版への五線彫り

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音符の打刻

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彫版

太陽王最大の失策、ナントの勅令廃止

その頃から、楽譜印刷は、印刷専門業者の手から、時には作曲家と打ち合わせしながら楽譜を作り、販路確保と、マーケティング、プロモーションまで手掛ける楽譜専門出版社の手に移りました。

そのはしりが、ヴィヴァルディの『調和の霊感 作品3』を出版した、アムステルダムエティエンヌ・ロジェなのです。

ロジェはもともと、フランス・ノルマンディー地方のカン出身の新教徒(ユグノーでした。

ブルボン王朝成立前、16世紀のフランスではカトリック(旧教)プロテスタント(新教)の血で血を洗う宗教争乱が繰り広げられていました。争いは有名なサン・バルテルミーの虐殺(1572年)で頂点に達しました。

この戦乱を収めたのが、ブルボン朝初代の王にして、名君の誉れ高いアンリ4世です。

アンリ4世ユグノーのリーダーでしたが、王位が自分に回ってくると、自身はカトリックに改宗した上で、ナントの勅令(1598年)を発して信教の自由を保障したのです。

これによって宗教争乱に終止符が打たれ、以来、フランスではカトリック教徒とユグノーが平和に共存できることになりました。

ユグノーは、勤勉に働くことで神の恩寵を確信できる、という宗旨ですから、産業発展の担い手となりました。

それによってフランスはヨーロッパの最強国となり、絶対王政が確立して、3代目の太陽王ルイ14世のときに絶頂期を迎えるのです。

ところが1685年、ルイ14世はあろうことか、ナントの勅令を破棄してしまいました。そして、ユグノーに厳しい弾圧を加えたのです。

これによって、ナント20万人ものユグノーが国外に亡命しましたが、それには手工業者や商人など、フランスの産業の担い手が多く含まれていたのです。

ナントの勅令を廃止しなければ、産業革命は英国ではなくフランスで起こっていたかも…とまでは言い切れませんが、太陽王最大の失策であったのは間違いありません。

絶対王政を強化しようとした施策ですが、逆に国力の基盤を壊してしまう結果となりました。

エティエンヌ・ロジェ(1664-1722)は、まさしくその亡命ユグノーだったのです。

ブルボン王朝の王様紹介はこちらです。

www.classic-suganne.com

ロジェのamazon的革命ビジネス!

ロジェは家族で新教国オランダのアムステルダムに移住し、1695年に共同事業で書籍出版業を始めましたが、1697年には早くも独立、1699年にはアムステルダムの中心街カルヴェール通りに店を構えました。

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アムステルダム・カルヴェール通りのロジェの店

ロジェは、楽譜出版のあり方に革命を起こします。

出版はリュリのオペラを組曲にしたものからはじめましたが、それは作曲者とは関係なく、パリで人気のリュリのオペラを、劇場以外でも気軽に楽しめるよう、出版社で勝手にオーケストラ組曲の楽譜に仕立てたものでした。

まさに、印刷会社の域を超えて、音楽プロデューサーになっていったのです。

もちろん著作権などない時代ですから、フランス、イタリア、ドイツ、英国の人気作曲家たちの作品を取り上げ、あらゆる楽器で演奏できるよう、ソナタ、トリオ、コンチェルト、鍵盤楽器用など、幅広いジャンルの楽譜を取り揃えました。

そして毎年、品揃えをカタログにして頒布したのです。

さらに販路として、代理店ロッテルダム、ロンドン、ブリュッセルリエージュ、ケルン、ハンブルク、パリにおいて、広くヨーロッパ各地の人々が、商品内容とその値段を知ることができ、購入できるシステムを確立しました。

まさに、現代のamazonに匹敵する、楽譜の流通革命です。

最高品質の楽譜

また、楽譜印刷には、前述の最新技術、ピューター版による当時最高の印刷機を使用しました。

従来の活字式では、活字そのものは再利用できて経済的ですが、同じ楽譜を再版しようとしたら、また版を一から組み上げなければならず、時間とコストが多大にかかります。

その点、ピューター版では、売れ行きを見て、人気曲はすぐ増刷することができます。

紙も、同じくフランスから亡命してきたユグノーの製紙業者によって、ヨーロッパ最上質のものを使うことができました。

ロジェの楽譜は、惚れ惚れするほど美しく、また入手しやすいということで、ヨーロッパ中でもてはやされました。

最新の流行曲を高品質な楽譜で廉価にカタログ販売。ビジネスとして成功の要件を全て満たしています。

こうして、アムステルダムは当時の楽譜出版の一大センターとなったのです。

ルイ14世がナントの勅令を廃止しなければ、パリがその地位を確保していたことでしょう。

それまで楽譜出版の中心地はヴィヴァルディの地元ヴェネツィアでしたが、当地の出版社はイタリア以外での販路は持っていませんでした。

ヴィヴァルディは作品1作品2ヴェネツィアの出版社から出版しましたが、この作品3は、ロジェに託したのです。

『調和の霊感 作品3』がヨーロッパ中に広まり、コンチェルトの模範とされたのは、ヴィヴァルディの曲の良さもさることながら、ロジェのプロモーションがあってのことだったのです。

ドイツ・ワイマール公国エルンスト公子は、オランダ留学の最後に、カルヴェール通りのロジェの店に立ち寄り、お土産に『調和の霊感』の楽譜を買って帰国し、お抱え楽師のバッハに、これをオーケストラでなく一人で演奏できるよう、オルガンやチェンバロへの編曲を頼んだ、というわけです。

ヴィヴァルディからの〝お知らせ〟

ヴィヴァルディは、『調和の霊感 作品3』の出版楽譜に『音楽愛好家諸氏に』と題して、次の序文を掲げています。

今日まで皆様が私のささやかな作品に賛意をお寄せくださったおかげで、私は1巻の器楽協奏曲で皆様に喜んでいただこうと決心するに至りました。正直な気持ちを申し上げますと、もしこれまでの私の作品が、作品自体の欠陥のほかに印刷によって不評をこうむっていたとしましたら、今回は、高名なエティエンヌ・ロジェ氏の手をわずらわせたことが最大の利点ということになりましょう。このことは、協奏曲を印刷で皆様に楽しんでいただくことにした理由のひとつですし、早いうちにもう1巻の、4つのソロによる協奏曲を出版する励みにもなっております。今後ともごひいきを賜りますようお願い申し上げ、皆様のご多幸をお祈りいたします。

アントニオ・ヴィヴァルディ

ヴィヴァルディが、ロジェ社の出版によって、自作が高品質の楽譜で普及することに大きな期待を寄せていることが分かります。

ちゃっかり次回作のお知らせまで加えて。

ロジェは1722年に亡くなり、その事業は娘が継ぎますが、その関係で権利は同じくアムステルダムのル・セーヌ社に渡ります。

ル・セーヌ社は引き続きヴィヴァルディの作品を出版しますが、その商売はロジェ時代の経営に比べてスピード感に欠け、徐々に衰えていってしまいます。

しかし、ロジェの始めたビジネスモデルは次第に広がっていき、1719年には、バッハの町ライプツィヒベルンハルト・クリストフ・ブライトコプフが出版社を立ち上げます。

彼はバッハとも付き合い、その楽譜を出版しますが、1795年に後を継いだゴットフリート・クリストフ・ヘルテルがさらに事業を拡大、今も続く最古の楽譜出版社、ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社となります。

同社はベートーヴェンら数々の作曲家の作品をプロモーションし、音楽史に大きな貢献をしましたが、それはまた触れることになるでしょう。

いずれにしても、ロジェ以降、作曲家と出版社は、車の両輪のごとく手を携え(時には喧嘩しながら)、作品を世に出していくことになります。

名曲の誕生には、作曲家だけでなく、出版社の寄与も忘れられないのです。

 

なお、楽譜印刷の技術は、エングレービング(銅版印刷)のあとは、リトグラフ(石版印刷)が18世紀末に登場し、最終的には現代のコンピューター印刷になりますが、エングレービングの技術は細々と継承されています。

作曲者の原典版にこだわった楽譜印刷で有名なヘンレ社は、近年まで職人による彫版を行っていました。

同社のホームページでは、その職人技の貴重な動画を見ることができます。

https://www.henle.de/jp/the-publishing-house/music-engraving/

 

それでは、前回に続き『調和の霊感』第7番から第9番を聴きます。

ヴィヴァルディ:『調和の霊感 作品3』第7番 4つのヴァイオリンとチェロのための協奏曲 ヘ長調 RV567

Antonio Vivaldi:L'estro Armonico op.3, no.7 Concerto con 4 violini e violoncello F-dur, RV567

演奏:ファビオ・ビオンディ(指揮とヴァイオリン)、エウローパ・ガランテ

Fabio Biondi & Europa galante

第1楽章 アンダンテ

曲集では3曲目の、4つのヴァイオリンのためのコンチェルトになります。定石通り、ゆっくりした緩徐楽章から始まる、教会ソナタソナタ・ダ・キエサ)の形式です。

さあ始まるよ、といった感じのトゥッティの導入から、ソロたちが、天の階段を下りてくるように順次登場してきます。この曲は、ヘンデルのコンチェルト・グロッソ作品6の、天国的な第2番へ長調に影響を与えたと思われます。

第2楽章(序奏) アダージョ

主部のアレグロの前に、緊張感あふれる転調を繰り返す序奏が設けられています。変ロ長調の主和音で開始し、ト短調に転じ、その後和音を揺らがせながらヘ長調の属和音で終始し、次の輝かしいアレグロにつなげます。

第2楽章(主部) アレグロ

雲が晴れたような爽快なアレグロです。リトルネッロのテーマは、第1番の冒頭と同じく、トゥッティのソロで始まるのが意表を突きます。4つのヴァイオリンが走句を次々にバトンタッチしていくさまは、まさにヴィヴァルディの真骨頂です。目立ちませんが、チェロとの掛け合いも聴きどころです。

第3楽章 アダージョ

他のコンチェルトにみられるようなつなぎの楽章で、たった5小節しかありませんが、ゼクエンツ(反復進行)の転調が実に大胆で、ト短調に始まり、ニ短調で終止します。短いながら、ヴィヴァルディの独創性、先進性を示す楽章です。

第4楽章 アレグロ

組曲の最終楽章のごとく、舞曲風のフィナーレです。ソロが目立って活躍する場面はなく、コンチェルティーノ(独奏楽器群)とトゥッティは、音型ではなく音量だけの対比を見せる古風な作りです。この演奏のビオンディも、はしゃいだヴェネツィア風ではなく、コレッリを思わせる、ローマ風のしっとりとした趣きでこの楽章を奏でています。

ヴィヴァルディ:『調和の霊感 作品3』第8番 2つのヴァイオリンのための協奏曲 イ短調 RV522

Antonio Vivaldi:L'estro Armonico op.3, no.8 Concerto con 2 violini A-moll, RV522

第1楽章 アレグロ

この曲集で珍しく調性がかぶる、2曲目のイ短調です。作曲家に宿命的な調性(お気に入りの調性で、傑作になりやすい)は、バッハのロ短調モーツァルトト短調ベートーヴェンハ短調といわれていますが、ヴィヴァルディのそれは、あえて言えばイ短調かもしれません。この曲も第6番と同様高評価で、バッハもオルガン曲に編曲しています。

トゥッティとソロの交替があまり明確でなく、前曲同様、コレッリのコンチェルト・グロッソに近い形ですが、先祖返りをしたというわけではなく、ソロとトゥッティの単純な交替、というコンセプトをあえて崩した、むしろ意欲作ととらえられます。楽想はエキゾチックで、トゥッティ楽節の間に小刻みにソロが挿入されるなど、細かく作りこまれているのです。

第2楽章 ラルゲット・エ・スピリトーソ

冒頭、トゥッティのユニゾンで奏されるテーマが、この楽章の基礎土台となるバッソ・オスティナーソ(執拗に繰り返される低音音型)で、その上に2つのヴァイオリンがカンタービレな歌を交し合います。バッハのあの2つのヴァイオリンのためのコンチェルトにも影響を与えたと思われます。

第3楽章 アレグロ

緊張をはらんだテーマがカノンのように積み重ねられ、ドラマティックに展開していきます。この成果はのちの『四季』の「冬」につながっていきます。第2ヴァイオリンが抒情的な歌を歌うと、第1ヴァイオリンが16分音符のアルペジオで対抗します。バッハはこのような場合、第1、第2ヴァイオリンは極力対等に扱いますが、ヴィヴァルディは、そのようなバランスは意に介さず、時にはソロの片方を〝その他大勢〟に加えさせることさえ平気でやるのです。

バッハのオルガン編曲

バッハは、オランダ帰りのワイマールのエルンスト公子が持ち帰った楽譜から、このコンチェルトをオルガン曲に編曲しています。バッハは『調和の霊感』からはオルガン用に編曲した曲とチェンバロ用に編曲した曲がありますが、オルガン用はいずれも短調の曲です。軽めのヴィヴァルディですが、バッハの手にかかると同じ曲とは思えないほど荘厳に響きます。まさにドイツ風のヴィヴァルディです。

バッハ:協奏曲 イ短調 BWV593

J.S.Bach : Concerto in A minor BWV593

演奏:エレーナ・バルシャイ(オルガン)

第1楽章 アレグロ

第2楽章 アダージョ

第3楽章 アレグロ

 

ヴィヴァルディ:『調和の霊感 作品3』第9番 ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 RV230

Antonio Vivaldi:L'estro Armonico op.3, no.9 Concerto per violino D-dur, RV230

第1楽章 アレグロ

曲集中、調性がかぶる2つめの曲です。冒頭のフレーズは実に癒されます。イタリアの朝、という感じです。そしてソロが元気よく歌い始め、トゥッティが応じますが、第3トゥッティは一瞬ロ短調で出るなど、単純なだけではない深みもあります。

第2楽章 ラルゲット

トゥッティで、これも癒されるオスティナーソ・リズムが奏され、その上にソロが歌い始めると、通奏低音は黙り、トゥッティのヴァイオリンとヴィオラだけが伴奏し、引き立てます。

第3楽章 アレグロ

トゥッティが5回、ソロが4回交替するリトルネッロ形式です。明るく穏やかに始まりますが、ソロは回を重ねるほどに激しく技巧的になり、短調へと触れて劇的に展開していきます。

バッハのチェンバロ編曲

バッハは、第6番同様、エルンスト公子の依頼でこの曲を鍵盤楽器用に編曲していますが、これはオルガンではなく、チェンバロ用に編曲しています。寒い北ドイツの室内にて、遠い憧れのヴェネツィアに思いを馳せながら、貴族たちが最新の流行曲を楽しんだ響きです。

バッハ:協奏曲 ニ長調 BWV972

J.S.Bach : Concerto in D major BWV972

演奏:ルカ・オベルティ(チェンバロ

第1楽章 アレグロ

第2楽章 ラルゲット

第3楽章 アレグロ

 

今回もお読みいただき、ありがとうございました。

 

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