嵐の前の静けさ、そして襲来
ハイドンのオラトリオ『四季』の6回目、第2部『夏』の最終回です。
蒸し暑い夏の午後、山に湧いた霧が、みるみる黒雲となり、気づかないうちに空いっぱいに広がってきます。
さっきまで暑さにあえいでいましたが、涼しさにうれしくなるのもつかの間、遠くから不吉な轟きが聞こえてきます。
黒雲は、いまや覆いかぶさるように低く垂れてきています。
こ、これは…
不気味な静けさがあたりを包み込み、人も、動物も、草木も、不安な気持ちで息をひそめています。
そして、ついに嵐が襲来します。
篠突く雨!
吹き荒れる風!
目をくらませる稲妻!
耳をつん裂く雷鳴!
そして、雷が近くの木々に落ち始めます。
野で仕事をしていた農夫や羊飼いは、身を隠す場所もなく逃げまどうばかり。
命の危険にさらされ、ただ神様に祈るしかありません。
雷の正体が電気とは知らない当時の人々にとっては、神の怒りとしか思えない恐ろしい自然現象です。
(電気と分かっても恐ろしさは変わりませんが…)
嵐が過ぎ去ったあと
しかし、去らない嵐はありません。
やがて、何事もなかったかのように嵐は過ぎ去り、平穏な日常が戻ってきます。
台風一過、マイナスイオンいっぱいの爽やかな気候となります。
日はまだ高く、万物は露に濡れて輝いています。
やがて教会の晩鐘が響き、人々は作業をやめて、お互いにねぎらいあいながら、いそいそと家路をたどり、夕べの憩いと眠りに急ぎます。
ヴィヴァルディの『夏』は、猛暑と嵐といった夏の厳しさのみに焦点を当てましたが、ハイドンは、嵐のあとの自然や人々の喜びを、素晴らしい音楽で描いています。
ベートーヴェンは、この師ハイドンの工夫を自分のシンフォニーに取り入れ、あのシンフォニー第6番『田園』の第4、第5楽章を創り上げるのです。
ハイドン:オラトリオ『四季』第2部『夏』
Joseph Haydn:Die Jahreszaiten Hob.XXI:3
演奏:ジョン・エリオット・ガーディナー指揮 イングリッシュ・バロック・ソロイスツ、モンテヴェルディ合唱団
John Eliot Gardiner & The English Baroque Soloists, The Monteverdi Choir
ソプラノ(ハンネ):バーバラ・ボニー Barbara Bonney
テノール(ルーカス):アントニー・ロルフ=ジョンソン Anthony Rolfe Johnson
バス(シモン):アンドレアス・シュミット Andreas schmidt
第16曲 レツィタティーフ
シモン(バス)
おお、見よ!
蒸し暑い空気の中で
もやにつつまれた高い山の頂に
灰色の霧が湧き出している
霧は高く立ちのぼり
一面に広がってゆき
やがて広い空を暗い闇に包みこんでゆく
ルーカス(テノール)
聴け、山あいから鈍い轟きが
荒々しい嵐の接近を知らせている!
見よ、災いの黒雲が長くたなびき
脅かすように野原に低く垂れかかっている!
ハンネ(ソプラノ)
不安な予感に
自然界の生き物は息をひそめています
動く獣や木の葉はひとつもなく
死のような静けさが
あたりを支配しています
ティンパニによる轟きが遠雷を表現する中、まずシモンとルーカスが、黒雲の発生と嵐の接近を不吉に予言します。最後にハンネが歌うのは、嵐の前の静けさ。弦のピチカートが、不吉な予感に固まってしまう万物を表現します。
第13曲 合唱
合唱
ああ、嵐がやってきた!
天よ、お助けください!
おお、なんという雷の轟き!
おお、なんという風雨の激しさ!
どこに逃げたらいいのだろう?
稲妻は空を貫いて閃き
鋭いくさびの形に雲を引き裂いて
篠突く雨を降らせる
隠れ家はどこ?
荒れ狂う嵐も一時止み
大空は燃え上がっているようだ
おお、哀れな我ら!
次から次へと雷を落としながら
恐ろしげに雷鳴が轟く
ああ神様、ああ神様!
大地はぐらぐらと揺れ動き
海の底まで沈んでしまうかのようだ
閃く稲妻を表したフルートを導入に、『嵐の合唱』が始まります。オーケストラと合唱は爆発し、人智の及ばない大自然の脅威を強烈に現出します。嵐を表した音楽はこれまでも多くあったわけですが、これは古典派の枠を超え、もはやロマン派といってもよい表現です。
ベートーヴェンも『田園』作曲にあたり、師をどう超えるか、工夫を重ねたことでしょう。
しかしハイドンの方は合唱の力も加わります。後半は逃げまどう人々の思いが半音階下降のテーマによるフーガとなります。テーマはモーツァルトのオペラ『クレタの王イドメネオ』の、海の嵐と怪物の出現の場面にも似ていて、三大巨匠がお互い影響し合った形跡もうかがえます。
嵐はだんだん遠ざかり、フルートが雲間に時折閃く稲妻を表しつつ、音楽は明るい長調に転じて静かに終わります。
第14曲 三重唱と合唱
ルーカス(テノール)
黒い雲は切れ
恐ろしい嵐は静まった
ハンネ(ソプラノ)
日が沈むには間があって
太陽はまだ高く輝いています
その最後の光を浴びて
田畑は真珠で飾られているように輝いています
シモン(バス)
腹いっぱい食べて元気を取り戻し
肥えた牛は
住み慣れた牛舎へ戻ってゆく
ルーカス
つがいのうずらは
もう呼び交わしている
ハンネ
草むらの中では
コオロギがうれしそうに鳴いています
シモン
そして沼では
カエルも鳴いている
ルーカス、ハンネ、シモン
夕べの鐘が鳴っている
空には美しい星がきらめき
私たちを憩いへと誘っている
農夫たち
娘さんも、若い衆も、おかみさんたちもおいで!
気持ちのよい眠りが私たちを待っている
心をさわやかにし、体を元気にして
明日の仕事を約束する眠りが待っている
農婦たち
さあ行きましょう
一緒に行きましょう
合唱(一同)
夕べの鐘が聞こえている
空には美しい星がきらめきはじめ
私たちを憩いへと誘っている
前曲の緊張が嘘のように、明るい調子の三重唱になります。『夏』冒頭の羊飼いのアリア(第10曲)と同じ、田園の牧歌的な雰囲気を醸し出すヘ長調とすることで、日常への回帰を示します。
ルーカスとハンネが、嵐の去った情景を爽やかに歌うと、シモンが低い金管を伴って唐突に重苦しく歌いますが、それは牛舎に帰るでっぷりと太った牛を表しています。
ここから、『春』と同様、直接的な自然の描写が続きますが、これも例によってスヴィーテン男爵の案で、ハイドンがその俗っぽさに大いに難色を示した部分です。
しかし結局押し切られ、ハイドンはしぶしぶ、うずら、コオロギ、晩鐘を楽器で表現しますが、今となっては、聴く私たちを大いに楽しませてくれます。
ベートーヴェンは芸術的観点を最優先し、こうした娯楽的な小技を極力排除しましたが、それでも『田園』第2楽章でカッコウを登場させるなど、ハイドンの手法を取り入れているのです。
ちなみに『田園』の歴史的な初演は、『運命』とともに1808年12月22日、ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場で行われましたが、これはコンサート史上に残る大失敗に終わりました。最後の曲でオーケストラは途中で行きづまり、ベートーヴェン自身も間違えて、曲を最初からやり直す、という失態を演じました。
失敗の原因をベートーヴェンは、同じ夜に格上のブルク劇場でハイドンのオラトリオが上演され、優秀な演奏者をそちらに取られてしまったためだ、とボヤいています。
そのハイドンのオラトリオが『天地創造』なのか『四季』なのか分かりませんが、『四季』だとすれば、それを超えようとした作品の初演としては皮肉な話です。
一方、この曲の最後の場面は、モーツァルトのオペラ『魔笛』からインスピレーションを受けています。
晩鐘を聞いて、村人たちは一日の仕事を終え、互いにねぎらいながら家路につきます。
このなんとも微笑ましい、日常的な幸せに満ちた音楽は、『魔笛』第2幕冒頭のザラストロの合唱付きアリア『イシスとオシリスの神よ』からインスパイアされ、調性も同じ変ホ長調です。歌詞も〝ふたりを汝の住まうところに迎えよ〟と、似ています。おうちに帰ろう、ですね。さらに、人々が去っていき、村が夕闇に包まれていく様子は、第1幕でタミーノとパパゲーノが侍女たちに別れを告げ、冒険に出発する場面を彷彿とさせるのです。
この場面を聴くと、私は昔、教科書に載っていた詩を思い出します。
『6月』茨木のり子
どこかに美しい村はないか
一日の仕事の終りには一杯の黒麦酒
鍬を立てかけ 籠を置き
男も女も大きなジョッキをかたむける
どこかに美しい街はないか
食べられる実をつけた街路樹が
どこまでも続き すみれいろした夕暮は
若者のやさしいさざめきで満ち満ちる
どこかに美しい人と人との力はないか
同じ時代をともに生きる
したしさとおかしさとそうして怒りが
高い鼻に胸でも病んでいるらしい
鋭い力となって たちあらわれる
(第二詩集)『見えない配達夫』飯塚書店刊 1958年11月
この戦後詩には、戦争で荒廃した人々の心の復興を願う思いがあふれています。
嵐の後の平和を表現したハイドンの音楽、そしてそれに共通するモーツァルト、ベートーヴェンの音楽にも、この時代に広がった「博愛」の精神がその根底に流れているのです。
そんな巨匠たちの思いをいま、時代を超えて音楽から受け取りたいものです。
動画は、ベルギーのバート・ヴァイ・レイン指揮ル・コンセール・アンヴェルス、オクトパス・シンフォニー合唱団の演奏です。(第17、18曲)
Haydn The Seasons [HD] - Summer part 4: the storm
次回は秋の訪れです。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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