学校の勉強はできなくても
ベートーヴェン少年は、学校の勉強は苦手だったようです。
公立の小学校に入学したものの、当時の同級生からは、怠け者だったという証言があります。
大人になってからも、ベートーヴェンは計算が苦手だったとか、文章にも誤りが多いとか言われ、幼い頃サボっていたからだ、といわれていますが、学校の成績は将来の成功とは必ずしも因果関係はありません。
中学・高校にあたるギムナジウムには進学しませんでしたが、大人になってからのベートーヴェンは読書家で、インド哲学にまで興味を示していますから、知的好奇心旺盛で高い教養を身につけています。
要するにベートーヴェンは、嫌いなことは一切やらず、好きなことには没頭するタイプだったのです。
没頭したのはオルガン、クラヴィーアといった鍵盤楽器の演奏で、教会や修道院に行っては修道士に教えを乞い、たちまちミサで代奏ができるほどになりました。
ベートーヴェンは後年、少年時代を振り返って、『いつも真夜中まで、めちゃくちゃ稽古したものだ』と弟子たちに語っています。
さらに、一番やりたかったことは作曲で、10歳の頃書いた曲は少年の小さい手ではとても弾けないので、修道士に『ルイ、こりゃあお前には弾けないね』と言われ、『大きくなってから弾きます!』と答えたということです。*1
ベートーヴェン少年はそれほど社交的ではなく、練習していないときは、ひとりで窓辺からライン川や遠くの山を眺めていたといいます。
幼い頭の中には楽想が次から次へとあふれていたのでしょう。
恩師との運命の出会い
ベートーヴェンは、独学と、周囲の音楽家をつかまえては様々な楽器を学んでいましたが、ついに音楽を、作曲も含めて体系的に教えてくれる先生との運命的な出会いがありました。
1781年に、ボンに来て選帝侯邸付オルガン奏者となったクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ(1748-1798)です。
ザクセンの地、ドレスデン近郊で歴史ある職人の家に生まれたネーフェは、幼い頃から楽才を示し、12歳で作曲を始めました。
21歳にライプツィヒ大学に入学しましたが、そこで大バッハの音楽に傾倒します。
さらに、若き日のハイドンと同様、バッハの次男カール・フィリップ・エマニュエル・バッハの前衛的な音楽にも大きな影響を受けています。
その後は、多くの曲を世に送り出し、中でもドイツ語の歌芝居ジングシュピールの作曲家として人気を博しました。
モーツァルトの『後宮からの逃走』、『魔笛』と同じジャンルです。
ボンの宮廷楽団は、高齢の宮廷オルガニスト、エーデンの後継者としてネーフェを招いたのです。
ベートーヴェンは、いつの頃かは不明ですが、このネーフェに師事することになります。
ネーフェは優れた教育者でもあり、早期にベートーヴェンの才能に気づいて、本腰を入れて指導を始めたと考えられます。
教材はバッハ
ネーフェがベートーヴェンに与えた教材は、当時まだ未出版であったバッハの『平均律クラヴィーア曲集』と、エマニュエル・バッハの歌曲集でした。
バッハとベートーヴェンがここでつながった意味は計りしれません。
1782年には、ネーフェがミュンスターに滞在中の選帝侯のところに呼ばれたとき、出発の前日に老師エーデンが亡くなりました。
当然ネーフェはオルガニストとして葬儀で演奏をしなければなりませんが、その大役の代役をベートーヴェンが務めることで、ネーフェは命令通り出張できたのです。
ネーフェは、選帝侯が国民の文化教育向上のためにつくった国民劇場のために招かれた、グロスマン=ヘルムート劇団と音楽監督も務めていましたが、ベートーヴェン少年はその劇団で『オーケストラ付チェンバロ奏者』の任につきました。
これは楽譜の通奏低音に即興的に和音をつけながら、オーケストラ全体を指揮するという難役でした。
もう立派な指揮者です。
ネーフェは、1783年3月2日に発行された音楽雑誌に、第3者のレポーターとして「ケルン選帝侯国における音楽生活」という記事を掲載しました。それを引用します。
前記テノール歌手の息子ルイ・ヴァン・ベートーヴェンは、11歳にして、きわめて有望な才能ある少年である。彼はクラヴィーアをひじょうに巧みに、かつ力強く演奏し、特に初見演奏にすぐれている。彼は、ネーフェ氏が彼に課したセバスティアン・バッハの『平均律クラヴィーア曲集』を主として演奏する。すべての調性による前奏曲とフーガからなるこの曲集(それは我々の芸術の「疑いもなく最上のもの」といえる)を知る者は誰もが、その意味するところはおわかりだろう。ネーフェ氏は、職務の許す限り、これまでに彼に通奏低音を教えてきた。いまや作曲の訓練も行い、また自信をつけさせるために、ある行進曲(エルンスト・クリストフ・ドレスラーによる)をもとに彼によって書かれた『クラヴィーアのための9つの変奏曲』をマンハイムで出版させた。この若き天才は、留学を可能にするための援助に値する。彼がこのまま進歩を続けるならば、必ずや第2のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトになるであろう。
ベートーヴェンに関する初めてのマスコミ報道ですが、ネーフェがどれだけ彼を評価し、その育成に熱意を上げていたかが伝わってきます。
〝第2のモーツァルト〟とされていますが、この記事が書かれた1783年といえば、モーツァルトも27歳でウィーンデビューして程なく、前年に『後宮からの逃走』を上演した段階、まだ『フィガロの結婚』も『ドン・ジョヴァンニ』も作曲していなかった頃なのですが、もうモーツァルトの名声も轟いていたことも分かります
その新進気鋭のモーツァルトと、少年ベートーヴェンを比したネーフェの慧眼に驚かされます。
本格的なピアノ・ソナタ集の出版
記事にもある、前回取り上げた初の出版作品『ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲』に続き、ベートーヴェンは本格的なピアノ・ソナタを3曲作曲し、ケルン選帝侯マキシミリアン・フリードリヒ大司教に献呈、出版します。
これにもネーフェの尽力があったことでしょう。
これが最初期の傑作として名高い『選帝侯ソナタ』です。
初版楽譜には例によって11歳のベートーヴェン作、と記されていますが、実際には12歳を過ぎています。
ベートーヴェンが学んだバッハの『平均律クラヴィーア曲集』は〝ピアノの旧約聖書〟、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集は〝ピアノの新約聖書〟と呼ばれていますが、このソナタはまだ作品番号が振られていません。
しかし、その完成度は高く、後年の傑作群を予告する記念碑的作品といえます。
特に、ヘ短調という異例の調性をもつ第2番には、すでにベートーヴェンの前衛性がみなぎっているのです。
Ludwig Van Beethoven:Kurfürstensonaten no.1 in E flat major, WoO47-1
演奏:ロナルド・ブラウティハム(フォルテピアノ)
Ronald Brautigam (Fortepiano)
この曲を初めて聴いた人は、モーツァルト?という印象を持つと思います。ベートーヴェンを〝第2のモーツァルト〟とすることを目指していた師ネーフェとしては、モーツァルトのスタイルを意識した指導をした結果と考えられますが、重要な底流は、ウィーン趣味のモーツァルトではなく、ネーフェの本流である北ドイツ楽派、すなわちカール・フィリップ・エマニュエル・バッハなのです。
エマニュエル・バッハのスタイルは、感情過多様式(多感様式)といわれ、当時の芸術の潮流だった疾風怒濤(シュトゥルム・ウント・ドランク)に位置付けられます。
文学の分野ではシラーやゲーテがその推進者となり、理性に対する感情の優越を目指した芸術は、音楽ではエマニュエル・バッハが担い手となり、若いハイドンやモーツァルトにも影響を与えました。そして、それはベートーヴェンを経て、ロマン派につながっていくのです。
モーツァルトが時々見せる激しさは、この影響によるものですが、それはモーツァルトとしては珍しい方で、ベートーヴェンはそこに自分の目指すべき道を見出して突き進んでいきます。
この第1楽章〝アレグロ・カンタービレ〟はちょっとありえない速度表記です。「カンタービレ(歌うように)」は、ふつうアンダンテなどゆっくりした楽章に使われる指示で、アレグロとの組み合わせはベートーヴェンの他の作品や他の作曲家にもほとんど見られません。
一般には習作期の誤りと言われていますが、若いベートーヴェンの、慣例に従わず新しいことをやりたい、という意気込みなのかもしれません。
軽快でいかにも楽し気な開始です。強弱もはっきりしていて、自信に満ちています。若い頃のモーツァルトの作品に決して劣らない充実した響きを聴くことができます。
第2楽章 アンダンテ
第1楽章のテーマと共通しており、ゆっくりと変化させています。後にベートーヴェンがこだわった楽章の統一性のはしりがもう見受けられるといえます。高音と低音が呼び交わす歌は抒情的で、こちらにカンタービレとつけた方がよさそうです。
第3楽章 ロンド:ヴィヴァーチェ
スキップするかのような軽快なロンドですが、途中で急に劇的な短調への転調が挟まれハッとさせられます。強弱のメリハリがしっかりしていて、当時のベートーヴェンはピアノをもっていたという証拠はないのですが、クラヴィコードやチェンバロでは表現できない音楽となっています。
Ludwig Van Beethoven:Kurfürstensonaten no.2 in F minor, WoO47-2
第1楽章 ラルゲット・マエストーソーアレグロ・アッサイ
フラット4つをもつヘ短調という調性は、ハイドンやモーツァルトでさえピアノ・ソナタでは使わなかった異例中の異例の選択です。まして、12、3歳の少年が使うのは信じられないことです。ベートーヴェンはのちに、アパッショナータ・ソナタ(熱情)でこの調性を使いますが、それくらい激しい感情の媒体なのです。
また、ゆっくりした序奏をもっていることも驚きです。序奏をもつピアノ・ソナタ自体も珍しく、まさに前衛的な作品となっています。後年の作品の先取りといえる重要性をもっています。
冒頭の重厚なアルペッジョは、とても少年の作品とは思えません。序奏が終わると、堰を切ったように激しい主部が流れ出し、圧倒されます。この表現はエマニュエル・バッハの影響と言われますが、師ネーフェを超えており、師は目をみはったことでしょう。
展開部の最後に序奏が縮小して再現されるのは、〝悲愴ソナタ〟を先取りした構成です。
第2楽章 アンダンテ
前楽章の嵐が去り、平穏な雰囲気ではじまりますが、変奏的な展開に引き込まれてしまいます。中間部では短調の悲劇的な響きも見せ、天才の片鱗を感じさせます。
第3楽章 プレスト
悪魔的なトリルが多用される、焦燥感と悲壮感にあふれたドラマチックな楽章です。テクニックの華麗さに圧倒され、これを弾いている少年の姿は想像できません。ベートーヴェンの世界はここから始まった、と胸がいっぱいになる楽章です。
Ludwig Van Beethoven:Kurfürstensonaten no.3 in D major, WoO47-3
3曲の中で一番規模の大きい充実した曲です。気宇壮大な雰囲気をもち、イ長調の第2テーマはカノン風に入ってきて、バッハのポリフォニックな技法を取り入れようという意欲が感じられます。途中で決然とフェルマータで終止したかと思うと、音符がざわめきながら湧き出してくるさまは、実にドラマチックです。
第2楽章 メヌエット・ソステヌート
メヌエットとされていますが、実質的にはメヌエットをテーマとした6つの変奏曲です。変奏はテーマから大胆に離れることもあり、かなり自由奔放に展開していきます。主役は右手、左手と移り、16分音符の華麗な装飾や、短調への転調と、即興的な動きに引き込まれてしまいます。
第3楽章 スケルツァンド:アレグロ・マ・ノン・トロッポ
スケルツァンド(たわむれるように、遊ぶように)という、後年のベートーヴェンが好んだ表記が、もうこの段階で出ているのに驚かされます。当時としては見慣れないものです。モーツァルト的な愛らしいテーマが遊び心いっぱいに展開していきますが、自由闊達で野心的なものです。
少年が作ったというだけでもセンセーショナルですが、ピアノ・ソナタとしても当時の常識を破った前衛作品となっています。
この曲集を献呈された選帝侯が、これを少年の演奏で聴いたのか、聴いたとしたらどんな感想をもったのか、記録に残っていないのが残念です。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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