若きベートーヴェンが葬送カンタータを捧げた神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世には、後継ぎとなる子がいませんでした。
皇太子時代の妃、マリア・イザベラ・フォン・ブルボン=パルマ(1741-1763)を、政略結婚とは思えないほど熱愛していましたが、流産や生まれた子の早世が続き、若くして亡くなってしまいました。
マリア・イザベラはうつ病にかかり、夫の愛情も重荷としか考えられないうちに、妊娠中に天然痘にかかって21歳で早世してしまったのです。
神聖ローマ皇帝位はサリカ法典の規定で男性しか継承できないため、ヨーゼフ2世の母マリア・テレジアがハプスブルク家を継ぐにあたってはオーストリア継承戦争が起こったくらいですので、後継者の男子を得るのは皇帝にとって至上課題でした。
妃マリア・イザベラを生前も死後も熱烈に片思いしていたヨーゼフ2世は、とても別な女性と再婚する気になりませんでしたが、皇帝としての責務からは逃れられません。
母からの圧力もあり、しぶしぶ、ハプスブルク家のライバルだったヴィッテルスバッハ家のマリア・ヨーゼファ・フォン・バイエルン(1765-1767)と結婚しますが、絶世の美女だった前妻に比べて醜いと言って愛せず、皇后となった彼女をほとんど無視し、相手にしませんでした。
そのうちに彼女も天然痘にかかって27歳で亡くなってしまいますが、ヨーゼフ2世は葬式にも出なかったということです。
寛大な名君の誉れ高いヨーゼフ2世とは思えない、ひどい仕打ちでした。
ヨーゼフ2世は、もう結婚はコリゴリ、と言って、再婚しないことを宣言、母のマリア・テレジアを失望させますが、次弟のレオポルトを後継者に指名します。
レオポルトは、メディチ家が断絶した後のトスカーナ大公を継いでいました。
(メディチ家の断絶についてはこちら)
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トスカーナの統治は25年に及びましたが、兄ヨーゼフ2世、末弟でベートーヴェンの主君ケルン選帝侯マックス・フランツと同様、典型的な啓蒙主義者でした。
ヨーロッパの国で最初に死刑を廃止、軍縮によって減税を実施。
憲法を制定しようとするも、あまりに革新的過ぎて最終的には施行はできませんでした。
ほかにも、種痘の制度化、精神病者の保護法の制定などを行い、民生を第一に考えた名君だったのです。
いまやハプスブルク家の存続は彼にかかってきたのですが、1768年に後のフランツ2世が生まれたとき、マリア・テレジアは狂喜して、悲劇を上演中のブルク劇場に乱入し、舞台から『うちのポルドル(レオポルトの愛称)に男の子が生まれたのよ!!』と叫んだそうです。
男子がなければ戦争にもなりかねなかったわけですが、〝女帝〟の微笑ましいエピソードです。
1790年10月9日、レオポルトは同年2月に死去した兄帝ヨーゼフ2世の後を継ぎ、神聖ローマ皇帝レオポルト2世としてフランクフルトで戴冠します。
モーツァルトは、一儲けするチャンスとばかり、呼ばれていないのにフランクフルトに駆けつけ、ピアノ・コンチェルト第26番ニ長調『戴冠式』と、旧作のピアノ・コンチェルト第19番ヘ長調『第二戴冠式』をコンサートで演奏しますが、集客が悪く失敗に終わります。
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また、レオポルト2世のボヘミア王としての戴冠式の際には、プラハ市から招かれてオペラ『皇帝ティトゥスの慈悲』を作曲、上演しますが、レオポルト2世の皇后、スペイン出身のマリア・ルトヴィカからは〝ドイツの汚物〟とまで酷評されてしまいます。
レオポルト2世も音楽好きではありましたが、兄ヨーゼフ2世や弟マックス・フランツ選帝侯とは違って、モーツァルトもサリエリもお好みではなく、チマローザびいきで、『秘密の結婚』の作曲のきっかけを与えています。
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ボンの人々は、再び選帝侯の実兄の即位でもあり、また同じく自由主義に理解のある皇帝の戴冠を喜び、カンタータで祝うことにしました。
そして、上演こそされなかったものの、ヨーゼフ2世葬送カンタータを作曲したベートーヴェンに再び、戴冠を祝うカンタータの作曲を委嘱したのです。
作詞も同じセヴェリン・アントン・アヴェルドンクです。
前作が上演されなかったのに、しっかり評価されていたということがうかがえます。
こんな大事な機会の音楽など、並みの作曲家には頼めません。
若いベートーヴェンは、重く悲しい葬送曲から一転、明るく輝かしい祝祭曲を作曲することになったのですが、これがまたかけがえのない経験になったのは言うまでもありません。
明暗2曲をセットで作曲するのは、後の運命&田園のように、ベートーヴェンの作曲スタイルのひとつにつながっていきます。
モーツァルトも、ベートーヴェンも、同じ新帝即位の機会に作曲していたわけです。
しかし、今回は十分な準備期間があったにもかかわらず、どういうわけかこの曲も上演には至らなかったのです。
Ludwig Van Beethoven:Kantate auf die Erhebung Leopold II. zur Kaiserwurde, WoO 88
演奏:レイフ・セーゲルスタム(指揮)トゥルク・フィルハーモニー管弦楽団、アボエンシス大聖堂聖歌隊
(ソプラノと合唱)
彼は眠っている・・・眠っている!
偉大な王者に平和な安息あれ!
彼が死んだとき、死は叫んだ
人々に災いあれ、と
ドイツの息子たちは星に向かって泣き叫んだ
災いだ!災いだ!
神は天からご覧になって憐れまれた
そして夜の恐怖を振り払い
空はふたたびバラ色になり
悪を嘲笑いながら
オリンポスの頂からそれは降りてくる
雷鳴のごとき大いなる喜びをもって
ばんざい!ばんざい!ばんざい!
雷鳴が鳴り響き
稲妻がまぶしく照らす
海の嵐はすでに収まり
諸国の涙はもう乾いた
ばんざい!ばんざい!ばんざい!
今、輝く雲がやってくる
そこに、ああ、私は何を見るのか?
それは彼、彼だ、レオポルト、レオポルトだ!
彼こそわれらの皇帝、王者、父!
戴冠ということでにぎにぎしく始まるかと思いきや、派手な序奏はなく、ソプラノの独唱が静かに歌い出します。亡き先帝の死に打ちひしがれている描写から、というわけです。歌はだんだん明るさを帯び、名君の死を憐れんだ神が、あらたな英雄をオリンポスから下すさまが描かれます。万歳の歓呼が響く中、新帝レオポルトが雲に乗って下界に現れますが、ティンパニとトランペットが加わったフルオーケストラの総奏は、とてもドラマチックで、すでにベートーヴェンならではの迫力です。モーツァルトをはじめとしたオペラに精通していたことが窺えます。
第2曲 アリア『流れよ、喜びの涙よ』
(ソプラノ)
流れよ、喜びの涙よ、流れよ!
あなたの頭上に
天使の声が聞こえないのですか?
ドイツの民よ!
竪琴のささやきのように甘い
天使の声が聞こえないのですか?
遥か彼方に私は見た
オリンポスの山上で彼に祝福の冠を戴せる神を
続くソプラノのアリアは、気高い気品に包まれながらも、うきうきとした思いがあふれた素晴らしいものです。フルートが天使のあいさつのように楽し気に奏でられます。後年、ウィーンに行ったベートーヴェンは、アントニオ・サリエリに師事してイタリア・オペラの作曲を本格的に学びますが、この時点でもほとんどアリアの技法は身につけているように感じます。思わず口ずさみたくなるようなご機嫌な旋律です。
(バス)
感嘆せよ、地の人々よ
ドイツ民族がそのような
豊かな祝福を受けるのを
ほら、彼はやってくる
彼の手のひらには平和が握られ
彼の顔にはドイツの平穏と幸運があふれ
彼の唇には人類の永遠の笑顔が宿っている
ばんざい!ばんざい!
ベートーヴェンには珍しい、通奏低音によるレチタティーヴォ・セッコです。ベートーヴェンが古典派の作曲家だということを思い出させてくれます。
(テノール)
無上の喜びに
なんと私の胸は高鳴ることか!
人々はもはや泣きはしない!
彼の笑顔を見て
彼が平和を授けるのを見て
人々の喜びの声は大きく
天国まで鳴り響く!
悲惨な悪夢は終わった
もはや国々の涙は乾いた
嵐は過ぎ去った!
同じくレチタティーヴォが、テノールに受け継がれ、新帝即位によって悲しみを振り払うことが呼びかけられます。
第5曲 三重唱『ヨーゼフを父と呼んだ人々よ』
(ソプラノ、テノール、バス)
ヨーゼフを父と呼んだ人々よ
もう泣くのを止めよ!
彼もまた同様に素晴らしい
彼も同じなのだ
人々よ、もう泣くのを止めよ!
初めて独唱から重唱に移ります。先帝崩御の悲しみから、新帝即位の喜びにつなげるため、構成がクレッシェンドしていくように工夫されているのです。イタリア的な装飾旋律は、中期のモーツァルトのスタイルを取り入れていると考えられています。新帝レオポルトは、先帝ヨーゼフにも勝るとも劣らない方だ、と三重唱で歌い上げます。
第6曲 合唱『ひれ伏すがいい、何百万の人々よ』
(合唱)
ばんざい!
ひれ伏すがいい、何百万の人々よ
香煙昇り立つ祭壇に!
玉座の主を仰ぎ
彼の恵みをあなたに与えるのを見よ!
喜びの賛歌を全世界に聞こえるように歌え!
彼はわれらに喜びと安寧を与える!
彼は偉大なり!彼は偉大なり!
いよいよ終曲です。これまで抑制してきたものを一気に爆発させる効果的な作りは、ベートーヴェンが得意としてきたものですが、その最初の作品といえます。何百万の人々によびかける内容と音楽は、まさに〝第九〟を彷彿とさせます。〝第九〟作曲中のベートーヴェンの脳裏には、若き日のこの作品が思い浮かんでいたのではないでしょうか。
前曲同様、ほとんど演奏されず、CDも少ない曲ですが、ベートーヴェンの偉大な歩みを知る上では欠かせない作品といえます。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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