これまで、ベートーヴェンの生い立ちを追ってきましたが、いよいよベートーヴェンの生誕250周年の日が近づいてきました。
ただし、誕生日は1770年12月16日とされていますが、記録に残っているのは、12月17日に洗礼を受けた、という事実だけです。
当時の習慣から、おそらく生まれたのは前日あたりだろう、とされているわけです。
ともあれ、コロナの影響で、予定されていたコンサートなどはかなりキャンセルとなり、記念すべき年はさんざんな試練の年となってしまいましたが、それも、不屈の精神で苦難の運命に立ち向かったベートーヴェンに見習え、ということなのかもしれません。
青年ベートーヴェンは、いよいよ大きな人生の転機を迎えます。
それは、ハイドンとの出会いです。
これまで何度も取り上げましたが、古典派の巨匠、〝交響曲の父〟〝弦楽四重奏の父〟とうたわれるハイドンは、30年の長きにわたり、ハンガリーの大領主エステルハージ侯爵家の宮廷楽長として務め上げました。
外界から遮断された、宮仕えの不自由な身でしたが、その代わり、主君ニコラウス侯の絶大な信頼のもと、宮廷楽団を使って様々な工夫や実験をすることができました。
その結果、ハイドンは音楽の形式を説得力のある形で整え、流行に左右されない独創的で普遍的な音楽を生み出し、後進の音楽家たちに歩むべき道を示すことができたのです。
1790年9月、長年仕えたニコラウス侯が逝去すると、後を継いだアントン侯はあまり音楽に興味がなかったため、宮廷楽団を解散し、58歳のハイドンには名誉楽長の称号と年金を与えて自由の身としました。
これは、すでにその名声がヨーロッパ中に高まっていたハイドンにとって、願ってもないことでした。
たくさんのオファーがハイドンに寄せられましたが、ハイドンが応じたのは、ヴァイオリニストにして興行主のヨハン・ペーター・ザロモン(1745-1815)でした。
ザロモンはボンの出身で、1758年から7年間ボンの宮廷楽団のヴァイオリニストを務め、その当時楽長であったベートーヴェンの祖父は上司ということになります。
一時期はベートーヴェンと同じ家に住んでいたこともあり、ベートーヴェン家とは家族ぐるみの付き合いだったと考えられます。
そのザロモンは、ハイドンに高額の報酬を提示し、はるばるロンドンまで演奏ツアーに連れ出すことに成功したのです。
1790年12月15日、ハイドンはウィーンを出発します。
出発に先立っての送別会では、モーツァルトがハイドンを引き止めます。
『パパ!あなたは広い世界をご存知ないし、外国語だって離せないのに。』
ハイドンを答えます。
『いや、私の言葉は世界中の人が理解してくれます。』
モーツァルトは別れに際しても泣き、ハイドンを抱きしめながら言いました。
『私は心配なんです、パパ。最後の別れを述べているみたいで!』
モーツァルトはハイドンの馬車が見えなくなるまで立ち尽くしていたといいます。
彼の心配は的中し、これはふたりの最後の別れになってしまいました。
世を去ったのはモーツァルトの方でしたが。
そんな別れに後ろ髪を引かれながら、ハイドンは12月25日、クリスマスにザロモンの故郷ボンに到着します。
翌26日、宮廷楽団の楽団員たちと懇親会が行われ、記録には残っていませんが、ベートーヴェンがそこに同席した可能性は大いにあります。
20歳のベートーヴェンは思いがけず憧れの巨匠と会えて、喜びとともに、相当緊張したことでしょう。
ハイドンは旅路を急ぎ、ロンドンへと向かいます。
ハイドンの第1次ロンドン訪問については、下記に書きました。
www.classic-suganne.com
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大成功だった第1次ロンドン訪問のあと、ウィーンでの帰路、ハイドンは再びボンに立ち寄ります。
1792年7月のことです。
往路のボン滞在は1泊程度とみられますが、今回はやや時間に余裕があったようです。
このとき、ベートーヴェンはハイドンに正式に紹介され、先に作曲した『皇帝ヨーゼフ2世葬送カンタータ』を提出します。
ザロモンの口利きもあったかもしれません。
(『皇帝レオポルト2世戴冠カンタータ』だったという説、あるいは両方、という説もあります)
ハイドンはカンタータの仕上がりを見て、その非凡な才能に驚き、この若者の大いなる将来性を確信します。
そして、ウィーンに来て自分の元で作曲の勉強をするよう勧め、その旨選帝侯マックス・フランツに進言してくれました。
ハイドンのような巨匠が弟子を取ることなど、めったにありませんから、選帝侯も喜んで許可し、1年間の有給休暇を与え、給費留学生とする決定を下しました。
ベートーヴェンほどの才能、どこかで世に出るチャンスはあったでしょうが、ここまでトントン拍子で千載一遇のチャンスを手にするとは、やはり持っている人は持っている、といえるでしょう。
宮廷楽団のメンバー、「読書協会」やブロイニング家の人々は、出発までの2ヵ月の間に何度もパーティーを開き、この若者の前途を祝しました。
ベートーヴェンの手元には「記念帳」があり、そこにゆかりの人々が激励の言葉、別れの言葉を寄せ書きのように記しましたが、なかでも有名なのが、ワルトシュタイン伯爵の書き込みです。
親愛なるベートーヴェン!君は今、長年の念願かない、ウィーンに向けて旅立つ。モーツァルトの守護天使はその子の死をまだ悲しみ嘆いている。そこで尽きることなきハイドンに棲む場所を見出したが、彼のもとでは仕事はない。守護天使は彼を通してもう一度誰かと一体化したいと願っているのだ。たゆまぬ努力をもって、君は、モーツァルトの精神をハイドンの手から受け取りたまえ
ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの三大巨匠の関係が、同時代の人の言葉で見事なまでに綴られています。
モーツァルトを育てた守護天使は、ハイドンのもとに行こうにも、ハイドンはもう完成してしまっている。
まさに行き場は君、ベートーヴェンのところなのだよ!と。
記念帳の最後には、ブロイニング家の長女、エレオノーレの言葉が綴られています。
友情は善なるものを伴い
夕べの影のごとく育つ
人生の落日のときまで
ゲーテの詩友、ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーの詩の引用です。
1792年11月2日早朝、ベートーヴェンは駅馬車でボンを立ちました。
前途洋々、燃える希望を胸に秘めて。
私も昔、晩秋にライン河畔を旅したことがありますが、広がるブドウ畑が黄金色に輝く光景は忘れられません。
ベートーヴェンはこの美しい故郷を生涯二度と見ることはありませんでした。
ウィーンで流行のハルモニームジークを作曲
ボン時代最後の曲として、八重奏曲(オクテット)を取り上げます。
オーボエ2、クラリネット2、ホルン2、ファゴット2の管楽のみの編成は、ウィーンで流行ったハルモニームジークで、ヨーゼフ2世もこれを愛し、宮廷ブラスバンドをこの編成で正式に発足させました。
モーツァルトも2曲書いていますが、これは「セレナード」と題されて、以前取り上げました。
www.classic-suganne.com
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ベートーヴェンのこの作品も同じジャンルなので、セレナードといってもよいと思いますが、自筆譜には「パルティア(組曲)」と書かれています。
これもモーツァルトの『グラン・パルティータ K.361(370a)』と同様の呼び方です。
モーツァルトの作品を十分研究、参考にしたはずで、この曲の調性は変ホ長調でK.375と同じ、4楽章というのはベートーヴェンが好きなハ短調のK.388と同じです。
この曲は、選帝侯マックス・フランツが、兄ヨーゼフ2世の宮廷音楽を自分の宮廷でも実現したいと思ってベートーヴェンに作らせたものと思われます。
ウィーンにも持っていき、おそらくハイドンの指導を得て改訂したと考えられ、今残っているのは改訂版のみです。
出版はかなり遅く、1830年秋になったので、後世「作品103」の番号が振られました。
そのため後期の作品と勘違いしてしまいがちですが、初期の代表作なのです。
ワルトシュタイン伯爵の書き込みにあるように、母の死ですぐ帰らざるを得なかったウィーンに再び行きたい、という強い思いが込められた作品といえます。
Ludwig Van Beethoven:Octet in E flat major, Op.103
演奏:イル・ガルデリーノ Il Gardellino(古楽器使用)
管楽合奏曲では、なんといってもツカミが重要です。音色からいっても祝祭的な音楽ですから、これから楽しい時間が始まるよ!と感じられるような場の雰囲気を醸し出さなければなりません。若いベートーヴェンもそれを十分心得ていて、いたずらでくすぐるような短いリズムと、息の長い伸びやかな旋律を反復して、ワクワクするような音楽を創り出しています。聴く人はまさにモーツァルトのセレナードを彷彿とさせたでしょうが、展開部でト短調に転じ、さらにハ短調で突っ込んでいくあたりはベートーヴェンの独創的な世界です。終わり近くでは、クラリネットとホルンがそれぞれカデンツァ風の見せ場を作りますが、このような機会音楽では珍しく、この曲が食卓のBGM(ターフェルムジーク)ではなかったことを示します。
第2楽章 アンダンテ
独奏オーボエの歌が心に沁みる緩徐楽章です。歌はファゴットに受け継がれ、さらにほかの管楽器たちがそれぞれの役割に従って、抒情豊かにハーモニーを紡いでいきます。中間部の不安げな揺らぎも実に美しいものです。コーダ近くのカデンツァで、この演奏では『田園』のフレーズが奏でられ、ベートーヴェンの原点のひとつというべきこの曲の由来が明らかにされるかのようです。
メヌエットと題されていますが、その自由度はもはやスケルツォといってよいでしょう。スタッカートの動機は、第九の第2楽章スケルツォを思わせます。訥々としてつぶやくようなトリオは不思議な趣きです。ホルンの強奏アクセントも、ホルンを愛してその効果を追求したベートーヴェンらしさが出ています。
第4楽章 フィナーレ(プレスト)
躍動感と緊張感あふれるフィナーレです。激しく上下する音階のパッセージは、モーツァルトの『グラン・パルティータ』のフィナーレにインスパイアされたものと思われます。構成は手が込んでいて、ホルンが二重奏で歌い合い、レガートな歌と、スタッカートな切れ味が好対照を生んでいます。
Ludwig Van Beethoven:Rondino in E flat major, WoO25
この作品は、 『オクテット』がボンで作曲、演奏されたあと、ウィーンでハイドンの指導のもと改訂されますが、その際、新しいフィナーレとして作曲されたものの、差し替えられることなく、そのまま独立した曲とされたものです。『ロンディーノ』は出版社がつけたタイトルで、自筆譜にはありません。現フィナーレとは対照的な、ゆっくり、しみじみとした曲調で、確かに『オクテット』とは違った雰囲気をもっていますので、合わないような気がします。AーBーAーCーAーコーダという構成になっており、Aのメインテーマはどこかヘンリー・パーセルの『トランペット・チューン』を思わせます。Bはハ短調の哀調こもった部分ですが、最初と最後はクラリネット、中間部はオーボエとファゴットが主奏を務める、ミニ3部形式です。Cではふたつのホルンとファゴットの三重奏ですが、この演奏のように古楽器のナチュラル・ホルンを使うと、自然倍音でないために、そのくぐもった音色が逆に渋い魅力を感じます。コーダでもホルンの二重奏となりますが、そこでは弱音器をつけたままで半音階を奏でるという、当時開発されて間もない新しい吹奏法が導入されているのです。のどかな音楽ですが、若きベートーヴェンの新しく大胆な試みを覗うことができる作品です。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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