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ボンの宮廷がなくなった‼
ボンに宮廷を置くケルン選帝侯(大司教)の給費留学生として、ウィーンでハイドンのもとに弟子入りした若きベートーヴェン。
前回まで見てきましたように、ハイドンはじめ、他の先生のところにも出入りしながら、順調に作曲技法を磨きました。
一方、ベートーヴェンのピアノ演奏はウィーンの音楽好きたちを驚かせ、ライバルの嫌がらせや、その前衛ぶりを嫌悪する保守的な批評家の論調もものともせず、人気は日増しに高まっていました。
しかし、そもそもこの留学の目的は何だったでしょう?
雇い主の選帝侯マクシミリアン・フランツは大のモーツァルトファンで、彼を宮廷楽長に招く考えもあったと言われています。
そこで、かつてのボンの宮廷楽長の孫であり、〝モーツァルトの再来〟との呼び声高いベートーヴェンに期待をかけ、ウィーンに留学させて、いつかは宮廷楽長にしたい、という構想だったのです。
そうでなければ、財政立て直しに尽力していた選帝侯が、一音楽家の留学費用など出すわけがありません。
ボンの街を、モーツァルト風の音楽が鳴り響く〝プチ・ウィーン〟にするのが選帝侯の夢だったのです。
しかし、この構想、いやボンの宮廷そのものが、フランス革命の嵐によって吹き飛ばされてしまいました。
ベートーヴェンがウィーンに来てもうすぐ1年になろうという1793年10月、選帝侯の姉、フランス王妃マリー・アントワネットがギロチンにかけられます。
革命の自国への波及を恐れて圧力をかける諸国に対し、〝殺られる前に殺る〟とばかりにフランス革命政府は攻勢に出ます。
フランスとドイツの国境に近いケルン選帝侯領はたびたびフランス軍の侵攻を受け、選帝侯は何度もボンから避難と帰還を繰り返し、文化振興どころではなくなりました。
ついに、1794年3月には、ベートーヴェンへの留学費用支給が中止となってしまいました。
ハイドンが支給増額を選帝侯に頼んでくれたのが前年の11月ですから、ほんの数か月で逆の結果になってしまったわけです。
そして、その年の10月には、選帝侯は最終的にボンを脱出し、二度と戻ることはできず、ベートーヴェンが戻るべきボンの宮廷は消滅してしまいました。
ベートーヴェンにとっては将来のキャリアプランまで吹き飛んでしまい、茫然自失となってもおかしくない状況にみえますが、彼が動揺した記録はありません。
そもそも彼は自分の今後をどう考えていたのでしょうか?
ウィーン留学を終え、名実ともに実力と箔をつけたベートーヴェンが、故郷に帰り、選帝侯自慢の宮廷楽長として、ハイドンのように定年まで宮仕えをする、というのは想像できません。
ただ、後年のベートーヴェンも宮廷楽長就任の話には度々食指を動かしていますから、音楽家として最も安定した地位と収入をもたらすこの公職に魅力を感じていたのは事実と思われます。
しかし、それは選択肢のひとつであって、ウィーンでいきなりの高評価を得た今、フリーで生活していく自信も確実に芽生えていたと考えられます。
実際に、他ならぬ師匠のハイドンが、宮廷楽長を退職後にフリーとなり、2度のロンドン訪問で莫大なお金を稼いだのを目の当たりにしています。
まだまだ音楽家の収入の道は宮廷や貴族、教会の保護やレッスンが主でしたが、確実に力をつけてきた市民層が、新たな音楽消費者となりつつありました。
そして、宮廷の職を失ったベートーヴェンに、まさに新しい道を切り開く、千載一遇のチャンスがやってきます。
ついに来た!コンサートデビューのチャンス
それは、コンサートへの出演でした。
ウィーンには音楽家協会(トーンキュンストラー協会)があり、音楽家の未亡人や孤児に経済的支援をするためのチャリティーコンサートを毎年主催していました。
音楽家が音楽家仲間のために演奏するのですから、そのレベルは高く、ウィーン中の音楽好きが毎年楽しみにしているイベントでした。
会場は、宮廷劇場であるブルク劇場を使用でき、時には皇帝も臨席しています。
1795年は、3月29日、30日の2日間のプログラムで、その1日目の演目に、ベートーヴェン自作自演のピアノ・コンチェルトが選ばれたのです。
ウィーンでのベートーヴェンの名声はうなぎ登りでしたが、これまでの活動は貴族のサロンが舞台で、その音楽に接することができたのはほんの少数の人々でした。
大きな公共の場に出るのはこれが初めてで、本当の意味でのデビューとなります。
しかもこの檜舞台は、いきなり新人が武道館ライブや紅白に出るようなものです。
ベートーヴェンの初出演に尽力したのは、当時のウィーン宮廷楽長だったアントニオ・サリエリだといわれています。
モーツァルトの足を引っ張り、挙句の果てに殺したとまで疑われてすっかり悪人扱いのサリエリですが、歴史上果たした役割は、ベートーヴェンやシューベルトをはじめ、偉大な後進の育成に力を尽くし、立派な功績の持主なのです。
さて、ベートーヴェンのデビュー演奏の評判はどうだったのでしょうか?
4月1日付の『ウィーン新聞』は次のように報じています。
『初日の幕間に有名なルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン氏は自作の全く新しいピアノ協奏曲をひっさげて登場し、聴衆の共感を得て喝采を浴びた。』
すでに〝有名な〟と新聞に書かれ、その後も彼はあちこちで引っ張りだこになっていくのです。
第1番より先にできた第2番
ところがこの記念すべきコンサートで、ベートーヴェンが演奏したのはどの曲だったのか?というのはずっと議論の的でした。
長年、それはピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 作品19だと言われてきました。
〝第2番〟にはなっていますが、実際には〝第1番〟の方が新しい、というのはよく知られていますし、それは確実です。
両曲とも作曲時期は明確ではなく、何度も校訂されています。
ベートーヴェンは最初に作曲した第2番に満足しておらず、何度も修正を加えているうちに、出版が第1番より遅くなってしまい、第2番になってしまった、というのが番号が逆になった理由のようです。
第2番も魅力的な曲ですが、やはりまだ粗削りな部分が感じられます。
一方、第1番は堂々たるもので、非の打ちどころがなく、ここぞ、というデビューの場にふさわしい感じがします。
演奏されたのは第2番ではない?
演奏会に駆けつけた親友ヴェーゲラーは、次のように証言しています。
演奏会の2日前の午後になってやっとウィーンに着いた。その翌日、ベートーヴェンの部屋で行われた最初の練習で、ピアノフォルテが管楽器よりも半音低いことがわかった。彼はすぐに管楽器そのほかをイ調の代わりに変ロ調に合わせて、自分のパートは嬰ハ長で弾いた。
この証言は、演奏されたのが第1番であることを示唆していますが、長年学者はこれはヴェーゲラーが第2番と混同している、としてきました。
しかし、その後の研究でスケッチやほかの資料の分析によって、演奏されたのは第1番だということが立証され、ヴェーゲラーの証言の正しさも裏付けられています。
ピアノ・コンチェルトは、モーツァルトが自分の自作自演を行って人気を博し、確立させたジャンルです。
名人芸を披露するのが目的でしたが、だんだんと曲は深みを増していき、最後にはウィーンの聴衆は離れてしまいました。
ベートーヴェンも、ピアノ・コンチェルトに関してはモーツァルトと同じ道をたどっているように見えます。
第1番、第2番は、ベートーヴェンのヴィルトゥオーゾ(名人)としての名技を見せつける点に重きがあり、第3番からだんだんと深みを増して、第4番、第5番に至ってはシンフォニーに匹敵する芸術性に高まっています。
その意味では、第1番、第2番は、モーツァルトのピアノ・コンチェルト、特に10番台に似た雰囲気があります。
この第1番は、雰囲気的にはモーツァルトの第17番 ト長調 K.453に近い印象を受けます。
第1楽章の始まり方、第2楽章の深い抒情、第3楽章のはしゃぎっぷりはよく似ています。
しかし、その個性はモーツァルトとは似て非なるもの。
私も若い時分にモーツァルトのピアノ・コンチェルトをかなり聴き込んだあとで、この第1番を初めて聴いたのですが、その衝撃は忘れられません。
この迫力は、やはりベートーヴェン、としか言いようがないのです。
何度聴いても飽きない、大好きなコンチェルトです。
ちなみに、この慈善コンサートの2日目には、ベートーヴェンのピアノ即興演奏があり、それも成功だったはずです。
さらにその翌日、3月31日にはモーツァルトの未亡人コンスタンツェを助けるための演奏会があり、オペラ『皇帝ティトゥスの慈悲』が上演されましたが、その幕間に、ベートーヴェンはモーツァルトのピアノ・コンチェルト 第20番 ニ短調 K.466を演奏しています。
モーツァルトには珍しい、激情の嵐のようなこの曲をベートーヴェンは気に入っており、この時弾いたカデンツァも書き残しています。
今も、この曲の演奏でベートーヴェンのカデンツァを弾くピアニストは多いです。
皇帝フランツ2世はじめ、ウィーンの大観衆の前に初めて登場したベートーヴェンの姿をぜひ想像しながら味わってみてください。
Ludwig Van Beethoven:Piano Concerto no.1 in C major, Op.15
演奏:ロナルド・ブラウティガム(フォルテピアノ:アントン・ヴァルター1805年製のレプリカ)、マイケル・アレグザンダー・ウィレンズ指揮 ケルン・アカデミー
Ronald Brautigam (Fortepiano), Michael Alexander Willens & Die Köln Akademie
第1楽章 アレグロ・コン・ブリオ
このコンチェルトは初演の6年後、1801年3月に「大協奏曲」とわざわざ銘打って出版されています。その名の通り、ティンパニ、トランペットを伴う大編成です。一方、第2番 変ロ長調はそれらは伴わないので、大舞台には第1番の方がふさわしいと感じます。
最初は第1ヴァイオリンの弱音で、第1主題がさりげなく静かに歌い始めます。ドカン、とくるのはその後です。この歌い出しもモーツァルトの17番に似ているように思います。堂々としたトゥッティのあと、ヴァイオリンが第2主題をこれも柔らかい感じで提示しますが、ふつうト長調になるところ、変ホ長調にしているところが独創的で、そのため微妙に不安な雰囲気を醸し出しているのがベートーヴェンならではの工夫です。
やがてピアノの独奏が始まりますが、そのテーマは第1主題とも第2主題とも異なった新しいもので、第3主題ともいえます。ピアノは第2主題を取り入れながらだんだんと華麗さを増していき、聴く人をその世界に引き込んでいきます。管楽器たちと呼び交わしながら進み、トリルでオーケストラのトゥッティにつなぎ、展開部に突入。ピアノが神秘的な分散和音を奏でる中、ファゴット、そしてフルートが第1主題の姿を変えた魅力的なフレーズを繰り返します。やがて、決然と再現部が戻ってきて、ピアノは華麗に上行と下行を繰り返し、金管が派手にカデンツァを導入し、楽章を閉じます。
第2楽章 ラルゴ
モーツァルトのピアノ・コンチェルトの緩徐楽章は絵のように美しいものですが、ベートーヴェンのそれも、独特の詩情に溢れ、心に染み入ります。この楽章も、平明に始まりますが、だんだんと夢の世界に誘われていきます。ハ長調に挟まれた楽章が変イ長調をとるのも異例で、ベートーヴェンの斬新な試みといえます。ピアノの歌に対し、オーケストラの伴奏は繊細に寄り添います。後半、ピアノは雲の上で無邪気にステップを踏むかのよう、クラリネットは天使の歌のよう。気が遠くなるくらいに美しい、低弦のため息。ピアノも恋人のようにそのため息をなぞる。ピチカートが切ないまでに優しくて、この時間がいつまでも終わってほしくない、という恍惚感に包まれます。
第3楽章 ロンド(アレグロ・スケルツァンド)
この上なく楽しいロンドのテーマをピアノが叩き出しますが、単に楽しいだけでなく、迫力と緊張感をはらんでいて、まさしくこれはベートーヴェンです。玉を転がすようなモーツァルトの優雅なロンドに慣れたウィーンの聴衆にはどんな風に聞こえたでしょうか。ロンドの間にピアノが奏でるクプレは、まるでオペラ・ブッファに出てくるコケティッシュで小悪魔的なメイドか、あるいは気まぐれで求婚者や執事を振り回すわがまま令嬢のよう。やがてオーケストラがクレッシェンドして、カデンツァを導入しますが、それが終わってもまだまだ見せ場が用意されています。ピアノと管がいたずらっぽく呼び交わし、ピアノがアダージョで静かな瞬間を見せたかと思うと、それを追い払うようなオーケストラのフォルテッシモで曲を閉じます。ユーモアたっぷりの爽快なベートーヴェンです。
ベートーヴェンのピアノ・コンチェルトはわずか5曲ですが、このあと発展していくのではなく、それぞれが頂点と言っていいでしょう。
残念ながら、このタイプの曲はこの曲だけなのです。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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