プライベートな教材用ソナタ
引き続き〝18世紀のベートーヴェン〟を聴いていきます。
まだ、運命の耳の病に気づくか気づかないか、という頃です。
ベートーヴェンはピアニスト兼作曲家としてメキメキと腕を上げ、名声もうなぎ登りでしたが、定職はないので、貴族や富豪の子女へのピアノレッスンが大きな収入の柱でした。
そんな頃、1795年から1797年あたりに作られたと考えられる、初心者向けのピアノソナタがあります。
ピアノソナタ 第19番 ト短調と、第20番 ト長調 作品49です。
このふたつのソナタは「ソナチネアルバム 第1巻」に収められていて、モーツァルトの第16番(旧第15番)ハ長調と並んで、ピアノを習っている人にはお馴染みの曲です。
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素朴な疑問だらけの曲
でもこの2曲には、いくつか、あれ?と思う疑問があります。
まず、作曲時期が、ピアノソナタでいえば作品2と作品7の間の初期作品なのに、なぜ〝作品49〟なの?
番号も、作曲順ならピアノソナタ 第4番、第5番のはずなのに、なぜ第19番、第20番なの?
次の第21番は、あの『ワルトシュタイン』ですからね…
あと、それぞれなんで2楽章しかないの?
なぜ、2曲とも全部G調(ト調)なの?
ひとつひとつ謎解きをしていきましょう。
作品番号でいえば、ベートーヴェンの場合は必ずしも作曲順ではありません。
例外もありますが、基本的には出版順です。
世に出た順番、というわけです。
出版の際に付される番号なので、作曲者が満を持してつけるのですが、出版社が勝手にふる場合もあります。
モーツァルトも、これぞ、という出版譜には自ら作品番号をふっていますが、ついていない曲の方が多いので、後世ではもっぱらケッヘル番号だけで認識されています。
ベートーヴェンのこのソナタは、初心者向けに比較的に平易に書かれているので、弟子の指導に使う教材だったと考えられています。
いわば〝自分使い〟のプライベートなもので、広く出版するつもりはなかったのです。
これを出版したのは、ベートーヴェンのすぐ下の弟、カスパール・カール(1774-1815)でした。
ベートーヴェンが1792年にウィーンに出てきたあと、ふたりの弟、カスパール・カールとニコラウス・ヨハン(1776-1848)はしばらくボンに残っていました。
次弟カスパールには比較的音楽的素養があったので、ボンでのベートーヴェン家の家業であった音楽を継ぎ、ピアノ教師で生計を立てていました。
ボンの宮廷はナポレオンに攻められて崩壊していましたので、宮廷での仕事は得られなかったのです。
ボンの街は小さく、また貴族たちも落ち着かない状況で、教師業もあがったりだったようなので、1794年にベートーヴェンはカスパールをウィーンに呼び寄せました。
ウィーンならピアノ教師の需要が豊富にありましたし、何よりベートーヴェンが築きつつあった人脈が物を言います。
ベートーヴェンにきた教師の依頼で、受けきれないものを弟に回したのです。
ちなみに末弟のヨハンは、音楽には興味も素養もなく、薬剤師を目指しました。
ボンの宮廷薬剤局で薬剤師の資格を取ったヨハンも、1795年にウィーンに移住し、ケルントナートーア近くの薬局ツム・ハイリゲン・ガイストに就職しました。
弟たちは、ベートーヴェンのウィーンでの成功のおかげで、生きる新天地を得たといえます。
兄のマネージャーを務めたカスパール
ふたりとも一応独立した生計を立てていましたが、ベートーヴェンはかなり援助もしていたようです。
そのなかで、カスパールは音楽業界ですからベートーヴェンのマネージャー的な仕事もやるようになりました。
この〝教育用作品〟を出版したのは、カスパールだったのです。
そこにベートーヴェンの意思があったのかどうかは定かではありません。
この曲は、作曲から10年近く経った1805年に、ウィーンの美術工芸社から『2つのやさしいソナタ』として出版されました。
そのため、作品49という、作曲順からかけ離れた番号がつけられた、というわけです。
この曲を、カスパールはいくつかの出版社に打診し、高く売ろうとしたようです。
1802年11月に、アンドレ社にベートーヴェンの作品を売り込んだ手紙が残っており、そこにはそれぞれ値段が提示されています。
交響曲 第1番が300フローリン、ピアノ協奏曲(第1番か第2番)300フローリン、3曲のピアノ・ソナタ(作品31)最低900フローリン、ロマンス2曲135フローリン、そして〝2つのやさしいソナタ〟がそれぞれ280フローリン。
以前の記事で、1801年にベートーヴェン自身が自作品に値段をつけて出版社に売り込んだ手紙を取り上げましたが、そこでもピアノソナタはシンフォニーやコンチェルトのような大曲と同じくらいの値がつけられていました。
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カスパールのこの交渉には、ベートーヴェンの手紙にある曲も含まれているので、おそらく、了解なく勝手にやった可能性が高いです。
当時は同じ曲を複数の出版社に売ることもあり、またパート譜と総譜を別の出版社から出したりすることもありました。
著作権が確立しておらず、海賊版が当たり前の時代ですから、こういったこともあり得ますが、同じ曲なのに出版譜に違いがあったりすると、後世の研究者を悩ませます。
曲の構成の謎もこのあたりにありそうです。
元はひとつの曲だった!?
なぜ2曲がそれぞれ2楽章しかなく、また全ての曲がト長調またはト短調なのか。
推測できる答えは簡単、これはもともとひとつの曲だったのでしょう。
この頃のベートーヴェンのピアノソナタは、4楽章でした。
前後の作品もそうです。
4楽章というのはモーツァルトにもハイドンにも例がなく、ピアノでシンフォニーや弦楽四重奏曲の世界を構築しようとしたベートーヴェンの野心的な試み、とされていることは以前の記事で取り上げました。
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そして、この頃の作品が各楽章が主音で統一、またはそれに近い構成になっていて、例えばピアノソナタ 第1番は、第1楽章ヘ短調、第2楽章へ長調、第3楽章ヘ短調、第4楽章ヘ短調、といったように主音で統一されています。
今回の2曲の構成は次のようなものです。
第19番 ト短調
第1楽章 アンダンテ ト短調
第2楽章 ロンド:アレグロ ト長調
第20番 ト長調
第1楽章 アレグロ・マ・ノン・トロッポ ト長調
第2楽章 テンポ・ディ・メヌエット ト長調
これはもう、まとめてひとつのソナタだったとしかいえません!
楽章の性格も、第1楽章の速いアレグロ、第2楽章の緩徐楽章、第3楽章のメヌエットまたはスケルツォ、第4楽章のロンド、と揃っています。
元に復元すれば次の通りとなります。
『ピアノソナタ ト長調』
第1楽章 アレグロ・マ・ノン・トロッポ ト長調 (第20番の第1楽章)
第2楽章 アンダンテ ト短調 (第19番の第1楽章)
第3楽章 テンポ・ディ・メヌエット ト長調(第20番の第2楽章)
第4楽章 ロンド:アレグロ ト長調 (第19番の第1楽章)
この説はベートーヴェン研究者の平野昭先生も唱えられており、まず間違いないと思います。
なぜ1曲を2曲にバラしたのか?
では、せっかくの1曲を、なぜバラバラに2曲に分割して出版されたのでしょうか。
その理由は、先の売り込みの手紙から窺うことができます。
明らかに大規模で、ページ数も多いシンフォニーやコンチェルトは、作曲家の労力は多大ですが、楽譜出版となると、需要の面でかなり不利です。
オーケストラをもっているような宮廷や貴族、劇場ででもなければ、個人で買っても使い道はありません。
それに比べて、ピアノソナタの楽譜は、ピアノが爆発的に普及し始めたこの時代には大いに売れました。
出版社のマーケティングからすれば、楽譜の商業的価値は、ピアノソナタのような小品の方が、シンフォニーなどより上なのです。
初心者向けのこの曲なら、なおさらです。
おそらく、この出版はベートーヴェンの意思ではなく、カスパールの商売根性から、独断で行われた可能性が高いと思われます。
ベートーヴェンとしては、既に巨匠としての名声が確立した時期に、10年前のレッスン用教材を、今さら自作として世に出すつもりはさらさらなかったでしょう。
しかし、初心者でも弾けるベートーヴェンの曲、というのがどれほど貴重かは、現代でもこの作品がこれだけ親しまれていることから見ても明らかです。
カスパールからすれば、これでひと儲けしない手はありません。
そして、1曲より2曲に水増しした方が高く売れる、というわけです。
先の出版社にも1曲280フローリンで売り付けようとしたのですから。
短い2楽章の小品として、初版にはわざわざ〝ふたつのやさしいソナタ Deux Sonates faciles〟と題しました。
これもベートーヴェンの意思とは無関係に、カスパールが考えた売り出し文句なわけです。
カスパールは、マネージャーとして、出演、作曲に忙しくお金のことにかまっていられないベートーヴェンに代わって、出版社との交渉にあたりましたが、評判は悪く、不誠実なことで有名だったのです。
というわけで、出版の形で曲を聴いていくものの、ベートーヴェンの創作意図に従って鑑賞するためには、先の順番で4楽章として聴いた方がよいと思われるので、それもぜひお試しください。
Ludwig Van Beethoven:Piano Sonata no.19 in G minor, Op.49-1
演奏:ロナルド・ブラウティハム(フォルテピアノ)
Ronald Brautigam (Fortepiano)
第1楽章 アンダンテ
本来の第2楽章です。自筆譜は残っていませんが、大英博物館に所蔵されたスケッチ帳「カフカ雑録」に、『悲愴ソナタ』のロンドのスケッチの前にあることから、1797年頃の完成と推測されています。憂鬱な気分が胸に迫る第1主題と、明るい慰めのような平行長調変ロ長調の第2主題が対比される、簡潔なソナタ形式の典型です。展開部は激しいトリルとスフォルツァンド(その音だけを強く)から始まって、テーマの労作があり、初心者用ながらベートーヴェンのソナタの真髄に触れることができます。再現部の第2主題がト短調となるのも定石通りです。第1主題を加工したコーダもベートーヴェンらしい香りが芬々とします。
第2楽章 ロンド:アレグロ
本来の第4楽章です。形式はA-B-C-B-A-C-A。第1主題はシンプルとはいえず、活発に動き回るかのような形です。Bはト短調でいくぶんエキゾチックな感じがします。Cは変ロ長調のゆっくりした趣きで、目まぐるしく雰囲気が変わるため、初心者用とはいえ表現はなかなか難しいのではないでしょうか。C、Aの再現はカノン的でコーダを形作っています。
Ludwig Van Beethoven:Piano Sonata no.20 in G major, Op.49-2
演奏:ロナルド・ブラウティハム(フォルテピアノ)
Ronald Brautigam (Fortepiano)
第1楽章 アレグロ・マ・ノン・トロッポ
本来の第1楽章です。このスケッチはアリア『ああ、不実な人よ』のあとにあるので、1795年あるいは1796年の完成と推定され、第19番より前にあたります。そのことからも第1楽章の可能性が高くなります。初版譜のこの楽章には強弱記号が一切つけられていないので、マンドリンの小品同様、チェンバロを想定して作曲されたという仮定も成り立ちます。さりげないような語り口の第1主題で始まり、流れるような経過句を経てニ長調の第2主題が歌われますが、第1主題を短くしたような作りで、関連付けがなされています。展開部はニ短調のように始まり、結果的に実はイ短調でした、という凝った転調があり、ホ短調にまでいきます。やさしいソナタ、と銘打ってありますが、聴く方の耳には斬新で充実した響きに聞こえるのです。
第2楽章 テンポ・ディ・メヌエット
本来の第3楽章です。メヌエットのテンポですが、A-B-A-C-Aのロンド形式です。ロンドのテーマは、楽しげな中にも気品のあるものですが、後に大人気を博した七重奏曲 作品20の第3楽章と同じなので、かつては作品番号から、七重奏曲から取られたと考えられていましたが、実は逆でした。初版譜では強弱記号は2ヵ所にしかありません。Bは跳ね回るような華麗なものです。Cはトリオにあたる部分ですが、ハ長調で舞曲の性格は無くなっている自由な雰囲気です。最後はロンドのテーマを展開しながらコーダとなります。
ベートーヴェンが弟子に弾かせて、指導している光景が目に浮かぶ曲です。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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