失われた台本
ベートーヴェン唯一のバレエ音楽、『プロメテウスの創造物』の続きです。
前回は、序曲と、神の怒りを表す導入の「嵐」を聴きましたので、いよいよ本編に入っていきます。
前述しましたように、バレエの台本は惜しいことに失われてしまっていて、詳しい内容は分かりません。
よって、当時のままのバレエ上演は不可能です。
ただ、脚本を書いたヴィガーノが1821年に亡くなった直後に出版された、『振付師・演出家サルヴァトーレ・ヴィガーノの生涯と作品の記録』という彼の伝記の中に、ストーリーの概要が記されています。
それが、あらすじや、音楽のつけられた場面を知る唯一の手掛かり、ということになります。
それによると、前回取り上げたギリシャ神話のプロメテウス物語とはかなり違っていて、ヴィガーノのアレンジだったことが分かります。
舞台は全2幕で構成されています。
第1幕のあらすじ
プロメテウスは泥と水から、男女ペアの粘土人形をこしらえます。
そして、大神ゼウスの怒りの雷鳴とどろくなか、天上の火を盗み出し、下界に降りてその火を人形の心臓に吹き込み、命を与えます。
プロメテウスがさすがに疲れて眠っている間に、粘土人形は動き出します。
目覚めたプロメテウスはそれを喜びますが、人形たちの動きはあまりにも粗野で不器用、ふるまいに感情と理性が欠けていました。
失望したプロメテウスは、いったんは人形を壊してしまおうとしますが、物事をしっかり教えればまともになるのではないか、と思いとどまり、芸術の山、パルナソス山に連れていくことにします。
第2幕のあらすじ
男女ふたりを連れてパルナソス山に着いたプロメテウスは、太陽神にして芸能・芸術の神、アポロンに彼らの教育を頼みます。
快諾したアポロンの指示により、まず、楽器の女神エウテルペと、舞踏の女神テルプシコラーが彼らに豊かな感情を教えます。
次に、悲劇の女神メルポメネが、悲しみを教えるため、なんとプロメテウスを殺してしまいます。
悲しむ男女のもとに、今度は喜劇の女神ターリアが現れ、これは戯れの遊びであることを伝えます。
〝ドッキリ〟だというわけです。
牧神パンが登場し、その不思議な笛の音によって、プロメテウスは生き返ります。
そして酒の神ディオニソス(バッカス)がお供を連れて加わり、盛大な饗宴に。
このような教育により、プロメテウスの創造物たる泥人形たちは、理性や感情、そして愛情を得て、『人間』になってゆくのです。
ギリシャ神話とはかけ離れた筋書きですが、ここには18世紀後半の啓蒙思想が色濃く表現されています。
人間は、ただ生まれただけではだめで、理性や豊かな感情を得て、はじめて人間になれるのだ、という思想です。
このバレエが上演されたのは19世紀に入ったばかりの頃ですが、キリスト教の因習を打ち破り、理性の光を求めた18世紀の輝きが続いています。
キリスト教では、唯一の絶対神が人間を創造したことになっていますから、聖書への大胆な挑戦でもあります。
このようなバレエが堂々と宮廷劇場で演じられ、喝采を得るとは、まさに時代は近代に入っていったのです。
そして、プロメテウスに、ベートーヴェンは、新しい時代を切り拓く英雄像を見出し、その音楽化に取り組むことによって、ヒロイズムの表現へとのめり込んでいくのです。
Ludwig Van Beethoven:The Crestures of Prometheus Op.43
演奏:ゴットフリート・フォン・デア・ゴルツ指揮 フライブルク・バロックオーケストラ
Freiburger Barockorchester & Gottfried von der Goltz
第1幕
抜き足、差し足、忍び足。命を吹き込まれたふたりの泥人形が、たどたどしい足取りで歩き始めます。男性の泥人形を演じるのはヴィガーノ自身です。やがて音楽は喜びいっぱいに。命を与えられたうれしさに、泥人形たちは跳ね回ります。パントマイムとバレエを融合させ、新しい芸術へと昇華させたヴィガーノの意図を、若きベートーヴェンは見事に音楽化したのです。
荘重な序奏がついていますが、調性が確立しておらず、不安な感じを与えます。命を得た泥人形たちは、粗野で、まるで獣のよう。命だけではだめなのです。プロメテウスは頭を抱えます。いらださしさを感じさせる音楽です。
ヴァイオリンの跳躍が優雅な、ヘ長調の安定した音楽です。思い直したプロメテウスが、泥人形たちを教育すべく、パルナソス山にいざなっていきます。
第2幕
第4曲:マエストーソ―アンダンテ
ティンパニとトランペットを伴ったトゥッティの強奏による堂々たる導入で、第2幕が始まります。続くアンダンテでは、弦のみのスタッカートになり、パルナソス山に連れていかれ、とまどう泥人形たちの、不安でぎこちない動きを表してます。
第5曲:アダージョーアンダンテ・クアジ・アレグレット
ハープが優雅に奏でられます。ベートーヴェンのオーケストラ作品でハープが使われているのは生涯この1曲のみです。ハープに続いて、ヴァイオリンとヴィオラがピツィカートを奏で、フルート、ファゴット、クラリネットら管楽器が掛け合いに加わります。パルナソス山の頂から、芸術の女神、ミューズたちが次々に現れるさまが描かれています。そして、チェロがカデンツァ風に歌いだし、それに合わせて人形たちも、たどたどしいながらも、女神たちに導かれて踊り始めるのです。実に優雅で気高い音楽です。
再び、ティンパニとトランペットを伴った強奏で始まり、ポロネーズ風の壮大な舞曲となります。曲が進むにしたがって管楽器が増えてゆき、厚い響きになっていきます。ベートーヴェンらしい、力強い音楽です。
第7曲:グラーヴェ
複付点リズムによる、フランス風序曲を思わせる荘重な音楽です。厳粛な雰囲気の中に、オーボエ、ファゴット、ホルンが優しく癒される音色で応えるのが印象的です。
第8曲:行進曲:アレグロ・コン・ブリオープレスト
ティンパニが導入する戦い、そして勝利の音楽です。後年、ベートーヴェンはこの部分を戦争交響曲『ウェリントンの勝利 またはヴィトリアの戦い』作品91に使っています。 ちょうど、フランス革命戦争とナポレオン戦争のはざまの時期の曲ですから、常に戦争の矢面に立っていたオーストリア国民には、戦争の勇壮な音楽は、リアルな実感を伴って響いたことでしょう。戦争の音楽は、ベートーヴェンの生涯を通じて顔を覗かせ、『ミサ・ソレムニス』まで続きますが、その最初の作品といってよいでしょう。
前曲の戦争の高揚を冷ますかのような、落ち着いた序奏です。序奏が終わると、一転、不気味な風が吹き、暗雲が立ち込めます。その中でオーボエがオペラに出てくるレチタティーヴォを歌います。 悲劇の女神メルポメネによる、人生の悲劇を教える科目が始まったのです。恩人プロメテウスが殺され、人形たちは悲しみに打ちひしがれます。
第10曲:パストラーレ:アレグロ
一転、オーボエ、クラリネットが牧歌的な笛を奏で、悲しみに暮れた人形たちが顔を上げると、喜劇の女神ターリアが現れて、種明かし。田園風景が広がるなか、やがて牧神パンが仲間を引き連れて現れ、プロメテウスを蘇生させます。平和な農村の楽器、ミュゼットも聞こえてきます。『田園交響曲』の走りとなる場面です。
第11曲:『ジョーヤのコロ(群舞)』アンダンテ
ジョーヤは、初演で酒の神バッカスを演じたダンサーです。人生の悲哀を知った人形たちに、今度は歓喜を教えるために、お供を引き連れて登場したのです。
第12曲:『ジョーヤのソロ(独舞)』マエストーソーアダージョーアレグロ
バッカスが、最初は威厳たっぷりに踊ります。ファンファーレ風の音楽です。やがて、フルートが優しく奏で、オーボエが合いの手を務めます。最後には行進曲の音楽となり、楽しく盛り上げていきます。この音楽に合わせ、どんな素敵なバレエが演じられたことでしょう。
第13曲:『テルツェティーノ・グロテスキ』アレグローコーモドーコーダ
3人のダンサーによる「グロテスク劇」の場面です。 「グロテスク劇」は、今でいう〝グロテスク〟と意味とは違い、民衆的でコメディな劇のことを指します。あえて言えば、「ドタバタ劇」でしょうか。フルートとファゴットの四重奏で導入され、親しみやすい民謡風の愉快な音楽に仕上げられています。聴衆を飽きさせない、天才ヴィガーノの見事な企画、演出で、ベートーヴェンもよくオーダーに応えています。
初演時に女人形を演じた、カッセンティーニ夫人の独舞です。夫人は当時のウィーンで最も人気が高かったプリマ・バレリーナです。オーボエとバセットホルンによる3拍子の音楽はしっとりと落ち着いています。神々たちの教育により、女の泥人形は、ついに人間になることができたのです。軽快な中に、気高い気品をたたえた音楽です。
続いて、いよいよオオトリ、ヴィガーノ演じる男の泥人形の演舞です。アンダンティーノの落ち着いた弦の序奏に続き、ふたつの舞曲が奏されます。ひとつ目は弦の優雅な旋律にファゴットとオーボエが彩りを添えます。ふたつ目は、活気に満ちたアレグロで、ヴィガーノの踊りにたくさんの仲間が加わり、これからは人形ではなく、真の人間として生きていく雄々しい姿を示します。
第16曲:フィナーレ:アレグレットーアレグロ・モルトープレスト
フィナーレのテーマは、そのまま第3シンフォニー『エロイカ(英雄)』の終楽章に転用されたことで有名です。このテーマは、エロイカ以前にも、同時期にまとめられていた『12のコントルダンス _WoO14』にも、ピアノ変奏曲の画期となる『15の変奏とフーガ 作品35(エロイカ変奏曲、プロメテウス変奏曲)』にも転用されました。単にお気に入りのテーマ、というだけでなく、ベートーヴェンにとって、特別な意味があったように思えます。それは、このバレエ『プロメテウスの創造物』で描かれた思想が込められているのではないか、ということです。『シンフォニア・エロイカ(英雄交響曲)』は、ナポレオンに捧げるために作曲されましたが、ベートーヴェンが彼に現代のプロメテウスを見ていた、と考えられるのです。『エロイカ』を理解するには、このバレエを知らないといけない、ということになります。
この音楽では、アレグレットからアレグロ・モルト、そしてプレストへとテンポを上げながら、縦横無尽に盛り上がりますが、終盤近くにはクラリネットとホルンがコラール風に静謐なひとときも作ります。まさに理性の光が差すかのようです。
当時としてはロングランヒット
このバレエの初演には、否定的な論調も無くはないですが、1801年に14回、翌1802年に9回、計23回も上演されていますから、興行的には大成功といってよいでしょう。
ベートーヴェンの作品で、短い時間にここまでの回数を演じられたものは他にありません。
しかし、初演後、この音楽はベートーヴェンの生前は二度と上演されることはありませんでした。
それは、ベートーヴェンの音楽が飽きられたわけではなく、ヴィガーノがウィーンを去ってしまったから、ということに尽きます。
彼とそのバレエ団あっての音楽ですから、台本の失われた現代ではそのままの復活は不可能で、序曲だけしか演奏されなくなってしまいました。
でも、ベートーヴェンは1804年に全曲を自らピアノ編曲して出版していますから、彼にとっても自信作であったのは間違いありません。
本格的な劇音楽を創り上げたことは、エロイカをはじめ、これからの創作の大きなステップとなったのです。
聴けば聴くほどに、その素晴らしさに圧倒される音楽です。
ベートーヴェンにバレエ音楽があったこともあまり知られていないと思いますが、ぜひ聴いていただきたい曲です。
ハイドンとの気まずいやり取り
これほどの成功作なのですが、ちょっとケチのついたエピソードが残されています。
それは、この曲にからんで、師匠ハイドンと少し気まずくなってしまうのです。
上演期間中、ウィーンの街角で、ベートーヴェンはハイドンに出会います。
するとハイドンは上機嫌で、弟子ベートーヴェンにこう声をかけます。
『先日、君のバレエを観たが、それは私を大いに喜ばせたよ!』
『親愛なるパパ、それはありがとうございます!でもあれは、まだまだ〝創造〟にはほど遠いものなのです。』
ベートーヴェンとしては、ここで自分の作品を謙遜してみせたのです。
2年前に初演された、ハイドンのオラトリオ『天地創造』は、ヨーロッパ中で大変な賞賛を浴びていました。
それには自分の『創造物』は遠く及ばないですよ、と言ったわけです。
題名が似ているところで、ダジャレをからめたのですが、ハイドンは、一介の弟子が、あろうことか自作を師匠の大作と比較しているのか、と全く逆に受け取ってしまったのです。
ハイドンはムッとして、次のように答えました。
『確かに、あれは〝創造〟にはなっていないし、これからもなるのは難しいだろうね。』
びっくりしたのは、今度はベートーヴェンの方です。
双方釈然としないまま、ぎこちない挨拶を交わして別れた、と伝えられています。
ベートーヴェンは、ハイドンが、以前の「作品1」で意地悪な発言をしたように、自分の才能を嫉妬しているのだ、と受け取りました。
しかし、ベートーヴェンの生意気で傍若無人、空気を読めないふるまいが、実直な宮廷人ハイドンの眉をひそめさせたのも事実です。
このあとも、ふたりの交際は続いていますから、決して絶交したわけではありませんが、弟子たちはふたりが出会うといつもハラハラしていて、それを証言として残しているのです。
ベートーヴェンがらみのエピソードからは、ハイドンは心が狭い、ちっちゃい性格のように誤解されますが、ほかのエピソードからは、寛大な人格者であったことがうかがえます。
2大巨匠のぎこちなさは、18世紀貴族社会と、19世紀市民社会のギャップそのものだと思うのです。
www.classic-suganne.com
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今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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