中期の最高傑作
今回は、ベートーヴェンのピアノソナタ 第23番 ヘ短調 作品57《アパッショナータ(熱情)》を聴きます。
ベートーヴェン中期の頂点を極めた、最高傑作とされています。
《悲愴》《月光》と並び称して、ベートーヴェンの〝3大ソナタ〟とされていますが、傑作は《ワルトシュタイン》など他にもたくさんあるので、〝3大短調ソナタ〟あるいは〝3大人気ソナタ〟といったニュアンスと思います。
作曲は、1804年あたりから、オペラ『レオノーレ(フィデリオ)』と並行して作曲され、1805年には一応完成し、出版交渉に入っていますが、その後もベートーヴェンはこの楽譜を持ち歩き、修正を加え続けました。
自筆譜は残っていて、それを見ると最終楽章に一番手を加え続けていたのが分かるということです。
相当に思い入れの強い曲でもあったようです。
この曲の特徴について、ベートーヴェン研究家のリーツラーは次のように述べています。
『ただ、聴き手として冷静さを失わない人だけが、この作品でも荒々しく狂喜するパッセージや、激しく動揺する旋律を支配している統御力を、感じとることだろう。』
この曲に魂を揺さぶられることなく、冷静に聴ける人だけが、この曲のしっかりした構成が分かる、ということです。
この曲を聴き始めると、いかにも破天荒で、自由奔放、無秩序に感じますが、実は緻密に計算しつくされて構築されているのです。
聴く人を揺さぶる音楽
とはいえ、空中に永遠に消えたベートーヴェンの即興演奏とはかくや、と思わせる〝熱情〟にあふれています。
彼の即興演奏について、愛弟子のリースは後年、次のように述懐しています。
ベートーヴェンの即興演奏はきわめて輝かしく、感動的であった。たまたまどんな集まりに出ることになっても、聴き手の一人ひとりに効果をおよぼす術を知っていて、どの人の目にも涙があふれ、多くの人が声をあげて泣き出すほどのものであった。というのも、楽想の美しさや独創性、生き生きとした演奏ぶりに加えて、彼の表現には驚嘆すべき何ものかがあったからである。このような即興演奏を終えると彼はいつも大声で笑い出して、自分の惹き起こした情緒にまだ浸っている聴き手をからかったものだった。『どうかしていますよ、あなた方は』と言い、『こんな甘やかされた子供たちの中では、とてもやってられない』と大声で言うのだった。*1
この回想では、ベートーヴェンの演奏が与えるインパクトの強さと、また音楽で人の感情を大いに揺さぶっておきながら、それをバカにしたように茶化す彼のデリカシーの無さが伝えられています。
このソナタには、そんなベートーヴェンが人間関係をギクシャクさせたエピソードも残っているのです。
恩人に椅子を投げつける!?
1806年の夏から秋にかけて、ベートーヴェンは、現在はチェコにあるシュレジエン(シレジア)のグレーツ(現フラデッツ)にあるリヒノフスキー侯爵の所領に滞在していました。
そこにいったん完成したものの、まだ加筆を続けていたこのソナタの楽譜も携えていました。
折しも前年、皇帝となったナポレオンは、アウステルリッツの三帝会戦で、神聖ローマ皇帝とロシア皇帝の率いるオーストリア・ロシア連合軍を完膚なきまでに破りました。
そして、フランス軍は3ヵ月に渡りウィーンに進駐。
せっかくできたベートーヴェン最初にして唯一のオペラ『フィデリオ』は、そんな非常事態の中で初演されましたが、皇帝はじめ貴族たちはウィーンの街から疎開中。
劇場に入ってきたのはドイツ語が分からないフランス兵ばかりで、初演は大失敗に終わりました。
そして翌年のプレスブルクの和約で、神聖ローマ帝国は消滅。
フランツ2世は、千年近い伝統ある神聖ローマ皇帝の称号を捨てざるを得ず、オーストリア皇帝に格下げになりました。
ベートーヴェンの一番のパトロンであるリヒノフスキー侯爵は、シュレージエン貴族であってドイツ貴族ではなく、オーストリア・ハプスブルク家直属の家臣ではありません。
その所領はナポレオンがオーストリアの次に狙いを定めたプロイセンへの攻撃要路、補給路にあたっており、リヒノフスキー侯爵は保身のため、フランスにも接近していました。
そして、その居城にフランス将校たちを招き、接待したのです。
そこに同席させられたのがベートーヴェンでした。
ベートーヴェンはもともとナポレオンを尊敬して、『エロイカ(英雄)』を作曲して献呈するつもりだったほどですが、皇帝に即位したことで幻滅していました。
パリ行きまで計画していたので、フランスに一番失望させられている時期でした。
そんな中、リヒノフスキー侯爵は、フランス将校をもてなす夜の宴会で、ベートーヴェンにピアノを弾くよう依頼したのです。
侯爵は、ベートーヴェンをウィーンに来た頃から自邸に住まわせ、高価な楽器を贈り、自由に使える専用の楽団も用意し、多額の年金まで支給、社交界にプロデュースするなど、全面的に応援していて、ベートーヴェンが今の名声を獲得したのは、もちろん自身の才能と努力あってのことですが、社会的な成功は侯爵の支援なしにはあり得ません。
しかも、大事なことは、侯爵はあくまで後援していたのであって、お抱え音楽家にしたわけではありません。
それが初めて、客人に対してピアノを弾いて聞かせろ、と言われたのです。
しかも、相手はナポレオン軍。
『流しの楽師じゃあるまいし、そんな卑しい仕事はしません!』と、その命令を拒否します。
フランス将校も酔っぱらって、弾かなければ逮捕するぞ、と脅します。
それを聞いた侯爵は、客人の手前もあり、より強い調子で、弾け、と命令します。
演奏を強制されるほど、ベートーヴェンが嫌いなことはありません。
カッとなったベートーヴェンは、椅子をつかんで侯爵になぐりかかろうとし、周囲の人に止められて何とか事なきを得ました。
しかし怒りの収まらないベートーヴェンは、憤然として荷物をまとめ、夜の激しい風雨にもかかわらず館を飛び出し、徒歩で街まで行って馬車をつかまえ、ウィーンに帰ってしまいました。
家に戻ると、部屋に飾ってあった侯爵の石膏胸像を床に投げつけ、粉々に砕いたということです。
能無し貴族は芸術に投資くらいして当然!
さらに、侯爵に次のような手紙を送りつけました。
『侯爵、あなたは、ただ出生の偶然によって、現在の地位にいるにすぎない。私は、私自身によって、今の私を築き上げているのだ。あなたのような貴族は幾千人といたし、これからもいることだろう。だが、ベートーヴェンは、ここにただ一人いるだけなのだ。』
これは、フランス革命の引き金となったボーマルシェの戯曲『フィガロの結婚』の名台詞に似ています。
従僕フィガロが、権力にものを言わせて、自分のフィアンセに手を出そうとしている主君アルマヴィーヴァ伯爵に対する不満を、モノローグでつぶやきます。
『貴方は豪勢な殿様というところから、ご自分では偉い人物だと思っていらっしゃる!貴族、財産、勲章、位階、それやこれやで鼻高々と!だが、それほどの宝を得られるにつけて、貴方はそもそも何をなされた?生まれるだけの手間をかけた、ただそれだけじゃありませんか。おまけに人間としてもねっから平々凡々。それにひきかえ、この私のざまは、くそいまいましい!さもしい餓鬼道に埋もれて、ただ生きてゆくだけでも、百年このかた、エスパニヤ全土を治めるくらいの知恵才覚は絞りつくしたのです。(第5幕第3場)*2』
貴族は〝親ガチャ〟でたまたま当たっただけじゃないか!ちっとも偉くなんかない!というわけです。
このセリフにフランスの民衆は熱狂し、革命の機運が高まっていくのです。
モーツァルトもこの芝居に共感し、何とかオペラにしようとして、政治色を薄めて検閲を突破するのに苦労しました。
しかし、ベートーヴェンは、直接、貴族に向かって言ってのけたのです。
しかも、侯爵はこれに対し怒ることはなく、年金も停止せず、数年後には和解しています。
侯爵の度量が大きいのか、それとも貴族の専権が通用しない時代になっていたのか。
それにしても、ベートーヴェンの屈辱感とそれに対する怒りは分かるものの、大恩ある人に対する態度としては、もう少し大人の対応はできないものか、と思わなくもないですが、空気を読んだり、自分の感情をコントロールしたりできないのが彼の性格です。
天才ピアニスト、マリー・ビゴー
このソナタには、ベートーヴェンの人付き合いの欠陥を示す、さらに続きのエピソードがあります。
雨の中ウィーンに戻ったために、カバンも濡れてしまい、このソナタの楽譜にもシミがついてしまいました。
ベートーヴェンは、フランスからウィーンに来て、折しも親交のあった名女性ピアニスト、マリー・ビゴー(1786-1820)にこの汚れた楽譜を見せます。
度重なる訂正と加筆で読みづらく、さらにシミの広がった自筆譜でしたが、マリーはこの楽譜を一読して、その出だしから引き込まれてしまい、弾き始めました。
そしてなんと、最後まで弾き通してしまったのです。
ベートーヴェンはひどく驚き、感歎して、次のように語ったそうです。
『私がこの曲に与えようとした性格そのままではないが、それでけっこうです。すべてが私のやったことではないにしても、何かよりよくなっています。』
この言葉は、演奏上、非常に重要です。
ピアニストが、多少作曲者の意図を外れた演奏をしても、それがよければ、認めるというのです。
彼女は、作品の解釈に抜群のセンスがあり、作曲者も予期していなかった効果を出すことができたといいます。
ハイドンの前で彼の曲を演奏したときは、彼も感激して次のように述べました。
『おお、我がいとしき子、これは私が作曲した曲ではない。作曲したのは君だ!』
そして彼女が演奏した楽譜にこう書き記したのです。
『1805年2月20日、ヨーゼフ・ハイドンは幸福であった。』
マリーはベートーヴェンの重要なパトロンの一人であるラズモフスキー伯爵の秘書、パウル・ビゴーの妻で、その縁で知り合ったのですが、第一級のピアニストでした。
左手のタッチが力強かったと伝わっています。
後にパリに戻ってからは、メンデルスゾーンが弟子入りしました。
人妻をドライブに誘った結果…
しかし、ベートーヴェンとの間には、その後、残念なわだかまりが生じてしまいました。
マリーに惚れ込んだベートーヴェンは、3月のある朝、その「神々しいような美しさ」を彼女と一緒に楽しみたい、と、彼女に手紙を書いて、馬車でのドライブに誘ったのです。
『お天気がいいから正午馬車でドライブに行きませんか、ビゴー氏はもうお出かけでしょうから、ご一緒できませんが、カロリーヌ(マリーの子供で、まだ赤ちゃん)は頭から足まですっぽりくるんでお連れになれば大丈夫ですよ。こんなに素早く過ぎ去っていくこの瞬間を、あなたがためらったばかりに私から奪われたとなると、偏見のない教養あるマリーにはまったく似つかわしくありません。お断りになるとすると、わたしの人格を信用しておられぬと、わたしはとります。』
半ば脅迫めいた強引な誘いですし、何より、旦那の留守に人妻をドライブに誘うなんて、現代でも物議を醸しかねないことですから、当時としてはありえないくらい非常識なことでした。
ベートーヴェンとしては、芸術を理解する者同士、この自然美を共感するのに何のしがらみがあろうか、というつもりだったのでしょうが、下心あってのことと誤解されても仕方のないことでした。
当然マリーは断り、ビゴー氏も不信感を持ちました。
それを知ったベートーヴェンは大いにショックを受け、ビゴー氏に釈明の手紙を書きます。
『私の風変りなふるまいが、あなたをぎくっとさせたことは良くわかります。弁解はしません。』
『またいまだにわたしには分からないのですが、マリーとカロリーヌがわたしと馬車でドライブに出ることがなぜいけないのでしょうか。でもお互いに話し合ってみましょう。私のふるまいにあなたが怒っていられるのか、いられないのか、どちらか至急知らせてください。わたしが原因になっている苦痛を、ただ不愉快な目に遭ったと心の中なかにだけ隠しておけるものではありません。もしそうでしたら、わたしは食事の間じゅうそうではないかとの思いに責めさいなまれ続けてきたことでも、十分罰を受けています。』
『出かけますが、帰りは遅くなるでしょう。わたしが安心するような2、3行でもその時あなたから届いていたらと思います。』
『もともとわたしは、人妻とは友人関係以外には決して立ち入らぬことを重要な信条の一つとしています。そうした関係を結ぶことによって、他日わたしと運命を共にするかもしれぬ女性に対し不信の念をわが胸にわだかまらせ、さらにひいては最も美しい清い生活を自分の手で滅ぼすようなことはしません。』
ベートーヴェンは、空気を読めず、人を傷つけるようなことを平気で言いますが、自分は傷つきやすい繊細な人間でした。
ビゴー夫妻との関係は、和解したとしてもおそらく元の気の置けない関係には戻れなかったと思われます。
マリーはパリに戻ったあと、34歳の若さで亡くなっています。
ベートーヴェンと女性の問題は、実に謎に満ちています。
芸術を媒介して意気投合した女性とは、清廉な関係であろうとしたことがうかがえますが、プラトニックな恋愛感情は抱き、それが芸術のこやしになったのではないかと思います。
さて、このソナタも、後に出版社によって《アパッショナータ(熱情)》と名付けられたほど、恋愛を連想させる内容ですが、誰かを思って書いたかどうかは分かりません。
ただ、献呈されたのは、フランツ・フォン・ブルンスヴィック伯爵で、〝永遠の恋人〟候補であるヨゼフィーネ(ダイム伯爵夫人)やテレーゼの兄弟であることも、古来、意味を探られてきました。
特にこの時期、4人の子を抱えてご主人を亡くしたヨゼフィーネに対し、熱烈な恋愛感情をもっていた可能性は高く、その思いをこのソナタにぶつけたかもしれませんが、想像の域を出ません。
それでは、聴いていきましょう。
Ludwig Van Beethoven:Piano Sonata no.23 in F-minor, Op.57 "Appassionata"
演奏:ロナルド・ブラウティハム(フォルテピアノ)
Ronald Brautigam (Fortepiano)
第1楽章 アレグロ・アッサイ
地底の底から響くような低音のピアニッシモから始まります。主調のヘ短調は、ベートーヴェンのピアノソナタではこれまでも特別な意味を持っています。地上に湧き出したマグマのように、緊張感MAXの激しい音楽が、ただならぬ世界を現出していきます。第1主題は、上がって下がる「振り子動機」がトリルやアルペッジョで劇的に暴れまわり、「運命の動機」が不気味に繰り返されます。これがオーケストラに発展して、シンフォニー第5番になっていくのです。第2主題は変イ長調で、一変して平和な光に満ちた、心温まる旋律で、第1主題とのコントラストが絶妙ですが、構造は第1主題と同じ形で巧妙に作られています。
全体の構成は、提示部65小節、展開部70小節、再現部70小節、終結部65小節と、均衡の取れた4部構成になっていて、リーツラーの言う統御力を示しています。
音域は、エラール社のピアノのダイナミック・レンジを《ワルトシュタイン》以上に拡大し、鍵盤を目一杯使っています。
終結部は第1主題を徹底的に展開させ、フォルテッシモから最弱のピアニッシシモ(ppp)に一気に下がって終わります。もはや古典ではない、ロマンチックな音楽です。
第2楽章 アンダンテ・コン・モート
第1楽章の〝熱情〟を冷ますような、落ち着いた、それでいて胸の奥に響くようなコラール風のテーマが、3つに変奏される楽章です。第1変奏は左手のシンコペーションが美しいシンプルなもの。第2変奏は右手が流れるような16分音符でテーマを変奏していきます。第3変奏は、さらに32分音符で、水面にきらめく光のようです。そして、メインテーマに戻り、和音を解決させることなく、アタッカで切れ目なく第3楽章に流れ込んでいきます。
第3楽章 アレグロ・マ・ノン・トロッポ
フォルテッシモが激しく、前楽章の最後で鳴るべき減七和音を、属九和音に変えて連打し、ドラマの再開を告げます。第1主題は、旋律というよりリズムの律動です。第2主題は、いわゆるナポリの和音から始まるハ短調の、切迫感に満ちたテーマです。音楽は、何かに追われているような焦燥感を強めながら、聴く人を圧倒して進んでいきます。容赦なく、救いのないような展開は、聴く人の魂を揺さぶります。最後には、テンポがどんどん上がり、プレストになって、このままでは破滅してしまうのではないか、という緊張感の中で、サッと終わります。この音楽の余韻は、茫然自失、といった感じです。
ドイツ統一の立役者、ビスマルクは、ふだん音楽を聴くような人ではありませんでしたが、ある時、このソナタを弾いて聞かせた人がいて、じっくり耳を傾け、終わったあと、『自分にはベートーヴェンの音楽が一番合っていると思う。』と述べたということです。
鉄と血で統一を成し遂げた鉄血宰相の胸に響いたのは、このソナタの荒々しさでしょうか、それとも深い叙情なのでしょうか。
動画はボリス・ギルトブルグの演奏です。
www.youtube.com
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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