可憐なプリンセスの生い立ち
1760年、神聖ローマ皇帝の実質的な皇太子である、ローマ王ヨーゼフ2世のもとに嫁いだ19歳の花嫁、マリア・イザベラ・フォン・ブルボン=パルマ。
彼女の可憐な美しさは、新郎だけでなく、ハプスブルク家の面々、宮廷に仕える人々、ウィーン市民の全ての心を奪いました。
パレードの沿道には、一目その姿を見ようという人々が押し寄せ、皆口々に〝天使のよう〟と感歎しました。
しかし彼女は、その微笑みの裏で、心に深い闇を抱いていたのです。
彼女は、1741年12月31日にスペインのマドリードで生まれました。
父は、スペイン王フェリペ5世の王子、フィリップ。
母は、フランス王ルイ15世と、王妃マリー・レグザンスカの長女、ルイーズ・エリザベート。
オーストリア女帝マリア・テレジアは、オーストリア継承戦争の結果、夫フランツ・シュテファンが神聖ローマ皇帝になることを、当時敵であったフランスとスペインのブルボン家に認めさせる代わりに、自分の勢力下にあったパルマ公国をブルボン家に引き渡しました。
イザベラの父フィリップは、そんな経緯でパルマ公フィリッポとなり、一家は北イタリアに移ったのです。
マリア・テレジアが、パルマ公家の長女を自分の長男の嫁とし、自分の娘をパルマ公の継嗣の嫁に送り込むという、二重の縁組みを進めたのは、パルマを自分の勢力範囲に取り戻す目的があったのです。
夫の悪口をさんざん娘に聞かせた母
イザベラの両親は、ふたりともフランスの太陽王ルイ14世の曾孫だったわけですが、とても仲の悪い夫婦でした。
母は12歳で嫁ぎ、14歳でイザベラを出産しました。
スペインの厳格な宮廷のしきたりに縛られ、姑にはいじめられ、7歳年上の夫は何も守ってくれません。
母の心の支えは娘イザベラだけだったので、彼女を大変甘やかすとともに、夫への悪口、愚痴をさんざん娘に聞かせました。
これでは娘が結婚に夢が持てるはずがありません。
しかも、1751年に次女マリア・ルイサが生まれると、母の愛情は妹に移り、自分は疎外されるようになったのです。
才色兼備の王女の心の闇
彼女は、人生に希望が持てなくなり、哲学書や文学書を読みふけり、内面の世界に入っていきました。
さらに、1759年に母が32歳の若さで亡くなると、自分も早くその元に行きたいと願うようになり、死と来世への憧れにとらわれるようになっていったのです。
一方では、倫理、音楽、歴史、物理学、形而上学を学び、当時の女性としては非常に高い教養を身につけていました。
力学にも興味をもち、さまざまな機械の制作を行うなど、理系の才もありました。
芸術的センスにも恵まれ、絵も上手で、さらに歌、ヴァイオリンも得意。
またスポーツも好きでした。
まさに、才色兼備である一方、内向的な面と外向的な面をあわせもった複雑な性格の持ち主でもあったのです。
彼女は、結婚を忌避し、修道院に入る準備をしていましたが、国際政治はそんなことは認めてくれず、ハプスブルク家との縁組みが決まってしまいました。
ヨーゼフ2世が熱愛した妻は、そんな女性だったのです。
結婚後、イザベラは多くの著作、論文を書いています。
夫と同じく、啓蒙思想家ジャン=ジャック・ルソーの『エミール』の影響を強く受け、『教育に関する考察』という論文を書き、啓蒙哲学を深く探求しました。
キリスト教についても深く思索し、宗教的問題や死についての著作も残っています。
『プリンセスの運命』という、自分に関わる問題についての考察では、政略結婚は同盟の強化にはつながらないと断言し、次のように述べています。
王子の娘は何が期待できるでしょう。生まれた時から、彼女は人々の偏見にさらされています。彼女は、その地位にふさわしい偽りの名誉とマナーの規則に耐えるように作られました。その立場ゆえ、自分を取り巻く人々と親しくなることもできません。他の誰もが権利を持っている人生の最大の喜びを奪われています。自分の世界に住まねばならず、友人も知人もいません。結局、大臣たちは彼女を結婚させたいと思っています。それは、彼女は家族、故郷、そしてすべてを捨て去ることを余儀なくされます。異なる考え方や性格を持つ見知らぬ人、そして彼女を嫉妬の目で見るかもしれない家族のために。
日本の内親王殿下たちも、同じような思いをお持ちなのではないか、と考えてしまいます。
さらに彼女は、「Traité sur les hommes(男性に関する条約)」という、家父長制のヨーロッパ社会における男性の地位と行動を調査した、非常に批判的な作品を書きました。
彼女は、「女性は少なくとも男性と同じくらい優秀で有能である」と主張し、男尊女卑の風潮を批判しました。
ややユーモラスに、男性を「役に立たない動物」と表現し、「悪事を行い、せっかちで、混乱を引き起こす」ためだけに存在する、としました。
自身の経験に基づいて、男性は「感情を奪われ、自分自身だけを愛している」と結論づけました。
男性は考えるために生まれてきたのに、人生でやることといえば「娯楽、怒鳴ること、英雄のふりをすること、走り回ること、虚栄心を満たすこと、また考える必要がないこと」 をするだけ。
結論としてイザベラは、女性の「奴隷制」は、男性が女性を自分よりも優れていると感じていることが原因である、と主張したのです。
自分より優れているからこそ、抑圧するのだと。
啓蒙思想の時代には、このような現代にも通じるフェミニズムを提唱したプリンセスもいたのです。
「啓蒙専制君主」の代表であるヨーゼフ2世は、自身を「啓蒙」思想家と自認していましたが、一方で、男のエゴ丸出しの「専制」ぶりを妻からは冷ややかに見られていたことになります。
ヨーゼフ2世は、もともと潔癖症で、独身時代には結婚生活も嫌がっていましたが、イザベラに出会ってからは、その虜となってしまいました。
しかし、彼女の〝天使のような〟容姿以上に、この内面をどこまで理解したのか疑問です。
イザベラは、肉欲は罪である、と認識していましたので、夫婦生活も苦痛でしかありませんでした。
また夫の熱愛に対して、自分はほとんど愛情を持てないことにも悩んでいました。
そして愛に応えられないことにも苦しみ、だんだんうつ病を患っていったのです。
義妹との熱烈な愛
一方で彼女は、夫の妹、皇女マリア・クリスティーナ(愛称:ミミ)に強い愛情を感じていました。
彼女とは、婚約時代から文通をしていたのですが、嫁入り後はさらに親密になり、ほとんど恋人同士のような関係になっていました。
ふたりは同じ宮殿に住み、頻繁に会っていましたが、別れてすぐ、メモを送りあっていました。
イザベラはミミに、「私の愛する心」「私の大切な天使」「私の崇拝する妹」「私の大切で聖なる妹」「すべての生き物の中で最も優れたもの」「神聖な美しさ」と呼びかけ、「あなたが私にキスさせてくれたすべてにキスをします」「私はあなたの大天使のような小さなお尻にキスをします」「私はあなたを愛しているし、死ぬまで愛し続ける」「私は悪魔的にあなたを愛しているの」と熱烈な言葉を送っています。
さらに、彼女の手紙を引用します。
残酷な妹よ、私はあなたと別れたばかりですが、もう一度あなたに手紙を書いています。あなたが私を、あなたの愛に値する人だと考えているかどうかを知るのを待つのは耐えられません。私はこの不確実性に耐えられないの。私はあなたを狂ったように愛しています。
私はまだあなたを狂ったように愛しています。私はあなたに完全にキスをすることができ、あなたが私にキスを返すことを願っています。あなたは今夜私と一緒に夕食を食べますが、その時間は娯楽やゲームはしたくありません。私はあなたに断言することができます。私はあなたの胸の上で死ぬことを焦って燃えています。さようなら、私はあなたにキスをし、私は言葉で表現できないほどの情熱であなたを崇拝します。私はただあなたの足の前で震えています。
一日は神から始まると言われます。しかし、私は愛の対象を考えることから一日を始めます。絶え間なくあなたのことを考えているからです。私は愛の対象を考えることで一日を始め、神で終わります。
信じてください。最愛の人、私の唯一の喜びは、あなたに会って一緒にいられることです。私はあなたへの愛以外に何も考えられません。
夫のヨーゼフが狩りに行くたびにふたりは密会していましたが、狩りが雨で中止になると、彼女はひどくがっかりしてキャンセルのメモを送りました。
イザベラは、男性批判の論文を書くほど男性不信であり、レズビアンだったと考えられますので、自分を熱愛する夫との結婚生活は地獄だったのです。
夫にとっては、この上ない幸せな時間だったのに、こんな悲劇があるでしょうか。
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義姉の嫉妬
一方、義姉にあたるヨーゼフの姉、マリア・テレジアの次女で、生き残った子の最年長であったマリア・アンナは、容姿が悪くて結婚できなかった一方、非常に高い教養をもった学究的な女性でした。
政略結婚のコマには使えないため、母帝からは疎外されましたが、趣味人である父帝フランツ1世からは可愛がられ、様々な学問の研究や、後にウィーンの博物館となるほどの文物の収集を一緒にやっていました。
ところが、イザベラが来ると、宮廷のファーストレディーの座を奪われたばかりか、頼り父もこの教養高い嫁に魅了され、夢中になってしまいました。
マリア・アンナは、嫉妬からイザベラに冷たく接し、交際を拒否して彼女を苦しめました。
イザベラのうつ病は、義姉との関係でさらに悪化してしまったのです。
夫ヨーゼフは妻をいびった姉を許さず、母の死去後は彼女を宮廷から追放したのでした。
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悪夢の妊娠、出産、そして流産
1762年3月19日、イザベラは初の出産をしました。
もともと体は丈夫ではなかったので、死を覚悟しての出産でしたが、無事産むことができました。
しかし、ハプスブルク帝国の存続のかかった待望の男子ではありませんでした。
義母マリア・テレジアは、『私も最初は女の子だったの。男の子もすぐに授かるわよ』と慰めましたが、イザベラは『この苦しみは男子を生むまで続くのか』と絶望した手紙をミミに送っています。
生まれた子は偉大な祖母の名を取って、マリア・テレジアと名付けられました。
その後、3回も流産を経験し、イザベラの身体と精神はさらにダメージを受けていきます。
天使の最後
そして1763年、妊娠中に彼女は天然痘に罹患してしまいました。
11月22日、病の進行とともに早産してしまい、マリア・クリスティーネと名付けられた女児は2時間で亡くなってしまいました。
イザベラの病状はさらに悪化の一方。
天然痘は生きながら全身が膿を吹き出し、腐っていく恐ろしい病です。
悪臭で侍女たちも入室をためらう中、ヨーゼフ2世は朝も昼も、付ききりで妻を必死で看病しました。
奇跡を願いながら。
彼は幼い頃に天然痘に罹患したことがあり、免疫があったのですが、そうでなくても看病したことでしょう。
臣下たちは憔悴し切ったヨーゼフに休むよう勧めましたが、彼が聞き入れることはありませんでした。
1763年11月27日。
イザベラは最後の息とともに、次のような言葉を絞り出します。
『恵み深き神よ。私の体はどこも燃えています。私の体はどこも罪を犯しました。罪の報いを受けるべきです。神様!』
ついにパルマのイザベラは、息を引き取りました。
享年22歳に2ヵ月足らず。
彼女は自分の人生が短いことを悟っていたように、生前、ミミに対して死の予感や、死への憧れを書き送っていました。
それは現実となってしまったのです。
遺体にすがりつくヨーゼフを引き離し、医師たちは遺体に検死も防腐措置も施せず、すぐに、ハプスブルク家代々の霊廟、カプツィーナー教会地下納骨堂に埋葬されました。
天然痘は、患者のカサブタから1年経っても感染力があるといわれているのです。
その死の4年後、皇女マリア・ヨーゼファが、ナポリ王への嫁入り直前に、マリア・テレジアに言われて義姉イザベラの棺に礼拝したところ、その後天然痘を発症して、あっという間に世を去ってしまったことは以前の記事にしました。
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マリア・テレジアは、3ヵ月という異例の服喪期間を国中に命じました。
失われた日々
愛妻を失ったヨーゼフの悲嘆は言うまでもありません。
もう、自分の人生は終わってしまったのだ、と、全てを諦め、気力を失っていました。
彼は、義父に次のように書き送っています。
私はすべてを失いました、崇拝に値する妻、私のあらゆる優しさの対象、私の唯一の友人はもういません。苦しみと絶望の中で、どうやって生きていけばいいのかもわからない。何という忌まわしい別離でしょう!私は生き残ることができるでしょうか。イエスの場合、残りの人生は不幸になるだけです。私の唯一の慰めは、私の配偶者が生きている限り、彼女に対するすべての義務を果たしたことです。昼も夜も、私は彼女のそばを離れることはありませんでした。彼女が美しい魂を吐き出すのを見たとき、私は生きているというよりも死んでいるように感じました。
幸福の絶頂だった新婚生活は、たった3年で終わってしまいました。
さすがの偉大なる母帝も、国の将来を背負った息子を立ち直らせる術を知りません。
しかし、妹ミミは兄に、夫に愛情が持てない悩みを書き綴った、イザベラの手紙を見せてしまったのです。
未練を断ち切らせるつもりだったのでしょうが、妻と相思相愛だと信じ切っていたヨーゼフには、さらに追い打ちとなる衝撃でした。
次期皇帝、ヨーゼフ2世の世の中を見る目、人生観は、さらに歪んでいってしまったのです。
イザベラ・フォン・パルマ。
王女として生まれ、政略結婚の犠牲となり、さまざまな葛藤に苦しみながらも、自分なりの生き方を追求した偉大な女性といえます。
それでは、ハイドンのエステルハージ家時代のシンフォニーを聴いていきましょう。
Joseph Haydn:Symphony no.52 in C minor, Hob.I:52
演奏:トレヴァー・ピノック指揮 イングリッシュ・コンサート
第1楽章 アレグロ・アッサイ・コン・ブリオ
作曲は1770年から1771年頃と推定されています。ハイドンの短調のシンフォニーの中でも、特に激しい感情表出効果をもった曲です。ベートーヴェンの〝運命〟と同じハ短調を取っています。管楽器の中では、ファゴットが1管ながら通奏低音ではなく独立した動きをしているのが特徴ですが、このパートは後から付け加えられたという説があります。ナチュラル・ホルンの管の使い方にもこだわりがあり、第1楽章と第4楽章では高音のC管のホルンとE♭管のホルンを1本ずつ使用し、第2楽章では低音のC管のホルンを2本使用しています。
第1楽章は、冒頭から不安定で大胆な第1主題で始まります。アレグロ・アッサイ・コン・ブリオとは、「十分に速くて勢いをもって」ということで、猛獣の咆哮のような乱暴なユニゾンです。絶望から始まったかと思うと、いきなり明るい調子になって面喰いますが、それは底抜けの明るさではなく、激しさをまとった悲しみの裏返しなのです。第2主題は優しいようですが、激しく跳躍していく可能性のあるテーマです。テーマでは模倣が次々と覆いかぶさってきて、感情が高ぶっていきます。
第2楽章 アンダンテ
同主調のハ長調を取る、バロック的な調性選択になっています。第1楽章の激しさからかけ離れた穏やかさに包まれますが、だんだんと緊張感が高まっていきます。ホルンは再現部で初めてでてきます。
メヌエットはハ短調、トリオはハ長調で、ここでもバロック的なC調での統一がなされています。ピアノでしめやかに歌われるメヌエットは、どこか不安な気分を漂わせています。トリオが、メヌエットのテーマに基づいているのも珍しい趣向です。
第4楽章 フィナーレ:プレスト
ピアノで静かに、しかし激しい感情を秘めたテーマが対位法的に始まります。やがてフォルテが爆発し、暗さと明るさがないまぜになった、何とも不安定な音楽となっていきます。後半は展開部と再現部が組み合わされ、見事な処理となっています。最後は、大きな爆発はなく、どこかやるせなさを余韻のように残して終わります。
ハイドンがロマン派を先取りするような感情表現豊かなシンフォニーを書いた、いわゆる「疾風怒涛期」と言われる時期の代表的な作品です。
www.youtube.com
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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