地に足のついた、母帝の改革
神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世は、1765年に父帝フランツ1世の崩御に伴い、母帝マリア・テレジアの共同統治者となりましたが、入り婿で政治にほとんど口出しをしなかった父とは違い、自分の理想を実現するべく、どんどん改革に邁進しました。
しかし、その改革は〝若気の至り〟の独善的なものが多く、理想に走るあまりに、現実的な側面、とくに改革によって失業者が出るなど、副作用はまったく考慮しないものでした。
これに対して、マリア・テレジア主導の改革は、地に足のついたもので、改革の痛みに対しても十分なフォローが施されていました。
彼女は、若き日のライバル、プロイセンのフリードリヒ2世との死闘の中で、オーストリアを富国強兵国家にすべく、数々の大胆な改革を行いましたが、真の近代国家となる重要な改革は、夫の死後、息子との共同統治時代に行われたのです。
マリア・テレジアの後期改革、と呼ばれています。
今回は、その中でも重要な「教育改革」について書きたいと思います。
世界に先駆けて「義務教育」をスタート
彼女は、1774年に「一般教育令」を発布し、ハプスブルク家の支配の及ぶ全領域に「小学校」を新設し、「義務教育」を創始したのです。
これは、ヨーロッパ列強諸国で初めてのことでした。
マリア・テレジアは、国民の中に字の読めない文盲が多いことを気にしていて、これが国力が伸びない理由ではないか、と考えていました。
国民の教養が高まれば生産力が上がり、生活も豊かになり、ひいては税収も豊かになって強い国になるのではないか、と予測していたのです。
教育が国の基本、という政策については、現代の日本でも実現できておらず、「教育格差」が「親の貧富の差」を生み、さらに教育格差を生んでしまう…という負のスパイラルに陥っているといわれていますので、18世紀の君主にこのようなポリシーがあったのは驚くべきことです。
当時の教育は、教会に委ねられていました。
しかし、宗教の教義を教えられるだけで、特にカトリック教会は、一般庶民が聖書を読めようになると聖職者の権威が脅かされるので、言葉は教えませんでした。
貴族や裕福な市民は住み込みの家庭教師に子弟の教育をさせましたが、哲学や宗教の教義を教えられるだけで、実際には役に立たないものでした。
役人を志す者だけが、大学で法律を学ぶくらいです。
また、ハプスブルク帝国は多民族国家でしたので、統一感を醸成するために、小学校が利用された側面もあります。
ドイツでも、ハンガリーでも、チェコでも、ネーデルラントでも、北イタリアでも、町や山奥の村でも、同じ年齢の子供に、同じ時間に、同じ科目が教えられるようになったのです。
しかも、ドイツ語が強制されたのではなく、それぞれの地域の言語で。
授業では、読み、書き、計算が教えられ、基本的は3年で卒業です。
同じ頃、江戸時代の日本でも、読み、書き、そろばんを教える寺子屋が普及していたのも、世界史的にはかなり画期的なことです。
解散させられたイエズス会を利用!
マリア・テレジアは、どうしてこんな手品のような政策が実現できたのでしょうか。
「一般教育令」が発布された前年の1773年に、イエズス会が解散させられました。
イエズス会は、宗教改革に対抗し、ローマ教皇の先兵となって世界にカトリックを布教した組織です。
1534年にイグナチウス・ロヨラらが創始し、日本に来たフランシスコ・ザビエルもその創設メンバーのひとりです。
ヨーロッパで新教プロテスタントに圧され、衰える一方だったカトリックを、大航海時代に乗じてアジアや新世界に広め、その勢力回復に寄与しました。
しかし、絶対主義の時代となり、近代国家が形成され始めると、国境を超えたイエズス会の活動は、諸国から煙たがられ、国の統一を妨げるものとして弾圧されるようになりました。
ローマ教皇は、自分の手下であるイエズス会を保護してきましたが、列強の圧力に屈して、ついに1773年にクレメンス14世によってイエズス会は禁止されたのです。
しかし19世紀になって、1814年に教皇ピウス7世によって復興が認められ、現代にいたります。
教皇の粋なジョーク
ちなみに、今の教皇フランチェスコは、史上初めての、イエズス会出身の教皇です。
イエズス会は教皇の直属組織だったのに、何だか意外です。
2013年、第266代ローマ教皇となった就任の記者会見で、これも史上初の「フランチェスコ」を名乗ったことに関連して、ジョークとして、『「君はクレメンス15世を名乗るべきだ。そうすれば(イエズス会を弾圧した)クレメンス14世に仕返しができるじゃないか」と言われました。』と述べ、笑いを誘いました。
さて、1773年、マリア・テレジアも教皇の回勅を受け、帝国内でのイエズス会の解散を命じ、その財産を没収しました。
そしてなんと、それを小学校創設の原資とし、職を失ったイエズス会士の多くを、学校教師として雇ったのです。
これこそ、この女帝の偉大なところです。
これによって、イエズス会士の生活も保障され、その高い教養を国民の教育普及に役立てさせることができる。
まさに一石二鳥です。
こうして義務教育がスタートしましたが、実際には、特に農民は子供を労働力としていましたので、なかなか通わせることはできず、ヨーゼフ2世が世を去る頃の調査では、就学率は1/3くらいだったようです。
地域差も大きなものがありました。
それでも、オーストリアが強国になっていく上で、国民教育が果たした役割は大きなものがあったのです。
『校長先生』という名のシンフォニー
今回取り上げるハイドンのシンフォニーは、マリア・テレジアが「一般教育令」を発布した1774年に作曲されたもので、奇しくも《校長先生(スクール・マイスター)》という愛称がついています。
しかし、これはハイドンが名付けたものではなく、また当時から呼ばれてもおらず、19世紀半ばになってつけられたものです。
名前の元となったのは第2楽章で、『その冒頭の付点リズムが学校教師の指振りを連想させる』とか、『ゆっくり落ち着いた曲の佇まいが、いかにも校長先生っぽいから』だとか、諸説ありますが、マリア・テレジアの施策が定着してきた証拠といえるかもしれません。
私の亡き祖父と曽祖父は「信濃教育」を担った小学校の校長先生で、子供の頃はその厳格さが怖かったですが、そのお説教も今では懐かしい思い出です。
Joseph Haydn:Symphony no.55 in E flat major, Hob.I:55 “Der Schulmeister”
演奏:クリストファー・ホグウッド指揮 アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック
『校長先生』という愛称には諸説あると前述しましたが、テーマだけ記されたハイドンの作品目録に、この愛称がついた曲があります。その曲は初期の「ディヴェルティメント」とされていますから、早くに失われてしまいました。その曲は、ハイドンが駆け出しの頃、興行主のベルナルドンによる子供用のパントマイム劇のために書いた音楽に関連がある、との説もあり、何かの劇と関係していたのかもしれません。いずれにしても、1820年代になってから、辞典編纂家のゲルバーという人が、この愛称を何かの理由でこの曲に結び付けたようです。
このシンフォニーは、第2楽章と第4楽章が変奏曲となっていますが、こんな構成の曲は今までハイドンを含めて無く、新しい試みです。
第1楽章は、序奏はなく、簡潔なファンファーレと、それに応じるカンタービレな応答で始まります。やがてハイドンらしく音楽は楽天的に走り出しますが、構造はなかなかに入り組んでいて、単純ではありません。展開部に入ると、またすぐに再現?という例の〝疑似再現〟があり、そこからむしろ提示部より長くなっています。前回の第54番と同じ手法です。
第2楽章 アダージョ・マ・センプリチェメンテ
『校長先生』という愛称の元になった楽章です。前述のように7つの変奏曲になっています。
テンポ表示の珍しい『センプリチェメンテ』というのは、「飾り気のない、単純な」という意味で、『ドルチェ(甘く、優しく)』と対照的とされる表現です。
弱音器をつけたヴァイオリンが、装飾のない淡々とした旋律を刻みますが、これが教師の指振りか何かをイメージさせています。私などは校長先生の長くて退屈なお話、を思い浮かべてしまいます。でも時々フォルテが入ってきて、驚かされます。のちの〝びっくりシンフォニー〟《驚愕》の第2楽章の元ネタなのかもしれません。
『センプリチェメンテ』の基本部分に、『ドルチェ』が変奏として入ってくる、その対照の妙がこの曲の聴きどころといえます。
メヌエットのリズムは「スコッチ・スナップ」と言われる特徴的なもので、ハイドンのメヌエットの中では、しっとりと落ち着いた印象があります。
トリオでは、ヴァイオリン2声部に、チェロがソロで加わり、繊細な優しさが広がります。
第4楽章 フィナーレ:プレスト
このシンフォニーの2曲目の変奏曲です。テーマは、爆発力を秘めているかのように聞こえますが、爆発はせず、なんとオーボエ、ホルン、ファゴットの管楽五重奏に引き継がれます。変奏はさらに転調と編成変えを重ねて進み、聴衆に、次はどうなるんだろう?とワクワクさせてくれます。テーマはそれぞれ、ABAのロンド形式であり、「変奏ロンド」という新しい形式をハイドンはここに編み出しているのです。「交響曲の父」と讃えられるゆえんです。
動画はベルギーのロイヤル・ド・シャンブル・ド・ワロニー室内管弦楽団の演奏です。
www.youtube.com
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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