母帝マリア・テレジアの心配をよそに、バイエルンへの領土拡大を強引に進める皇帝ヨーゼフ2世。
それを認めないとする、仇敵プロイセン王フリードリヒ2世。
一触即発の情勢の中、渦中に巻き込まれたのが、マリア・テレジアの末娘、マリア・アントニア、すなわちフランス王ルイ16世妃、マリー・アントワネットです。
オーストリア継承戦争で四面楚歌になった苦い経験から、マリア・テレジアは、新しい敵プロイセンに対抗するため、古くからの敵だったフランスと同盟を結ぶことにしました。
ヨーロッパの政治情勢を180度転換させた、外交革命です。
これを確固たるものにするため、女帝は自分の子供たちを、フランス王家であり、各地の小国にも散らばっているブルボン家と縁づかせました。
六女マリア・アマーリアはパルマ公妃に。
十女マリア・カロリーナはナポリ王妃に。
パルマ公女マリア・イザベラをヨーゼフ2世妃に。
そしてその総仕上げが、十一女マリア・アントニアのフランス王太子への輿入れでした。
1770年のことです。
4年後の1774年に、フランス王ルイ15世が世を去り、孫であった王太子が即位してルイ16世となり、王妃マリー・アントワネットが誕生します。
オーストリア女帝の娘、神聖ローマ皇帝の妹が、フランス王妃となる。
同盟として、これ以上強固な絆はありません。
平々凡々な娘に手紙でお説教
しかし、〝ベルばら〟などで描かれているように、マリー・アントワネットは、母帝や姉マリア・カロリーナのような政治的才能はなく、いたって平凡な娘でした。
ただ、〝君主の器〟ではなかっただけで、国を傾けた悪女のように言われるのは気の毒です。
もともと、フランス王妃候補の本命は姉マリア・カロリーナでしたが、その上の姉の死によって順番が狂い、一番大国の王妃の座が巡ってきてしまったのです。
マリー・アントワネットは、そのための教育は何も受けず、天真爛漫で無邪気なお嬢様のままで嫁ぐことになりました。
そのため、母帝は一番心配でならず、王妃の心得、ふるまい方、日々の過ごし方など、事細かに手紙で指示し、その実践の報告を求めました。
また、大使のメルシー伯爵から、別便で王妃の様子や評判について、詳細に報告させました。
しかし、マリー・アントワネットは、手紙では、ちゃんとやっています、と書くものの、実際には、賭け事に熱中して遊びまわり、母の言いつけは守りません。
マリア・テレジアは逐一、その状況も把握していますから、手紙はかなりキツいお説教になります。
また、世継ぎがなかなか生まれないのも、マリア・テレジアを苛立たせていました。
夫婦仲がどうやらうまくいっていない、というのも、周知の事実でした。
頼りない娘に頼らざるを得ない事態
ところが、そんなマリア・テレジアが、娘を頼らざるを得ないときが来ました。
それが、ヨーゼフ2世が引き起こした、このバイエルン問題です。
オーストリアがバイエルンを無理に併合することに、プロイセン王フリードリヒ2世は大反対しました。
そして、以前自分がやったことは棚に上げて、諸国に反対と抵抗を呼びかけたのです。
マリア・テレジアが危惧したように、息子ヨーゼフ2世によるバイエルン併合は、まったく大義がありませんでしたから、諸国も反対に回り、一触即発、あわや戦争という情勢になってきました。
フランスも、ヨーゼフ2世のやり方には反対しました。
この国が敵に回ったら、もうオーストリアは四面楚歌、おしまいです。
マリア・テレジアは、お説教どころではなく、フランスにオーストリアに味方してくれるよう、それがダメならせめて中立を保ってくれるよう、国王へのとりなしを娘に懇願することになります。
政略結婚の効果が、今こそ求められているときなのです。
その生々しいやり取りが、マリア・テレジアとマリー・アントワネットの往復書簡に残っています。
バイエルンをめぐる、母子の往復書簡
マリア・テレジアからマリー・アントワネットへ(1778年1月8日)
先ごろバイエルン選帝侯の死が伝えられました。私にとっては残念なことです。あなたにお知らせするようにと、メルシーに問題の一部始終が説明してありますので、どうか心して彼の話を聞いてください、これはヨーロッパの平穏とフランス国王の友情に関わることです。この友情は私たち両国の政治上の利害を結ぶ貴重な絆という意味で、私には二重に大切なものです。またこの絆は永遠に断たれてはならないものであり、私たちの子孫にもその恩恵が及ぶよう、しっかりと守っていかねばなりません。*1
マリー・アントワネットからマリア・テレジアへ(1778年1月15日)
メルシーは現在のところ病気ですが、すでにバイエルンの問題についていくらか説明を受けました。すべてが順調に運び、オーストリアとフランスのあいだの同盟と両家の友情がこれからもまったく変りなく続くことを、とてもうれしく思っております。このおかげで、選帝侯の死去の知らせを聞いた当初はすぐさま戦争かと激しい不安に襲われましたが、それはまもなく消え、とても幸せな気持ちになりました。
メルシー伯はどうも王妃には、不安を与えないようにとやんわり情勢を伝えたようで、マリー・アントワネットにはまだ危機感がないようです。
マリア・テレジアからマリー・アントワネットへ(1778年2月1日)
メルシーはまことに不都合なときに病気にかかったものです。なぜなら私は、今こそあの者の行動力を、そしてあなたの家族と祖国と私を大事と思う気持ちを、必要としているからです。あなたに事情を呑み込んでいただくために、メルシーはさまざまな事柄を説明することになっていますが、私はどこまでもあの者を信頼しています。たとえば、わが国が危険な意図をもっているとあらゆる方面に言い触らす動きがあります。特にプロイセン国王が問題で、自分の主張を押し通すことにかけては控えめどころではありませんし、以前からフランスへの接近を目論んでいるからです。しかも自分の国とわが国とが不俱戴天の敵であることを十二分に承知しているのです。プロイセンがフランスに近づけば、私たちの関係が大きく変わることになり、私にとってはまさに死を意味します。私からの知らせであなたが危険を察知なさったとのお言葉を読み、私は深く心を動かされました。そして、これならばあなたは信頼できる、だからきっとすべてうまくいく、という確信がもてたのです。プロイセン国王はあなたひとりを恐れているのです。
母帝は娘を持ち上げつつ、危機感をもっと持つよう促したのです。メルシー伯はこの手紙の『私にとってはまさに死を意味します』のくだりを読んだときの様子を次のように女帝に報告しています。『王妃様がこのくだりをお読みになったとき、私は王妃様のお顔から血の気が引くのが分かりました。衝撃のために、王妃様は激しい興奮と不安に襲われたのです』
マリー・アントワネットからマリア・テレジアへ(1778年2月13日)
愛するお母様。明日メルシーと会うことになっていますが、今から待ち切れない気持ちです。メルシーとじっくり話し合い、情報を得ることは、私にとってきわめて重要です。このようにさまざまな動きが見られる時期に、わが国王陛下の上に垂れ込める暗雲を払いのけ、プロイセン国王が悪意に基づいて吹き込もうとする言いがかりにご注意あそばすようお願いするためです。あの国王は間違いなく自分の利益しか考えていません。と言いますのも、この1ヵ月ですでに5回、急使がプロイセンからこちらに派遣されているのです。
フリードリヒ大王が仕掛けているのは、まさに情報戦でした。母と妹がこんなに苦労しているのに、兄帝は軍事力で何とかなる、と考えていました。
マリー・アントワネットが夫の国王に、オーストリアの味方になってくれるよう頼んだところ、次のようなやり取りになったことが、メルシー伯からマリア・テレジアに報告されています。
駐仏大使メルシー伯爵からマリア・テレジアへ(1778年2月18日)
王妃様が国王陛下(引用注:ルイ16世)に、バイエルンの問題、プロイセン国王の策謀、同盟関係の冷却化の危険について、きっぱりとした口調でお話しになられますと、陛下はこう答えられました。『あなたのお身内の野心がすべてをひっくり返してしまうことでしょう。最初がポーランド、今度は第二幕でバイエルンというわけです。あなたのために、私は残念に思います』。『しかし』と王妃様は答えられました。『このバイエルンの問題については、前もって話が伝えられており、陛下は同意なさっておいでだということを、否定はおできにならないでしょう』。『私は同意などしておりません』と陛下はおっしゃいました。『そこでつい先だっても、各国駐在のわが国の大使に対して、信任状を受理されている宮廷において、このたびのバイエルン分割はわが国の意志に反して行われたことであり、わが国は認めていないと伝えるよう、指示したばかりです』。
ルイ16世は、マリー・アントワネットから説得されても、その兄ヨーゼフ2世の野心は認められない、と明言したのです。
しかし、国王はプロイセンの誘いに乗ってオーストリアと開戦するつもりはなく、その旨も王妃に伝えたのです。
やはり、マリー・アントワネットの弁舌では、夫国王の正当な理屈を覆すことはできませんでした。
マリア・テレジアからマリー・アントワネットへ(1778年3月14日)
陛下(引用注:ルイ16世)のお考えについて、いくらか安心することができました。私たちが危機的な状況に置かれるなかで、あなたのお気持ちを当然のことながら不安にさせてしまい、申し訳なく思っています。しかし情勢は切迫しています。メルシーに対して、明確に説明して助言と助力をお願いするように、という指示が出してあります。いったん敵味方に分かれて争い始めれば、和解はずっと困難になりましょう。あなたは私の敵をご存じです。初っ端に決定的な打撃をあたえようと狙っています。私の立場を考えてみてください。愛する息子ふたりが関わっているのです。それを考えると、断固たる姿勢などどこかへいってしまい、もはや感じるのは自分が母親であるということだけになってしまいます。それと同じで、たくさんの人間を不幸にしなければならないことを考えますと、もっぱら国母であるということしか感じられません。こうした私の立場は、感じることはできてもうまく言葉で言いあらわすことはできません。
マリア・テレジアは、プロイセンが先制攻撃をかけてくることを、早くも見抜いています。そして、万一フランスが敵方に回ったならば、実の息子ヨーゼフ2世と、義理の息子ルイ16世が戦うことになり、母としてこんな不幸はない、いやそれどころか、たくさんの国民を戦争に巻き込むなんて、国母として耐えられない、と訴えているのです。
妊娠が変えた情勢
そんな、戦争の危険が迫る中、情勢が大きく変わる慶事がありました。
マリー・アントワネットは4月19日の手紙で、初の妊娠の可能性を母帝に告げています。
結婚から8年。
待ちに待った兆候でした。
マリア・テレジアは、たいそう喜んだ手紙を娘に書きますが、一方でメルシー伯には『娘からの身ごもったらしいという知らせは、たいそううれしいものではありますが、白状しますと、子供が生まれたと聞かされる瞬間までこれを疑うことにしようかとさえ思っています。この件については永年にわたって希望を欺かれてきたのですから、すっかり疑い深くなっているのです』と書き送っています。
しかし、マリー・アントワネットの妊娠は事実でした。
5月4日には、ルイ16世自らペンを執り、義母であるマリア・テレジアに、妊娠が安定期に入ったことを報告しました。
その間も、プロイセンはフランスを取り込む工作を行い、母子はそれに振り回されますが、ついに1778年7月5日、フリードリヒ大王はオーストリア領ボヘミアに侵攻しました。
バイエルン継承戦争の勃発です。
しかし、フランスが参戦することがなかったのは、王妃マリー・アントワネットが妊娠し、ハプスブルク家の血を承けたフランスの世継ぎが生まれる可能性があったからでした。
1778年12月19日、初産で生まれた子、マリー・テレーズ・シャルロット(1778-1851)は女の子でしたが、その政治的影響は計りしれないものがあったのです。
思えば、母マリア・テレジアの窮地を救ったのも、ヨーゼフ2世の誕生でした。
妊娠、出産が世界情勢を変える時代だったのです。
それでは、同時期のハイドンのシンフォニーを聴いていきましょう。
Joseph Haydn:Symphony no.62 in D major, Hob.I:62
演奏:クリストファー・ホグウッド指揮 アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック(古楽器使用)
1780年のハイドンの手紙から、シンフォニー 第74番とセットで書かれたとされています。しかし、第1楽章は1777年に書かれたオペラか劇の序曲が元になっています。これは既にシンフォニー 第53番《帝国》の第4楽章に転用されましたが、後に差し替えられたので、満を持してこのシンフォニーの第1楽章となりました。
それもありますが、このシンフォニーは謎に満ちています。というのも、全楽章が主調のニ長調で統一され、短調楽章も全く無いのです。これはハイドンはもとより、同時代のシンフォニーでも異例なことです。
ただ、それによって単調だとか、面白みに欠ける、ということはないので、これが例によってハイドンの実験なのか、たまたま既存曲を寄せ集めて作ったパスティッチョ(継ぎ接ぎ)作品ゆえなのか、どうにも分からないのです。
冒頭、大きな身振りで始まり、ワクワクするような律動から盛り上がっていくさまは、いかにも劇場的で、序曲らしいです。まさに、息もつかせぬ疾走です。
展開部は一転、ゆったりとした新しい楽想になり、新しい雰囲気に包まれます。やがて、提示部のテーマが切れ切れに戻ってきて、輝かしい再現部に突入していきます。
第2楽章 アレグレット
この第2楽章も、ハイドンのシンフォニーの中で異彩を放つ緩徐楽章です。速度がアレグレットというのも異例です。羽が舞うような、繊細でフワフワした短いテーマが、自弱音器をつけたヴァイオリンで奏でられ、低い弦がそれに和しますが、コントラバスは参加させられていません。フルートとファゴットが天国的な雰囲気を高めます。提示部の最後にオーケストラは総奏でフォルテとなり、ただの軽いだけの楽章でないことが示されます。ホルンの牧歌的な調べも印象的です。
第3楽章 メヌエット:アレグレット&トリオ
元気と気品を兼ねそろえた、王道のメヌエットです。トリオはファゴット・ソロのリードでシンコペーション・リズムを奏でますが、これは後年の名作『オックスフォード・シンフォニー』の素晴らしいトリオの先取りと言われています。
第4楽章 フィナーレ:アレグロ
ニ長調を主調とする楽章ですが、最初の6小節にわたって短3度音程を重ねるという、主調から離れたオフ・トニック開始で始まりますので、全楽章同調性の単調さを解消する工夫なのかもしれません。第1楽章にしてもおかしくないほどの、大規模なソナタ形式のフィナーレです。先が予測できない、意表を突いた場面が続きますが、展開部でも、迷路に迷い込んだようになってしまいます。そのうちに、ふと出口を見つけ、明るく終わります。まるで、遊園地のアトラクションのような楽章です。
《オックスフォード・シンフォニー》の記事はこちらです。
www.classic-suganne.com
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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