孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

皇帝の改革が盛んにした、楽譜出版文化。ハイドン:交響曲 第74番 変ホ長調

エステルハージ侯爵家で作曲するハイドン

 

改革のハレーション、広がる

皇帝ヨーゼフ2世啓蒙主義的、自由主義的政策は、ハプスブルク家が支配する「さまざまな領土」に、それぞれ違ったインパクトを与えました。

受け容れには温度差があったのです。

まず、本領のオーストリアを中心としたドイツ圏は、戸惑いながらも従順でした。

もともと反抗的で、抑えつけられてきたボヘミア(現チェコ)は、同家に逆らってひどい目に遭わされてきた歴史があるので、受け容れざるを得ませんし、そもそも自由や権利は望むところです。

友好的だったハンガリーネーデルラント(現ベルギー)は、これを機にハプスブルク家への忠誠心が急速に失われてしまいました。

最終的には、ハンガリーハプスブルク家に自分たちの要求を飲ませることに成功し、ネーデルラントは反乱を起こし、ヨーゼフ2世の死の直前には一時独立します。

ヨーゼフ2世の改革は、やり方が唐突で乱暴、何の根回しも配慮もせずに、1枚の「布告」を出すだけで済ませたので、ハレーション大でした。

このやり方を母帝マリア・テレジアはずっと危ぶみながら世を去ったのですが、貴族の特権を奪い、人民の権利を保護し、中央集権のもと近代国家を目指したヨーゼフ2世の改革の方向性は、歴史の流れとしては間違っていませんでした。

ただ、やり方がまずいのと、時期尚早だったゆえに失敗したのです。

ヨーゼフ2世は死に臨んで、自分の墓碑銘に「よき意志を持ちながら、何事も果たさざる人ここに眠る」と自嘲して刻ませましたが、これほど自分の歴史的な立ち位置を認識して世を去った人がいるでしょうか。

情報文化を発展させたヨーゼフ改革

コーヒーハウスで新聞を読みながら情報交換する18世紀の人々

政治的には失敗の多かったヨーゼフ改革ですが、文化面では多大の功績を遺しました。

文化の担い手はこれまで、貴族、聖職者、豊かな市民であり、活動の場所も大都市に限られていましたが、マリア・テレジアヨーゼフ2世の改革で、公教育が普及し、識字率が飛躍的にアップしました。

啓蒙思想に基づき、書物の検閲が緩和され、外国の出版物が大量に流入しました。

その結果、領内の大都市には読書クラブコーヒー・ハウス図書館といった情報ネットワークが生まれ、情報の共有化が図られ、知的な環境が整っていったのです。

ハプスブルク家領外ですが、ヨーゼフ2世の弟、マクシミリアン大公が就任したケルン大司教の領国首都、ボンにも読書クラブが生まれ、若きベートーヴェンもそこで大きな自由主義の影響を受けました。

ベートーヴェンエロイカ(英雄)シンフォニーは、ナポレオンが直接の作曲の動機ですが、その自由を求める思想そのものは、ヨーゼフ2世の影響によるものといえます。

ヨーゼフ2世の死後、オーストリアは反動化し、ウィーン名物のカフェで大声で政権批判をするベートーヴェンは官憲のブラックリスト入りしましたが、さすがに大物過ぎて逮捕はできませんでした。

1790年のヨーゼフ2世薨去は、ボンの人々に大いに惜しまれ、ショックを与え、読書クラブはベートーヴェンに追悼カンタータの作曲を委嘱し、それがロンドンへの旅の途中に立ち寄ったハイドンの目にとまり、彼が世に出ることになったのはかつての記事で書きました。

www.classic-suganne.com

新聞の創刊ラッシュ

さて、ヨーゼフ2世が打ち出した1781年の検閲緩和によって、ウィーンでは出版業が急速に発展しました。

中でもトラットナーは、マリア・テレジアの侍医で、検閲長官だったゲラルド・ヴァン・スヴィーテンハイドンモーツァルトベートーヴェンを支援したゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵の父)の後援により、宮廷付属書籍販売業者兼印刷業者となり、領国の全ての学校教科書の印刷を受託しました。

スヴィーテンは先進国オランダ出身であり、検閲長官でありながら啓蒙主義者でしたから、ドイツの啓蒙思想家の著作の出版もむしろ奨励したのです。

この流れで、新聞の発行も盛んになりました。

1780年にはウィーンでは『ウィーン新聞』、ハンガリーでは啓蒙主義的な『マジャール報知』がハンガリー語で、1782年にはプラハで『プラハ郵便新聞』が発行されました。

ヨーゼフ2世ハンガリーには公用語としてドイツ語の使用を強制しましたが、それまで長くラテン語を使っていたハンガリーは、それならむしろ、とハンガリー語の使用を求めました。

ヨーゼフ2世はそれを認めませんでしたが、ハンガリー語ヨーゼフ2世が発した出版の自由に基づき、新聞によってどんどん広がっていきます。

このあたりは、まさに啓蒙専制君主の矛盾といえます。

ウィーンの楽譜出版も盛んに!

ハイドンの歌曲の出版譜

出版業の興隆は、音楽の世界にも計り知れない影響を与えました。

楽譜出版は、アムステルダム、ロンドン、パリといった大都会ではすでに盛んになり、国際的に流通していましたが、1780年以前にはウィーンで出版された楽譜はほとんどありませんでした。

1770年に、イタリア人のカルロ・アルタリアとフランチェスコ・アルタリアが、ウィーンで地図の出版業を始めましたが、1778年に楽譜出版を手がけ始めました。

後発のため、なかなか既存の国際的な大手出版社には勝てませんので、優れた音楽を生み出しているウィーン周辺の作曲家と契約することによって、参入を図りました。

そこで白羽の矢を立てたのが、エステルハージ侯爵家で独創的な音楽を生み出しているハイドンでした。

アルタリア社は、ハイドンの作品を都合300以上出版することになります。

その代表的なものは、家庭でも演奏可能な弦楽四重奏曲で、特に1782年に出版した『ロシア四重奏曲』はセンセーショナルな大ヒットとなりました。

弦楽四重奏曲の次にウケたジャンルはシンフォニーです。

これでアルタリアとハイドンは、一挙に国際的な名声を得たのです。

ハイドンは、20年前、1761年に侯爵と結んだ雇用契約では、彼が作曲した作品の所有権は侯爵に帰属することになっていましたが、1779年1月1日付でハイドンは新しい契約を侯爵と結び、そこではその『特別の許可がない限り、宮廷以外のための作曲を禁じる』という条項は削除されました。

侯爵もハイドンが本業に支障のない範囲で楽譜を出版し、小遣い稼ぎをするのを認めたのです。

お抱え楽長の名誉は、雇用主の名声を高めることにもなるので、侯爵の方にもメリットは感じられたのでしょう。

一方アルタリアも、ハイドンの第二弾としてモーツァルトとの契約にも成功し、どしどし出版して、生前の最大の出版先となりました。

1793年以降は若きベートーヴェンの作品の出版も手掛けますが、そのうち権利意識の強いベートーヴェンとは対立しはじめ、ついには法廷闘争に発展。

しかしこの諍いは、作曲家の著作権確立に歴史的な貢献を果たすことになりました。

レコードやCDの無い時代、作品の普及に出版楽譜がどのくらい寄与したかは言うまでもありません。

ウィーンが音楽の都と言われるようになったのには、ハプスブルク家代々の皇帝、そしてヨーゼフ2世の貢献が大きいものがありますが、出版を盛んにしたという面も重要なのです。

 

それでは、ハイドンのシンフォニーを聴いていきます。

エステルハージ侯爵家のために作曲した最後期の作品になります。

ハイドン交響曲 第74番 変ホ長調

Joseph Haydn:Symphony no.74 in E flat major, Hob.I:74

演奏:クリストファー・ホグウッド指揮 アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック(古楽器使用)

第1楽章 ヴィヴァーチェ・アッサイ

1780年12月下旬に、ハイドンは侯爵家に対して五線紙の追加注文の稟議を上げています。そこには、1ヵ月前、11月半ばに注文した五線紙は『既にすべて使い切ってしまいました。一部は新しいオペラのために、一部は2曲の新しいシンフォニーのためにつかったものです。』と記されていました。オペラは『報いられたまこと』であり、シンフォニーは第62番 ニ長調と、この第74番のことでした。この史料により、この2曲はペアとして同年11月中旬以降に書かれたことが推定されています。

この曲は侯爵家のために書かれましたものですが、ロンドンで新しく設立された楽譜出版社フォースター社の創業者、ヴァイオリン製作者ウィリアム・フォースターから、作品を提供してほしい、という依頼があり、そこで1781年か1782年に出版されました。

この時期のシンフォニーの特徴である、高度に知的な娯楽、といった性格がよく出た素晴らしいシンフォニーです。

冒頭、ハンマーの打撃が強く3回鳴らされますが、そのあと弱く、3音目が短く3つの音に分割されて演奏されます。「タン、タン、タン」のリズムが、「タン、タン、タンタンタン」になるわけです。これが繰り返されたあと、さらに強く出ます。このいたずらっぽいユーモラスなリズムで聴く人の微笑を誘ったあと、さらにこのリズムが変幻自在に展開され、引き込んでいきます。

このリズムは展開部では影をはらんだ悲し気な雰囲気になり、切迫感さえ感じますが、再現部では太陽が戻ってきたような明るさとなります。打撃リズムの執拗な展開ということでは、ベートーヴェンの《運命》の原型といえるかもしれません。

第2楽章 アダージョカンタービレ

チェロが、セレナーデのギターの伴奏のようにリズムを刻み、弱音器をつけたヴァイオリンがその上で歌います。形式はロンドで、A-B-A1-B1-A2-コーダという構成です。シンプルに聴こえますが、なかなかに深い音楽です。コーダは管楽器のソロ三重奏ではじまり、深遠さを感じるフガートで終わります。

第3楽章 メヌエット:アレグレット&トリオ

メヌエット主部は、ロンバルド・リズムとも、スコッチ・スナップとも呼ばれる逆付点リズムが特徴的です。トリオでは、ファゴットのソロが第1ヴァイオリンをなぞることで、個性的な響きを奏でます。

第4楽章 フィナーレ:アレグロ・アッサイ

テーマの旋律は、フィナーレにしてはかなり混んだ複雑なものです。第1、第2ヴァイオリンがユニゾンで奏ではじめ、低弦がこれを模倣し、それにヴァイオリンがさらに強くかぶせていきます。ハイドンのフィナーレによくあるようなはしゃぎっぷりはあまり感じられず、どこか落ち着いていて、ところどころに散りばめられた休止が粋です。しかし、ユーモア、ジョークの工夫に満ちていて、最後まで惹きつけられてしまいます。モーツァルトはこの時期のハイドン弦楽四重奏曲やシンフォニーに心酔し、よく研究して自作をブラッシュアップしていることが知られていて、このテーマも、晩年の弦楽四重奏曲 第22番 変ロ長調 K.589《プロイセン王2番》のフィナーレに引用されているのではないか、といわれています。

 

動画は、鈴木秀美さんがハイドンを演奏することを主な目的にして設立した、オーケストラ・リベラ・クラシカの演奏です。(第1楽章のみです)


www.youtube.com

 

今回もお読みいただき、ありがとうございました。

 

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