孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

作曲者自身による、メイキング解説!モーツァルト:オペラ『後宮からの誘拐』あらすじと対訳(3)『オスミンとベルモンテのアリア』

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オスミンはなぜペドリロが嫌い?

モーツアルトオペラ『後宮よりの誘拐』、あらすじと対訳の3回目です。

怪しいよそ者ベルモンテを追っ払った番人オスミンは、嫌な名前を聞いたとばかり、独りペドリロを罵っています。

あいつは太守にうまく取り入ってやがるが、きっと悪だくみを考えている、いずれ尻尾をつかんでやるぞ…と。

オスミンのこの勘は見事に当たっているのですが、それとは別に、彼がペドリロを目の敵にするにはわけがありました。

海賊から一緒に太守に買われたコンスタンツェの侍女、ブロンデをオスミンは気に入っているのです。

オスミンは奴隷頭ですから、ブロンテは太守が自分に下さった奴隷と思っていますが、イギリス人のブロンテは勝気で、オスミンにはなびきません。

しかも、もともとペドリロと付き合っているのですから、なおさらです。

オスミンは、それをペドリロが自分のブロンテにちょっかいを出していると思い、さらに憎み、厄介者扱いしているわけです。

さて、そんなところにペドリロが現れ、オスミンに『ようオスミン、太守はまだお戻りじゃないかい?』と親し気に話しかけます。

太守はコンスタンツェを連れて舟遊びに出かけているのです。

オスミンは『自分で確かめろ』と吐き捨てます。

ペドリロが、なんでそんなに自分を邪険にするんだよ、仲良くしようぜ、と言うと、オスミンはアリアで答えます。

怒りの感情も、人に嫌悪を催させてはならない

前述のように、『後宮よりの誘拐』は、幸運にも父宛の手紙によってモーツァルトがオペラを作曲する〝メイキング・ドキュメント〟がありますので、このオスミンのアリアについてのくだりを引用します。

お手元に差し上げたのは、その始めと終わりだけですが、終わりはきっと効果があがります。オスミンの怒りは、トルコ風の音楽がつけられるために、滑稽になってきます。アリアの展開で、ぼくは(ザルツブルクのミダス王が何と言おうと)青の人の低音をひびかせるようにしました。『だから、預言者のヒゲにかけて』は、テンポは同じでも速い音符ですし、その怒りがつのるにつれて―――アリアがもう終わるかと思うころにー――アレグロ・アッサイがまったく別なテンポと、別な調性になるので、まさに最高の効果を上げるに違いありません。じっさい、人間は、こんなに烈しく怒ったら、秩序も節度も目標もすべて踏み越えて、自分自身が分からなくなります。音楽だって、もう自分が分からなくなるはずです。でも、激情は、烈しくあろうとなかろうと、けっして嫌悪を催すほどに表現させてはなりませんし、音楽は、どんなに恐ろしい場面でも、けっして耳を汚さず、やはり楽しませてくれるもの、つまり、いつでも音楽でありつづけなければなりませんので、ぼくはヘ長調(アリアの調)に無縁な調ではなく、親近性のある調、しかし、ごく近いニ短調ではなくて、もう少し遠いイ短調を選びました。(1781年9月26日 父レオポルト宛)*1

このくだりはとても有名です。ドラマを音楽で表現するオペラにあっては、どんなに激しい感情でも、恐ろしい場面でも、人を楽しませる「音楽」の域を超えてはならない、というのです。

人が怒っているのを見るのは嫌なものです。

職場で上司が誰かを怒っていたら、自分に関係がなくても嫌な気持ちになります。

また我が家でも、リビングにはよく録画したTVドラマが流れていて、家族の誰かが見るともなく見ているのですが、ドラマには誰かが誰かを怒ったり、非難したり、罵ったりしているシーンが多くて、いたたまれない気持ちになることがしばしばです。

自分が好きで見ているドラマならともかく、何の話かも知らないドラマでいきなり家の中に怒号がひびくのは嫌なのです。

何のいざこざも起こらない、穏やか~なドラマなんて視聴率を取れないのでしょうが、みんな争いや諍いが好きなんでしょうかねぇ。

それをモーツァルトは、音楽に載せて、楽しく表現しようとしてくれているのです。

このアリアではオスミンの怒りは三部構成で、だんだんエスカレートしていきます。

そしてペドリロのセリフを挟んで、トルコ風の残酷な処刑をまくし立てて、去っていきます。

処刑方法の残酷さにかけては、ヨーロッパの方がえげつないように思いますが、当時のトルコのイメージだったのですね。

そんな作曲者の狙いを踏まえてお聴きください。

オペラ『後宮からの誘拐』第1幕第3場

W.A.Mozart : Die Entführung aus dem Serail K.384

演奏: ジョン・エリオット・ガーディナー指揮 イングリッシュ・バロック・ソロイスツ、モンテヴェルディ合唱団

John Eliot Gardiner & The English Baroque Soloists , The Monteverdi Choir

第3曲 オスミンのアリア『お前らのような風来坊は』

 オスミン

お前らのような風来坊のすることは

女の尻を追うことばかり。

悪魔にかけても好きにはなれん。

こいつらのやることといえば、

仕事するふりして隙を窺うことばかり。

だが俺の目はごまかせないぞ。

お前らの悪だくみはお見通しだ。

俺の裏をかこうというなら、相当早起きでもするんだな。

俺にだって分別はあるからな。

だから、預言者のヒゲにかけて、

昼も夜もお前の仕業を見張っているぞ。

せいぜい気を付けるんだな。

ペドリロ(セリフで)

あんたは何てひどいんだ。

これはあんたに何もしていないのに…

オスミン

お前の顔が気にくわない。それでじゅうぶんだ。

まず首を切ってから、吊るし、焼けた棒で串刺しだ。

それから焼いて、縛って、水に漬けて、

最後に皮を剥いでやる!

(宮殿の中に入る)

オペラ『後宮からの誘拐』第1幕第4場

ベルモンテとペドリロの再会

オスミンにさんざん罵られていじけているペドリロのもとに、いったん追い払われたベルモンテが戻ってきて、主従喜びの再会を果たします。

そして、これまでのいきさつを主人に報告するペドリロ。

海賊につかまったものの、運よく太守セリムに3人まとめて買われ、コンスタンツェは太守の特別の恋人になっていること。

ベルモンテは、何だって!?と色めき立ちますが、ペドリロは、太守セリムは異教徒ながら寛容で紳士的であり、無理矢理に女をモノにするような人ではありません、なので自分の知っている限り、ふたりはまだそんな関係ではありません、と安心させます。

でも、自分の恋人ブロンテはオスミンに権力で言い寄られているから、どうなることやら…と心配顔。

沖合に舟を待たせてあるから、と逸るベルモンテを抑え、ペドリロはそんなに簡単にはいきません、と軍師のごとく策略を練ります。

まずは、太守セリムに、ベルモンテを、太守の声望をきいて仕えたいとはるばるたずねてきた建築家として紹介。そして、邪魔なオスミンを何とかして、その隙に連れ出す、という作戦を説明します。

そうこうするうち、太守一行がコンスタンツェを伴って舟遊びから帰還してくる気配がします。

ペドリロは、コンスタンツェ様に会っても、くれぐれも取り乱さないでくださいよ、作戦がパーになりますから、と念を押しますが、ベルモンテはもう、コンスタンツェに会える、ということだけでポーっとなっています。

そして歌うのが次のアリア。

モーツァルトがシュテファニーから台本を受け取って、勢いですぐ作ってしまった3曲のうちの1曲です。

第1幕ではベルモンテのアリアは2曲ありますが、冒頭のアリアはモーツァルトが付け加えた軽いもので、こちらがメインの曲になります。

これにも、同じ手紙にモーツァルトの自身の解説があります。

さて、ベルモンテのアリアは、イ長調です。『ああ、何と心配な、ああ、何と燃えるような』はどう表現されているか、ご存知でしょう。愛に溢れてドキドキする胸も、すでにオクターヴ並行のヴァイオリンで示されています。これは、それを聴いたみんなのお気に入りのアリアです。ぼくも大好きです。そして、アダムベルガー(注:初演歌手)の声にすっかり合わせて書かれています。震えが、よろめきが、そして胸がふくらんで高まるのが、まるで目に見えます。これはクレッシェンドで表されています。ささやきと、ため息が、耳に聞こえます。これは弱音器をつけた第1ヴァイオリンと1本のフルートのユニゾンで表されています。(1781年9月26日 父レオポルト宛)

というわけで、恋する男の純な心のうちが、楽器のオブリガートによって繊細に表現されています。

この手紙を読んでから聴くと、ああなるほど、とよく分かるのです。

第4曲 ベルモンテのアリア『コンスタンツェ、ようやく君に』

 ベルモンテ

コンスタンツェ、ようやく君に会えるのだ。

ああ、何と不安な、

ああ、何と燃えるような、

愛でいっぱいの私の心、激しく鼓動している。

長い別れの苦しみは、再会の涙で報われるのだ。

私はもう、おののき、よろめいている。

私はもう、怖がり、ゆらめいている。

私の胸はふくらみ、高鳴っている!

あれは彼女のささやきだろうか?

心が不安におそれおののく。

あれは彼女のため息だろうか?

燃えるような気持ちに心がときめく。

それは愛の幻か?それとも夢なのか?

純情あふれる素敵なアリアですが、恋に恋しているようなところも無きにしも非ずです。でも、恋は盲目、それさえ恋のなせる業なのです。 

 

次回、太守の一行が屋敷に帰還します。コンスタンツェもそこに…。

 

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*1:柴田治三郎訳

恋人が囚われている宮殿の前で。モーツァルト:オペラ『後宮からの誘拐』あらすじと対訳(2)『ベルモンテとオスミンの二重唱』

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ローマ教皇から授与された勲章『黄金拍車の騎士』をつけたモーツアルト

モーツァルトのオペラは3種類

人類の宝、モーツァルトのオペラのうち、一般的に上演の機会が多いのは7つです。

ジャンル別に3つに分けられるので、これまでも触れてきましたが、あらためて整理しておきます。

まず、『オペラ・セリア』

これは〝正歌劇〟といわれ、ギリシア神話古代ローマの英雄物語がテーマです。

〝セリア〟は英語では〝シリアス〟ということ。

古代文化に憧れ、その復活を目指した古典主義の典型です。

オペラがはじめて作られたのは17世紀初頭イタリア・フィレンツェにおいてですが、古代ギリシア演劇の復活を意識したものですので、題材が古代になるのは当然です。

18世紀のヨーロッパ人にとっては歴史ものの大河ドラマといったところでしょうか。

基本的には悲劇なのですが、18世紀には原作をまげてでもハッピーエンドになっています。

19世紀になると、『椿姫』『リゴレット』『トスカ』のように悲しい結末の方が好まれますが、それも前近代と近代の時代性の違いでしょう。

次に『オペラ・ブッファ』

こちらは『喜歌劇』と訳され、本来は正歌劇の幕間に演じられる、余興のような軽い寸劇でしたが、ペルゴレージ(1710-1736)の『奥様女中』が大人気となり、メインの演目に成長したものです。

セリアもブッファも当然イタリア語です。

そして、『ジングシュピール』。

今回の『後宮よりの誘拐』がこれに当たり、ドイツ語の歌芝居です。

オペラでは、アリアや重唱、合唱の間のセリフの部分も〝レチタティーヴォ〟という、通奏低音での伴奏による軽い節回しつきで歌われるのですが、ジングシュピールは基本が芝居ですから、歌と歌の間はふつうの地のセリフになります。

7曲は上演順に次のようなジャンル分けになります。

クレタの王イドメネオ』K.366(1781年)【オペラ・セリア】

後宮からの誘拐』K.384(1782年)【ジングシュピール

フィガロの結婚』K.492(1784年)【オペラ・ブッファ】

ドン・ジョヴァンニ』K.527(1787年)【オペラ・ブッファ】

コジ・ファン・トゥッテ』K.588(1790年)【オペラ・ブッファ】

皇帝ティートの慈悲』K.621(1791年)【オペラ・セリア】

魔笛』K.620(1791年)【ジングシュピール

この『後宮』は、モーツァルト最後のオペラ『魔笛』と同じ、ジングシュピールということになります。

ジングシュピールには、ドイツ文化を興隆させたいという皇帝ヨーゼフ2世の並々ならぬ意気込みがあったことは前回触れましたが、その狙い通り、ドイツ国民にとりわけこよなく愛されたのはやはりこの2曲だったのです。

後宮からの誘拐』(全3幕)登場人物

太守セリム(パシャ・セリム)

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初演時の衣装(セリム)

オスマン・トルコ帝国の、地中海に面した、とある地域を治める太守。実は元はスペイン人のキリスト教徒だったが、祖国を陰謀で追われ、トルコに亡命、イスラム教に改宗し重用されている。歌を歌わない語り役モーツァルトの自筆譜には『太守セリム、歌うべきものをもたない』と書かれている。

コンスタンツェ(ソプラノ)

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スペインの令嬢でベルモンテの恋人。航海の途中、侍女のブロンデ、ベルモンテの召使いペドリロとともに海賊に捕まり、セリムに売られる。後宮(ハーレム)に入れられ、セリムに愛されるが、その愛を拒み続けている。

ブロンデ(ソプラノ)

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コンスタンツェの侍女で、イギリス人。捕えられたあともずっとコンスタンツェの世話をしている。

ベルモンテテノール

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スペイン貴族の子息で、コンスタンツェの恋人。コンスタンツェの行方を捜している。

ペドリロテノール

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ベルモンテの召使い。セリムに信頼され、庭園の番人を任されている。

オスミン(バス)

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太守の別邸の番人で、奴隷頭。

初演をめぐって

初演の歌手も最初から決まっていました。

ヒロインのコンスタンツェ役は、カテリーナ・カヴァリエリ嬢(1760-1801)。モーツァルトはこのオペラの歌を『彼女のなめらかな喉に捧げた』といっていることで有名です。

映画『アマデウスでも重要な役柄で、ウィーン一のプリマ・ドンナとして登場し、サリエリは密かに彼女に恋していましたが、それをモーツァルトに奪われた、という設定になっています。

オペラがはねた後、舞台上で皇帝から花束を受け取った彼女は、モーツァルトが結婚することを知り、その花束をモーツァルトに投げつけるのです。

この話はフィクションであり、ふたりが深い仲だったことをうかがわせる史実はありませんが、彼女のための歌を聴くと、格別な思い入れがあるように感じられるのも事実です。

でもそれは、モーツァルトが自分を売り込むためのスタンドプレイであり、そのための格好の媒体を得た、ということでしょう。

カヴァリエリ嬢は、以前ご紹介したようにその後も『ドン・ジョヴァンニ』のウィーン再演でのドンナ・エルヴィーラや、『フィガロの結婚』の伯爵夫人など、モーツァルトのオペラの主要な役を演じています。

ベルモンテを歌ったのはヨハン・ヴァレンティン・アダムベルガー(1743-1804)。かつてミュンヘンで『イドメネオ』の大祭司を歌ったので、モーツァルトとは旧知でした。彼の曲は華麗なコロラトゥーラで彩られているので、さぞかし甘く抒情的なテノールだったのではないかと思います。

あと高名なのは、愛すべき悪役、オスミン役ヨハン・イグナツ・ルートヴィヒ・フィッシャー(1745-1825)です。

彼については、ザルツブルク大司教コロレードがかつて『バス歌手としては低く歌いすぎる』と評したので、モーツァルトはこの素人評をせせら笑って『次回からはもっと高く歌うようになりましょう』と皮肉で返したことがありました。

彼には演技力もあり、『後宮』の4回目の上演を観たある貴族は『フィッシャーの演技は素晴らしい。アダムベルガーは彫像のごとし。』と日記につけています。

ほかの初演歌手は、ブロンデ役タイバー嬢ペドリロ役ダウアー太守セリム役ヴァルターでした。

モーツァルトは、いったん作曲した後、歌手たちに歌わせてみて、修正や削除を行っています。

それはまるで、オーダーメイドの服を作るのと同じで、モーツァルトはその作業を『服がぴったり合うように、曲がその喉にぴったり合うのがうれしい』と述べています。

その結果、後世の我々はどの楽譜を聴いたらよいのか戸惑ってしまうわけですが、今回ご紹介する録音は、モーツァルトの最初の楽譜を復元した『新モーツァルト全集』に基づいたものなので、初演歌手に合わせたカットを復元して演奏しています。

そのため、聴き慣れた歌と違う曲もあって、少なからず戸惑いますが、まぎれもなくモーツァルトが作ったオリジナルの曲なのです。

初演歌手の歌を聴けない我々としては、モーツァルトがいったん良かれと思って作曲した楽譜で聴いてみるのもひとつの選択といえるでしょう。

物語の設定

さあ、幕を開けましょう。

舞台はオスマン・トルコ帝国支配下のトルコ。地中海に面した、このあたりを治めている太守(パシャ)セリムの別邸前です。

ヒロインのコンスタンツェと、侍女ブロンデ召使いのペドリロの3人は、航海中に海賊につかまり、奴隷として売り飛ばされます。

しかし、3人は不幸中の幸いで、寛容なトルコの太守セリムに一緒に買われます。セリムは元スペイン人で、陰謀により祖国を追われ、オスマン・トルコに亡命した人物だったので、このヨーロッパ人一行を憐れみ、離れ離れにならないよう一緒に買い上げたのです。

セリムはコンスタンツェの美しさの虜となり、後宮(ハーレム)に入れ、側室にしようとしますが、コンスタンツェは太守の愛を拒み続けています。

太守はブロンデとベドリロのことも気に入り、別邸でそれぞれ役目を与えています。

それが気に入らず、胡散臭い目で見ているのが、太守の家来、オスミン 。

彼は根っからのトルコ人で、太守の寛容なやり方を危なっかしく思っています。

ブロンデのことを気に入っていますが、彼女もオスミンを拒み続けています。

そして、ブロンデと仲の良いペドリロを目の敵にしています。

そんな中、コンスタンツェの婚約者ベルモンテが、ようやくコンスタンツェのいる場所を突き止め、沖合に帆船を密かに待たせて、恋人を救出すべくやってくるところから、物語が始まります。

オペラ『後宮からの誘拐』第1幕第1場

W.A.Mozart : Die Entführung aus dem Serail K.384

演奏: ジョン・エリオット・ガーディナー指揮 イングリッシュ・バロック・ソロイスツ、モンテヴェルディ合唱団

John Eliot Gardiner & The English Baroque Soloists , The Monteverdi Choir

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後宮からの誘拐』ピアノ編曲版のタイトルページ(1823年)

幕が開くと、そこは海に面した太守セリムの別邸の前庭。

宮殿は高い塀で囲まれ、門は固く閉ざされています。

そこにひとり、ベルモンテが登場します。

彼の歌は、序曲の中間部を長調に移調したもので、恋人の居場所にたどりついた感慨を歌います。

もともとの台本では、ここはモノローグで始まるのですが、モーツァルトは小さな歌で幕が開くようにしたのです。

第1曲 ベルモンテのアリア『ここで君に会えるのだ』

ベルモンテ:スタンフォードオルセンテノール

ベルモンテ

ここで君に会えるのだ、コンスタンツェ!私の幸せ!

ああ神よ、彼女に会わせてください!

私に安らぎを与えてください!

愛する人よ、私はあまりにつらい苦しみに耐えてきたのです。

神よ、今は喜びを与え、私を彼女のもとへ導いてください。

オペラ『後宮からの誘拐』第1幕第2場

しかし、どうやって宮殿に入ったものか?どうすれば彼女に会えるのか?

途方に暮れていると、ひとりのでっぷりとしたトルコ人が梯子をかついで登場。

門の前のイチジクの木に登って、歌いながら実を採り始めます。

第2曲 リートと二重唱

オスミン:コーネリアス・ハウプトマン(バス)

オスミン

可愛くて、浮気をしなくて、まじめな女ができたら、

たくさんキスをしてやりな

楽しい思いをさせてやりな

いい友達になってやりな

トララレラ、トララレラ!

ベルモンテ(セリフで)

ちょっと君。ここは太守セリム様のお屋敷かい?

オスミン(無視して)

だけど悪い虫がつかないように、

外には出さずしまっておけよ

悪い男は蝶々と見ればほっておかない

他人の酒を飲みたがるものさ

トララレラ、トララレラ!

ベルモンテ(セリフで)

おいおい、聞こえないのかい!? ここは太守セリム様のお屋敷かい?

オスミン(彼を見て、やはり無視して)

月の晩など一番いけない

悪い男が忍び寄ってくる

そして馬鹿な子ウサギを手なずける

そうなりゃ、もう操はおさらばさ!

トララレラ、トララレラ!

ベルモンテ

その歌はもうたくさんだ!もう俺には聞き飽きた!

俺の質問に答えてくれ!

オスミン

こんちくしょう、何をうるさく威張りちらしているんだ?

早く言え、もう俺は行くぞ

ベルモンテ

ここは太守セリム様のお屋敷かい?

オスミン

はあ?

ベルモンテ

ここは太守セリム様のお屋敷かい?

オスミン

ここは太守セリム様のお屋敷だよ。(去ろうとする)

ベルモンテ

ちょっと待ってくれ!

オスミン

まだなんだってんだ?

ベルモンテ

もう一言!

オスミン

さっさと言え、もう行くぞ

ベルモンテ

君は太守に仕えているのか?

オスミン

はあ?

ベルモンテ

君は太守に仕えているのか?

オスミン

はあ?

ベルモンテ

君は太守に仕えているのか?

オスミン

俺は太守に仕えている。

ベルモンテ

それなら、ここで働いているベドリロに会わせてくれないか?

オスミン

あんな野郎は首をへし折ってやればいい。

自分で探すんだな

ベルモンテ(傍白)

なんてひどいオヤジだ

オスミン(傍白)

こいつも奴の一味だな

ベルモンテ

いや、彼はいい男だよ

オスミン

いい男すぎて、串刺しにしてやりたいわ

ベルモンテ

あんたはペドリロをよく知らないんだよ

オスミン

知りすぎてて、焼き殺したいわ

ベルモンテ

彼は本当にいい奴さ!

オスミン

あいつの頭は杭にぶらさげるのがいい!(去ろうとする)

ベルモンテ

ちょっと待ってくれ!

オスミン

まだ何だ?

ベルモンテ

私はぜひ・・・

オスミン

私はぜひ、お屋敷のまわりを窺って、隙あらば女をさらっていきたいのですが、だと?

失せろ、失せろ、失せろ!お前らに用はない。

ベルモンテ

あんたは本当にどうかしている。

逆上して、そんなひどいことを、面と向かってよく言えるもんだ!

オスミン

お前の魂胆はお見通しだ!

ベルモンテ

馬鹿言うな、脅すのはやめろ

オスミン

とっとと失せろ!さもなきゃ鞭で打ってやる!

今ならまだ間に合うがな!

ベルモンテ

あんたは本当にどうかしている!

人がものを尋ねているのに、なんて態度だ!

常識をわきまえてくれ、わきまえてくれ!

(ベルモンテ追い出される)

前半のオスミンのリート(小唄)は、おとぎ話を語るような異国情緒あふれるものです。

歌詞には、これからのストーリーが暗示されていますが、武骨なオヤジ、オスミンにはちょっと似つかわしくないもので、それがかえって滑稽です。

オスミンは、ベルモンテに何度も話しかけられても無視し、ようやく二重唱になって会話が始まりますが、なかなかかみ合いません。

異文化同士で意思疎通がうまくいかないさまが、これも楽しく表現されています。

ペドリロの名前を聴いたオスミンはなぜか激高し、ふたりの言い争いはさらに激しくなり、音楽もどんどん盛り上がっていくのです。

劇の始まりから聴衆を引き込んでいくモーツァルトの〝ツカミ〟はここでも素晴らしい効果を上げています。

 

次回、ベルモンテによってイラつかされたオスミンのところに、ペドリロが飛んで火に入ってきます。

 

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婚約者に捧げる、青春の記念碑。モーツァルト:オペラ『後宮からの誘拐』あらすじと対訳(1)『序曲』

モーツァルトの青春の記念碑

これから取り上げるモーツァルトオペラ『後宮からの誘拐は、今一般に親しまれている、上演の機会の多いモーツァルトの7つのオペラのうちでは早い頃の作品です。

作曲されたのは、前回と前々回にご紹介した、定職を捨ててフリーの道を選び、コンスタンツェとの恋愛のさなかで、まさに新しい生活への希望に満ちた頃の作品です。

旧弊な封建君主、ザルツブルク大司教のくびきから脱し、新天地ウィーンで名を上げるには、皇帝からの評価が不可欠ですが、まさにその皇帝ヨーゼフ2世直々のオーダーを受けたのがこの曲であり、さらにヒロインの名は偶然にも、婚約者コンスタンツェ

仕事とプライべートの両面での飛躍となるまたとないチャンス。

張り切らないわけがありません。

音楽は、時には〝若気の至り〟も感じるほど元気はつらつ。

内容も、モーツァルトのオペラの中でも最も親しみやすく大衆的なもので、モーツァルトの生前に、ヨーロッパ各地で最もさかんに演じられた、大ヒット作だったのです。

ドイツ・オペラの先駆け

このオペラは、ドイツ語で書かれています。

今でこそ、オペラは作られたそれぞれの国の言葉で書かれるのが当たり前ですが、そもそもオペラはイタリアで生まれたもの。

つまりオペラはイタリアのものですから、18世紀までは、イタリア以外の国でもイタリア語で歌われるのが当たり前でした。

自国の文化に自身をもっているフランスだけは、歌よりもバレエを重んじたフランス語オペラを確立しましたが、それでも、イタリアオペラ愛好者との間で、フランスオペラとイタリアオペラのどちらが優れているか、国論を二分して『ブフォン論争』や『グルックピッチンニ論争』という大議論を巻き起こしています。

特に後者の争いは激しく、貴族たちは初対面の相手に『貴殿はグルック派なりや?ピッチンニ派なりや?』と確かめ、違う派であれば即敵対、という有様でした。

ヘンデルも、英国での活躍の前半は、イタリア・オペラを盛んに上演していました。

しかし、後半生は国民の嗜好の変化を読み取り、『メサイア』をはじめとした英語のオラトリオに転向しています。

それは、英国民が他国への憧れを捨てて、自らの国民文化を志向する時期にちょうど合致したわけです。

そして英国は、世界の支配者への歩みを始めます。

ドイツでも、英国より遅れて同じ動きが出て来て、この音楽における担い手はモーツァルトに託されたのです。

なかなかまとまらないドイツとイタリア

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1077年の「カノッサの屈辱教皇へのとりなしをマティルダ女伯に乞う皇帝ハインリヒ4世

「ドイツ」という国ができたのは、モーツァルトのこのオペラができた頃から、さらに90年後の1871年ですから、それまではドイツというのは単なる地域名でした。

もともと、中世初期に今のドイツ地域の王だった東フランク王神聖ローマ皇帝になってから、ドイツの王は西ローマ帝国の後継者を自任していましたから、イタリア統治に熱心で、ドイツ国内の統治はおろそかになり、ドイツは大小たくさんの諸侯国、すなわち半独立国の割拠状態なりました。

ザルツブルク大司教のような、聖職者でありながら領地をもった〝聖界諸侯〟も多く、その任命権が皇帝にあるのか、教皇にあるのかということが争われた『聖職叙任権闘争は世界史のハイライト。皇帝が教皇に屈した〝カノッサの屈辱〟がそのクライマックスです。

イタリア国内の貴族たちも「皇帝派(ギベリン党)」と「教皇派(ゲルフ党)」に分かれて争い、『ロミオとジュリエット』の悲劇もそこから生まれました。

皇帝は選挙制で、選挙権をもった大諸侯は「選帝侯」と呼ばれました。

モーツァルトが以前求職活動をした相手ですが、これでは皇帝の権力は強まりません。

しかし15世紀以降、帝位はオーストリア大公ハプスブルク家が独占、事実上の世襲に成功します。

ハプスブルク家の支配地はドイツ、イタリアのみならず、スペイン、ベルギー、シチリアなどに及び、世界中に植民地をもって〝太陽の沈まぬ帝国〟と言われましたが、さすがに広すぎるのでスペイン系オーストリアに分かれました。

海洋帝国を形成したスペイン系に比べると、ヨーロッパ内にとどまったオーストリア系はやや地味ではありますが、大帝国だけあって、首都ウィーンには様々な文化が流れ込みました。

やはりもてはやされたのは文化の先進地、イタリアとフランスの文化でした。

蛮族ゲルマン人の末裔であるドイツ文化は野蛮人の文化とされていたのです。

リベラル皇帝、ヨーゼフ2世

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神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世(1741-1790)

さて、モーツァルトの時代に戻りますが、時の皇帝ヨーゼフ2世(1741-1790)は、有名な女帝マリア・テレジア(1717-1780)の長子で、マリー・アントワネットの兄であり、父帝が崩御した1765年に皇帝に即位しましたが、母が共同統治者になっていたので、実権は母に握られていました。

マリア・テレジアは女帝といっても正確には皇帝ではなかったのですが、まさにゴッド・マザーでした。

啓蒙専制君主はなぜ2世が多いのか?

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マリア・テレジアと子供たち

しかしヨーゼフ2世は、あろうことか母の仇敵、プロイセンフリードリヒ2世を尊敬し、同じような「啓蒙専制君主」になろうとしました。

啓蒙専制君主とは、当時のヨーロッパで流行していた啓蒙思想に感化された君主たちです。

啓蒙思想とは、中世以来の因習や迷信、宗教の束縛などを排し、人間の理性の光を世の中に当てて、無知蒙昧の闇を啓いていこう、という思想です。

ルネサンスを受け継ぎ、近代精神に目覚めた考え方です。

啓蒙専制君主は、プロイセンフリードリヒ2世オーストリアヨーゼフ2世、そしてロシアのエカチェリーナ2世がその代表とされています。

人民の権利を尊重し、封建主義を打破しようとした〝リベラル〟な君主たちで、素晴らしい王様たちに見えますが、しょせん〝上からの改革〟であり、限界がありました。

啓蒙専制君主たちは、みな〝2世〟ですが、かつて世界史教師が『こいつらはみなニセ者なんだ。だから2世なんだ!』と鉄板ギャグを言っていたものです。

打破しようとしたのは、中間で人民を搾取する封建領主や聖職者たちであって、それによって自らの権力を強くしようとした「専制君主」だからです。

下からの革命ではなく、上から〝人民のため〟と称した改革は、歴史の例を見ると危険な結果をもたらしがちです。

それまでの王権は〝神の名において〟行使されていましたが、〝人民の名において〟得た権力はもっと強大なのです。

権力者がちゃんとやってくれればいいのですが、えてして腐敗したり、反対者の粛清に血道を上げたりするようになるのが歴史の常です。

人民の権利が確立した近現代の方が、恐ろしい独裁者が生まれているのです。ヒトラースターリン毛沢東らに比べたら、古代の暴君ネロなどかわいいものです。

政治家が国民のために働くのは当たり前ですが、国民のため、と称して権力を強化することには、歴史の教訓として警戒しなければなりません。

ヨーゼフ2世のやりたかったこと

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自ら農耕を体験するヨーゼフ2世

さて、そんなヨーゼフ2世のリベラル路線は、母マリア・テレジアの嫌うところだったので、ゴッド・マザーとかなりの対立になりましたが、1780年に母が亡くなると、ようやく自分のやりたいようにできるようになりました。

ちょうど、モーツァルトがウィーンに来る直前のことです。

ヨーゼフ2世も、偉大な母の支配からの卒業を果たしたところだったのです。

彼は、1781年に農奴解放令を出しましたが、これはフランス革命前で最も近代的な改革でした。さらに宗教寛容令を公布し、これまで制限されていたプロテスタント系の公民権を平等にしました。

いずれもリベラルな改革でしたが、農民を領主のものから国家直属にし、またカトリック教会の力を弱めるなど、自らの権力基盤強化につなげるものでもありました。

領主兼聖職者であるザルツブルク大司教のもとを飛び出したモーツァルトを可愛がったのも、そんな背景があるのです。

彼の政策は〝ヨーゼフ主義〟と言われ、〝民衆王〟〝皇帝革命家〟〝人民皇帝〟などの異名を取り、農民から人気もありました。

しかし、その急進的な改革はほとんど挫折し、彼は自らの墓に『よき意思を持ちながら、何も果たせなかった人、ここに眠る』と自虐的な墓碑銘を刻ませることになったのです。

ドイツ語のオペラを

ヨーゼフ2世は、ドイツ文化の興隆にも力を入れました。

これまでイタリア語で上演されていたオペラですが、これを人民も分かりやすいドイツ語で、しかもレベルの高いものはできないか、というのが彼の願いでした。

『ジングシュピールというドイツ語による歌芝居はありましたが、場末の芝居小屋で演じられるようなもので、ヨーゼフ2世はこれをオペラレベルに引き上げようと考えたのです。

1776年にヨーゼフ2世は、宮殿のそばにあるブルク劇場を「ドイツ国民劇場」と改称し、貴族以外の人民にも開放する勅令を発しました。

そして翌年には、ドイツ語によるジングシュピールの稽古を始めよ、という命令を下しました。

モーツァルトはこのニュースを聞いて、そのオペラを作れるのは俺しかいない!と張り切り、父レオポルトも、モーツァルトのことが皇帝の耳に入るよう、ウィーンの知人と言う知人に手紙を書く工作をしました。

それが、モーツァルトがウィーンに定住するに及んで、ついに実を結んだのです。

それは父が望んだ形ではありませんでしたが。

映画『アマデウスでも、その場面は重要なシーンです。新しいオペラは何語にするかを皇帝と臣下たちが議論します。

イタリア人の宮廷楽長ボンノは、皇帝に恐る恐る言上します。

『陛下、ドイツ語は歌うには・・・失礼ながら、野蛮すぎます。』

これに対し侍従長は『陛下、そろそろドイツ語のオペラが出来てもよい頃でございます。人民のために、分かりやすい言葉で。』と進言。

このやり取りを聞いていたモーツァルトは興奮し、『ぜひ、ドイツ語でやらせてください!いい台本があるんです!!」』と叫ぶのです。

この御前でのやりとりはフィクションですが、ヨーゼフ2世がモーツァルトを指名したのは事実でした。

モーツァルトが、ブルク劇場の俳優で台本作家のゴットリープ・シュテファニー(1741-1800、同名の兄がいるため、〝弟の方のシュテファニー〟といわれます)から台本を受け取ったのが1781年7月30日。

父レオポルトと転居をめぐって激しいやりとりをしていた手紙に、そのことが書かれています。 

さて一昨日、弟の方のシュテファニーが、ぼくに作曲させるため台本を持ってきました。この人は、ほかの人たちに対してはどんなに悪い人間か知りませんが、正直のところ、ぼくにとっては、とてもいい友だちです。台本は実にいいものです。主題はトルコ風で、『ベルモンテとコンスタンツェ、または後宮からの誘拐』といいます。シンフォニア(注:序曲)と第1幕 の合唱とフィナーレの合唱は、トルコ風の音楽で書きます。カヴァリエリ嬢、フィッシャー氏、アダムベルガー氏、ダウアー氏、それにヴァルター氏が歌います。この台本を作曲するのが、とても楽しいので、カヴァリエリの最初のアリア、アダムベルガーのアリア、第1幕を結ぶ三重唱は、もう出来上がりました。時間はギリギリ、その通りです。9月半ばにはもう上演されることになっていますから。しかし、これが上演されるころにはこれに関連する事情や、要するに、他のすべてのもくろみが、ぼくの気持ちを朗らかにしてくれるので、ぼくは最大の情熱を持って机にとびつき、最大の喜びをもってそこに座っています。

ロシアの大公(注:後のロシア皇帝パーヴェル1世)がこちらに見えます。それでシュテファニーから、もしできたら、この短い間にそのオペラを書いてくれないかと、頼まれました。皇帝(注:ヨーゼフ2世)とローゼンベルク伯爵(注:劇場長官)が間もなくおいでになるので、その時、何も新しいものが用意されていないのかと、尋ねられるだろう。するとあの人は得意になって、ウムラウフ氏が(もう以前から温めている)自分のオペラを書き上げるだろうし、ぼくも特別に書いている、と申し上げることができる、というわけです。ぼくがこんな理由で、それをこの短期間に作曲することを引き受けた以上、あの人はきっとぼくの功績を認めてくれるでしょう。(1781年8月1日 父宛)*1

 と、いうわけで、1ヵ月半後にせまったロシア大公という国賓の来訪に合わせ、突貫工事で作曲するはずでした。

そして、早書きこそモーツァルトの得意とするところですから、自分の名を上げる絶好のチャンスと思ったわけです。

台本を見て、即気に入り、あっという間にもう3曲も作ってしまったくらいです。

でも、実際にはロシア大公のウィーン訪問は延び延びになり、結局その来訪時には他のオペラが上演され、このオペラが舞台にかかったのは1年も先になったわけです。

そのため、より完成度が高いものになりましたが。

さて、オペラの中身については次回に取り上げるとして、さっそく序曲を聴きましょう。

このオペラの舞台はトルコなので、モーツァルトの手紙にあるように、トルコ風に書かれています。

このオペラの作曲中は、前述のように、離職、結婚についてモーツァルト父レオポルトとの間に、緊張したやりとりが続けられた時期でした。

モーツァルトは父を安心させるためか、説得するためか、このオペラの作曲経過を逐一、譜例とともに、どういう効果を狙って曲を書いたのか、解説しています。

これは、モーツァルトの作曲をポリシーを知る超・超貴重な資料なのです。

ほかのオペラでは残念ながら、ここまでの資料は残されていません。

モーツァルト自身の解説つきで楽しめるのがこのオペラでもあるのです。

序曲については、次のように書かれています。

序曲は14小節しかお送りしていません。これはまったく短いのですが。フォルテとピアノがたえず入れかわります。そしてフォルテの時は、いつもトルコ風の音楽がはいってきて、その響きで転調しつづけ、それを聴いていると、たとえひと晩中眠らなかった人でも、眠ってはいられないだろうと思います。(1781年9月26日 父宛)

徹夜明けでも眠ってはいられない音楽、ぜひ聴いてみましょう!

モーツァルト:オペラ『後宮からの誘拐』K.384

W.A.Mozart : Die Entführung aus dem Serail K.384

演奏: ジョン・エリオット・ガーディナー指揮 イングリッシュ・バロック・ソロイスツ、モンテヴェルディ合唱団

John Eliot Gardiner & The English Baroque Soloists , The Monteverdi Choir

 『後宮からの誘拐』序曲

大太鼓、シンバル、トライアングルといった〝トルコ風〟の楽器が賑やかに、騒がしく、盛り上げていきます。賑やかで元気いっぱいで、独特のリズム、でも短調、というのがトルコ風なのですが、これはあくまでもヨーロッパ人から見たトルコ風であって、トルコ人が聴いたら、ヨーロッパ風以外の何物でもないそうです。日本のイメージが、フジヤマ、ゲイシャ、というのと同じです。しかし、オーストリアオスマン・トルコ帝国と境を接し、かつて二度にわたってウィーンを包囲されていますので、トルコに対する様々な思いは、他の国よりも格別でした。そのあたりは、これまでハイドンのシンフォニー〝軍隊〟でも見たところです。曲の中間部の短調の物悲しいメロディは、そのまま長調に移行されて、冒頭のベルモンテのアリアになります。この有機的なつながりはモーツァルトのアイデアで、素晴らしい着想です。

モーツァルト:後宮からの誘拐

モーツァルト:後宮からの誘拐

 

次回、第1幕の幕が上がります。 

 

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*1:柴田治三郎訳

この支配からの卒業、親の反対押し切った結婚編。モーツァルト『ピアノとヴァイオリンのためのソナタ 作品2〝アウエルンハンマー・ソナタ〟』(2)

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コンスタンツェ・ウェーバー(1762-1842)

親の心、子知らず

父レオポルトの反対を押し切り、雇い主であるザルツブルク大司教と大ゲンカをして辞表を叩きつけ、ウィーンでのフリーター生活を始めたモーツァルト

大司教の侍従である伯爵からお尻を蹴られて追い出され、ザルツブルクと縁が切れたのは1781年6月8日のことでした。

事ここに至っては父も追認するほかはないのですが、モーツァルトがウィーンでウェーバーに下宿していることだけは承服しかねることでした。

モーツァルト同様に収入の途を求めてウィーンに移住してきたウェーバー家。

ご主人は早々に亡くなり、夫人と4人の娘で暮らしていました。

モーツァルトが求婚してふられた次女アロイジアは、ランゲという俳優と結婚し、ソプラノ歌手として売れ始めていました。

モーツァルトはなんだかんだウェーバー家が大好きで、その家に下宿に入り浸っていたのですが、ウェーバー夫人は大酒飲みで評判が悪く、父レオポルトにもよからぬ噂が聞こえてきていました。ウェーバー夫人は、三女のコンスタンツェモーツァルトに押し付けようと画策している…と。

これまでも、息子がそのせいで何度も道を踏み外しそうになった因縁のウェーバー家です。

父は、百歩譲ってウィーン定住を認める代わりに、ウェーバー家から離れるよう命じていました。

それに対するモーツァルトの返事です。

ウェーバー家から引っ越すことは、もう以前から考えていたことで、きっと実行されると思います。フォン・アウエルンハンマー氏の家に泊まるはずだったなどとは、誓って申しますが、ぼくの全然知らないことです。習字の先生メスマーのところに下宿しそうになったことは事実です。でもやっぱりそれよりはウェーバー家にいたいと思います。良くって安くって手ごろな下宿が見つかるまでは、今のところから出て行きません。それに、その時は、あの親切なウェーバー夫人に何とか嘘を言わなければなりません。本当に出て行く理由はないのですから。フォン・モル氏(注:父レオポルトモーツァルトウェーバー家についての噂を伝えたと思われる人物)は、なぜか知りませんが、人の悪口を言う人で、特に変だと思います。いずれぼくが反省して、そのうちザルツブルクへ帰るだろう、ここにいてもザルツブルクのようには、なかなか便宜が得られないから。僕がここを離れないのは、ただ女のためだ、と言っています。(1781年7月13日付)*1

ウェーバー家だけは近づくな!

モーツァルトは、ウェーバー夫人の好意に篭絡されているように思えます。この頃の、父レオポルトからモーツァルトに宛てた手紙は、今に残っていません。あまりにキツい内容ばかりだったはずなので、モーツァルトは捨ててしまったのかもしれません。ただ、どんな内容かは、モーツァルトの手紙からだいぶ推察できます。先の手紙に納得しなかった父への、さらなる返事です。

大好きなお父さん!もう一度申し上げますが、別な下宿に移ることは、ずっと前から考えていたことです。それもただ、みんながつまらないおしゃべりをするからです。ひと言として本当でないようなバカげたおしゃべりのために、それを強いられるのは、残念です。それにしても、ある種の人たちが、何の根拠もないのにしゃべり立てるのが何がうれしいのか、知りたいものです。ぼくがそこに住んでいるから、そこの娘と結婚する、恋をしているなどということはまったく問題になっていません。その点を飛ばしてしまって、ぼくが下宿する、そして結婚する、というのです。ぼくが一生のうちで結婚のことを考えなかった時があるとすれば、今がまさにその時です!実際(ぼくは金持ちの女など望んではいませんが)、今本当に結婚によって運が開かれるとしても、ぼくの頭はほかの事で一杯なのですから、とても女にサービスすることはできません。神様がぼくに才能を与えて下さったのは、それを一人の女のために台無しにしたり、若い日々を無為に過ごしたりするためではありません。ぼくの生活はようやく始まったばかりです。それを自分から辛いものにしていいものですか。(1781年7月25日付)

200人の妻?

結婚そのものを否定しつつ、噂のせいでウェーバー家を離れるのは残念至極…と言っているわけですが、コンスタンツェに対して全く気がないかというと、同じ手紙の後半は少し歯切れが悪くなってきます。

こんな噂が立っていなかったら、ぼくは引っ越そうなどとはしなかったでしょう。もちろん綺麗な部屋は容易に見つかるでしょうが、こんな便利なところ、こんなに仲良くしてくれる親切な人たちは、おいそれとは…。世間の人たちがぼくともう結婚させてくれた娘さん(注:コンスタンツェのこと)と同じ家にいて、ぼくがそのひとに対してかたくなになって口も利かずにいるなどとは、申しません。しかし恋をしているわけでもありません。暇のあるときは、その人とふざけもし、冗談も言います、しかし、それだけのことで、ほかに何もありません。ぼくが冗談を言った人とみんな結婚しなければならないとしたら、たちまち200人の妻を持つことになるでしょう。

厳しい収入の途

いかがでしょうか?コンスタンツェとの仲は否定していますが、どうも言い訳が怪しい。

とはいえ、モーツァルトはこの段階で結婚までは考えていなかったのも事実と思われます。

モーツァルトがコンスタンツェとの結婚に踏み切るには、こののち、ウェーバー夫人のプレッシャーがあったからです。

それは後述するとして、この手紙の続きは、収入の話になります。

次はお金の話です。ぼくの生徒は3週間も田舎に行っているので、収入はまったく無く、支出はあいかわらず続きます。そのため30ドゥカーテンはお送りできませんでした。でも20ドゥカーテンは…。しかし予約を当てにしていたので、お約束の額が送れるように、待っていようかと思いました。ところが、トゥーン伯爵夫人の話では、お金のある人はみんな田舎に行っているので、秋になるまでは予約のことは考えられない、とのことです。夫人は10人しか集めてくれませんし、ぼくの生徒は7人以上にはなりません。その間にその6曲のソナタを彫らせます。アルターリアは、それが売れ次第お金を払うと言いましたから、その時はお送りいたします。

モーツァルトがフリーターとして当てにしていた収入のうち、ピアノの教師の仕事は、ちょうど夏で、貴族や金持ちはみな避暑地に行ってしまっているので、仕事ゼロだというのです。

そのため父への約束の仕送りも滞り。だから言わんこっちゃない、というレオポルトのツッコミが聞こえてきそうです。

そこで当てにしているのが「6曲のソナタ」のアルターリア(楽譜出版社)からの出版です。

それが前回と今回取り上げている、この『アウレルンハンマー・ソナタ 作品2』にほかなりません。

しかし、売れたら払う、というのでは、これもいつになることやら。

オペラで一気に状況打開

モーツァルトは、この状況を一気に挽回するため、オペラの作曲の機会を狙っていました。オペラこそ、作曲家として名声を轟かせる絶好の手段なのです。

父宛ての次の手紙では、素敵な台本を手に入れた、オペラ作曲、上演のチャンスを得た!と嬉々として報告しています。

その台本は『ベルモンテとコンスタンツェ または後宮からの誘拐』というものでした。

なんと、ヒロインの名が奇しくも〝コンスタンツェ〟だったのです。

上演の機会は、9月に予定されていたロシア大公のウィーン訪問ということで、モーツァルトは突貫工事で作曲に打ち込むのですが、訪問は伸び伸びになり、作曲もそれに合わせてスピードダウンしていき、肝心の大公訪問には間に合わず、結局、翌年1782年7月16日に上演にこぎつけます。

1年かかってしまったわけですが、時間をかけられたおかげで、モーツァルトの若き記念碑というべき傑作になりました。

オペラの筋は、トルコの太守のハーレムに囚われの身となった娘コンスタンツェを、婚約者のベルモンテが救い出す、というものでした。

このオペラの作曲が続けられている間、モーツァルトのコンスタンツェに対する気持ちが大きく結婚へと傾いていったのです。

その間、コンスタンツェが、酒乱の母ウェーバー夫人に耐えかねて家出をする、という事件がありました。

このかわいそうな娘を母から救い出すには、結婚しかありません。

まさに、オペラの筋書とオーバーラップする出来事が、モーツァルトのプライベートで起こっていたのです。

結婚の言い訳は、欲望...?

モーツァルトにとっては、それは運命のドラマでしたが、父から見れば、ずっと心配していた最悪の事態でした。

父に問い詰められ、ついに告白せざるを得なくなったモーツァルトの手紙を引用します。

最愛のお父さん!お父さんは、ぼくがこの前の手紙の最後にちょっと付け加えた言葉の説明をお求めになるのですね!ああ、どんなにぼくの気持ちを、もっと前から打ち明けたかったことでしょう。でも、そんなことを考えるには早すぎるのと、叱られやしないかと思うと、言い出せませんでした。もちろん、考える分には早すぎることなどあろうはずもないのですが。その間のぼくの努力は、ここで少しでも確かな収入を持つことです。そうすれば、不時の収入と合わせて、ここでちゃんと暮らして行けます。その上で、結婚することです!こんな考えを聞いて、びっくりなさいますか?でも最愛の、最上のお父さん、ぼくの話をお聴きください。ぼくはかねて心に願っていたことをとうとう打ち明けてしまったのですが、今度は、ぼくの理由を、しかも非常に根拠のある理由を、打ち明けさせてください。ぼくの中には、他の人たちと同様に、自然の欲望が強く働いています。しかしぼくには、いまどきの若い者たちのようには、どうしてもやれません。第一に、ぼくには宗教観念が、第二に、隣人愛と真面目な気持ちがありすぎて、純真な娘を誘惑することができませんし、第三に、病気に対する恐怖と嫌悪と懸念がありすぎ、それに自分の健康を大事だと思うので、娼婦と遊ぶこともできません。だから誓って申しますが、ぼくはまだどんな女性とも、そのような関係をもったことはありません。もしあったとしたら、お父さんに隠しておくはずもないでしょう。(1781年12月15日)

なんと、結婚したいという理由が性欲だとは!

モーツァルトも、父が反対できないような理由を考え抜いてのことでしょうけれど、素人の女性を誘惑するのは宗教的にも真面目な性分からもできない、かといって娼婦と遊ぶのは病気も怖い、だからこれまでずっと童貞を守ってきましたが、もう我慢できません…などとは、26歳の青年が父親に言うには異様な内容です。

このあと、収入面でも生活面でも、妻がいた方がいい、と付け加えていますが、そちらの方がよっぽど説得力があるというものです。

醜くはないが、決して美人ではない?

さて、いよいよ相手について打ち明けます。

ところで、ぼくの相手は誰でしょう?それを聴いて、どうかびっくりしないでください。まさか、ウェーバー家の一人ではなかろうな、ですって?そうなんです。ウェーバー家の一人です。しかしヨゼファでも、ゾフィーでもなく、中の娘のコンスタンツェです。一つの家族で、この家族ほど一人一人の気質の違うのを、見たことがありません。長女(注:ヨゼファ)は怠け者で、粗野で、嘘つきで、狡猾な人間です。ランゲに嫁いだ娘’(注:アロイジア)も嘘つきで、意地悪で、コケットです。末娘(注:ゾフィー)は若過ぎて、まだどうということはありませんが、かわいいけれど、おてんば娘にすぎません。神様がこの子を誘惑から守ってくださいますように!ところで真ん中の、つまりぼくのやさしい、いとしいコンスタンツェは、その中の殉難者で、おそらくそのためかえって、いちばん気立てがよく、いちばん分別があり、一口で言って、みんなの中でいちばんいい娘です。(中略)このひとは、醜くはありませんが、けっして美しいとは言えません。このひとの美しさは、すべてその小さな黒い両の眼と、そのすてきな姿勢にあります。機知はありませんが、妻として、また母としての義務が果たせるだけの、十分な常識があります。浪費癖はありません。それはまったく間違いです。それどころか、質素な身なりに慣れています。母親が娘たちにしてやれる少しばかりのことも、他の二人にしてやって、このひとには構ってやらなかったからです。いつもこざっぱりしてきれい好きなことは確かですが、しゃれた身なりをしていることはありません。そして女が必要とするたいていのことは、一人でできます。髪も毎日自分でとかします。家政の心得もあり、この世にまたとないような良い心根の持ち主です。ぼくはこのひとを愛していますし、このひともぼくを心から愛しています。ぼくがこれ以上の妻を望めるかどうか、お知らせください。なお申し添えておかなければなりませんが、ぼくが職を捨てたあの当時は、この恋愛はまだ何もなく、(ぼくがあの家に住んで)あのひとの優しい心遣いと世話を受けて初めて生じたのです。

いくらコンスタンツェを引き立てようとしたとしても、仲の良い他の姉妹たちをケチョンケチョンにディスっているのもショッキングです。

父が怒り狂うのが分かっているので、この手紙を書いたモーツァルトの精神状態は正常ではなかったと思えます。

結婚契約書事件

モーツァルトはこの時点では隠していて、次の手紙で打ち明けているのですが、モーツァルトは父を失ったウェーバー家の後見人から、コンスタンツェとの結婚契約書を取られたのです。

それは次のような内容でした。

『私はコンスタンツェ・ウェーバー嬢と3年以内に結婚する義務を負うものとします。もし当方にそれが不可能な事情が起こって当方の考えが変わった場合には、先方は当方から毎年300フローリンを受け取るべきものとします。』 

モーツァルトはこんな一筆を書かされたのですが、後見人はこれを書かないと娘との交際は認めない、というのでした。

これもどうも変な話で、父が胡散臭がるのも無理はありません。

しかし、コンスタンツェはこの契約書を母から手に入れ、モーツァルトの目の前で破ったのです。

モーツァルトさん!あなたから保証の書類なんかもらわなくったっていいわ。あなたの言葉をそっくり信じてよ』と、〝この天使のような娘〟は言ったということです。

何だか芝居がかっているような一幕ですが、モーツァルトはこれで、コンスタンツェにいっそうぞっこんになったということです。

父の承諾を待たず、見切り発車の結婚

しかし父はずっと結婚の承諾を与えず、モーツァルトはコンスタンツェの家出事件もあって、父の承諾を待たずに翌年1782年8月4日に、ウィーンのシュテファン大聖堂でつつましい結婚式を挙げました。

式で結ばれた瞬間、新郎新婦は泣き出し、列席者も司祭も涙したということです。

待ちに待った父の承諾書が届いたのは、式が終わってからでした。 

モーツァルトは、言葉にたがわず、妻コンスタンツェをずっと愛しつづけました。

しかし、父との溝は決定的なものになり、気まずい関係は父の死まで改善することはなく、父へのコンプレックスは映画『アマデウスの主題にもなっています。

一方コンスタンツェは、浪費と気ままな行動で、後世から悪妻のレッテルを貼られてしまいました。

モーツァルトの埋葬にも立ち会わなかったせいで、墓がどこにあるか分からなくなってしまったり、夫の楽譜を売り飛ばして散逸させてしまったりと、ファンから見れば散々ですが、彼女がモーツァルトの創作の源泉になったのは間違いないことだと思います。

モーツァルト:『ピアノとヴァイオリンのためのソナタ ヘ長調 K.376 (374d)』

Mozart : Sonata for Pianoforte & Violin in F major, K.376(374d)

演奏: テメヌシュカ・ヴェッセリノーヴァ(フォルテピアノ)、キアラ・バンキーニ(ヴァイオリン)

Temenuschka Vesselinova (Fortepiano) & Chiara Banchini (Violin)

第1楽章 アレグロ

「作品2」の第1曲です。ウィーンでの新生活への希望を託したような屈託のない曲です。当時の貴族は、女性がピアノ、男性がヴァイオリンなど弦楽器を嗜むのが一般的でしたから、娘のピアノに父や兄が、あるいは夫人のピアノに夫がヴァイオリンで合わせるのをイメージして作曲されました。ですから、この曲集ではあくまでもピアノが主役、ヴァイオリンは引き立て役です。レディー・ファーストというわけですね。そんな光景を思い浮かべながら聴くと、格別な味わいです。

第2楽章 アンダンテ

3部形式のロマンスに近い、自由で短い緩徐楽章です。ピアノもヴァイオリンもどこまでも優しく、補い合いながら音を紡いでいきます。ピアノのトリルの上をすべるようにヴァイオリンが歌ったかと思うと、今度は逆になり、ヴァイオリンが音を伸ばす間にピアノが歌うといった楽しい趣向もあります。この趣向は、後のオペラ『コジ・ファン・トゥッテ』の姉妹のデュエットにもみられます。

第3楽章 ロンド:アレグレット・グラティオーソ

ウィーン人好みの行進曲風のテーマのロンドです。このテーマは、最後のオペラ『魔笛』のパパゲーノのアリアも思わせます。中間部の抒情的な旋律も印象的です。最後のコーダでは、エコーのような効果を使い、モーツァルトの意気込みが伝わってくる、凝った楽章です。

モーツァルト:『ピアノとヴァイオリンのためのソナタ ヘ長調 K.377 (374e)』

Mozart : Sonata for Pianoforte & Violin in B flat major, K.377(374e)

第1楽章 アレグロ

「作品2」の第3番です。前曲(K.376)と同じへ長調で、同じ曲集に同じ調性の曲があるのは異例です。6種のお菓子の詰め合わせに、2種だけ同じ味のものがあるような感じですが、曲の性格はかなり違い、前曲の優雅な曲想に対して、元気いっぱいで、非常に力強い曲です。第1楽章冒頭からして、いきなりの3連符の強烈な連続です。そのあとも上昇音型と下降音型を繰り返し、昇ったり、降りたり、めくるめく忙しさです。

第2楽章 アンダンテ

ニ短調のシリアスな変奏曲です。いくぶん抑制されていますが、深い哀愁と感傷にあふれた楽章で、この曲が優雅さよりも内容重視がコンセプトであることがわかります。変奏は6つあり、最後の第6変奏は印象的なシチリアーノですが、悲痛な叫びのようであり、陽気なウィーンの人相手にだいじょうぶ?と少し心配になります。

第3楽章 テンポ・ディ・メヌエット

前の楽章の緊張を解くようなメヌエットですが、決して明るいものではなく、どこか憂愁を秘めています。前の楽章からがらりと気分を変えるものではなく、受け継いだ内容といえると思います。中間の変ロ長調のトリオでは明るい陽が差しますが、浮かれたものではなく、また途切れ途切れの、落ち着いたメヌエットのテンポに戻っていきます。優雅な中に深みをもったこのような音楽は、当時はモーツァルトにしか書けなかったでしょう。

1時間で書いた、20分の曲

モーツァルト:『ピアノとヴァイオリンのためのソナタ 変ホ長調 K.380(374f)』

Mozart : Sonata for Pianoforte & Violin in F flat major, K.380 (374f)

第1楽章 アレグロ

「作品2」の最後、第6番です。この曲は、モーツァルトザルツブルク大司教と決裂する直前、ウィーンで大司教が滞在した館「ドイッチェハウス」でのコンサートで演奏されました。それを伝えた父宛ての手紙には次のようにあります。

『これを書いているのは夜の11時ですが、きょうぼくたちは発表会を催しました。そこでぼくの曲が3曲演奏されました。もちろん新作です。ブルネッティ(ヴァイオリニスト)のための協奏曲に属するロンドと、ぼくがピアノを弾くヴァイオリン伴奏つきのソナタ、これは昨夜11時から12時までに作曲したのですが、一応仕上げてしまうために、ブルネッティのための伴奏の部分だけ書いて、自分のパートは頭の中に入れておきました。』

演奏するにも20分以上かかるこの曲を、たった1時間で書いたとは信じられません。それも、自分のパートは書く時間がないので暗譜しておいたというのです。いくら作曲者でといっても、信じがたい離れ業です。

そんなやっつけのような作り方なのに、この曲は実に堂々としており、まるでコンチェルトのような華やかさです。まさにウィーンでの第1作であり、その意気込みを示した新作なのです。大胆な転調、意表をつく構成に、ウィーンの聴衆は度肝を抜かれたことでしょう。

第2楽章 アンダンテ・コン・モート

ト短調の哀愁にあふれた曲ですが、不安と希望が交錯する素晴らしい曲です。どこか胸の奥の思い出に触れるような懐かしい趣きのある楽章です。ピアノとヴァイオリンの呼び交わす歌が胸に迫ります。

第3楽章 ロンド:アレグロ

一転、リラックスしたロンドで、8分の6拍子のいわゆる狩りのリズムです。ヴァイオリンに、伴奏を超えた見せ場を作っているのは、協演したブルネッティへの配慮でしょうか。初演のコンサートは大成功で、同じ月に同じ場所で行われたコンサートでは、終演後もモーツァルトは貴婦人たちに帰してもらえず、1時間もピアノを弾き続けなければならなかったのです。モーツァルトが、こここそ俺のいるべき場所、と思ったのも無理はありません。 

 

次回からは、モーツァルトがウィーンでの成功を賭けた野心作で、結婚へのゴタゴタと同時並行で作曲した、若き記念碑というべきオペラ、『後宮からの誘拐』です。

 

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*1:柴田治三郎訳

この支配からの卒業、パワハラ辞職編。モーツァルト『ピアノとヴァイオリンのためのソナタ 作品2〝アウエルンハンマー・ソナタ〟』(1)

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レオポルト・モーツァルト(1719-1787)

父親の支配

就職と結婚。

この人生の2大転機は、自分自身で決断しなければならないことですが、えてして、親からも口を出されがちなことです。

またえてして、こうした転機は重なることもあります。

モーツァルトの場合もそうでした。

就職も結婚も父に大反対されたのです。

職の方は逆で、定職を捨ててフリーターになる!ということでしたから、なおさらです。

モーツァルトは5歳のときから神童ともてはやされ、父レオポルトに連れられて、ヨーロッパ中の王侯貴族の間を猿回しの猿のように連れ回され、芸を披露させられました。

しかし〝十で神童、十五で才子、はたち過ぎればただの人〟という俗諺に反し、モーツァルトの天才ぶりは年を経るごとに成熟していきました。

安定した職とは

父は〝神童時代〟が終わったモーツァルトを、一人前の『宮廷音楽家』とすることに尽力しました。

一流の王侯の「宮廷楽長」が、当時の音楽家の一番安定した職でした。

父はザルツブルク大司教宮廷の副楽長で、安定はしていましたが、ザルツブルク大司教は、異例の司教叙任権を保持して〝教皇といわれる権威をもっていたものの、領主としては小さく、それほどの財力はありませんでした。

その宮廷音楽家は、安定はしているけれども薄給で、世間的名声とは無縁の地方公務員ですから、父も非凡な才をもつ息子は、もっと大きな宮廷の職に就けると思い、母とともにマンハイム・パリ就活旅行に出したのでした。

しかし、モーツァルトが求めていたのは名声であって、さらに自由を求める気質でもあり、恋する娘アロイジア・ウェーバーをイタリアに連れて行って、プリマ・ドンナとするべく自らプロデュースする、といった若気の至りの夢想的な計画を実行に移そうとするなど、脱線しまくりでした。

パリでも、ヴェルサイユ宮殿オルガニストという名誉な職の話があったのですが、モーツァルトは、王に仕えてる者はパリでは忘れられてしまう、といって、父がもったいながるのをよそに断ってしまいます。

父は、もうこりゃだめだ、と思い、借金もかさんだので、モーツァルトの外での就活をあきらめ、ザルツブルク大司教に復職を願い出ます。

大司教は、自ら辞職するという不義理をはたらいたモーツァルトを、旅に出る前より良い待遇で復職させることにします。

外から聞こえてくるモーツァルトの名声から、大司教も、自分のもとから天才が離れていってしまったことを少なからず恥に感じていたふしがあり、意外な低姿勢だったのです。

父レオポルト大司教のこの好意に喜び、モーツァルトザルツブルクに戻るよう促します。

ところが、窮屈なザルツブルクに舞い戻るのは最悪の選択肢と思っていたモーツァルトは、何かと言い訳をして戻ろうとしません。

ついに業を煮やした父の怒りの手紙を引用します。

大事な息子よ!私は何を書けばいいのか、本当に分からない。それどころか、気が狂うか、やつれて死んでしまいそうだ。お前がザルツブルクを立って以来頭の中に持っていて、私に書いてよこした計画はすべて、思い出すだけで、私の常識までも、どうにかなってしまうようなものばかりだ。どれもこれも単なる提案、からっぽな言葉、そして結局は無に終わった。マンハイムで就職ができそうだって?就職だと?なんのつもりだ?マンハイムだろうと、一体全体どこだろうと、今は就職してはいけない。就職という言葉は聞きたくもない。選帝侯がきょうにも死んだら、ミュンヘンマンハイムにいる音楽家の大部隊が、広い世間へ出て行って、パンを求めることにもなりかねないのだ。現在のバイエルン選帝侯マンハイム楽団には年八万フローリンもかかるのだから。(中略)肝心なことは、お前が今すぐザルツブルクへ来ることだ。もしかしたら40ルイドール稼げるかもしれない、などという話は、聞きたくもない。お前のもくろみは、けっきょく、宙に浮かんでいるようなお前の計画を実行したばかりに、私を破滅させようとするものだ。(中略)要するにだ!私はお前のために恥をかき借金を作っては、絶対に死にたくない。それ以上に、お前の哀れな姉さんをみじめにして後に残したくない。(中略)要するにだ!これまで私の手紙は、父としてだけでなく、友人としても書かれたものだ。私は、お前がこの手紙を受け取ったら、直ちにお前の旅を早めるだろうと思う。そして、私がお前を喜んで受け入れ、非難をもって迎える必要がないように、ふるまってくれるものと思う。いや、お前の母さんが折あしくパリで死ななければならなかった上に、お前がお前の父さんの死を早めることによっても良心に重荷を背負おうとはしないだろうと思う。*1

ここまで言われては息子も従わざるを得ません。

最悪の選択肢、復職

ちょうどこれより前、ミュンヘンに都を置いていた、ヴィッテルスバッハ家バイエルン選帝侯マクシミリアン3世ヨーゼフが逝去し、マンハイムの君主であり、同族のプファルツ選帝侯カール・テオドールが、バイエルン選帝侯位を兼任することになりました。

カール・テオドール侯は、その宮廷所在地を、より大都会のミュンヘンに遷すことになり、ヨーロッパ一と名高いマンハイム楽団も一緒にミュンヘンに移りましたが、マンハイムに残る者もいて、マンハイムの音楽黄金時代は終焉を迎えたのです。

ウェーバーマンハイムからミュンヘンに移っており、モーツァルトは愛するアロイジアにマンハイムで会えず、ザルツブルクに戻る途上、ミュンヘンでようやく再会できたのです。

アロイジアとの結婚に反対していた父レオポルトも、この時点では理解を示し、むしろザルツブルクミュンヘンは近いので、いつか彼女とイタリアに行けるチャンスもあるだろう、と、モーツァルトザルツブルクに戻すエサにさえ使っていました。

しかし肝心のアロイジアの心は既にモーツァルトにはなく、モーツァルトは失恋してしまい、さんざんな気持ちでザルツブルクに戻り、踏んだり蹴ったりの状態で再び宮仕えを始めました。

しかし、モーツァルトには職はくれなかったものの、好意はもっていたバイエルン選帝侯カール・テオドールは、ミュンヘンモーツァルトにオペラを作曲、上演することを依頼しました。

ザルツブルク大司教コロレードも、隣国の大国君主からの依頼は断れず、モーツァルトに休暇を与えます。

そしてモーツァルトミュンヘンで上演したのが、本格的なオペラ・セリア(正歌劇)『クレタの王イドメネオです。

これはそれなりに成功し、ミュンヘンで休暇が切れてもぐずぐずしているモーツァルトに、コロレード大司教から、至急ウィーンにくるよう命じられます。

大司教はウィーンに滞在中で、客をもてなすのにクラヴィーア奏者が必要だったのです。

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ザルツブルク大司教コロレード伯ヒエロニュムス(在位1772-1812)

パワハラ上司とダメな部下?

ウィーンではそれほどクラヴィーア、つまりピアノが大人気で、駆けつけたモーツァルトはあちこちで引っ張りダコとなりました。

モーツァルトのピアノの腕前は、間違いなく当時のヨーロッパで最高でしたから。

しかし、雇い主の大司教コロレードモーツァルトの個人行動を許さず、モーツァルトは方々の招待から得られたであろう謝礼のチャンスを逃しまくりました。

モーツァルトが招かれたのに大司教のせいで行けなかった演奏会には、皇帝ヨーゼフ2世も来ていた、ということもありました。

逸失利益は、大司教からの俸給の何倍もの額と思われました。

モーツァルトは、大司教の窮屈な従僕でいるより、ウィーンの方がはるかに稼げると実感してしまったのです。

コロレード大司教の方も、勝手な行動ばかりとるモーツァルトに対し、ザルツブルクへの帰還を命じました。

ところが、モーツァルトはウィーンにいたいので、何かと言い訳をして出発を遅らせます。

ついに大司教はブチ切れて、聖職者とは思えない言葉で直接、モーツァルトを責めました。

そのやりとりは、モーツァルトの父宛ての手紙にリアルに報告されています。

ぼくが部屋に入っていくと、いきなりこう言われたのです。『で、若僧、いつ立つのか?』ぼく『今夜立つことにしていましたが、座席がもう満員でして。』すると、息もつかずに言い立てました。『お前ほどだらしない若僧は見たこともない、お前のような勤めっぷりの悪い人間は一人もいない、きょうのうちに立つならいいが、さもないと国元へ手紙を書いて、給料を差し止める』というのです。かんかんになってまくし立てるのですから、口を挟むこともできません。ぼくは平然として聞いていました。ぼくの給料が500フローリンだ、などと、面と向かって嘘をつき(注:実際は450フローリン)、ぼくのことをならず者、悪たれ、馬鹿者、と言うのです。ああ、とても全部は書きたくありません。とうとう、ぼくの血が煮えたぎってきたので、言ってやりました。『では、猊下は私がお気に召さないのでしょうか。』『なんだと、貴様はわしを脅す気か?馬鹿め、馬鹿め!出て行け、よいか、貴様のような見下げはてた小僧には、もう用はないぞ』とうとう、ぼくも言いました。『こちらも、あなたには用はありません』『さあ、出て行け』そしてぼくは出しなに『これで決まりました。明日、文書で届け出ます』最上のお父さん、おっしゃってください。ぼくがこれを言ったのが、早すぎるよりは、むしろ遅すぎたのではないでしょうか?

現代のパワハラ上司と部下のやり取りをみているようですが、なにしろ絶対主義時代ですから、君主相手にモーツァルトもよくぞまあ、こんな不遜な態度ができたものです。

しかし、モーツァルトはウィーンの王侯たちにちやほやされている最中で、皇帝の支持も勝手にあてにしていましたから、こんな田舎君主なんかこわくない、という心情だったのでしょう。

フィガロの結婚』での、フィガロと伯爵のやり取りを地でいっていますが、まさに時代は革命の世紀を迎えていたともいえます。

とはいえ、雇用関係からすれば、モーツァルトの勤怠不良ぶりには、大司教のお怒りにはごもっともな面もありますが。言い方は別として。

この手紙を受け取った父レオポルトの狼狽ぶりは目に浮かびます。

父はまだ大司教に仕えている身ですから。

モーツァルトに翻意を命じる手紙を送るとともに、大司教の近侍のアルコ伯爵にとりなしを頼みます。

アルコ伯は、モーツァルトの説得にかかり、そのやり取りもモーツァルトの手紙に残されています。伯は、次のように説きます。

『私の言うことを信じなさい。君はここであまりにも目がくらんでいる。ここでは一人の人間の名声はそう長続きがしない。はじめのうちは、ありとあらゆるほめ言葉をかけられ、お金もたくさん手に入ることは確かだが、それがいつまで続くことか?何ヵ月かたてば、ウィーン人はまた新しいものが欲しくなる。』

これはまったく本当のことでした。モーツァルトの人気は、数年は続きましたが、だんだんと凋落し、最後は窮乏のうちに世を去ることになるのです。

現代のミュージシャンや芸能人に似た境遇です。息子がバンドで生計を立てる、と言い出したら、親は同じく止めることでしょう。

しかし、多くの息子と同様、モーツァルトもこればかりは従いませんでした。これまでの旅でも、度々父の意に反した行動はとりましたが、最後は従っていたのに。

しかし、モーツァルト、25歳。もはや父から独立の時が来ていました。

モーツァルトは、最後にはアルコ伯爵からお尻を蹴られて追い出され、ザルツブルクと縁を切ります。

このあたりは映画『アマデウス』でも、大司教が閉めさせた扉にお尻をぶつける、というシーンで象徴されています。

ウィーンでの自活、第1歩

このようにして、モーツァルトはウィーンでフリーの音楽家としての活動を始めます。

それは、君主と父、ふたつの強大な支配からの卒業でした。

まずは、自活できることの証明をしなければなりません。

貴婦人たちへのレッスン料で日銭を稼ぐ一方、ウィーンで作品の出版を行います。

それが、『ヴァイオリン伴奏つきのクラヴサンまたはピアノのための6曲のソナタ 作品2』です。

1781年11月に、楽譜出版社アルタリアから出版されました。

 ウィーンで名を売り、収入を得るためにも出版を急ぎ、マンハイムザルツブルクで作った旧作も加えての出版でした。

ちなみに、かつて取り上げた女弟子で、モーツァルトが〝ブス〟と酷評し、のだめカンタービレにも関わっているアウエルンハンマー嬢に献呈されています。

容姿については酷いことを言っていますが、そのピアノの腕前はモーツァルトの認めるところでした。もちろん、金持ちの令嬢でしたから、収入面も期待しているわけですが。

また、この曲集は、現代ではヴァイオリン・ソナタに分類されていますが、ピアノ伴奏つきのヴァイオリン・ソナタではなく、逆で、ヴァイオリン伴奏つきのピアノ・ソナタであることも注目点です。

それほど、当時のウィーンではピアノがもてはやされていたのです。

上司のパワハラに遭ったら、余計に仕事などうまくやれなくなるものですが、こんな優雅な曲を作れるとは、モーツァルトのメンタルの強さは驚くばかりです。

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 モーツァルト:『ピアノとヴァイオリンのためのソナタ ハ長調 K.296

Mozart : Sonata for Pianoforte & Violin in C major, K.296

演奏: テメヌシュカ・ヴェッセリノーヴァ(フォルテピアノ)、キアラ・バンキーニ(ヴァイオリン)

Temenuschka Vesselinova (Fortepiano) & Chiara Banchini (Violin)

第1楽章 アレグロ・アッサイ

曲集の中では「第2番」になっていますが、一番古い曲で、1778年3月にマンハイムで作曲されました。マンハイムでピアノを教えていた、宮中顧問官の15歳の娘、テレーゼ・ピエロンとの別れにあたり、記念に贈った曲です。少女に与えたソナタらしく、明るく無邪気な楽想です。あくまでもピアノが主役、ヴァイオリンは引き立て役に徹しています。子供のチャレンジを、陰ながら温かくサポートする大人のようです。特にコーダ(終結部)はまるでおふざけ遊びをしているようで、秀逸‼︎

第2楽章 アンダンテ・ソステヌート

大バッハの末子で、モーツァルトの師匠というべきクリスティアン・バッハのアリア『甘きそよ風』からテーマが取られています。まさにそよ風を思わせる楽章で、ダ・カーポ・アリアそのままに、3部形式をとっており、中間部ではヴァイオリンが伸びやかに歌います。

第3楽章 ロンド:アレグロ

子供の遊びのように屈託のないロンドです。第1エピソードの二つ目のメロディは、ハッとするほど大人の香りがし、イ短調の第2エピソードはさらにシリアスな表情となります。少女はまさに、大人の入り口に立っています。

モーツァルト:『ピアノとヴァイオリンのためのソナタ 変ロ長調 K.378 (317d)』

Mozart : Sonata for Pianoforte & Violin in B flat major, K.378(317d)

第1楽章 アレグロモデラー

曲集では『第4番』とされ、マンハイム・パリ旅行から帰ってきたあと、短いザルツブルクでの復職時代に書かれたとされています。ウィーンでの出版に際し、モーツァルトは姉ナンネルに、『6曲のうち2曲は姉さんの知っている曲です』と書き送っているのが、前曲のハ長調とこの曲と考えられています。パリ帰りらしく、優雅で繊細な曲想になっています。遠い花の都パリに思いを馳せるかのように、時々みせる切なさがたまらないソナタです。

第2楽章 アンダンティーノ・ソステヌート・カンタービレ

ピアノの奏でる繊細な主題は、まさにカンタービレ(歌うように)です。中間部では、ヴァイオリンが代わって楽し気に歌いだします。後半には即興のカデンツァも用意され、最後は『バラ色の黄昏が静かに消えゆく』(アーベルト)ように終わります。

第3楽章 ロンド:アレグロ

フランス風の活発なロンド・フィナーレです。第2エピソードでは、3連符がふるえるように続き、奇抜な感じも受けますが、最後は深呼吸をして、すっきりとしめます。

モーツァルト:『ピアノとヴァイオリンのためのソナタ ト長調 K.379 (373a)』

Mozart : Sonata for Pianoforte & Violin in G major, K.379(373a)

第1楽章 アダージョアレグロ

曲集の第5番です。ここからウィーンで書かれた曲になります。この曲だけ、2楽章をとっていますが、第1楽章は2部になっており、実質は3楽章といってもいい内容があります。最初のアダージョは単なる序奏ではなく、この楽章の実質的な主部といっていいでしょう。冒頭のピアノのアルペジオは、まるで、アンダルシアのギターがかき鳴らされるかのように、情熱を秘めたエキゾチックなものです。それにヴァイオリンの甘い旋律がからんで、実にロマンティック。アダージョの後半は短調を予告し、主部のアレグロがおもむろに始まります。主部はモーツァルトの宿命の調、ト短調で、運命的な香りがしますが、夏の嵐のようにサッと過ぎ去っていきます。この楽章はこの曲集の白眉といえるでしょう。

第2楽章 アンダンテ・カンタービレ

テーマと5つの変奏からなる変奏曲です。テーマは昔話を語り始めるかのような素朴な調子です。変奏はいつもながら変幻自在で、ピアノとヴァイオリンが主役を交代したり、競演したりで、耳が離せません。劇的でありながら、どこか胸の奥の思い出に触れるような懐かしい趣きのある楽章です。

 

次回は、この支配からの卒業、結婚編です。

 

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*1:柴田治三郎訳

姉妹の華麗なコロラトゥーラ。フランスの歌姫と、日本の誇る田中彩子さんと。モーツァルト『テッサリアの民よ』『夜の女王のアリア』

モーツァルトの結婚とウェーバー姉妹

前回、婚礼の音楽を取り上げたので、モーツァルトの結婚にまつわる音楽を聴いていきたいと思います。

モーツァルトは、1782年8月4日コンスタンツェ・ウェーバーと結婚します。(ドイツ語の発音では〝ヴェーバー〟が近いですが〝ウェーバー〟の方が一般的なのでこちらにします。〝ウィーン〟も同様ですが)

もうすぐモーツァルトの結婚記念日というわけですね。

コンスタンツェは、マンハイム宮廷劇場のバス歌手で、写譜屋もやっていたフランツ・フリードリン・ウェーバーの三女でした。

彼には4人の娘がいて、うち3人が歌手で、長女ヨゼファ次女アロイジアが特に優れていました。

四女ゾフィーは歌手ではありませんでしたが、モーツァルトのいまわの際に側にいて、その最後を記録に残していることで有名です。

音楽の才能がある家系のようで、従弟には、初期ロマン派の巨匠で、オペラ『魔弾の射手』を作曲したカール・マリア・フォン・ウェーバー(1786-1826)がいます。

ここに面白いアルバムがあります。

ウェーバー・シスターズ』と題し、フランスの歌手サビーヌ・ドゥヴィエルが、ウェーバー姉妹にまつわるモーツァルトの楽曲を収録しているのです。

なかなかに気の利いた企画です。

順番に聴いていきましょう。

まずは長女ヨゼファです。

長女ヨゼファ

彼女は、モーツァルト最後のオペラ『魔笛』K.620の、「夜の女王」の初演歌手なのです。

特に有名な、第2幕のアリア『復讐の心は地獄のように燃え』は、高音の、いわゆるハイF(3点F)が出てくる難曲として知られています。

オペラの華というべき装飾フレーズ、コロラトゥーラは、男声にあっては英雄的な心情を、女声にあっては高みに達した感情を表わすものといわれています。

魔笛』についてはあらためて取り上げるつもりですが、このアリアは、大祭司ザラストロに、自分の権力と娘を奪われた夜の女王が、王女パミーナにひそかに短剣を渡し、ザラストロを殺すよう命ずる恐ろしい場面で歌われるものです。

ヨゼファのテクニックを最大限引き出すために作られた、アクロバティックな曲なのです。

オペラ『魔笛』より夜の女王のアリア『復讐の心は地獄のように燃え』

歌:サビーヌ・ドゥヴィエル  Sabine Devieilhe

演奏:ラファエル・ピション指揮 アンサンブル・ピグマリオン  

Raphael Pichon & Pygmalion

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田中彩子さん

日本の誇るコロラトゥーラ、田中彩子

コロラトゥーラや高音を芸術的に歌える歌手はそうそういませんが、日本の田中彩子さんはその中のひとりです。

バラエティー番組に出る機会も多くて、TVでこの歌を歌い、モーツァルトを広めるのに一役買っています。

素晴らしい歌声ですね。


15.12.6 田中彩子 「夜の女王のアリア(魔笛)」[HD]

http://j-two.co.jp/ayakotanaka/

次女アロイジア

次女アロイジアは、モーツァルトが初めて結婚を考えた相手です。マンハイム・パリ旅行の際、マンハイムで出会い、その歌声に魅せられ、恋に落ちてしまいました。

恋で見境のなくなったモーツァルトは、彼女を連れてイタリアに行き、デビューさせる、と父レオポルトに書き送りますが、父は波平よろしく、バッカモ~ン!!と雷を落とします。

モーツァルトに宛てた父の手紙を引用します。

お前はその子をプリマ・ドンナとしてイタリアに連れていこうと考える。お前は、ドイツですでに何度もプリマ・ドンナとして歌ったこともなしに、いきなりイタリアの舞台にを踏んだプリマ・ドンナを、一人でも知っているのかね?(中略)

ヴェーバー嬢がガブリエリ嬢のように巧く歌い、イタリアの劇場などに向いたいい声の持ち主で、プリマ・ドンナの役にも十分堪えられる等々のことは、まあ認めるとしよう。しかし、お前がそのひとの演技まで保証しようというのは、滑稽なことだ。それにはいろいろなことが必要なのだよ。女だけでなく、いっぱし舞台慣れした男でも、外国での初舞台となると、ふるえるものだ。そして、それで全部だと思うか?とんでもない。女の場合は、衣装、調髪、装身具などとなると、劇場をすっかりわが物にしているくらいでなければならないのだ。(中略)

まだ一度も舞台に立ったことのない16、7の小娘を推薦されたら、どんな興行主だって笑い出すだろう!お前のもくろみ(それを考えるだけでも、私はもうほとんど書けなくなってしまう)、ウェーバー氏と、その上二人の娘などと一緒に旅回りをするというそのもくろみを思うと、私は分別さえなくなってしまいそうだ。可愛い息子よ、一体どうして、お前に持ち込まれたそんなとんでもない考えに、ほんのいっときでさえ、心をとらわれたのかね。お前の手紙は、まるで小説のように書かれたものだ。そして、お前が他人と一緒に世の中を歩き回ることを、本当に決心できたのか?お前の名声と、お前の両親とお前の姉さんをほったらかして?私を君主や、お前が愛している町中の人々のあざけりと笑いの種にして?*1

 父は、さらに、モーツァルトがアロイジアの将来のためにしてあげられることをアドバイスしています。それは、有力な歌手に紹介してあげるという現実的な、大人の方策でした。

モーツァルトはさすがに、父の怒りには逆らえず、渋々ヴェーバー家に別れを告げ、パリに向かいます。

しかし、モーツァルトのアロイジアへの思いは募るばかりで、パリへ行ってからもやりとりは続き、彼女のためにアリアをいくつも作曲します。

パリから彼女に宛てた手紙です。

最愛の友よ!頼まれたアリアのための変奏曲を、この度はまだお送りできないことを、お許しください。お父上のお手紙になるべくご返事を差し上げなければならないと考えたので、その後で書く時間がなくなってしまい、そのためお送りできなかったのです。でも、次の手紙できっとお送りします。今はぼくのソナタが、早く印刷されるのを願っているところです。そしてその機会にもう半分は出来ているアリア『テッサリアの民よ』もお送りします。もしそれで、ぼく同様にあなたもご満足なら、ぼくは幸せだと思います。この場面が分かっていただけたと、あなた自身から手応えを聞くまでは、これはあなたのためにだけ書いたもので、他のだれよりもあなたにほめてもらいたいので、それまでは、ぼくのこの種の作品の中で、この場面が、今まで作った最上のものだと言うほかありませんし、またそう白状せざるをえません。

言及されているアリア『テッサリアの民よ』は、この手紙にあるように、モーツァルトがアロイジアのために心を込めて、渾身の力で書いたものでした。

速書きのモーツァルトが、忙しいといいつつ、まだ半分しかできていない、と言うのも珍しいことです。

そのくらい気合いを入れて書いた曲なのです。

しかし、アロイジアの心はモーツァルトにはなく、パリからザルツブルクに戻る途中、再会した際に、見事に振られてしまうのです。

この曲は、コンサート・アリアといって、オペラのテキストから1曲だけを取り出し、演奏会用に仕立てたものです。シェーナ(劇唱)ともいいます。

これはグルックが曲をつけた『アルチェステ』から取られ、王妃が、夫である王の身代わりとなって死ぬ悲壮な決意を歌うものです。

ここではなんと、夜の女王のアリアのハイFより1音高い、ハイG(3点G)が出てきますが、実はこれがモーツァルトの書いた最高音なのです。

モーツァルトが、いかにアロイジアを評価し、その力を引き出そうとしたかが分かります。

ただ、自分で〝最上の作品〟と言っていますが、その後の素晴らしい作品を知ってしまっている耳には、歌手のテクニックに走りすぎている向きは否めません。

しかし、この歌からは、恋に燃える若きモーツァルトの熱い思いが、真夜中の篝火のようにまぶしく伝わってくるのです。

シェーナ『テッサリアの民よー不滅の神々よ、私は求めはしない』K.316 (300b)

田中彩子さんも、この曲を歌っています。超絶技巧のコロラトゥーラと、3点Gの迫力は本当にすごいです。


Mozart Concert Aria "Popoli di Tessaglia!" Ayako Tanaka

華麗なるコロラトゥーラ

華麗なるコロラトゥーラ

 

三女コンスタンツェ

さて、モーツァルトが結婚することになるのは、アロイジアの妹コンスタンツェでした。

彼女も歌えましたが、実力は姉たちよりもはるかに劣っていたので、本格デビューすることはなく、モーツァルトの妻に収まっています。

この結婚にも、父レオポルトも、姉ナンネルも大反対しますが、最後には押し切られます。

結婚後、モーツァルトは、ミサ曲を故郷ザルツブルクに捧げる誓願を立て、未完成ながらそれを実現します。

それが、不朽の傑作、『ハ短調ミサ K.427』です。

ここで、モーツァルトは新妻コンスタンツェにために、メインのソプラノ・パートを作曲、歌わせます。

まさに、故郷に妻を紹介する、お披露目曲というわけです。

コンスタンツェのパートは、彼女の良さをアピールすべく、甘美を極めたものですが、それだけに難しい曲でもあるので、モーツァルトは練習曲も作って妻に与えます。

それが『ソルフェージョ K.393』 で,、本番のミサ曲と同じ旋律になっているのです。

第1部、天使が歌うかのような『クリステ・エレイソン(キリストよ、憐れみたまえ)のメロディラインです。

ソルフェージョ 第2番 ホ長調 

本番の曲はこちらです。第3章『クレド』の、天国的な歌です。

歌の最後に、サービストラックとして〝ジュピター・シンフォニー〟をアレンジした、素敵な歌があります。

ハ短調ミサ K.427より『エト・インカルナトゥス』

コンスタンツェは世に悪妻と言われていますが、モーツァルトは終生愛しました。夫の優しさがにじみ出た曲といえます。

 

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*1:柴田治三郎訳

この上なく甘美な、真夏の婚礼の音楽。モーツァルト『ハフナー・セレナード ニ長調 K.250』

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ザルツブルク・ミラベル庭園

200回を迎えました。 

おかげさまでこのブログも今回で200回を迎えることができました。

読んでくださっている皆さま、本当にありがとうございます。

区切りの曲は、私としても特別な思い入れのある、モーツァルト〝ハフナー・セレナード〟です。

特別といっても、私が初めて買ったCDの曲、というだけのことなのですが。

私がモーツァルトにのめり込んだ、もう30年前になろうかという高校時代は、ちょうどレコードに代わってCDが普及し始めた頃でした。

レコードは繊細で、ちょっと扱いを手荒にしようものなら、すぐ傷がついて、同じ場所から針が先に進まなくなってしまいます。

お気に入りのレコードに限って、頻繁に聴くものですから、傷がつきがちで、たまったものではありません。高価なレコードにつけてしまった傷は、永遠に癒せない心の傷ともなったのです。

それに比べてCDの頑丈なこと。よほどなことがなければ針飛びはありません。

また、聴きたい楽章を取り出して聴いたり、飛ばしたりできるのも、まさに〝神〟の道具としか思えませんでした。

レコードもそうそう買えるものでもないので、もっぱらはFM放送をテープに録音したものを聴いていましたが、テープはなおさら頭出しがやっかいでした。

何度も聴いていると、からまったりもして…。

こんなことは当時としては当たり前でしたが、まるで戦前の話でもしているようで、隔世の感があります。

初めて買ったCD

さて、音楽ばかり聴いていたものですから、大学受験に失敗し、浪人記念?に初めてのCDプレイヤー、ソニーのミニコンを買ったのです。

そして買った初めてのCDが、この〝ハフナー・セレナード〟でした。

数あるモーツァルトの中から、なぜこの曲を選んだのか覚えていないのですが、それこそ繰り返し、繰り返しききました。

現役合格した同級生が大学生活を謳歌している中、浪人のつらさを大いに慰めてくれました。とくに、第6楽章のアンダンテはこの上なく私を癒してくれたのです。

私は堪え性が無く、10分机に向かっては、ベッドに転がり込んで1時間音楽を聴く、という有様で、受験勉強の妨げになること甚だしかったのですが、メンタルだけは健康に維持されたのです。

大学入学後はバイト代をつぎ込んでCDを買い漁っていましたが、友人から『CDは今にすたれてMDになるぞ』などと脅かされました。

せっかく買ったCDが、かつてのビデオのベータのように再生できなくなる可能性にゾッとしましたが、幸いにしてその後CDはずっと保ちましたね。

今ようやく、データ配信定額聴き放題サービスに取って代わられようとしています。

それが、このブログの第1回〝Apple Musicの衝撃〟になります。

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真夏の夜の婚礼音楽

このセレナードは、前回の〝セレナータ・ノットゥルナ〟と同様、モーツァルトマンハイム・パリ旅行に出る前、ザルツブルクの宮廷作曲家時代1776年に作曲された作品です。

モーツァルト家と親しかったザルツブルクの富豪、ハフナー家の当主、ジークムント・ハフナー2世の依頼で、その妹マリア・エリザベートの結婚式にあたり、その前夜祭の出し物として作曲されました。

ジークムント・ハフナー2世の父は4年前に亡くなっていましたが、ザルツブルク市長を務めた有力者でした。

以前、モーツァルトがウィーンに出た後、父レオポルトから、そのハフナー2世が貴族に列せられることになったため、祝いのセレナードを書くよう頼まれ、超多忙の中で出来たはじから1楽章ずつ送った話をご紹介しましたが、それは後に人気曲『シンフォニー 第35番 ニ長調 K.385〝ハフナー〟』となりました。

モーツァルトには〝ハフナー〟と名付けられた曲が、シンフォニーとセレナ―ドの2曲あるというわけです。

演奏はちょうど今頃の季節、7月21日の夜でしたが、完成したのは例によって前日でした。

当時のオーケストラは初見が当たり前のようで、実際にどんなレベルの演奏だったのか気になりますが、当時の記録からすると、うまくいったようです。

さすが、小都市とはいえ、音楽の町ザルツブルクです。

場所はミラベル庭園の近くにある『ロレート夏の家』というハフナー家の別邸の庭でした。

婚礼前夜。かがり火に照らされた外の舞台で演奏されたこの華やかな曲は、いかに素晴らしく夏の夜を彩ったことでしょうか。

この曲は全8楽章という大規模なものです。

特に第2楽章から第4楽章は、実質的にヴァイオリン・コンチェルトになっています。

セレナードは機会音楽ということで、シンフォニーより軽いイメージもありますが、当時の認識は逆で、シンフォニーは始まりの序曲、いわば前菜であり、セレナードは様々は楽曲を組み合わせた、もりだくさんの主菜だったわけです。

後の〝ハフナー・シンフォニー〟ももともとはセレナードであり、その中から4楽章を抜粋してシンフォニーに仕立てたのですが、元の曲は失われてしまいました。

編成は、フルート2、オーボエ2、ファゴット2、ホルン2に、ヴァイオリン2部とヴィオラ2部にバスです。

ただし、フルートとオーボエは重ねては使われませんので、おそらく同じ奏者が持ち替えたと思われます。また、バスもおそらくコントラバスのみで、チェロは使われません。

オーケストラ自身が、マーチで入場!

また、セレナードの前後に、マルチア(行進曲) ニ長調 K.249 が演奏されます。

これは当時のセレナードの慣習で、聴衆の待つなか、オーケストラ団員はこの曲を演奏しながら、文字通り行進しつつ入場してきて、譜面の置かれた舞台に着席するのです。

もちろんマーチは暗譜しなければなりませんから、前日にようやく完成させたモーツァルトに、さずがに団員たちも『勘弁してくれよ~』とぼやいたことでしょう。

曲が終わったあとも、同じ曲を奏でながら団員は退場していきます。まさに〝催し物〟という感じですね。

私は一度、マーチを当時と同じように演奏しながら入場してくる演出のコンサートを聴きましたが、すごく楽しかったです。

モーツァルト:セレナード 第7番 ニ長調 K.250 (248b)〝ハフナー〟

W.A.Mozart : Serenade no.7 in D major, K.250 (248b) “Haffner”

演奏:フランス・ブリュッヘン指揮 18世紀オーケストラ

Frans Brüggen & Orchestra of the 18th Century

行進曲 ニ長調 K.249

セレナード本体とは音楽的なつながりはなく、キリッとした付点リズムのトゥッティと、管楽器の優しいトリオの強弱のコントラストが楽しいマーチです。これから始まる音楽の饗宴への期待に、胸をわくわくさせてくれます。

第1楽章 アレグロ・マエストーソーアレグロモルト

冒頭、3回の和音のあと、奔馬が駆けてくるようなリズムをヴァイオリンが刻み、魅了されます。序奏に続き、ヴァイオリンが奏でるメインテーマはしびれるくらいにカッコよく、颯爽としています。時々優しい抒情も挟みつつ、息をつかせぬほどに元気よく、めくるめく世界を現出します。単なる祝祭音楽ではない、緊張感にあふれた真剣な音楽になっていて、何度聴いても聞き飽きることがありません。終わり方も、冒頭の和音をもってくるという、気の利いた演出です。

第2楽章 アンダンテ

どこまでも優雅なアンダンテで、ゆっくりと入ってくるソロ・ヴァイオリンが繊細に歌い上げます。美しく着飾った花嫁が、喜びとともに、少しマリッジブルーものぞかせるかのようです。これに続く、3つの協奏楽章では、独奏ヴァイオリンに合わせて、オーボエの代わりにフルートが用いられています。

第3楽章 メヌエット

この華やかな曲の中で、唯一の影となっているト短調メヌエットです。その高貴な陰影は、ずっと後のト短調シンフォニーのメヌエットを思わせます。トリオではソロ・ヴァイオリンが優雅に歌い、管楽器たちが伴奏します。次のロンドの輝かしさを引き立てる役ももった楽章です。

第4楽章 ロンド:アレグロ

ソロ・ヴァイオリンが名人芸を繰り広げる、コンチェルト・ロンドです。フリッツ・クライスラー(1875-1962)がヴァイオリン独奏曲として編曲し、ヴァイオリン教室でもおなじみの定番曲となっています。ロンドのテーマは5回演奏され、その間に変奏が4回行われます。その表情の豊かさにはまったく圧倒されます。ヴァイオリンは縦横無尽にはしゃぎまわり、この曲前半のクライマックスを形作っています。

第5楽章 メヌエット・ガランテ

わざわざ〝優美なメヌエット〟と銘打たれており、前曲の騒ぎの興奮を冷ますかのように、襟を正した、気品あふれるメヌエットです。トリオでは弦のみで、2部に分かれたヴィオラが切ないメロディを奏でるのが、強い印象を残します。

第6楽章 アンダンテ

私の大好きな、かけがえのない楽章です。さりげなく始まりますが、聴くほどに優しく、心に沁み入っていきます。楽想は自由で、まるで即興曲のように、変奏しながら語りかけてくるのです。オーボエの歌は切ないばかりに甘美。ここにあふれている思いは言葉では言い表せません。

第7楽章 メヌエット

前曲の夢を醒ますかのような、きっぱりとしたメヌエットです。オーボエの代わりをフルートが務めます。トリオがふたつあり、最初のものでは、ゆったりとたゆたう弦に、フルートが美しく和します。第2トリオでは、トランペットがマーチのように、勇ましいリズムを刻みますが、非常に味わい深いものです。

第8楽章 アダージョアレグロ・アッサイ

 いよいよこの大曲もフィナーレを迎えます。ゆっくりとした、万感胸に迫るような序奏のあと、元気いっぱいの、かつスケールの大きな終楽章がスタートします。弦が刻む8分音符に載せて、管楽器が時にその豊かな顔をのぞかせます。まさに花火大会の終わりのような盛り上がりをみせて、前夜祭を華やかに締めくくるのです。

 

きょうは7月24日ですが、この曲が演奏されたのが7月21日、ハフナー家の婚礼は翌7月22日。私の結婚式は7月23日で、真夏の婚礼ということでも、この曲には格別な縁を感じています。

www.classic-suganne.com

 

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