孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

のだめカンタービレに出てくるハイドン。ハイドン『交響曲 第104番 ニ長調〝ロンドン〟』

〝シンフォニーの父〟の最後のシンフォニー

きょうの東京は夏日でした。もう風は初夏で、鳥たちの歌がいちだんと高らかに響いています。

ハイドン第2期ザロモン・セット、最後の6曲目は、シンフォニー第104番〝ロンドン〟です。

第1期、第2期通算で12曲の〝ロンドン・セット〟の最終曲でもあり、〝シンフォニーの父ハイドンにとって、最後の作品ともなりました。

最後の12曲はすべてロンドンに関わっているので、この曲だけ〝ロンドン〟という愛称がつくのはおかしいのですが、自筆譜にハイドンが『イギリスで作曲した12番目』と書き込んでいることによります。

ハイドン自身も、この曲に感慨をもっていたことがうかがえます。

愛称があることもあり、ハイドンのシンフォニーの中でも演奏される機会が多い曲です。

のだめカンタービレでのハイドン

この曲は、のだめカンタービレでも印象深いシーンで使われています。

のだめの催眠術?によって飛行機恐怖症を克服した千秋。ついに、クラシックの聖地ヨーロッパ、パリで腕試しをする機会を得ます。

さっそくに臨んだのは、若手指揮者の登竜門といわれるプラティニ国際指揮者コンクール。まずは課題曲のくじ引きから。

千秋より先に引いたエントリー者が、『げ~~~!ハイドン!?』と悲鳴を上げます。

ハイドンだけはイヤだったのに~』との嘆きに、周囲は『出たーハイドン、指揮者泣かせ』と笑います。

続いて千秋が引いたのもハイドンで、このシンフォニー第104番〝ロンドン〟でした。

千秋の反応は、先のエントリー者とは真逆でした。ドラマでは玉木宏の渋い独白です。『「交響曲の父」ハイドン交響曲メヌエットを含む4つの楽章の形式を作り、ソナタ形式弦楽四重奏曲のスタイルを整え、古典派音楽の礎を築いた偉大なる作曲家。ハイドンで試されるなんて―――光栄だ。』

いざ、コンクールが始まり、1曲目をそつなく指揮した千秋に、オーケストラの団員たちが感心します。でも、次のハイドンはどうかな?

『でも次は、曲自体が明快なハイドンだ。ただ軽快にやるだけじゃ退屈な演奏に…』

しかし、千秋は見事にハイドンを指揮してみせるのです。

他には『ハイドンはハッタリもごまかしも通じないからな~』と愚痴る指揮者に、『お前にはハッタリとごまかししかないわけ?』となじる場面もあります。

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小林秀雄(1902-1983)

小林秀雄ハイドン

このあたりの、プレイヤーたちのハイドン評は、何も楽器ができない私にもよく分かる気がします。

ハイドンの音楽はストレートで明快なため、もったいぶって演奏すると、かえって陳腐に聞えてしまうのです。

特に、19世紀以降のロマンティックな、何か深淵なものを表現するような演奏法でやった場合に、そんな演奏になります。

近代日本の文芸批評の確立者、小林秀雄(1902-1983)の有名な音楽評論『モオツァルト』は、クラシック愛好家のバイブルのような書でしたが、ここでハイドンモーツァルトと比較した次のようなくだりがあります。

僕はハイドンの音楽もなかなか好きだ。形式の完備整頓、表現の清らかさという点では無類である。併し、モオツァルトを聞いた後で、ハイドンを聞くと、個性の相違というものを感ずるより、何かしら大切なものが欠けた人間を感ずる。外的な虚飾を平気で楽しんでいる空虚な人の好さと言ったものを感ずる。この感じは恐らく正当ではあるまい。だが、モオツァルトがそういう感じを僕に目覚ますという事は、間違いない事で、彼の音楽にはハイドンの繊細ささえ外的に聞こえる程の驚くべき繊細さが確かにある。心が耳と化して聞き入られねば、ついて行けぬようなニュアンスの細やかさがある。一と度この内的な感覚を呼び覚まされ、魂のゆらぐのを覚えた者は、もうモオツァルトを離れられぬ。

ハイドンは素晴らしいが、モーツァルトを聴いた後には空虚に聞こえてしまう、という告白で、本人もおそらくそれは個人の感覚であって、正当なものではない、ということです。

さすがに言い得て妙ではありますが、ハイドンが空虚に聞こえてしまうのは、のだめカンタービレのこの場面にあるように、演奏ぶりによる、というのが私の思いです。

小林秀雄が聴くことができた演奏は、ロマン主義時代の流れをくんでいた演奏だったはずで、研究が進み、ハイドン当時の響きが再現できつつある今の古楽器演奏を聴いたら、違う印象も得たのではなかろうか、と思います。

ハイドンモーツァルトも、19世紀以降の作曲家と違って、自分の内面を表現しようとした芸術家ではなく、人を楽しませることを追求したエンターテイナーでした。ただ、モーツァルトは無意識に音楽に内面が出てしまい、それが結果として、後世ハイドンより人の心を打つことになったと思うのです。

演奏するにあたって、ハイドンにはそのようなプレミアがなく、演奏者の力量がストレートに出てしまうため、演奏者たちに嫌われるということでしょう。

のだめカンタービレのこの場面は、コミカルでいて、音楽のひとつの真理を表しているわけで、感嘆しきりです。

コミックでは第10巻、TVドラマでは『新春特番・のだめカンタービレ in ヨーロッパ』になります。

バッハとヘンデル、そしてモーツァルトハイドンのいずれが優れているか(たいがいは前者が後者より優れている、という話になりますが)、という議論は、ワインとビール、コーヒーと紅茶のどちらが優れているか、を論じるようなもので、結局は個人の好みに行きつくわけですが、それはそれで楽しくもあります。

のだめカンタービレ in ヨーロッパ [DVD]

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ハイドン交響曲 第104番 ニ長調 Hob.Ⅰ:104〝ロンドン〟  

F.J.Haydn : Symphony no.104 in D major, Hob.Ⅰ:104 “London”

クリストファー・ホグウッド指揮アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック

Christopher Hogwood & Academy of Ancient Music

第1楽章 アダージョーアレグロ

序奏はのっけから、どおん、どおん、と重々しいトゥッティが響きます。〝のだめ〟での千秋の指揮に、審査員たちやオーケストラ団員に〝重…〟〝しかも遅いし…〟と、違和感を抱かせます。軽快なハイドンを、なぜこんなに重く、ゆっくりしたテンポで演奏するのか!?と。でも主部に入ると、対照的に活き活きと生気に満ちた演奏になり、皆を圧倒します。しかし、これは千秋の手腕ではなく、もともとハイドンが狙った効果なのです。重々しい序奏は、主部の輝かしさを引き立てるためで、まさにハイドンの真骨頂です。主部はアレグロですから、それこそ元気いっぱいに早めなテンポで演奏しないと、それこそ小林秀雄のいう〝空虚〟になってしまいます。かなり以前ですが、NHKニュースで、皇太子殿下がオーケストラでヴィオラを演奏され、その後、両陛下ともどもオーケストラを鑑賞された、というニュースをやっていて、それが〝ロンドン〟だったのですが、ちょっと聞いただけでもゆっくりしたテンポで、これじゃあハイドンの魅力は出ないなぁ、と思いました。この曲のゴキゲンな調子を表現するのは、簡単なようで非常に難しいのだな…とあらためて感じたものです。

第2楽章 アンダンテ

さりげない感じで始まるアンダンテで、変奏曲風に展開していきます。途中、オーボエと新入りのクラリネットで導入され、悲劇的でかっこいい中間部が入ります。後半も管楽器の豊かで切ない響きに、ティンパニが呼応して、静かな中にも、味わい深い空間が広がります。コーダ(終結部)では、優しさで胸がいっぱいになります。

第3楽章 メヌエット:アレグロ

ロンドンの街のにぎわいや華やかさが伝わってくるようなメヌエットです。ティンパニの効果も絶大です。トリオはドイツ舞曲風で、オーボエ、フルートが活躍します。

第4楽章 フィナーレ:スピリトーソ

チェロとホルンがボーーーと持続低音を鳴らし、その上に活発でうきうきするようなテーマが展開していきます。楽しいテーマですが、展開部では同じテーマとは思えないほど緊張感をはらみます。最後はオーケストラが擦り切れてしまうのではないか、というほど、これでもか、と盛り上げて幕となります。ソナタ形式の完成、ここに極まれり、といった曲で、シンフォニーの父のフィナーレにふさわしい楽章です。

ハイドンがロンドンで得たもの

興行主ザロモンによってプロデュースされたハイドンのロンドン訪問は、2度、3年にわたりましたが、音楽史上に残した意義は最高のものでした。

また、30年にわたり、主君の絶大な信頼を得て、思うようにさせてくれたとはいえ、何かと窮屈な宮仕えだったハイドンが、60にして初めて籠の中から飛び出し、そして世界から大喝采を浴びたのです。

ハイドン個人としても、音楽上の収穫もさることながら、多大の収入を得ました。ハイドンエステルハージ侯爵家を辞してウィーンに出たとき、30年間の宮仕えによる貯金は2千グルデンでしたが、3年間のロンドン滞在で得た利益は2万グルデンだったのです。

10分の1の時間で、10倍の収入を得たわけです。もちろん、ロンドンで作ったハイドンの曲は、30年間の努力研鑽の結晶でありましたが。

ハイドンと対照的に不幸な晩年だったのがモーツァルトです。彼は借金地獄の中で36歳の若さで世を去りました。

モーツァルトハイドンのように、もしロンドンに行っていたら…と思わずにはいられません。

次回は、ハイドンから影響を受け、そしてハイドンにも多大な影響を与えた、モーツァルト3大シンフォニーを聴きたいと思います。

 

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未知との遭遇、轟くドラムロール。ハイドン『交響曲 第103番 変ホ長調〝太鼓連打〟』

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地底から響くドラム

ハイドンの第2期ザロモン・セットの5曲目は、シンフォニー第103番〝太鼓連打〟です。

シンフォニー冒頭に、極めて異例の、ティンパニによるドラムロールがあるので、この名がつきました。

軽い印象の曲が多いハイドンのシンフォニーですが、この曲にはどこか深いものを感じます。

冒頭のドラムロールからして、地底の底から響いてくる気がします。

 

ハイドン交響曲 第103番 変ホ長調 Hob.Ⅰ:103〝太鼓連打〟  

F.J.Haydn : Symphony no.103 in E flat major, Hob.Ⅰ:103 “Drumroll”

マルク・ミンコフスキ指揮レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル

Marc Minkowski & Les Musiciens du Louvre

第1楽章 アダージョーアレグロ・コン・スピリート

この演奏では、冒頭のドラムロールの前にアレンジのパフォーマンスがついています。これはこれでいい感じで、私は好きです。続く序奏の音型は、往年のスピルバーグ監督の映画『未知との遭遇』に出てくる、宇宙人と交信する電子音を思わせます。そのせいもあって、この曲には神秘的なものを感じてしまいます。主部は明るく楽しい主題ですが、展開部は深く、ハイドンはさらに新しい境地を開いたことを示します。クライマックスで突然、また冒頭のドラムロールが入るのも、当時の人の度肝を抜いたことでしょう。序奏の再現も異例で、内容的にもベートーヴェンのシンフォニーの先取りをしています。

第2楽章 アンダンテ・ピウ・トスト・アレグレット

このテーマも、素朴でありながら、どこか不気味な雰囲気を持っています。低弦の伴奏が何ともいえません。変奏曲になっており、第2変奏はどこか鄙びた香りがしますが、底抜けに明るいものではありません。ハイドンのシンフォニーでも異色の音楽ですが、初演ではアンコールされたということです。

第3楽章 メヌエット

流れるように、とはいかない、むしろつんのめるようなメヌエットです。トリオでは、新しい楽器クラリネットが活躍します。クラリネットは第2期ザロモン・セットから加わりますが、初めてここで目立つ働きをしてくれるのです。

第4楽章 フィナーレ:アレグロ・コン・スピリート

ホルンの信号で導入され、トゥッティで爆発する、ハイドンのフィナーレの中でも大いに盛り上がる曲です。クラシック好きだった亡き祖父に聴かせたとき、『自分はこういう曲が好きなんだよ』と言ってくれた思い出の曲です。

 

いよいよ、ハイドンのロンドン・セットは次回でフィナーレとなります。 

 

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競馬に入れ込んだ英国王の物語。ハイドン『交響曲 第102番 変ロ長調』

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1791年、アスコット競馬場でのバロネット号とチフニー騎手

フランス革命戦争はじまる

ハイドンの第2回ロンドン訪問も、終盤に差し掛かってきました。今回は、第2期ザロモン・セットの4曲目、シンフォニー第102番です。

ヴァイオリニストにして興行主のザロモンは、2度にわたってハイドンをロンドンに招き、『ザロモン・コンサート』を開いて大成功したのですが、ここで、情勢に大きな変化が生じました。

1789年に勃発したフランス革命は、次第に激化し、1793年には国王ルイ16世を処刑するに至りました。

革命が自分の国に波及してはたまらない、とヨーロッパ諸王国は、革命をつぶすべく、フランスに宣戦布告し、フランス革命戦争が起こったのです。

戦争によってザロモンは、大陸の優れた歌手、演奏家たちと契約することができなくなりました。産業革命によって経済的に繁栄した英国ですが、文化、芸術は、洗練された大陸から輸入して消費していたのです。

そこでザロモンは、英国にいる演奏家たちを結集し、いくつかあったコンサートをひとつにすることを呼びかけました。

これは、オペラ座で行われたために『オペラ・コンサート』と呼ばれています。

ハイドンはこのコンサートのために、最後の3曲のシンフォニーを提供したのです。

オーケストラの人数は60人に及ぶ大規模なものでした。

英国王室せいぞろいの前夜祭

第1回のオペラ・コンサートは1795年2月2日に開催されましたが、この前日に、ハイドンはオペラ・コンサートの主要なメンバーとともに、プリンス・オブ・ウェールズ王太子に王宮に招かれ〝壮行会〟のような演奏会を行いました。

その様子をハイドン自身が次のように伝えています。

1795年2月2日に、私は、プリンス・オブ・ウェールズから、ヨーク公の邸の音楽演奏会に招待された。これには、国王や王妃とご家族の全員、オレンジ公などが出席された。演奏されたのは私の作品ばかりだった。私はクラヴィーアの前にすわった。最後には私も歌わなくてはならなかった。国王は、これまでヘンデルの作品しか聴くことができず、また他のものは聴こうとなさらなかったのだが、大変ご親切であった。国王は私に話しかけられ、王妃に紹介してくださった。王妃は私にお褒めの言葉を賜った。私は自作のドイツ語の歌『我は幸せ者』を歌った。2月3日にはプリンス・オブ・ウェールズに招待され、また1795年の4月15日、17日、19日にも招待された。21日には王妃からバッキンガム宮殿に招かれた。

時の国王は、ヘンデルを召し抱えて『水上の音楽』を作ることになったジョージ1世のひ孫、ジョージ3世(1738-1820)でしたが、英国ではまだヘンデルがもてはやされていたことがわかります。

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ハイドンはまさに、英国にとってヘンデル以来の〝黒船〟でした。

ハイドンを歓迎し、親しく交際した王太子プリンス・オブ・ウェールズは後のジョージ4世(1762-1830、在位1820-1830)ですが、この人は大変な競馬好き、ギャンブラー、浪費家で有名です。

このエピソードは後程ご紹介します。

ハイドンによる競馬の実況中継

さて、第1回オペラ・コンサートで初演されたのが、交響曲第102番変ロ長調です。

この曲には愛称がついていないので、演奏の機会は少ないですが、前にご紹介したシャンデリア落下事件の奇跡は、実はこの曲の演奏時に起こったと考えられるので、〝奇跡〟の愛称は、本来であれば第96番ではなく、この曲につくはずのものでした。

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しかし、私としては、この曲にぜひ〝競馬〟という愛称をつけたいのです。

それは、フィナーレの第4楽章が、パカラン、パカラン、という馬の蹄の音、そして手に汗握るレースの実況を表しているとしか思えないからです。

その証拠は何もないのですが、ハイドンは、1回目のロンドン訪問時、1792年6月14日に、競馬発祥の地英国の名門、アスコット競馬場を訪れ、レースに興奮して次のように記しているのです。

用意が整うと、2度目のベルが鳴り、一斉にスタートする。2マイルの円周を回り、出発点に真っ先に戻ってきた者が賞金を獲得する。第1レースは騎手が3人で、彼は円周を止まらずに2度回らねばならなかった。このダブル・コースを5分間で回った。実際にレースを見なければ、これは信じられないだろう。第2レースは騎手が7人で、彼らが円周の中央部に来た時、7頭すべてが同列に並んだが、決勝点に近づくにつれて、ある者は遅れた。しかし10歩以上の差にはならなかった。1頭がゴールに近いと思われ、この時間に多数の人々がこの騎手に賭けた直後に、別の騎手がギリギリのところで彼を追い越し、信じられないほどの力で決勝点に着く。騎手たちは非常に軽い絹の服を着ており、識別をたやすくするため一人ひとり違った色となっている。長靴ははかず、頭に小さい帽子をかぶり、猟犬のように痩せ、自分たちの乗馬のように痩せている。どの騎手も計量され、馬の実力に従って一定の重さが差し引かれる。もし騎手が軽すぎるときは、重い服を着るか、鉛をつけなければならない。大きなスタンドが設置され、そこで掛け金を張る。国王は一つの隅に専用のスタンドを持っている。私は最初の日に5回のレースを見たが、大雨だったのに満員の馬車2千台と、その3倍にあたる庶民が徒歩で来た。このほか人形芝居、行商人、怪談劇などがレース開催中ずっと続いた。おやつを売る多くのテント、あらゆる種類の酒とビール…

どうでしょう、GⅠレースで賑わう今の競馬場と変わらない光景です。ハイドンのこの記述は、貴重な初期の競馬の記録でもあるのです。

アスコット競馬場は、大の競馬好きだったアン女王が、1711年、馬車から広大な丘を見つけて『この場所こそ、競走馬が全力で走るのにふさわしい』と言って建設を命じた、今でも王室所有の競馬場です。

競馬の開催は年に1度、6月にロイヤル・アスコット開催と呼ばれる王室主催の4日間のみで、ハイドンは観戦したのはこれでしたが、第2次大戦後には『キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス』など、王室主催以外のレースが行われています。

ハイドンが馬券を買ったのか、そして勝ったのかどうかは分かりませんが、これだけ興奮していて、サービス精神旺盛な彼が音楽にしないわけがないと思うのです。

さらに、ハイドンを歓待したプリンス・オブ・ウェールズ、すなわち後の英国王ジョージ4世が、常軌を逸した競馬好きであったので、彼に対するオマージュでもあったのではないかと思えてならないです。

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王太子時代のジョージ4世(1792年)

競馬の負けを議会が補填

ジョージ4世は、1762年に国王ジョージ3世の嫡男として生まれ、すぐに英国王太子の称号であるプリンス・オブ・ウェールズに叙されました。

しかし若いうちから、叔父である遊び人のカンバーランド公から、酒、女、そして賭け事を教わったといわれています。

カンバーランド公は賭け事の中でも競馬に打ち込み、1780年にダービーが創設されると、たびたび持ち馬を出走させました。

カンバーランド公に競馬場にしょっちゅう連れ出されたジョージは、1783年ジョッキークラブへの加入が認められる21歳になると、さっそく競馬を始めます。

ジョージは欲しい馬には金に糸目をつけず買い込み、1786年には24頭を所有し、そのうち2頭をダービーに出走させることができました。

しかし、この浪費は当然のことながら破綻し、この年には1頭を残してすべて手放すことになりました。

にもかかわらず、英国議会は王太子ジョージに16万1千ポンドを与えることを承認しました。

それは、ナポレオンと渡り合った当時の名宰相、小ピット(1759-1806)が大の競馬好きだったからだといわれますが、競馬で破綻した王太子に、さらに大金を与える首相と議会。さすが競馬発祥の国です…。

ジョージはまたすぐに競走馬を買い集め、1788年にはサートーマス号によって、王族初のダービー優勝を果たしたのです。

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第1回オートランズステークス。アタマ差で負けたエスケープ号(1790年)

伝説のオートランズステークス

1790年に、アスコット競馬場で、英国最大の競馬レースが創設されました。オートランズステークスと呼ばれ、ハンデをつけて、どの馬にも勝つチャンスを持たせた競馬史上初のレースでした。これにより、馬主以外の第3者が賭ける魅力が高まり、競馬が大衆に広まるきっかけとなりました。ハイドンが感嘆した騎手の計量はこのことです。

ジョージは、破綻したときに泣く泣く手放したエスケープ号を大金を出して取り戻して出走させました。結果は惜しくも頭差で2着。1着の馬主は、父ジョージ3世が嫌った野党ホイッグ党の党首フォックスでしたが、ジョージと彼とは酒、女、ギャンブルを楽しむ〝悪友〟でした。

さてジョージは、翌年の第2回オートランズステークスでの必勝を期します。

めぼしい馬を買い漁り、その中から選びに選んで、エスケープ号バロネット号の2頭の出走を決めました。

このレースは話題となり、アスコット史上空前の4万人の観衆を集め、賭け金の総額は10万ポンドを超えましたが、中にはバリモア伯爵のように一人で2万ポンドも賭けた者さえいたのです。

ジョージはエスケープ号での優勝を狙っており、お抱え騎手のサミュエル・チフニーに騎乗を命じていました。

しかし、レース寸前のエスケープ号の様子を見て、チフニー騎手は馬の調子が悪いと感じ、急いで馬券売り場に走ってバロネット号に賭けました。当時は騎手も賭けることができたのです。

そして、ジョージに直談判をして、エスケープ号は調子が悪いので、バロネット号に騎乗したい、と申し出ました。ジョージはチフニー騎手に自信のほどを尋ねると、確約はできないが、勝機はかなりある、と答え、許可されました。

このとき、調教師のレイクは、エスケープ号の調子は悪くない、と反対したという説もあります。

またチフニー騎手は、ジョージはエスケープ号にたくさん賭けているはずだから、バロネット号が勝った場合に大損になりませんか、と心配して尋ねました。

すると王太子は、これは他言無用だが、実は保険としてバロネット号にもこっそりたっぷり賭けているから大丈夫だ、とささやいたといいます。

レースは、エクスプレス号が先行し、4馬身差でバロネット号が続く展開となりました。さらに2馬身遅れて、ジョージの本命馬エスケープ号が続きます。

ゴールまであと半マイルというところで、バロネット号騎乗のチフニーはエスケープ号を見捨てる決断をし、エクスプレス号との勝負に出、両頭並んでゴールまで激しく争い、ついにゴール寸前で半馬身差をつけてバロネット号が優勝しました。

王太子ジョージが英国一の馬主となった瞬間でした。

将来の国王となる息子のギャンブル狂いを普段からとがめていた父ジョージ3世も、このときばかりは喜び、『お前のバロネットはよく稼ぐ。わしは先週14人にバロネットを授けたが、奴らは1ペニーだってよこさない』と冗談を言ったとのことです。

〝バロネット〟とは、爵位の『準男爵』を意味します。

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バロネット号、半馬身差で勝利の瞬間(1791年)

大スキャンダル、エスケープ号事件

ところが、このあと、ジョージとチフニー騎手、エスケープ号は、競馬史に残るスキャンダルを引き起こします。

ニューマーケット競馬場で行われたレースで、彼らによる八百長が行われた、というのです。

1番人気だったエスケープ号&チフニー騎手が不可解な大敗をしました。

そこで、翌日のエスケープ号のオッズが高くなったのですが、そこでエスケープ号は本来の実力を出してぶっちぎりで優勝したのです。

ジョージとチフニーはこれで大儲けをしたのですが、前日のレースでの大敗は、チフニー騎手が故意に手綱を締めてわざと負けたという非難の声が上がりました。オッズ操作疑惑です。

ジョージもチフニーもインチキは否定しましたが、金の動きにあやしい状況証拠もあり、結果としてジョージはニューマーケットのジョッキークラブから追放されます。

この結末は競馬界から歓迎され、ジョッキークラブが、次期国王といえども忖度や譲歩をせず、レースの公正を守った事件として競馬史に残っているのです。

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エスケープ号事件の風刺画。手綱を絞るチフニー騎手と、右手で報酬を約束するジョー王太子

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即位したジョージ4世(1820年

競馬の擁護者、ジョージ4世

王太子ジョージは、晩年に精神異常をきたして廃人同様に幽閉された父ジョージ3世の摂政を務めていましたが、1820年に父王が崩御すると英国王ジョージ4世として即位しました。

即位後もジョージは競馬に打ち込み、アスコット競馬場のほか、リゾート競馬としてブライトン競馬場やルイス競馬場を拡張、整備しました。

さらに、アイルランドの秋競馬に臨席しましたが、これは1399年にリチャード2世がアイルランド征服に出征して以来、420年ぶりのイングランド国王のアイルランド訪問となりました。

また、アスコット競馬の開幕日に王室でパレードを行うのもジョージ4世が始め、今でも続いています。

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アスコット競馬開幕日の王室パレード

1807年にはアスコット金杯も創始し、ジョージ4世はこの金杯レースでの優勝に血道を上げ、大金をつぎ込みましたが、夢を果たすことなく、1830年ウィンザー城で崩御しました。

英王室は時々スキャンダルに見舞われますが、歴史を見ると、むしろスキャンダルが伝統なのでは、という思いがします。

ハイドンは、この国王と王太子時代に出会ったご縁からも、このシンフォニーで競馬を描いたと思うのです。

ぜひ、お聴きください!

ハイドン交響曲 第102番 変ロ長調 Hob.Ⅰ:102  

F.J.Haydn : Symphony no.102 in B flat major, Hob.Ⅰ:102

マルク・ミンコフスキ指揮レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル

Marc Minkowski & Les Musiciens du Louvre

第1楽章 ラルゴーアレグロ・ヴィヴァーチェ

不安に満ちた序奏から始まります。ベートーヴェンのシンフォニー第4番変ロ長調は、この曲に雰囲気がよく似ています。ベートーヴェンがこの曲を意識し、お手本にしたのは間違いないと思います。主部のテーマはトゥッティで思い切り元気よく始まります。序奏はこの明るさを引き出すためのものです。展開部は手に汗握ります。ロンドンの名演奏家が一同に会し、空前の規模で演奏されたこの曲は、その迫力で聴衆を圧倒したことでしょう。どこまでもエネルギッシュな、私の愛してやまない曲です。

第2楽章 アダージョ

チェロのオブリガートが心に沁みる、抒情豊かな楽章です。これも〝巨人に囲まれたギリシアの乙女〟と呼ばれたベートーヴェンの第4番第2楽章がお手本にしたと思われます。谷間に揺れる百合の花を見ているかのようです。

第3楽章 メヌエット:アレグロ

元気いっぱいの楽しいメヌエットです。刻むようなリズムに心躍ります。素晴らしいのはトリオ。オーボエファゴットの歌がのどかな田舎で深呼吸をするように癒してくれます。

第4楽章 フィナーレ:プレスト

私の考える〝競馬の曲〟です。最初は、木管がパカラン、パカラン、と馬の蹄の音を表しているように聞こえてならないです。そして、トゥッティに移ると、さあ、ゲートが開きました!各馬一斉にスタートです‼︎ という競馬の実況中継を聴くような思いがするのです。そして、ゴール前の緊迫したレース展開。1着はどの馬だったでしょうか!

 

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近鉄阿部野橋駅で鳴る〝青のシンフォニー〟ハイドン『交響曲 第101番 ニ長調〝時計〟』

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チックタックと時間は過ぎる

ハイドンの第2期ザロモン・セットの3曲目は、シンフォニー第101番〝時計〟です。

こちらも、愛称がついていることもあり、ハイドンのシンフォニーの中でも最も演奏機会が多いのではないでしょうか。

ハイドンのシンフォニーの絶頂を示す傑作です。

愛称の〝時計〟は、第2楽章が時計の刻む振り子のリズムを思わせるためで、19世紀になってからつけられたものです。

ベートーヴェンもおそらくこの曲を意識して(パクって)、シンフォニー第8番の第2楽章を作ったのではないかと思います。あちらはメトロノームを模したということになっていますが。

逆に、フィナーレの盛り上がりは、モーツァルトのシンフォニー41番〝ジュピター〟の第4楽章を意識しているように思えてならないです。

近鉄が走らせている、奈良、吉野に向かう豪華特急青の交響曲(シンフォニー)』の発車メロディーに、この第2楽章が使われています。

時間にこだわる鉄道にふさわしいシンフォニーで、なかなかの選曲センスですね。

車体もクラシカルで、ハイドンの古典派シンフォニーにぴったりです。

www.kintetsu.co.jp

 

そういえば、チックタックと鳴る時計はもう少ないですね。我が家にも、もうひとつもないです。

子供の頃、夜中にふと目が覚めると、真っ暗闇の中、ただ、チックタックという時計の音だけが聞えてきて、なんともいえず不安な気持ちになったのを懐かしく思い出します。

ハイドン交響曲 第101番 ニ長調 Hob.Ⅰ:101〝時計〟  

F.J.Haydn : Symphony no.101 in D major, Hob.Ⅰ:101 “The Clock”

 

マルク・ミンコフスキ指揮レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル

Marc Minkowski & Les Musiciens du Louvre

第1楽章 アダージョープレスト

序奏は、この後、底抜けに明るい曲になるのを全く感じさせない、主短調であるニ短調のシリアスなものです。主部のテーマは、子供の愉快ないたずらを思わせるような無邪気なものです。そして、颯爽とした弦楽と、豪快なトゥッティが鮮やかな対比を作っていきます。展開部はとても凝った作りで盛り上がっていきます。思わず体が動き出してしまうような楽しい楽章です。

第2楽章 アンダンテ

〝時計〟の愛称の元になった楽章で、スタッカートによって奏でられる伴奏が、規則正しく拍子を刻む時計を思わせます。小さな鐘を鳴らすようなピチカートもとても可愛い!この楽章は〝驚愕〟のアンダンテと同じように変奏曲になっていて、第1変奏は始まり方からは想像もつかない迫力で展開していきます。第2変奏はフルートとオーボエファゴット、第1ヴァイオリンの美しい四重奏。第3楽章は短いつなぎの性格で、第4楽章は総員でテーマを力強く奏します。

第3楽章 メヌエット:アレグレット

元気いっぱいの壮大なメヌエットです。まさに、これぞハイドン、という趣きで、壮大な気分にしてくれます。トリオは、フルートがひなびたメロディを呼び交わす、印象的なものです。

第4楽章 フィナーレ:ヴィヴァーチェ

最初は小さな音でテーマが奏でられ、フォルテになって一気に盛り上げていくのは、いつもの常套手段ではありますが、円熟期のハイドンはまさに手に汗握る展開となります。短調に移ってからは変幻自在、オーケストラがひとつの火の玉になったかのような迫力です。ハイドンの数あるフィナーレの中でも最高の盛り上がりをみせるのです。これはもはや、優雅な貴族のためのものではなく、新時代の訪れを告げる、輝かしい万民のための音楽なのです。当時の人々の熱狂まで伝わってくる、この上なく熱い楽章で、私も聴くたびに力と勇気をもらっています。

 

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貴婦人失神!いわくつきのシンフォニー。ハイドン『交響曲 第100番 ト長調〝軍隊〟』

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ヨーロッパで流行ったトルコ趣味

ハイドンの第2期ザロモン・セットの2曲目は、シンフォニー第100番〝軍隊〟です。

キリ番でもありますが、この曲は〝驚愕〟〝時計〟と並んで、もっともポピュラーで、人気のある曲です。

私も最初にこの曲を聴いてハイドンのとりこになりました。この頃の作の中でも、最も大衆受けを狙った、悪く言えば俗っぽい曲なのですが、それだけに底抜けに楽しく、何度聴いても飽きない曲です。

ハイドンのシンフォニーの愛称は、ほとんど後からつけられたものですが、この曲だけは、ザロモン・コンサートの新聞広告にすでに〝Military Symphony(軍隊交響曲〟として予告されていました。

それは、曲に軍楽の要素が盛り込まれていたことによります。トランペットに加え、通常オーケストラには入らない大太鼓、シンバル、トライアングルといったパーカッションが入っているのです。

しかも、その軍隊はヨーロッパのものではなく、トルコの軍楽隊をイメージしたものでした。

オスマン・トルコ帝国はこの時代にはすでに衰退期にありましたが、その最盛期にはハンガリーを蹂躙し、二度にわたってウィーンを包囲するなど、長い間ヨーロッパを脅かしてきました。

トルコをやっつけろ、食べてしまえ、ということで、ウィーンでトルコの旗の三日月を模したパン、すなわちクロワッサンが焼かれたのは有名な話です。

一方で、そのエキゾチックな文化はヨーロッパで一種の流行をもたらし、トルコ風の音楽も人気でした。

モーツァルトはオペラ『後宮よりの逃走』やピアノ・ソナタの『トルコ行進曲』を作曲しましたし、ベートーヴェンにも『トルコ行進曲』はあります。

ハイドンのこの曲も大きなインパクトを与え、第2楽章では轟く大太鼓の迫力に、貴婦人が失神した、という記録も残っています。

ハイドン交響曲 第100番 ト長調 Hob.Ⅰ:100〝軍隊〟  

F.J.Haydn : Symphony no.100 in G major, Hob.Ⅰ:100 “Military”

クリストファー・ホグウッド指揮アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック

Christopher Hogwood & Academy of Ancient Music

 

第1楽章 アダージョーヴィヴァーチェ・アッサイ

序奏は、すっきり、ゆっくりとした感じでさりげなく始まり、次いで、短調に移り、次第に重々しくなっていきます。緊張が極に達したところで主部に移りますが、唐突にフルートのお気楽なメロディで始まるのには意表をつかれます。これはハイドンの他の曲にも例がありません。次いで弦が遊園地のアトラクションのように愉快な動きを見せ、盛り上げていきます。第2主題も弦が楽しくざわめく中、管楽器が遊んでいきます。提示部が終わると、ひと呼吸置いてから展開部が始まるのも、ユーモアたっぷりです。メロディは何か歌詞をつけたくなるような親しみやすいものです。最後はハイドン先生、やけくそになっているの?と思うような無理矢理な盛り上げ方で幕となります。

第2楽章 アレグレット

この曲のテーマは、ナポリ王のためにつくられたリラという今は滅びた楽器のためのコンチェルトからとられました。トライアングル、シンバル、大太鼓が加わり、トルコの軍楽隊風の迫力ある、第2楽章らしからぬ音楽が繰り広げられます。最後は、トランペットによる有名な軍隊の信号ラッパが吹き鳴らされ、大軍が突撃してくるような大音量が鳴らされるので、貴婦人が失神したのも無理はありません。オーケストラに大砲を持ち込んだチャイコフスキーほど無茶ではありませんが…。

第3楽章 メヌエットモデラー

数あるハイドンメヌエットの中でも、最もポピュラーかもしれません。遊園地のメリーゴーランドのように楽しく回ります。トリオではフルートとオーボエが活躍します。

第4楽章フィナーレ:プレスト

ザロモン・セットの中でも特に充実したフィナーレです。スキップするような軽やかなテーマですが、進むにつれ、高度に展開し、迫力を増していきます。途中、最後の盛り上がりのフレーズを予告する手法も、後進をうならせたことでしょう。もったいぶるように、焦らして、焦らして、焦らした末に、最後にはパーカッションが加わって爆発します。

当時の家庭で楽しむ、ハイドンのシンフォニー

このようなハイドンのシンフォニーは、ロンドンで大評判となりましたが、実際にコンサートで聴ける人はほんの一握りでした。今のようにCDがあるわけではありませんので。しかし、ハイドンをロンドンに招いたザロモンは、今でいう秋元康のような名プロデューサーでした。

ハイドンから新作シンフォニーの著作権、版権も買っていましたので、それを使って、弦楽四重奏にピアノ、フルートを加えて演奏できるよう編曲し、その楽譜を売り出したのです。

つまり、ハイドンのシンフォニーをご家庭で、というわけです。

楽譜はもちろん、飛ぶように売れました。ハイドンのシンフォニーは、オーケストラによる演奏より、むしろこのような編曲版の方で、多くの人々に親しまれたわけです。

ザロモンによる編曲版の演奏はこちらです。当時の人の多くが耳にした響きをお楽しみください。

ハイドン交響曲 第100番 変ホ長調 (ザロモン編曲版)

F.J.Haydn (arr.Salomon) : Symphony no.100 in G major, Hob.Ⅰ:100

演奏:ザロモン四重奏団、リーザ・ベズノシューク(フルート)、クリストファー・ホグウッドフォルテピアノ

第1楽章 アダージョーヴィヴァーチェ・アッサイ

第2楽章 アレグレット

第3楽章 メヌエットモデラー

第4楽章フィナーレ:プレスト

 

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楽隠居はまだまだ!61歳の再挑戦。ハイドン『交響曲 第99番 変ホ長調』

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ボンのベートーヴェン

ベートーヴェンとの出会い

ハイドンは、大喝采を浴び、名声でも収入でも大成功だった1回目のロンドン訪問を終え、1792年6月に帰途につきます。

途中、フランクフルトに立ち寄り、フランツ2世戴冠式に出席するために滞在していた主君、エステルハージ侯爵アントンに会うためでした。

それに先立ち訪れたボンでは、21歳の若手作曲家、ベートーヴェンカンタータハイドンに提出しました。

これを見たハイドンは、非凡な才能を見抜き、自分が教えるからぜひウィーンに来なさい、と激励しました。

しかし、ハイドンは多忙で、ウィーンに来たベートーヴェンの勉強を見てあげることはあまりできず、ベートーヴェンはこの先生に不満でした。

ハイドンも、ベートーヴェンの生意気な態度が気に入らなかったようです。

後年、ベートーヴェン組曲プロメテウスの創造物』を作曲したとき、道端で会ったハイドンはこれを褒めました。

これに対し、ベートーヴェンはこう答えました。

『ああ、愛するパパ、ありがとうございます!でも、あれはまだ〝創造〟には程遠いものなのです。』

ベートーヴェンは、ハイドンの傑作『天地創造』に引っかけて、自作を卑下、謙遜したつもりだったのですが、ハイドンは若造が自分の曲と比較したことにムッとして、『いかにも、あれは創造ではないし、これからもそうならないと思うよ。』と答え、お互い気まずい雰囲気で別れたということです。

この場に誰かいたら、さぞ凍ったことでしょう。誰かいたからこの話は今に伝わっているのですが。

ハイドンのロンドン再訪

ハイドンは、あれほど帰りたがっていたウィーンに帰り着くと、2度目のロンドン旅行の準備を始めました。

1回目の旅行で大儲けしたこともありますが、田舎の宮廷で宮仕えをしていたハイドンにとって、あれだけの大都会で浴びた喝采、そして自分の音楽をここまで喜んでくれる大聴衆に、また応えてあげたい、というサービス精神が、彼にもう一度大旅行をする決心をさせたのでしょう。

しかし、主君のアントン侯は反対しました。その経緯を伝記作家のディースは次のように伝えています。

ハイドンが再度のロンドン行きについてエステルハージ侯に許可を求めた時、侯爵は、ハイドンはすでに得ている名声に満足すべきであり、61歳の老人が長旅の危険に身をさらすべきではないという考えであった。ハイドンは侯爵のこの考えが、思いやりの深い心からでたものであることを知っていた。しかし長い間多忙な生活を送ってきたハイドンにとって、静かな生活は好ましいものではなかったので、侯の考えとハイドンの要望とは容易に一致しなかった。けれどもロンドン旅行がハイドンによって、利益になることを知った侯は、最後には自分の考えをすててロンドン行きに許可をあたえた。1794年1月19日、ハイドンは2度目のロンドン旅行に出発した。

今のように、飛行機でひとっ飛び、という旅ではなく、ずっと馬車に揺られていくわけで、今の旅行とは比べ物にならないくらい体力を消耗するものだったでしょう。

引き留めた主君の考えは分かります。

でもハイドンは、自分の音楽を必要としている人がたくさんいる、まだまだ楽隠居などしていられるか!という思いだったのです。

しかし、ハイドンの身を案じた主君アントン侯自身が、ハイドンの出発した数日後、急逝してしまいました。エステルハージ侯爵家は、その息子、ニコラウス2世が継ぎました。ハイドンがこれを知ったのはロンドンに着いてからでした。

また、当時の「ベルリン音楽新聞」1793年10月26日号に次のような記事があります。

ボン発 昨年12月、宮廷オルガン奏者にして、うたがいもなく第1級のピアニストたるルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、選帝侯の給費により、ウィーンのハイドンの門に入った。その指導によって作曲の知識を完成するためである。ハイドンは、第2回目のロンドン旅行に彼を帯同しようと考えていたが、これは実現しなかった。 

実現していたら、ロンドンでハイドンベートーヴェンの共演というコンサートが開催されたはずです。

第2期ザロモン・セット

2回目のロンドン訪問で、ハイドンは新たに6曲のシンフォニーを作曲しました。これが第2期ザロモン・セット(ザロモン交響曲、ロンドン・セット)と言われる曲群です。

ハイドン最後の曲群であり、当然、彼の到した高みを示す不朽の6曲です。

第1期よりもさらにスケールが大きく、円熟味を増していますが、豊かな色彩の楽器、クラリネットが加わったことも一役かっています。

その1曲目の第99番は、ロンドン旅行準備中に、ウィーンかアイゼンシュタットで完成しています。

ハイドンのロンドン到着は1793年2月4日で、二期目の第1回ザロモン・コンサートは2月10日に開かれ、この第99番の初演で幕が開きました。

旅の疲れも癒えないうちにコンサートに臨んだハイドンも大変ですが、ほとんどリハーサルの時間もない中で演奏した当時のオーケストラも、いつもながらすごいです。

ハイドン交響曲 第99番 変ホ長調 Hob.Ⅰ:99  

F.J.Haydn : Symphony no.99 in E flat major, Hob.Ⅰ:99

マルク・ミンコフスキ指揮レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル

Marc Minkowski & Les Musiciens du Louvre

第1楽章 アダージョーヴィヴァーチェ・アッサイ

序奏は、最初の和音がベートーヴェンのピアノ・コンチェルト第5番〝皇帝〟の冒頭にそっくりです。同じ変ホ長調ですし、クラシックのイントロクイズをやったら絶対間違えるでしょう。真似をしたとすればもちろんベートーヴェンの方ですが、この曲も、〝皇帝〟のように堂々とした風格です。主部は気宇壮大で、第1期のシンフォニーたちとは明らかにグレードアップしています。愛称がついていないので、他の曲より演奏の機会は少ないですが、聴く人を興奮させてやまない素晴らしい楽章です。

第2楽章 アダージョ

オーボエ、フルート、ファゴットが呼び交わす、抒情豊かな楽章です。どこか寂し気なのは、ハイドンが敬愛する貴婦人、マリアンネ・フォン・ゲンツィンガーの死を悼んで、その思い出を反映させている、という解釈もあります。豊かな音楽の才能を持ち、ハイドンの音楽をこよなく愛したこの貴婦人との交遊は、ハイドンの創作にも大いにインスピレーションを与えたことが、残された文通の書簡からうかがえます。

第3楽章 メヌエット:アレグレット

ベートーヴェンはシンフォニーの第3楽章を、メヌエットからスケルツォに置き換えましたが、そのヒントとなったのではないかと思われるリズム構造のメヌエットです。トリオも含蓄深い響きです。

第4楽章フィナーレ:ヴィヴァーチェ

うきうきするような刻みのリズムで始まり、管楽器の合いの手が楽しい、活気あふれるフィナーレです。

 

 

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また来るね!とチェンバロであいさつ。ハイドン『交響曲 第98番 変ロ長調』

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ロンドンのハイドン(1791年ジョン・ホップナー画)

ハイドンは名演奏家ではなかった?

ハイドン1回目のロンドン訪問で作曲した、第1期ザロモン・セットの最後の曲、第98番を聴きます。

この曲は、素晴らしいにもかかわらず、コンサートで演奏されることはほとんどないマイナーな曲なのですが、その理由としてはフィナーレにチェンバロのソロ・パートがあるからかもしれません。

ハイドンはザロモン・コンサートではチェンバロまたはフォルテピアノを弾きながら指揮をしたと伝えられています。

しかしハイドンは、ヴィルトゥオーゾ(演奏の名手)ではない作曲家でした。もちろん、そこそこの腕前ではありましたが、名人芸というほどではなかったのです。

これは当時としては珍しいほうでした。

バッハ、ヘンデルはオルガンモーツァルトベートーヴェンはピアノの名手で、最初は演奏家として名前が売れ、作曲の名声は後からでした。

作曲だけで高名になったのはハイドンが初めてかもしれず、むしろこれは当時としてはすごいことです。

しかし、ロンドンでのコンサートに出演したハイドンに、聴衆が演奏を期待したのは十分考えられます。

舞台に登場したハイドンに観客が殺到し、空いた席にシャンデリアが落下した奇跡はご紹介しました。

そこで、ハイドンが、渋々かもしれませんが、控えめに自分の出番(ソロ)を作ったのがこの曲なのです。

コンサート・マスターのザロモンのソロの見せ場は何度も作っているのですが。

当時これを聴いた人が、後年次のように回想しています。

ピアノフォルテでの彼(ハイドン)の演奏からは、彼がこの楽器での第一級の芸術家だとの印象をうけなかったが、論議の余地なく整然として明確なものだった。彼のひとつの交響曲(第98番)のフィナーレに魅力的な輝かしいパッセージがあり、彼はこれをピアノフォルテでこの上なく正確に几帳面に弾いたことを覚えている。

さっそく聴いてみましょう。

 

ハイドン交響曲 第98番 変ロ長調 Hob.Ⅰ:98  

F.J.Haydn : Symphony no.98 in B flat major, Hob.Ⅰ:98

マルク・ミンコフスキ指揮レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル

Marc Minkowski & Les Musiciens du Louvre

第1楽章 アダージョーアレグロ

序奏は短調で、劇的に始まります。短調のシンフォニーかと思うほどです。しかし、序奏は短く、すぐ明るい主部に入ります。そのテーマは、序奏と同じものが長調で奏されます。序奏は主部の予告だったのです。主部は精力的なもので、元気いっぱいに展開していきます。変ロ調は、ウィーンでは室内用とされていて、モーツァルトもこの調の曲は全てしっとりと静かな響きなのですが、ロンドンの慣習では異なっており、ハイドンもそれに合わせて、ティンパニとトランペットを使い、派手な曲に仕上げています。

第2楽章 アダージョ

テーマは、英国国歌『God Save the King (Queen)』(神よ国王(女王)を護りたまえ)から取られています。ハイドンの英国に対するオマージュです。実際、ハイドンは国歌を歌って心をひとつに団結している英国人をうらやましく思い、祖国オーストリアにも同様の曲があったらいいな、と考え、帰国後に『神よ、皇帝フランツを護りたまえ』を作曲し、皇帝フランツ2世に捧げました。オーストリア帝国崩壊後、ハイドンのメロディは新しいドイツ国家に受け継がれ、今もドイツ国になっています。サッカーのワールドカップなどで耳にする機会も多いですが、ハイドンの曲なのです。ハイドン自身も気に入っていて、後に弦楽四重奏曲『皇帝』に使い、死ぬ間際までピアノでつま弾いていました。

この楽章は、豊かな転調、独奏チェロのオブリガートなど、充実した曲です。

第3楽章 メヌエット:アレグロ

キリっとした、鋭いメヌエットです。ヴァイオリンとフルート、ファゴットが順番でユニゾン、またはオクターヴ違いで重ね、音色の違いを様々に出しています。まるで画家が絵の具を混ぜていくように。トリオでは、第1ヴァイオリンとオクターヴ下のファゴットが舞曲レントラー風に奏でます。

第4楽章フィナーレ:プレスト

民謡のようにおどけた感じのテーマです。ほろ酔い気分で鼻歌を歌いながら町をブラブラしているかのようなご機嫌な曲です。再現部はザロモンのヴァイオリン・ソロがリードします。そして、最後にハイドンチェンバロのソロが出てきます。初演ではハイドンはピアノで弾いたという記録になっています。ハイドンチェンバロやピアノを弾きながらオーケストラを指揮しましたが、それはオケを音でリードするためのもので、聴衆には聞き取りにくかったはずです。そこで、ハイドンの演奏している音をちゃんと聴きたい、という聴衆へのサービスをしたわけです。誰かにねだられたのか、本人の発案なのか分かりませんが。まるでピアノ・コンチェルトのカデンツァのように派手に導入されますが、ソロ・パートはいたって地味で、名人芸というより、玉をころがすような可愛いものです。前述の回想にあるように、ハイドンはこれを〝正確に几帳面に〟弾いたのです。

ハイドン&ザロモンコンビのコンサートは英国に大センセーショナルを巻き起こして、この曲で終わり、ハイドンは1792年6月に、ウィーンに向けて帰路についたのです。

 

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