孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

若きモーツァルトの青春の輝き。アマデウスの光と影(6)モーツァルト『交響曲 第29番 イ長調』

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ザルツブルクモーツァルトの生家

モーツァルトの自信作

前回取り上げたモーツァルトの〝ト短調〟と必ず明・暗のカップリングにされるのがこのシンフォニー 第29番 イ長調 K.201(186a)です。

有名な小ト短調とセットということもありますが、この時期のモーツァルトのシンフォニーの中でも特に優れ、人気のある曲です。

モーツァルトも自信をもっていたようで、約10年後、ザルツブルクを飛び出してウィーンで活躍を始めたとき、父に手紙で〝小ト短調〟とこの曲、そしてシンフォニー第24番 K.182(173dA)、セレナード K.204(213a)の抜粋によるシンフォニーの計4曲を〝出来る限り急いで〟送ってくれるよう頼んでいるのです。

華やかさはありませんが、とても愛らしく、かつ中身の濃いシンフォニーです。

モーツァルト交響曲 第29番 イ長調 K.201(186a)

W.A.Mozart : Symphony no.29 in A major, K.201 (186a)

演奏:クリストファー・ホグウッド指揮アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック

Christopher Hogwood & Academy of Ancient Music

※現在 Apple Music のサイトに問題があり試聴が出来ない場合があります。

第1楽章 アレグロ・モデラー

なんとも不思議な、弱音の語りで始まり、それが2度目には1拍ズレたカノンとして演奏される異例の展開です。そして一体となって走り出していき、聴く人の心をとらえていきます。展開部はあっさりとしていますが緊張をはらみ、またあの冒頭主題が戻ってきます。この頃のモーツァルトはイタリア帰りですが、けっしてそれにかぶれることなく、自分ならではのスタイルに取り込んで、むしろウィーン風を志向しています。締めくくりのコーダが凝っていて、これまでの若いモーツァルトには見られない、充実したものです。

第2楽章 アンダンテ

弱音器をつけたヴァイオリンがしっとりと歌いはじめます。少年の頃の夏の日のような懐かしさがあります。オーボエやホルンの絡みも美しく、おだやかな中に切なさを秘めた癒しの音楽です。

第3楽章 メヌエット

スキップをするようなメヌエットですが、この曲を通した雰囲気と同じで、しっとりとした趣きをもっています。

第4楽章 アレグロ・コン・スピリート

落ち着いた中にもダイナミックな広がりを見せる、素晴らしいフィナーレです。ここでの勢いの良さは、まさに若きモーツァルト!ここでも〝小ト短調〟と同じように第1楽章からの統一性が保たれ、4楽章の〝起承転結〟が整えられています。まさにモーツァルトの若き日の青春の輝きを楽しめる曲です。

 

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サリエリはモーツァルトを殺したか。アマデウスの光と影(5)モーツァルト『交響曲 第25番 ト短調』

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アントニオ・サリエリ(1750-1825)

アマデウスのテーマ

ダークサイドのモーツァルトとして最も有名な曲が、このシンフォニー 第25番 ト短調 K.183(173dB)です。

モーツァルトが17歳のときにザルツブルクで作曲したシンフォニーで、モーツァルトの中でたった2曲しかない短調の曲のひとつです。

もうひとつの有名な第40番 ト短調 K.550と同じ調性のため、〝ト短調〟の愛称で親しまれています。

そのドラマチックさで、映画『アマデウスの冒頭に使われ〝アマデウスのテーマ〟としても知られるようになりました。

映画の冒頭、老人サリエリが部屋にとじこもって何やらつぶやき、従僕が菓子をもっていくが部屋に入れず、中から聞こえるただならぬ物音に、ドアを踏み破って入ると、そこにはカミソリで喉を掻き切って血まみれになった老サリエリが…というところでこの曲がはじまります。

冒頭のただならぬシンコペーションのあと、一気に音楽が陽転するところは、貴族たちがダンスに興じるシーンになり、たたみかけるようなところは、サリエリを乗せた救急馬車が病院へ急ぐところに充てられています。

映画『アマデウス』のBGMは全てモーツァルトの音楽が使われていますが、まったくよく当てはまっています。

サリエリの毒殺説

主人公のアントニオ・サリエリ(1750-1825)は、イタリア生まれの作曲家で、神聖ローマ帝国宮廷楽長として、当時の楽壇のトップにいました。

その作品は今ではほとんど忘れられ、演奏されるとすれば、モーツァルトとの関りで興味をもたれてのことです。

映画では、モーツァルトのことを芸術上のライバルとみなしています。神は自分に凡庸な才能しか与えなかったのに、あんな下品な男に神の意思を伝えさせるような恩寵を与えるなんて…と嫉妬し、モーツァルトを死に追いやります。

映画の原作となったのは1979年に初演された、ピーター・シェーファーによる戯曲『アマデウス』ですが、こちらではサリエリが砒素でモーツァルトを毒殺したことになっています。

映画では毒殺ではなく、オペラ『ドン・ジョヴァンニを観て父レオポルトへのファーザー・コンプレックスを知り、父の亡霊に扮してレクイエム(鎮魂曲モーツァルトに注文し、精神的、肉体的に追い詰めていくことになっています。

しかし、サリエリモーツァルトを毒殺したのではないか、という噂は実際にあり、サリエリもそれをやっきになって否定したため、かえって怪しい、といわれていました。

ロッシーニもズバリ本人を直撃したそうですが、それには冷静に反論していたそうです。

地位も名声もサリエリの方が格段に上で、モーツァルトに嫉妬する理由はなさそうなのですが、モーツァルトが死んだとき、次のように語っています。

『あんな大天才が死んだなんて、残念だが、われわれにとっちゃ大助かりだ。あんな男に長生きされた日には、われわれの作品に世間はパン一切れも恵んじゃくれなくなる!』

実はサリエリは故人に最大の讃辞を贈っているのですが、あまりにブラックな言い方をしたので、毒殺の噂が出たのも無理はありません。火のない所に煙は立たぬ、です。

しかし、やはり殺人罪で破滅するほどのリスクを負ってまでモーツァルトを殺す動機はまったく見当たりません。

サリエリハイドンとも親交があり、また人材育成に熱心で、中でもシューベルトは彼の薫陶を大きく受けました。ほかにも、ベートーヴェン、リスト、ツェルニー、フンメル、マイアベーアなど、枚挙に暇ありません。モーツァルトの弟子ジュスマイヤーや、息子クサヴァー・モーツァルトの面倒も見ています。

ライバルの抹殺を意図する人間が、自分を超える恐れのある後進をこんなに育てるはずはありません。

ずっと容疑者にされて気の毒ですが、彼の名を有名にしているのはこの噂ゆえであるのも皮肉な限りです。

モーツァルト交響曲 第25番 ト短調 K.183(173dB) 

W.A.Mozart : Symphony no.25 in G minor, K.183 (173dB)

演奏:クリストファー・ホグウッド指揮アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック

Christopher Hogwood & Academy of Ancient Music

※現在 Apple Music のサイトに問題があり試聴が出来ない場合があります。

第1楽章 アレグロ・コン・ブリオ

切り込むようなシンコペーションで、ドラマチックに始まります。この激しさに、17歳のモーツァルトの青年的激情を読み取る人もいますが、当時の、時代精神としてのシュトゥルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)の影響とする方が妥当です。つまり、モーツァルトは流行に乗ってみた、ということです。以前ご紹介したように、ゲーテやシラーに代表される疾風怒濤運動は、ハイドンの方に影響が大きく、モーツァルトハイドンのシンフォニー 第39番 ト短調をお手本にしたと考えられています。ハイドンの曲は、ホルンが4本という異例の編成ですが、それは当時のナチュラル・ホルンが自然音しか出せないため、特に短調の曲を作ろうとすると音が限られてしまい。G管とB♭管の2種類を使うことで表現の幅を確保しようとするものでした。この曲もホルンは4本になっており、ハイドンの試みを自分でも試してみたことは間違いないでしょう。奔馬が走るかのような雄渾な表現はモーツァルトのシンフォニーでも画期を成すものです。コーダも劇的で、この曲はもはや、本来のシンフォニーの役目である、演奏会の序曲(脇役)の域を超えていることを示しています。

第2楽章 アンダンテ

弱音器をつけたヴァイオリンと2本のファゴットが呼び交わす第1主題、ややホッとするような明るい第2主題がたゆたいます。静かで黙考的な音楽です。

第3楽章 メヌエット

ニゾンの厳しいメヌエットで、宮廷舞曲の趣きはありません。しかしトリオは管楽器だけの、非常に可愛らしいもので、つい微笑んでしまいます。

第4楽章 アレグロ

メインテーマは、前楽章のメヌエットを変形させたもので、ちょっとひねた、反抗期のような印象も受けます。しかしやがて、屈託のない表情も見せ、さすがモーツァルト!といった感じです。展開部も見事で、第1楽章から続く物語としての統一感も醸し出しています。

元ネタ、ハイドンのシンフォニー

それでは、比較のために、モーツァルトが影響を受け、お手本にしたと思われるハイドント短調シンフォニーもご紹介しておきます。1768年に作曲されました。

ハイドン交響曲 第39番 ト短調 Hob.Ⅰ: 39

W.A.Mozart : Symphony no.39 in G minor, Hob.Ⅰ:39

演奏:トレヴァー・ピノック指揮イングリッシュ・コンサート

Trevor Pinnock & The English Concert

第1楽章 アレグロ・アッサイ

ひそかに切迫したような弱音でのテーマから始まり、一気に盛り上げていくところはハイドンならではの職人技です。小休止が絶妙に入るところも緊張を高める効果があります。

第2楽章 アンダンテ

文字通り歩くような静かな音楽で、弦楽器だけで奏でられます。時々入る強弱の対比が面白いです。

第3楽章 メヌエット

メヌエットではヴァイオリンとオーボエがユニゾンで淡々と進めます。トリオはオーボエにホルンが加わり、田園的な雰囲気を醸し出します。

第4楽章 フィナーレ:アレグロ・モルト

劇の終幕らしい、ドラマチックな音楽です。颯爽と入る下降音型、跳躍するリズムなど、手の込んだ楽章で、同時代の人が熱狂し、モーツァルトがお手本にしたのが分かります。

アマデウス(字幕版)

アマデウス(字幕版)

 

 

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天翔けるピアノと弦。アマデウスの光と影(4)モーツァルト『ピアノ四重奏曲 第2番 変ホ長調』

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アルターリア社による初版譜

雄大で、力強く

モーツァルトの明&暗2曲セット、ピアノ四重奏曲第1番 ト短調  K.478の相方は、第2番 変ホ長調 K.493です。

前回のト短調が難し過ぎる、と出版者ホフマイスターから苦情を言われたため、2曲目のこの曲は版刻までされていましたが、それを流用して別の出版社、アルターリアから1787年に出版されました。その経緯は前回書いた通りです。

ト短調の方は、第1楽章の冒頭はショッキングなものの、他のト短調の曲に比べると明るい曲ですが、姉妹曲のこの変ホ長調は、もちろんとても明るい曲です。

ト短調は深い味わいでしたが、この曲はより力強く、かつ肩の力を抜いたような屈託のなさが魅力です。

要求される技巧は同レベルですが、ト短調よりも親しみやすい曲調で、ホフマイスターが望んだ大衆的な曲は、むしろこちらの方が近いかもしれません。

モーツァルト:ピアノ四重奏曲 第2番 変ホ長調 K.493 

W.A.Mozart : Piano Quartet no.2 in E flat majnor, K.493

演奏:クイケン・ピアノ四重奏団

Kuijken Piano Quartet 

第1楽章 アレグロ

大平原を馬で疾走するかのような、雄大かつ壮大なスタートです。しばしピアノと弦の対話があり、やがてピアノが天に駆け登るかのように飛翔し、聴く人の心を奪います。展開部では、ト短調を思わせるような悲しいモチーフが、ピアノと3つの弦でカノン風に厳しく呼び交わされます。そしてその緊張の中、すべてを解決するように冒頭のフレーズが戻ってくるところは、まったくシビれます。

第2楽章 ラルゲット

ピアノのつぶやきと、控えめな弦の伴奏が、静かな中にも情熱を秘めて奏でる楽章です。モーツァルトには珍しい変イ長調で書かれています。だんだんと深い海の底に潜っていくようで、響くハーモニーは幻想的です。現代的というべきか、いや、時代を感じさせない音楽というべきでしょうか。

第3楽章 アレグレット

いかにもロココ調の、むしろこの頃のモーツァルトには珍しいギャラント(優雅)なスタイルで書かれてます。かつて高級キャットフード(モンプチ)のCMに使われていたため、今でもこの曲を聴くとペルシャ猫の顔が浮かんでしまうのは困ったことです 笑。また、ピアノとヴァイオリンが並走しながら掛け合うようなところは、まさに猫がじゃれ合っているようで、微笑ましい感じがします。ただ、愛らしいだけでは終わらず、激しい部分もあり、ピアノ・コンチェルト 第20番 ニ短調 を思わせる場面もあります。間違いなく、モーツァルト円熟期の作品なのです。

 

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アマチュアには難しすぎた曲。アマデウスの光と影(3)モーツァルト『ピアノ四重奏曲 第1番 ト短調』

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珍しいピアノ・カルテット

モーツァルトの明&暗2曲セット、弦楽五重奏曲の次はピアノ四重奏曲です。第1番 ト短調  K.478第2番 変ホ長調 K.493のカップリングです。

ありそうな編成の曲ですが、モーツァルトにはこの2曲しかなく、ハイドンには1曲もありません。

ヴァイオリンは1台で、ヴィオラ、チェロ、そしてクラヴィーア(ピアノ)の四重奏です。

弦楽五重奏曲がミニ・シンフォニーとすれば、ピアノ・カルテットはさながらミニ・ピアノ・コンチェルトといえます。

モーツァルトの楽器〟ピアノが入るだけで、こんなにも情感豊かに、繊細になるものか、と感じ入ります。心の襞に沁み込むような音楽です。

作曲された時期は、第1番がオペラ『フィガロの結婚作曲の直前、第2番が直後になり、数々のピアノ・コンチェルトが生み出された、絶好調の時期にあたり、この2曲もまったく完璧、円熟の極致にあります。

ご家庭にモーツァルト

第1番は、友人である作曲家、出版業者のホフマイスターからの注文で作曲されました。

ホフマイスターの計画は、家庭で楽しめるピアノ音楽の楽譜を、自作と、モーツァルトハイドンほか人気の作曲家の作品を中心に毎月出版する、というものでした。

さだめし〝月刊『ピアノの愉しみ』〟のような感じでしょうか。

この時代、家庭内の室内音楽のメインはピアノでした。

ヴァイオリン・ソナタも、ふつうヴァイオリンがメインでピアノが伴奏になりますが、モーツァルトの時代に限っては、ヴァイオリンの伴奏つきのピアノ・ソナタ、という性格でした。チェロ・ソナタや、ピアノ三重奏曲なども同様です。

当時の中・上流家庭では、娘たちはピアノを、息子たちは弦楽器を嗜むのが習慣でした。

息子たちは楽器のほかにも、乗馬や剣術などを習う必要もありますが、娘は音楽の嗜みが婚活で重要とされていたので、より深く打ち込むことになりました。

要するに一般的には娘のピアノの腕前の方が上で、兄弟たちは楽器は片手間ですから、その伴奏にとどまっていたわけです。

しかし、モーツァルトが提供したのはこのト短調。4人に等しく名人的な腕前を要求した曲でした。

ホフマイスターは文句を言います。

『もっと易しく書いてくれないか。これじゃあ難しくて売れないよ!』

これを聞いたモーツァルトホフマイスターとの契約を自ら解除し、第2番は別の出版社、アルターリアから出版します。

モーツァルトはおそらく怒ったのではなく、この企画は自分には無理、と感じたのでしょう。

彼は職人ですから、後年の有名なピアノ・ソナタ ハ長調 K.545 (いわゆるソナチネ)のように、初心者向けの曲も自在に作れたはずですが、自分のレベルがどんどん上がっていき、聴衆がそれについてきてくれている、と感じていたこの時期のモーツァルトには、創作意欲が湧かなかったのではないか、と思います。

マチュアが演奏すると…

実際、この曲が出た3年後、1788年に発行されたベルリンの音楽雑誌『豪奢と流行』に『大演奏会における最近の音楽趣味―ピアノ愛好主義における女性偏重をめぐって』と題して、この曲について次のような批評が載っています。

数年前、モーツァルトによる四重奏曲が1曲出版されたが、この作品は非常に芸術的に作曲されており、演奏に際しては、4つのパートすべてに寸分の狂いもない正確さが求められている。

しかし、かりにうまく演奏されたとしても、あるいはそう思われたとしても、この作品は、室内楽における音楽の専門家だけが満足することのできるものであり、まさそのように意図されたものである。

モーツァルトが全く新しい四重奏曲を作曲した。そこそこの王女様や伯爵夫人がこれを演奏しているそうだ!〟という噂がその後まもなく広まった。これが人々の好奇心を刺激して、大きな賑やかな音楽会でこの新しい四重奏曲を演奏し、非才の身ながら自慢をしようという向こう見ずな考えを起こさせたのである。

他の多くの作品なら並みの演奏でも楽しめるだろう。しかし、このモーツァルトの創造物だけは、並みのアマテュアの手にかかりぞんざいに演奏されると、全く聴けたものではない。

そうしたことは、この冬にあちこちで見られた。旅先であれ、音楽会であれ、私が訪ねた所ではほぼ一様に、賑やかな集いの席で若いご婦人や中流階級の取り澄ました令嬢、あるいは生意気な芸術愛好家がこの四重奏曲の楽譜を手に入れ、誇らしげに演奏してみせたのだった。

しかし、それはとても満足できるような代物ではなかった。誰も彼もが、4つの楽器が奏でる訳の分からない音にうんざりし、あくびをしていたのだ。4小節にも及んで音がそろわず、その愚にもつかない合奏からは、感情らしきものは何ひとつ湧き上がってこなかった。それでも、その演奏は満足され、称賛されなければならなかったのだ!

いったいどういうわけで、至るところこうしたことが行われているのか、私には説明のつけようがない。だが、ひと冬もの間続いていたことなのだから、これは単に、はかない一時の熱狂と難じるだけではすまされないだろう。

ひとつひとつの音の響きが聴き手の耳に伝わってくるような静かな部屋で、わずか数人がじっと聴き入る中、入念に練習を重ねた4人の熟練した音楽家が、今評判のこの芸術作品を完璧なまでに忠実に演奏したならば、どんなにかすばらしいことだろう!

しかし、もちろんこの場合には、華やかさや拍手喝采などは無縁のものであり、お決まりのほめことばも聞かれない。与えるものもなければ得るものもない。ここでは、今日の公開演奏会につきものの政治的思惑は、一切無用なのである。*1

モーツァルトが存命中にどこまで理解、評価されていたのか、なかなかはっきりしないなかで、非常に納得できる証言です。

辛口な批評ですが、確かに、平凡なお金持ち一家で『有名な楽長モーツァルトの新作を手に入れたわよ!』といって子供たちで演奏された場合、この曲はとてつもない不協和音を立てたことでしょう。

しかし、それはなんという悲しいことか!

レコードやCDが無かった時代、家庭でモーツァルトの音楽を楽しむことは、よほどの名手が身近にいない限り、無理だったということですから。

それにしても、この批評家はモーツァルトの曲がただの見栄っ張りの道具にされている、と嘆いていますが、生前にもそれだけブランド力があったということに驚かされます。

各地でうんざりするほど下手な演奏を聴かされた、ということですから、ホフマイスターの楽譜も、出版社の思惑とは別の方向で、それなりに売れたと思われます。

しかし、聴かされる方はたまらない、ということで、生前のモーツァルトの人気はじわじわと落ちていくことになったのでしょう。

それでは、当時の批評家が必ず満足するであろう演奏を聴きましょう。古楽器ヴァイオリンの大御所、ジギスヴァルト・クイケンがこの曲だけのために結成した、モーツァルト当時のフォルテピアノを加えたカルテットです。

モーツァルト:ピアノ四重奏曲 第1番 ト短調 K.478 

W.A.Mozart : Piano Quartet no.1 in G minor, K.478

演奏:クイケン・ピアノ四重奏団

Kuijken Piano Quartet 

第1楽章 アレグロ

いきなり鋭くショッキングな弦のユニゾンで始まり、ピアノがそれに一度聴いたら忘れられないようなフレーズで応えます。アインシュタインは、モーツァルトの〝運命〟と言っています。しかし、だんだんと音楽は陽転していき、悲劇性は薄まっていきます。ピアノと3つの弦のからみあいは、全く対等で、起伏に満ちた物語をつむいでいきます。展開部はさらにドラマティックで、かつ繊細。コーダは心の底の叫びを聞くようで、家庭音楽の域ではありません。

第2楽章 アンダンテ

この曲は、短調を主調にしていますが、第2楽章、第3楽章は長調で、明るい陽射しの中にあります。この楽章は、数あるモーツァルトの緩徐楽章の中でも、特に愛してやまない曲です。ピアノのしみじみとした語りに、弦はどこまでも優しく応じ、ピアノが流れるようなオクターヴを弾けば、弦も天に昇るかのようにこたえます。そして、深い瞑想の世界にいざなわれていくような心地がするのです。

第3楽章 ロンド:アレグロ・モデラー

明るいロンドですが、半音階的なニュアンスが含まれているため、感慨深く、胸がいっぱいになります。遠い昔の楽しかった思い出を、胸の奥で反芻するような懐かしさを感じます。展開部では短調の不安な影も差し、第1楽章の悲劇的な物語を思い起こしますが、すぐに明るい世界に戻っていきます。ピアノだけでも素晴らしいのに、3つの弦が加わることより、より深い世界が広がり、感動に心が震えます。例の批評家は、たったひとりで、誰からも邪魔されず、拍手もおせじも不要な中、一流の演奏でこの曲を味わいたかったに違いありません。今の我々はなんと幸せなことでしょうか。

 

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*1:Journal des Luxus und der Moden, 1788

たった5人で奏でる、シンフォニックなハーモニー。アマデウスの光と影(2)モーツァルト『弦楽五重奏曲 第3番 ハ長調』

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室内楽の〝ジュピター〟

前回からモーツァルトの明暗2曲セットを聴いていますが、弦楽五重奏曲 ト短調 K.516の相方は、ハ長調 K.515です。

ちょうど、シンフォニーの第40番ト短調第41番ハ長調〝ジュピター〟と同じ組み合わせです。

モーツァルトは、この2曲に、管楽セレナード ハ短調 K.388〝ナハトムジーク〟を編曲した弦楽五重奏曲(第2番 K.406)を加え、3曲セットで出版しようとしたようです。

その筆者譜の予約募集広告が新聞に1788年4月と6月に4回にわたって掲載されており、モーツァルトが度重なって借金をしていた友人プフベルクへの手紙に、この出版の収入を返済のあてにしていることが書いてあるのです。

価格は18フロリーン(換算して54,000円くらい?)となかなか高価であり、そのためかどうか、予約者はほとんどなく、出版を延期する旨の告知が6月にモーツァルト自身の名で掲載されています。

結局、ハ長調が1789年、ト短調が1790年、編曲のハ短調が、死後の1792年と、バラバラに出版されることになりました。

そんなやるせない経緯ではありますが、このハ長調はとても充実した、堂々たる傑作です。

全曲で1149小節を有し、ジュピター・シンフォニーの924小節を上回る大作なのです。

モーツァルト弦楽五重奏曲第3番 ハ長調 K.515 

W.A.Mozart : String Quintet no.3 in C major, K.515

演奏:ストラディヴァリ弦楽四重奏団&カリーネ・レティエク(ヴィオラ

Quartet Stradivari & Karine Lethiec

第1楽章 アレグロ

冒頭、チェロが、「ド・ミ・ソ」の極めて単純な分散上昇和音を奏でて始まります。小学生レベルの素朴な開始なのに、すっかり心奪われてしまいます。そしてその単純さを基礎に、大建築が構築されていくのです。モーツァルトハイドンのカルテットに触発され、見事な6曲のカルテット『ハイドン・セット』を完成させた後ですが、ヴィオラ1本加わるだけで、カルテットとこんなに違う、重厚で充実した響きになるのか、と感じ入ります。全ての楽器が主役と脇役を交代し、対等にテーマを追求していく様は素晴らしく、圧倒されます。

第2楽章 メヌエット:アレグレット

地味で抑制の効いたメヌエットですが、チェロの重厚な音の活躍が強烈な印象を与えます。トリオでは、後半に親しみやすい、民謡風のテーマが出てきます。自筆譜に従いメヌエットを第3楽章に置いている演奏もありますが、初版ではメヌエットが、ト短調と同じく第2楽章になっています。自筆譜の方が改変された可能性が高いのです。

第3楽章 アンダンテ

モーツァルトは作曲するとき、既に頭の中で完成させていて、ただそれを楽譜に書き起こすだけ、と言われていますが、それは都市伝説?のようで、この曲の自筆譜には訂正箇所が多くあるそうです。また、このアンダンテは最初10小節ほど書いて破棄し、書き直したとのことです。モーツァルトには珍しく苦吟したようですが、それだけに味わい深い曲になっています。第1ヴァイオリンと第1ヴィオラのコンチェルタンテな掛け合いは、まさに大人の音楽です。これを聴く人は、まるで室内でコンチェルトを聴くような思いがすることでしょう。奥深い味わいのワインを傾けながら聴きたい音楽です。

第4楽章 アレグロ

楽しい音楽を山ほど書いたモーツァルトですが、これほどウキウキするテーマはまさに白眉です。シンプルに見えて、ポリフォニックな処理も多用されている労作で、重厚な第1楽章とのバランスがよく考慮されているのです。次から次へとロンド風に展開していくテーマに目くるめく思いがします。ト短調の曲との、まさに光と影、明と暗の対照は、絶妙、というほかありません。

 

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モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。アマデウスの光と影(1)モーツァルト『弦楽五重奏曲 第4番 ト短調』

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アマデウスの光と影

モーツァルトの〝3大シンフォニー〟を聴いてきましたが、特に最後の第40番ト短調と、第41番ハ長調〝ジュピター〟は、その明暗の対比の強烈さに圧倒されます。

全く違う性格の曲に見えて、その構成は密接に関連づけされている、というのも驚かされます。

特に、モーツァルトにとって宿命的な調性といわれるト短調の曲は、明るい曲とセットで作られることが多いのです。

モーツァルトト短調の曲は、いずれも特別な情念が込められているかのようで、古来人の心を奪ってきましたが、モーツァルト自身、あえて明るい曲を作って気持ちのバランスを取っているのでは、といわれてきました。

エンターテイナー、モーツァルトのことですから、自分の精神的な理由ではなく、聴く人のことを考えてのことかとは、私は思いますが。

これから、そのようなセットの曲を聴いていきたいと思います。

モーツァルトヴィオラがお好き

最初は、弦楽五重奏曲(クインテット)です。

弦楽四重奏(カルテット)に、ひとつ楽器を加えて増強した曲ですが、チェロを加える場合と、ヴィオラを加える場合があります。

モーツァルトの場合は、全部で6曲ありますが、すべてヴィオラ2本の編成を取っています。

モーツァルトヴィオラが好き、と言われるゆえんですが、内声部の充実と、ヴァイオリンとヴィオラのコンチェルト的な協奏効果も狙っています。

ヴァイオリンとヴィオラのためのシンフォニア・コンチェルタンテ(協奏交響曲)がその見本です。このブログを始めた頃に取り上げたので、なんとも懐かしいです。

www.classic-suganne.com

モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。

最初に聴くのは、弦楽五重奏曲第4番 ト短調 K.516 です。

このところ毎回小林秀雄の『モオツァルト』を引用していますが、この曲はその評論の核心として取り上げられています。超有名なくだりです。

スタンダアルは、モオツァルトの音楽の根柢は tristesse (かなしさ)というものだ、と言った。定義としてはうまくないが、無論定義ではない。正直な耳にはよくわかる感じである。浪漫派音楽が tristesse を濫用して以来、スタンダアルの言葉は忘れられた。 tristesse を味わう為に涙を流す必要がある人々には、モオツァルトの tristesse は縁がない様である。それは、凡そ次のような音を立てる、アレグロで。《弦楽五重奏曲第4番 ト短調第1楽章冒頭の譜例》

ゲオンがこれを tristesse allante と呼んでいるのを、読んだ時、僕は自分の感じを一と言で言われた様に思い驚いた。確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、「万葉」の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉の様にかなしい。こんなアレグロを書いた音楽家は、モオツァルトの後にも先きにもない。まるで歌声の様に、低音部のない彼の短い生涯を駆け抜ける。彼はあせってもいないし急いでもいない。彼の足取りは正確で健康である。彼は手ぶらで、裸で、余計な重荷を引き摺っていないだけだ。彼は悲しんではいない。ただ孤独なだけだ。孤独は、至極当たり前な、ありのままの命であり、でっち上げた孤独に伴う嘲笑や皮肉の影さえない。

この曲の冒頭は、何ともいえない暗さを持っていますが、それは〝悲しい〟でも〝哀しい〟でもなく、万葉歌人が古代日本語で表現した〝かなし〟がぴったりくる、というのです。

確かに、この暗さは絶望の中で立ち尽くし、涙に暮れる、という悲しさではなく、推進力を持った感情であり、疾走するかなしみ、涙は追いつけない、という表現はさすがです。

小林はそのかなしさを「孤独」としていますが、孤独=悲しさ、ではなく、孤独は当たり前の状態である、と説いています。

確かに、人間死ぬときは誰がついてきてくれるわけではなく、どんな人気者でも独りで逝かねばならないのですから、それはその通りです。

その孤独を表わすと、このような音楽になる、ということでしょうか。

ただ私個人としては、この素晴らしい文章を読んで、その孤独のかなしさを感じるのは、以前取り上げたピアノ・コンチェルト第27番の第2楽章の方です。

この曲には、逆に、モーツァルトの悩み、苦しみがそのまま表現されているように感じられてならないのです。

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モーツァルト弦楽五重奏曲第4番 ト短調 K.516 

W.A.Mozart : String Quintet no.4 in G minor, K.516

演奏:ストラディヴァリ弦楽四重奏団&カリーネ・レティエク(ヴィオラ

Quartet Stradivari & Karine Lethiec

第1楽章 アレグロ

小林秀雄は『あせってもいないし、急いでもいない』と表現していますが、普通に聴くと、まず受け取るのは焦燥感です。何かを訴えるかのような不安な曲調は、なかなかモーツァルトの他の曲では類例がみられません。かなりストレートな表現は直接的に心を打ちます。何かに苦しんでもがいているかのようにも聞こえてきます。

第2楽章 メヌエット:アレグレット

悲劇的なメヌエットです。鋭いフォルテが胸をえぐります。トリオで薄日が差しますが、いっときの慰めでしかありません。

第3楽章 アダージョ・マ・ノン・トロッポ

弱音器つきで奏でられる、まるで宗教曲のように厳粛なアダージョです。第2主題はさらに悲痛な響きになりますが、ふと、変ロ長調の明るい音型が、絶望の中から救い出してくれます。この瞬間はぜひ味わっていただきたいと思います。

第4楽章 アダージョーアレグロ

暗澹とした序奏で始まり、真っ暗な気分になりますが、序奏が終わり、主部に移ると、その明るさに驚かされます。楽しいのですが、その能天気さに、これまでの暗さは何だったの!?とあきれるばかりです。ずっと落ち込んでいたモーツァルトをどう慰めようか、どう声をかけようか、と悩んでいたら、勝手に気分を直して元気に騒ぎ始めたかのようです。この陽転は賛否両論ですが、こうでもしなければ当時としては誰も弾いてくれなかったかもしれません。こうした意表をつく曲作りも、モーツァルトならではの魅力と思います。

 

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まさに〝神〟の曲。モーツァルト『交響曲 第41番 ハ長調〝ジュピター〟』

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アングル『ユピテルテティス

〝ジュピター〟との出会い体験

モーツァルトの〝3大シンフォニー〟の3曲目は、モーツァルトの最後のシンフォニーでもある、第41番ハ長調〝ジュピター〟です。

この曲は、第40番ト短調と並んで、モーツァルトの、いや、古今西欧クラシック音楽の最高傑作といっていいでしょう。

私にとってはト短調よりも思い入れの深い曲です。

特に最終楽章は、単純極まりない「ド・レ・ファ・ミ」といういわゆる〝ジュピター音型〟を使って、バッハが完成させた西欧音楽の伝統の精華というべきポリフォニー(多声音楽)のフーガと、新時代の音楽である古典派のホモフォニー(主旋律にハーモニーを加えた音楽)のソナタ形式を見事に融合させ、聴く人を興奮の渦に巻き込み、遥か時空の彼方にいざなっていく偉大な音楽です。

憧れのオケがなんと地元に

私がこの曲を初めてコンサートで聴いたのは、高校を卒業した春、1988年、地元のホール『パルテノン多摩』ででした。

演奏は、当時、初めて古楽器によるモーツァルトのシンフォニーの全曲録音を行って、クラシック界に一大センセーションを巻き起こした、クリストファー・ホグウッド率いるアカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックでした。

彼の全集は、当時の奏法を研究してモーツァルトの時代の響きを極力再現したばかりか、これまでシンフォニーに数えられていなかったセレナードやオペラの序曲などを改作したものや、新発見の曲まで網羅したものも加え、シンフォニーの概念にも古くて新しい風を吹き込んだものです。

それはちょうど、古い名画に、長い年月についた汚れや、塗られた粗悪なニスなどを洗浄する技術が完成した頃と重なり、ルネサンスなどの名画に完成当時の輝きを取り戻す作業と同じ偉業でした。

ボッティチェリの『プリマヴェーラ(春)』は、びっくりするほどの鮮やかさを取り戻し、そこに描き込まれた草花の特定までできるようになり、レンブラントの『夜警』は、洗ってみたら、実は『昼景』!?という発見もありました。

音楽学者でもあるホグウッドの演奏は、まさに、目からウロコの落ちるような説得力のある演奏だったのです。

CD全集は6万円近くするので、とても手が出せるものではなく、CD1枚ずつの切り売りを、少しずつ買って聴いていました。今ではApple Musicなどのデータ配信サービスで聴き放題なのですから、本当にいい時代になったものです。

そんなホグウッドが、何と我が町にやってくるというではないですか!

何日も前から眠れぬほどドキドキし、夢のような心地で聴きに行きました。

プログラムも、ハイドンのシンフォニー第90番に始まり、モーツァルトのヴァイオリン・コンチェルト第5番〝トルコ風〟、そしてこの〝ジュピター〟という豪華なものだったのです。

文字通り、夢のような時間があっという間に過ぎました。

ちなみに最初のハイドンの曲は、フィナーレがいったん終わるとみせかけ、まだ続くという仕掛けがある曲なのですが、やはりみんな初めて聴く曲だったでしょうから、ひっかかり、拍手をしてしまいました。

恥ずかしい思いをしましたが、あとで、まさにそれを狙ったハイドンのいたずらであることを知り、少しホッとしました。

さて、いよいよジュピターのフィナーレ。全ての楽器があちこちでジュピター音型を鳴らし、それがやがて火の玉のように一体化し、まるで宇宙の姿が目の前に現れたかのよう。

あるいは、きれいな花火がこっちからも、あっちからも上がり、目くるめく思いをしているうちに、最後に一斉に全天を光の洪水が埋め尽くす、花火大会の圧倒的なエンディングを観ているかのよう。

終演のあと、しばらく体の震えが止まらず、席から動けずにいましたが、近くにいた同年代の男子二人組も『俺、もうこれから何をしでかすか分からない…』と震えていたのを思い出します。

今も〝ジュピター〟を聴くたびに、あの感動が蘇ってきます。

〝ジュピター〟の名付け親

このシンフォニーに〝ジュピター〟という愛称をつけたのは、ハイドンをロンドンに招聘した、あのヨハン・ペーター・ザロモン(1745-1815)と言われています。

ジュピターは、ギリシア神話ゼウスローマ神話ではユピテルと呼ばれる、神々を統べる主神です。

ザロモンは、数あるシンフォニーの中でも最高のものとして、この名で呼んだのでしょう。

今の日本で〝ジュピター〟といえば、ホルスト組曲『惑星』のなかの『木星(ジュピター)』や、この曲をもとにした平原綾香の歌の方がポピュラーかもしれませんが。

ハイドンをあれほど評価したザロモンも、ハイドンのシンフォニーにはそのような名付けはひとつもしていないので、このシンフォニーを特別視していたのでしょう。

モーツァルトがもっと長生きしてれば、きっとロンドンでハイドンのような成功を収めたのは間違いありません。モーツァルトが誰からの依頼もなく3大シンフォニーを作曲したのは、特定の王侯貴族ではなく、市民、大衆のためと思われてならないのです。

そして、当時、この曲の真価を知っていたのは、間違いなくハイドンでしょう。

ハイドンは『ロンドン・セット』のうち、第98番の第2楽章にこの曲の第2楽章を、第95番のフィナーレにこの曲のフィナーレを投影させているといわれます。

モーツァルトハイドンの『パリ・セット』に感銘を受けて〝3大シンフォニー〟を作曲し、さらにハイドンは逆にそれらの曲からインスピレーションを受けたわけです。

英雄、英雄を知る。巨匠、巨匠を知る、ということでしょうか。

バッハとヘンデルハイドンモーツァルト。巨匠たちが互いに影響を受けながら傑作を生み出すさまは、さながら大自然の生態系の神秘を見るかのようです。

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小林秀雄の〝ジュピター〟評

小林秀雄も、当然ながらこの曲に言及しています。鑑賞のよすがに、また評論『モオツァルト』を引用します。

エトオヴェンは、好んで、対立する観念を現す二つの主題を選び、作品構成の上で、強烈な力感を表現したが、その点ではモオツァルトの力学は、遥かに自然であり、その故に隠れていると言えよう。一つの主題自身が、まさに破れんとする平衡の上に慄えている。例えば、四十一番シンフォニイのフィナアレは、モオツァルトのシンフォニイのなかで最も力学的な構成を持ったものとして有名であるが、この複雑な構成の秘密は、既に最初の主題の性質の裡にある。《譜例》第1ヴァイオリンのピアノで始まるこの甘美な同じ旋律が、やがて全楽章の嵐のなかで、どの様な厳しい表情をとるか。

主題が直接に予覚させる自らな音の発展の他、一切の音を無用な附加物と断じて誤らぬ事、しかも、主題の生まれたばかりの不安定な水々しい命が、和声の組織のなかで転調しつつ、その固有な時間、固有の持続を保存して行く事。これにはどれほどの意志の緊張を必要としたか。しかし、そう考える前に、そういう僕等の考え方について反省してみる方がよくはないか。言いたいことしか言わぬ為に、意志の緊張を必要とするとは、どういう事なのか。僕等が落ち込んだ奇妙な地獄ではあるまいか。要するに何が本当に言いたい事なのか僕等にはもうよく判らなくなって来ているのではあるまいか。

むしろ小林が何を言いたいのかが難しいですが、確かにベートーヴェンの音楽は、人間が考えに考え、努力に努力を重ねて作り上げた作品という印象を受けます。

しかしモーツァルトのものは、そんな苦労のあとを感じさせず、大自然が偶然創り上げた絶景を眺めるような気がします。

仏像の名工が、さながら木の中に元々おわす仏を掘り出すかに作品を創るように。

しかしそこには考え抜かれた人間の〝意志の緊張〟なくしてはあり得ない〝力学的構成〟が見受けられるために、小林は混乱しているのでしょう。

これこそ天才の天才たるゆえんというものかと思います。

モーツァルト交響曲 第41番 ハ長調 K.551  

W.A.Mozart : Symphony no.41 in C maior, K.551

演奏:ルネ・ヤーコプス(指揮)フライブルクバロックオーケストラ

Freiburger Barockorchester & Rene Jacobs

第1楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ

編成にはクラリネットは入っておらず、トランペットとティンパニが加わります。序奏はなく、主和音の堂々たる3回打ちで始まります。私には、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』のフィナーレで、石像がドアをノックする音に似ているように聞こえます。しかし、続く足取りは亡霊のものではなく、神の勝利の行進のようです。まさに神々の戦いに勝った大神ユピテルのイメージです。武骨なフォルテと、繊細なピアノの対比がこの曲の真骨頂です。モーツァルトらしいロココ調の優雅な貴族趣味はここにはなく、近代的な様相を感じます。大学時代、クラシックは好きでもモーツァルトは聴かなかった友人に聴かせたら、『これは本当にモーツァルトか?まるで初期のベートーヴェンのようだ。』と言っていました。真似をしたのはベートーヴェンの方なのですが。私は大晦日にこの曲を聴きたくなります。第九もそうですが、過ぎし1年に思いを馳せ、新たなる年を迎える気持ちを作るのに最適な音楽なのです。

第2楽章 アンダンテ・カンタービレ

わざわざカンタービレ(歌うように)と指示されているように、どこまでもしっとりとした歌です。さりげない調子で始まりますが、弱音器をつけた弦と管楽器がからみあい、せつない音楽を紡ぎます。この曲を天上的、と評する人も多いですが、私には憂愁に満ちた、人の心の中にある、漠然とした不安や愁いというものを感じます。テーマには実はフィナーレのジュピター音型が埋め込まれており、そこが手の込んだ力学的構成のひとつになっています。これは神の歌ではなく、弱き人間の歌に思えてなりません。

第3楽章 メヌエット:アレグレット

惑星の運行を示すかのような壮大なメヌエットです。この楽章でも、メヌエットにも、トリオにもジュピター音型は隠されています。とくにトリオの後半でははっきりとしていて、フィナーレの爆発を予告しているのです。

第4楽章 フィナーレ:モルト・アレグロ

いよいよ、フガートによる宇宙的な最終楽章です。「ド・レ・ファ・ミ」が第1ヴァイオリンによってはっきりと示され、3つのテーマが次々に組み合わさり、驚くべきポリフォニーを展開します。上昇音型は壮大かつ雄渾で、高い山から雄大な景色を見渡すように、聴く人に元気と勇気を与えてくれます。全ての楽器が主役となり、それぞれ対等に与えられた役割を果たしていくさまは、オーケストラの一人ひとりが心をひとつにしているのが伝わってきて、涙が出ます。スポーツで、チームが一丸となってついに勝利の栄冠を勝ち取った瞬間を見るかのようです。そして展開部。短調のフーガが張り詰めた緊張の時間を作ります。まるで人生の厳しさを示すかのように。そして、展開部のあと、異例の長いコーダに突入。トランペットが高らかに吹きならすジュピター音型。苦悩のあとの勝利。全ての楽器が歌う、生命のいぶき。なんという、なんという輝かしさでしょう。

8歳作の最初のシンフォニーにも 

このジュピター音型は、特にモーツァルトのオリジナルというわけではなく、よく好まれたものでした。しかし、モーツァルトがもっとも効果的に使ったということです。

モーツァルト最初のシンフォニー、つまり第1番はなんと8歳のときの作ですが、この曲にジュピター音型が出てくるのです。

この第1番は、今に残されているもので一番古いもので、本当に最初に作曲したものは別にある可能性もありますが、最初のシンフォニーと最後のシンフォニーに同じ音型が使われているのは、偶然とはいえ、神秘的な事実です。

このシンフォニーは、モーツァルトが神童として父レオポルトに連れられてヨーロッパ演奏旅行(いわゆる「西方への大旅行」)をした際、1764年ロンドンで作曲されました。

ロンドンはこの頃からシンフォニーがもてはやされており、大バッハの末子ハン・クリスティアン・バッハが活躍していて、幼いモーツァルトにも手ほどきをしてくれました。

この曲にも、クリスティアン・バッハの影響が大きいといわれています。

こちらは、あのホグウッドのモーツァルト・シンフォニー全集の演奏でお聴きいただきましょう。

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モーツァルト交響曲 第1番 変ホ長調 K.16  

W.A.Mozart : Symphony no.1 in E flat maior, K.16

クリストファー・ホグウッド指揮アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック

Christopher Hogwood & Academy of Ancient Music

第1楽章 モルト・アレグロ

元気なファンファーレで始まり、抒情的に受け継ぎ、はつらつと走り回るさまは、まさに無邪気な子供のようですが、子供が作ったとはとても思えない音楽です。

第2楽章 アンダンテ

さらに子供離れしているのがこの楽章です。3連音の悲しい悲劇的な音楽。ここのホルンが、ジュピター音型を奏でるのです。展開部の第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンの掛け合いなどは〝大人の音楽〟であり、8歳の少年の作とはとても信じられません。

第3楽章 プレスト 

3拍子の元気な舞曲風のフィナーレです。構成は単純ですが、強弱のめりはりなどは、習作の匂いは全くせず、完成された奇跡の音楽です。

 

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