実家からも見捨てられ
1793年1月、夫ルイ16世が処刑されたことによって、元王妃マリー・アントワネットは、「未亡人カペー」となりました。
国王をギロチンに送った国民公会も、この時点では、彼女まで処刑しようとはしていませんでした。
むしろ、戦争中の敵、ハプスブルク家オーストリアの人質になるかも、くらいに考えていたのです。
しかし、彼女の甥、皇帝フランツ2世は、無情にも、叔母を助けるいかなる手立ても打とうとしませんでした。
わずかに、王家の復活に望みをかける貴族が、彼女とその息子「ルイ17世」を救い出そうと陰謀を巡らしましたが、失敗に終わったどころか、逆効果となりました。
王は処刑しましたが、後継者がまだいる重大さに、革命政府は気づいてしまったのです。
引き離された息子
公安委員会は、8歳の元王太子、ルイ・シャルルを、残酷にも母親から引き離す決定をしたのです。
使者が夜中にマリー・アントワネット一家のもとを訪れ、泣き叫ぶ元王妃から幼い息子を連れ去ったのは、彼女に計り知れない打撃を与えました。
ルイ・シャルルは同じタンプル塔の別の部屋に住まわされ、靴屋のシモンがその面倒見役となりました。
マリー・アントワネットに許されたのは、党の4階の小さな明り取りの窓から、中庭で遊ぶ息子の姿を垣間見ることだけでした。
しかし、息子の方はやんちゃな遊び盛り。
母親から離されてさぞ悲しんでいると思いきや、すっかり自由を楽しんでいました。
うるさく躾を言ってきた母親の元から離れ、愉快なシモンおじさんと、革命歌を歌ったり遊んだりする方が楽しかったのです。
「カルマニョール」や「サ・イラ」が、自分の母親を非難する歌詞とも知らずに。
ついに、国民公会は元王妃マリー・アントワネットを告発することに決定しました。
被告人となった彼女は、最後まで一緒に暮らしていた、娘のマリー・テレーズ、夫の妹エリザベトとも離され、1793年8月2日午前1時頃、牢獄コンシェルジュリーに移送。
シテ島に今も残るこの牢獄は、一度ぶち込まれたら最後、必ずといっていいほど死刑になり、生きて出ることはできないことは彼女も知っていました。
もう別れの悲しみに慣れ、覚悟もできている彼女は、毅然とした態度でタンプル塔を出て行きますが、梁に頭をぶつけてしまいました。
周囲があわてて心配しますが、彼女は冷静に、『もうわたしを痛い目にあわせるものなど、何もありません』と答えたということです。
あわてたのは、急に元王妃を迎えることになったコンシェルジュリーの管理人の妻、マダム・リシャールでした。
革命があったとはいえ、庶民にとって元王妃というのはまだ雲の上の人だったのです。
女中のロザリー・ラ・モリエールが獄中の元王妃に献身的な世話をしたのは有名な話です。
革命政府は、実はこの時点では、マリー・アントワネットの裁判を急いではいませんでした。
あくまでも、牢獄に移したのは、オーストリアをはじめとする敵勢力への示威だったのです。
しかし、それも台無しにする事件が起こりました。
世に言う「カーネーション事件」です。
かつて、プロヴァンス伯に仕えていたルージュヴィルという騎士が、彼女を救い出そうと、最後の陰謀を企てたのです。
彼は牢番を買収して彼女に面会し、胸に刺していたカーネーションを投げ入れ、番人に見つからないよう小声で、花をよく確かめるよう伝えました。
カーネーションには「王妃を助け出す意図と、逃亡費用を用意する」ことが書かれた密書が仕込まれていたのです。
彼女はペンもインクも取り上げられていましたが、小さな紙片に、編み物針で穴を突き刺して返事を書き、買収した番人に、また騎士が来たら渡すように頼みました。
しかし、番人は怖くなり、ついに上官に報告してしまいます。
事は露見し、当局は元王妃をもっと厳重な牢屋に移し、監視を強化します。
焦る革命政府
ヨーロッパ一の名家、ハプスブルク・オーストリア女帝の娘にして、フランス・ブルボン王家の王妃。
世界史上もこの上ない高貴だった女性の、恐るべき末路です。
あの、贅沢をして遊びまわった若い日々。
月に1回くる、母帝からのきつい叱責の手紙や、兄帝ヨーゼフ2世の忠告『お前が変わらなければ、革命は酷いものとなる』を、彼女は暗い牢獄の中で思い出したでしょうか。
一方、革命は危機に面していました。
戦争では、国境の要衝、マインツとヴァランシエンヌがオーストリア、プロイセン軍によって陥落。
重要な軍港は英国海軍に奪われました。
フランス第二の都市リヨンで暴動が起き、パリでは飢餓が深刻となりました。
革命政府は内憂外患に襲われ、いつ外部からか、内部からか、倒されるか分からない情勢です。
公安委員会は、政権を守るため、恐怖で反対派をねじ伏せました。
次々に疑わしい人物、いや、疑わしくなくてもそうなりかねないと目された人物がギロチンに送られます。
穏健派のジロンド派議員たち、ルイ16世の死刑に賛成までしたオルレアン公までが死刑となりました。
そしてついに、革命を守るため、元王妃にスポットライトが当てられたのです。
民衆の不満が政府に向かうのを防ぐため、スケープゴートにしたわけです。
元王妃の裁判、はじまる
革命裁判所の恐れられた検事、フーキエ・タンヴィルは、公安委員会の意向により、「未亡人カペー」の起訴に踏み切りました。
1793年10月6日、第1回目の審問が開かれます。
最初に取り上げられた罪状はなんと、「息子に自慰行為を教えた」という、信じられないものでした。
そして、8歳のルイ・シャルルが法廷に呼び出され、姉や叔母の前で、そのような証言をしたのです。
おそらく、行為を見つかり責められた少年が、「お母さんに教えてもらった」とその場逃れを言ったのでしょうが、悪意のある大人たちに唆されたのは間違いないでしょう。
実際、その行為を母や叔母に見つかり、叱られたのは事実のようです。
10月12日。
マリー・アントワネットはついに出廷します。
法廷はたくさんの傍聴人であふれていました。
彼女に対し、さらにたくさんの罪状で、多くの告発が行われます。
彼女はオーストリアの回し者で、フランス財政を故意に破綻させ、フランスを破滅に追いやった、夫の国王を言いなりにあやつった、革命後も敵国と通じ、フランスを裏切った、などなど。
しかし、マリー・アントワネットは弁護士もいない中、自分で毅然として反論し、言質を与えません。
ひとつひとつ、正確に論破していきます。
あの、本もろくに読まなかった女性が、なんという変貌でしょうか。
まさに、苦労が人間を成長させたのです。
そして次の日。
41人の証人が次々に現れ、彼女を告発しますが、ほとんど証拠もなく、世間で言われていた誹謗中傷や想像の産物を語るだけ。
さすがのいい加減な裁判でも、告発側は攻め手を欠いていました。
ついに、革命家の中で一番下劣なエベールが破れかぶれで、「彼女は息子と近親相姦を犯した」という、史上有名な告発を行います。
マリー・アントワネットは、答えるのも汚らわしい、とそっぽを向きます。
裁判長が、答えなさい、と言うと、彼女は、これまた有名な返答をします。
『わたしが答えませんでしたのは、母である身に向けられたそのような誹謗に対して何か応じるというのを、自然が拒むからです。ここにおいでの母であるすべての方々に、わたしはうかがってみたいと思います。』
この答えに、傍聴席を埋め尽くしていた女性たちが、どよめきます。
彼女たちは、元王妃が指摘したように、女性全体が侮辱された、と感じたのです。
これは、マリー・アントワネットの最後の勝利で、このような逆効果の質問をしたエベールに対し、革命の指導者ロベスピエールは激怒したといいます。
この日の公判は15時間に及びました。
すでに決まっていた判決
しかし、翌日もさらに公判は12時間も続きました。
彼女は長い牢獄暮らしですっかり体調を崩し、頭髪は真っ白になり、不正出血に苦しんでいました。
それでも、法廷では威厳を崩さず、最後まで毅然と答えたのです。
人間の限界を超えていると言わざるを得ません。
彼女は自分の命よりも、皇家、王家の誇りを保とうとしたのです。
公判は終わり、裁判長が、言い残したことがあるか?と尋ねます。
彼女は答えました。
『昨日はわたくしは証人の方たちを知りませんでしたし、わたくしに対してどのような供述をされるのかも知りませんでした。ところが彼らのうちただのひとりとして、わたくしに不利な事実を挙げることのできた人はいませんでした。わたくしは単にルイ16世の妻でしかなく、それゆえ王の決めたことにはすべて従わざるをえなかった、ということ以外、申し上げることはございません。』
被告はいったん退室させられ、裁判長は陪審員に、次の一項だけ判断を求めました。
さすがに、荒唐無稽な、下劣な週刊誌のような告発では有罪にはできない、と考えたのです。
すなわち、外国政府と通じ、陰謀や密約をめぐらし、フランスを危険にさらしたか、という、フランスに対する反逆罪か、という一点です。
これは、後世明るみに出た史料からは、事実と言わざるを得ません。
でもこの時点では、その証拠となるものは何もありませんでした。
しかし、陪審員たちは、心証で判決を決めることができ、結果はすでに決まっていました。
朝4時、判決が言い渡されます。
陪審員たちは、未亡人カペーは有罪、と評決します。
検事フーキエ・タンヴィルが死刑を求刑し、全員一致で賛成。
マリー・アントワネットは身じろぎもせず判決を聞きます。
彼女にも結果はずっと前から分かっていたからです。
義妹に宛てた、最後の手紙
明け方、元王妃は牢獄に戻されました。
彼女は、看守に紙とインクを求め、それは許されました。
そして、夫の妹、エリザベトに対し、最後の手紙をしたためます。
あなたへ、妹よ、わたしの最後の手紙を書きましょう。たった今判決を受けたところです。不名誉な死ではありません、そんなものは犯罪者が受けることで、わたしにはあなたの兄上と再会するようにとの判決でした。あの方と同じように罪なき身のわたしは、やはりあの方と同じように最後の瞬間を迎えたいと思っております。良心の咎めを受けない人間がそうであるように、わたしも平静です。深く心残りなのは、子どもたちを置いてゆくことです。ご存じのように、わたしは子どもたちのために、そしてあなたのために生きてきたのです。善良でやさしい妹よ、あなたは友情からすべてを犠牲にして、わたしたちのところに留まってくださいました。そんなあなたを、こんな境遇に置き去りにしてゆかなければならないとは!今回の訴訟弁論で、娘があなたから引き離されたと聞きました。ああ、なんて可哀そうな子!あの子にはあえて手紙を書かないつもりです。きっと届かないでしょうから。この手紙にしても、あなたの手に渡るものやら、全く分かりませんが、ふたりの子どもたちに代わって、わたしの祝福をお受け取りください。
手紙は長く続きます。
そして、最後のことば。
さようなら、善良でやさしい妹!この手紙があなたに届きますよう!わたしを忘れないでください!あなたと、そして可哀そうな子どもたちを、心をこめて抱きしめます!神よ、子どもたちを永遠に見捨てるのは、何と胸が張り裂けることか!さようなら、さようなら!あとはもう宗教上の義務を終えるばかりです。どんな決心をしようとわたしに自由はないのですから、ひょっとしたら司祭が差し向けられてくるかもしれません。でもここではっきり申し上げますが、わたしはその人には一言も口をきかず、全く赤の他人のようにふるまうつもりです。*1
ここで手紙は突然終わり、署名もありません。
おそらく疲労が限界に達したのでしょう。
それにしても、死を前にした人間が、こんなにしっかりした言葉を記せるとは、驚くばかりです。
この手紙はエリザベトに届くことはありませんでした。
革命の指導者ロベスピエールが失脚したあと、書類の管理をまかされた小役人が見つけ、盗んで手元に置いておいたのです。
そして20年後、王政が復古し、かつてのプロヴァンンス伯がルイ18世として即位すると、彼は手柄にしようとこの手紙を献上しました。
しかし、そのとき、エリザベトはとっくに処刑され、息子のルイ・シャルルはタンプル塔で亡くなったとされているものの、遺体は行方不明で、怪しげな生存説があるだけでした。
娘のマリー・テレーズだけは革命を生き抜き、シャルル10世の長男であるルイ・アントワーヌ王太子の妃となり、7月革命でフランスは追われましたが、72歳の天寿を全うしました。
でも、この手紙を見たという記録はないのです。
最後のとき
朝7時。
ロザリーが、ベッドに横になっていた元王妃に、スープを勧めます。
彼女は断りますが、昨日から何も召し上がっていないではないですか、と強く勧められると、二口、三口、口に運びました。
そして、看守の目から身を隠すため、窮屈なベッドの陰で喪服から白い服に着替えます。
10時に、死刑執行人サンソンがやってきて、彼女の両手を後ろで縛り、髪を切ります。
それでも元王妃は威厳を崩さなかったということです。
11時に、粗末な荷馬車に乗せられ、コンシェルジュリーを出発。
沿道の人々は時々、罵声を浴びせることもありましたが、それにも動じることはありませんでした。
のちに「ナポレオンの戴冠式」を描く画家ダヴィッドが、その様子をスケッチしていますが、まさに毅然としています。
夫が先に逝った革命広場につくと、1万人もの群衆が集まっていました。
荷馬車が止まると、彼女は誰の助けも借りず、自分で断頭台の階段を登ってゆきます。
その途中、うっかりサンソンの足を踏んでしまい、『ごめんあそばせ。わざとではありませんのよ』と言ったのが最後の言葉と伝えられています。
12時15分、ハプスブルク皇女にしてフランス王妃、マリー・アントワネットはこの世に別れを告げました。
彼女とともに、王家と貴族の華麗な世紀は終わったのです。
このブログでの、マリー・アントワネットの物語はこれで終わりとなります。
彼女の波乱の人生、そして輝いていた頃を偲んで、前回に続き、王妃のクラヴサン教師を務めた、クロード=ベニーニュ・バルバトルのクラブサン組曲、後半を聴きましょう。
Claude-Bénigne Balbastre:Pieces de Clavecin Premier Livre
演奏:クリストフ・ルセ(クラヴサン)【2017年録音】
第9曲 ラ・ラマルク
La Lamarck. Ouverture 序曲:活気をもって、各小節の一つ目の音をはっきりと
変ホ長調 3/4拍子
「序曲」と題され、この曲から曲集は後半に入ります。バッハの「ゴールトベルク変奏曲」も同じように後半のはじまりにフランス風序曲が置かれています。しかし、この序曲はフランス風序曲ではなく、イタリア風で軽快に作られています。ラマルク伯爵の2番目の妻、マリー=アンヌ・フランセーズ・ド・ノアイユに献呈されました。彼女はマリー・アントワネットから嫌われた女官長、〝マダム・エチケット〟ノアイユ伯爵夫人の嫁ぎ先、名家ノアイユ家の出身の高名な鍵盤奏者で、マリー・アントワネットの輿入れをフランス側で進めた外務大臣、ショワズール公爵や、啓蒙思想家ヴォルテールとも親しい人物でした。
第10曲 ラ・ベルヴィル
La Berville. Gavotte ガヴォット:優雅に~第2ガヴォット:より速く ト短調 2/4拍子
ベルヴィル侯爵令嬢、エレオノール=ルイーズに捧げられた曲です。強音と弱音が呼び交わすさまは、深い森の中にいるような心地になります。第2ガヴォットも繊細な小鳥のさえずりのようで、優雅の極致です。
第11曲 ラ・リュジャック
La Lugeac, Giga ジーガ:軽快に ヘ長調 6/8拍子
リュジャック侯爵夫人ジャンヌ・シャルロット・ド・バシに捧げられた曲。夫の侯爵は1761年から王宮の近衛連隊の司令官となった人物です。指示のとおり軽快なジーグですが、低音が活躍し、どこか重々しさも感じさせるのは、献呈先が大物だったからでしょうか。
動画は、アダム・パールの演奏です。
www.youtube.com
第12曲 ラ・シュザンヌ
La Suzanne:高貴に、生き生きと~優雅に イ短調 3/4拍子
全曲中最も有名な、素晴らしい曲です。名前から女性を想像しますが、献呈者は男性で、サン=リュック・アカデミー教授で彫刻家のクロード・ルイ・シュザンヌです。
冒頭の悲鳴のような、悲劇的な音型は現代的なくらいに斬新です。やがて、早いパッセージが次々と繰り出され、疾走してゆくさまは、息を呑むほど見事というほかありません。中間部は懐かしい思い出のように美しく、叙情に富んでいます。波乱に富んだマリー・アントワネットの生涯を思わせます。そして、ロンド形式の音楽は再び波乱へと戻ってゆくのです。
次の演奏は、私が若い頃繰り返し聴いた、トレヴァー・ピノックによるもので、また違った味わいがあります。
私のブログ名スガンヌは、お気に入りのこの曲、シュザンヌをもじったものです。
動画は冒頭だけのアクションです。
www.youtube.com
第13曲 ラ・ジャンティ
La Genty. Badine バディネリ:陽気に イ長調 6/8拍子
この曲は献呈者は不明なのですが、未亡人、もしくは家族を亡くした女性に贈られたとされています。ロンド形式で、イタリアのアリエッタ風に作られ、バフ・ストップで音色を変え、上下鍵盤でユニゾンを演奏するという、バルバトルの得意技がみられます。
第14曲 ラ・マルゼルブ
La Malesherbe. Ariette Gracieuse 優雅なアリエッタ~陽気なエール~第2エール イ長調 2/4拍子
裁判所長と司書官を務めたクレティアン=ギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・マルゼルブに献呈されました。彼は、秩序を保つ司法官でありながら、ディドロとダランベールの百科全書出版も支持した啓蒙思想の持主でもありました。3部構成の大規模は作品になっており、最初のアリエッタはバフ・ストップの柔らかな音色を使い、中間のエールはフルストップで元気に。最後の第2エールは低音がミュゼットを表わし、村祭りでの農民の踊りをイメージさせます。
第15曲 ラ・ベリエ あるいは ラ・ラモワニョン
La Berryer ou la Lamoignon. Rondeau ロンドー:優雅に~第2ロンドー イ長調 2/2拍子
前曲のマルゼルブ氏の親戚だと思われる、クレティアン=フランソワ・ド・ラモワニョンの夫人、マリー=エリザベス・ベリエの3人の娘はいずれもバルバトルの弟子でしたが、そのうちの誰かに献呈されたと思われます。ロンド形式のガヴォットで、繊細な響きが魅力です。
La Laporte アレグロ:生き生きと イ長調 2/4拍子
サン・ジェルマン・デ・プレ修道院の鍵盤奏者であったクロード=ニコラ・ド・ラポルトに献呈された曲です。彼には音楽の理論書や伴奏法の著作があります。アレグロ、となっているように、イタリア様式の明るく陽気なスタイルの音楽です。
第17曲 ラ・モリソー
La Morisseau 高貴に イ長調 4/4拍子
献呈者は不明の曲です。Noblement(高貴に)という指示のように、気高く、貴族的な曲で、優美で明るい曲調の中に、不思議な静かさと落ち着きがあります。
古き良き、貴族文化の終焉に思いを馳せながら聴くと、万感胸に迫ります。
【お知らせ】
いつも当ブログをお読みいただき、ありがとうございます!大変申し訳ありませんが、これからしばらく立て込む事情がありまして、更新をお休みさせていただきます。
再開は、マリー・アントワネット没後の〝英雄の時代〟を音楽とともに綴っていきたいと考えています。ひきつづきよろしくお願いいたします。
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