三途の川を渡った吟遊詩人
今回は、グルックのオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』第2幕の前半です。
愛妻エウリディケを失い、絶望のどん底にいたオルフェウス。
最高の妻を与えておきながら、幸せの絶頂で奪った神の非情を恨みます。
そこに、愛の神アモールが降臨し、『冥界に下って、自分の得意とする歌で地獄を和らげれば、あるいは妻を取り戻せるかもしれない。しかし、彼女に会えたとしても、地上に戻るまでその顔を見てはならない。』と託宣します。
オルフェウスは、地獄の恐ろしさと、誓いを守れるだろうか、という不安に震えつつも、妻を取り戻せるならどんなことにも耐えてみせよう、と地獄に下っていくところで第1幕が終わります。
第2幕は、地獄の場面。
ギリシャ神話では、日本で言うところの「三途の川」が5つあり、人間界と冥界を隔てています。
その川は、ステュクス、プレゲトーン、レーテー、アケローン、そしてコキュートスです。
このオペラでは、オルフェウスはすでにコキュートスを渡ったところから始まりますが、本来はここに大きな関門があります。
ステュクスやアケローンには、渡し守の老人カロンがいて、生者を追い返します。
死者は渡し賃1オボロス貨を払えば渡してもらえますが、持っていないと200年あたりを彷徨うことになります。
そのため、古代ギリシャでは1オボロス貨幣を死者の口に含ませて弔う習慣がありました。
かつての日本でも、三途の川の渡し賃として6文銭を棺に入れる風習があったのと似ています。
モンテヴェルディのオペラ『オルフェオ』では、まずカロンが船に乗せるのを拒みますが、オルフェウスの奏でる心地よい音楽に寝てしまい、彼は川を渡ることができました。
でもこの作品ではそこは端折られています。
地獄の入口には、『ここに入る者は全ての希望を捨てよ』という有名な言葉が刻まれ、3つの頭を持った猛犬、ケルベロスが番犬として守っています。
生者や、冥界から逃げ出そうとする者は喰われてしまいますが、意外と甘いお菓子で懐柔されます。
また普段は3つの頭のうち交替で1つが眠り、24時間体制で番をしているのですが、ギリシャ神話ではオルフェウスの竪琴で、3つとも眠らされてしまいます。
しょせん犬、という微笑ましさがあるのですが、そのエピソードもここでは省略され、復讐の女神たち、地獄の魑魅魍魎が現れ、オルフェウスを威嚇します。
それでは、聴いていきましょう。
Christoph Willibald Gluck:Orfeo ed Euridice, Wq.30, Oct 2
演奏:ルネ・ヤーコプス(指揮)フライブルク・バロック・オーケストラ、RIAS室内合唱団、ベルナルダ・フィンク(オルフェオ:カウンターテノール)、マリア・クリスティーナ・キール(アモール:ソプラノ)【2001年録音】
第2幕 第1場
〔コキュートスの流れのむこうの恐ろしい洞窟。炎に照らし出された黒い煙がこの恐ろしい場所全体をおおい、遠くの方は暗くなっている。〕
第10曲 バレエと合唱(マエストーソ)
復讐の女神、亡霊、悪魔たち
エレボス(暗黒の世界)の霧の中を、
ヘラクレスやペイリトオスの足跡をたどって、
近づいてくるのは誰だ?
絶望的な厳しいファンファーレが、地獄の門の威容を表現します。オルフェオは竪琴を掻き鳴らしながら、自分を励ましつつ、歩みを進めます。
すると、復讐の女神、亡霊、悪魔たちが現れ、誰だ!?と誰何しながら行く手を阻みます。ここで名前が挙げられているヘラクレス、ペイリトオスはかつて地獄に下りた英雄たちです。
ヘラクレスは、12功業のひとつとして、地獄の番犬ケルベロスを連れてくる、という課題を兄王に与えられ、怪力でねじ伏せ、冥界の王ハデス(プルート)に「傷つけたり殺したりしない」という条件つきで貸し与えられました。
ペイリトオスは、自分の妻を亡くしたとき、誰と再婚すべきか神託を求めたところ、ゼウスに『わが娘の中で一番高貴なペルセフォネをなぜ妻にしないのか』と、お告げをもらいます。
これはゼウスの懲らしめだったのですが、それを真に受けたペイリトオスは、不遜にもハデスの妃になっているペルセフォネを略奪してやろう、ということで、地獄に下り、ハデスの罰を受けて、永遠に「忘却の椅子」に座らされることになりました。
ラモーのオペラ『イポリートとアリシー』では、テセウスは親友ペイリトオスを助けに行くために、大胆にも地獄に下りていき、ハデスに罰せられそうになりますが、父ポセイドンの力で、何とか解放されます。
このような生きている人間の「冥界下り」の話は、神話にはいくつか出てきますが、オルフェウスのものは一番有名かもしれません。
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第11曲 バレエ(プレスト)と合唱
復讐の女神、亡霊、悪魔たち
エレボス(暗黒の世界)の霧の中を、
ヘラクレスやペイリトオスの足跡をたどって、
近づいてくるのは誰だ?
もしそれが神でないなら、
荒々しいエウメニデス(復讐の女神たち)が、
恐怖でその行く手を妨げ、
ケルベロス(冥府の門の番犬)の遠吠えが脅かせるだろう
復讐の女神、亡霊、悪魔たちがバレエで大胆な侵入者を威嚇します。グルックの音楽は大迫力で、地獄の禍々しさを効果的に表現します。地獄で最も恐れられたのは復讐の女神、エリーニュスたちで、アレークトー(止まない者)、ティーシポネー(殺戮の復讐者)、メガイラ(嫉妬する者)の三女神とされています。普段はエレボスに住んでいますが、時に地上にも出てきて、親殺しや偽誓の罪を犯した者に、しつこく付きまとい、苦しめます。頭髪は蛇、頭は犬、身体は炭のように黒く、コウモリの翼を持ち、血走った目をした老女の姿をしていて、手には青銅の鋲のついた鞭を持ち、これで打たれた者はもがき苦しんだ末に死にます。エリーニュスはあまりにも恐ろしいため、本名で呼ぶのをはばかり、エウメニデス(慈しみの女神たち)と呼ぶ習慣がありました。
第12曲 バレエ(マエストーソ)、オルフェオと合唱
オルフェオ
お願いだ、
あわれんでくれ、
復讐の女神たち、悪魔たち、怒り狂う亡霊たち!
復讐の女神、亡霊、悪魔たち
だめだ、だめだ、だめだ!
再び、第1幕冒頭の地獄の門のファンファーレが鳴り、オルフェオを激しく威嚇しますが、彼は勇気を奮って竪琴を掻き鳴らし、歌いはじめます。自分を憐れんでほしい、と切なく訴えますが、地獄の住人たちは、容赦なく、No!と拒みます。オルフェオの美しい歌に対し、妨げる地獄の声は、不協和音で、見事な対照となっています。グルックの天才が窺える場面です。
第13曲 合唱
復讐の女神、亡霊、悪魔たち
みじめな若者よ、
何を求め、何をするつもりなのか?
悲嘆と嘆きの声のほかには、
この恐ろしく忌まわしい場所には
何も住んでいないのだ
オルフェオの、地獄にはあまりに場違いな美しい歌に、地獄の住人たちは戸惑い始めます。当初の強い拒否感は和らぎ、自分たちはいったい何を聞いているのか?といぶかります。
第14曲 アリア
オルフェオ
悲しみに沈む亡霊たちよ、
わたしもまた、
あなたたちと同様、
あまたの苦悩に耐えている
わたしにはわたしの地獄があり、
わたしはそれを心の奥に感じている
オルフェオはさらに、地獄の住人たちに、あなた方も苦しいのでしょう、と歌いかけます。わたしもあなた方と同じようにつらいのだ、と心に沁みる旋律で歌います。
第15曲 合唱、アリア
復讐の女神、亡霊、悪魔たち
ああ、経験したことのない、
何という甘く、
もの悲しい感情が襲い、
われらの抑えがたい怒りを、
和らげることか
オルフェオ
ああ、ほんの一時でも、
恋の悩みはどんなものか知ったなら、
私の涙、
私の嘆きに対して、
あなたたちはこれほどむごくはなれないだろう
復讐の女神、亡霊、悪魔たち
ああ、経験したことのない、
何という甘く、
もの悲しい感情が襲い、
われらの抑えがたい怒りを、
和らげることか
扉が黒いちょうつがいの上で、
きしむ音を立て、
この勝利者を、
安全かつ自由に、
通過せしめよ
荒ぶる地獄の住人たちは、初めて自分たちに対する思いやりの言葉を、この上なく甘い音楽で聴きました。優しさ、という、これまで存在しなかった感情が、地獄の闇に生まれ、地獄はついに心を開き、その恐ろしい門を開け、オルフェウスを深い底に導きます。
ギリシャ神話や、モンテヴェルディの作品では、このあと、オルフェウスの音楽を聴き、愛する妻への思慕に心を動かされた冥界の女王ペルセフォネが、夫のハデスに、オルフェウスにエウリディケを返してあげて、と頼みます。
ペルセフォネは、ゼウスと、その姉でオリュンポス十二神の一柱であり、豊穣と農耕の女神であるデメテルとの娘です。
ハデスに略奪されて地獄に連れ去られ、無理矢理妻とされますが、怒ったデメテルが、穀物に実りを与える仕事をボイコットしたため、人々が苦しみます。
ゼウスのとりなしによって、1年のうち3分の1は冥界で暮らし、残りは母の元に返されることになりました。
ペルセフォネが冥界に行っている間、デメテルは悲しみに沈み、そのため穀物や草木が枯れるのが冬、というわけです。
そんな事情の略奪婚ですので、ハデスはペルセフォネのご機嫌を取るのが大変です。
ペルセフォネも、ハデスの誠意と愛情にだんだんとほだされ、冥界の王妃としての務めも果たしていきますが、いつ帰る、と言い出されるか、ハデスは気が気ではないのです。
今回も、オルフェウスにエウリディケを返してあげて、という妻の願いを、ハデスは断り切れません。
ただ、一度死んだ人間をそう簡単に生き返らせたら、世の中の秩序が保てません。
そこで、『地上に戻るまで、妻の顔を見てはならない』という掟を課すのです。
ハデスは、オルフェウスが守れないような掟を作り、秩序を保つと同時に、妻ペルセフォネの願いを聞き届けた、というわけです。
グルックのオペラは、このくだりは省略され、次回、エウリディケは彼の元に返されるのです。
動画は、引き続きチェスキー・クルムロフ城バロック劇場での映画版(日本語字幕)です。演奏は、ヴァーツラフ・ルクス指揮のコレギウム1704、コレギウム・ヴォカーレ1704(合唱)、オルフェオ役はベジュン・メータ(カウンターテノール)です。
動画プレイヤーは下の▶️です☟
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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