フランス王と因縁の騎士団
〝元〟国王一家が幽閉された「タンプル塔」は、中世、十字軍に伴って結成された騎士修道会のひとつ、「テンプル騎士団」の城でした。
第1回十字軍が聖地エルサレムの占領に成功したあと、巡礼者を保護するためにフランスの騎士たちで結成。
本部が、かつてソロモンの神殿があったと伝わる「神殿の丘」におかれたため、「神殿騎士団」「聖堂騎士団」ということで、その名がつきました。
その後、聖地はイスラム教徒に奪回され、厳しい情勢が続きました。
テンプル騎士団は、聖地奪回のためには資金が必要、ということで、所領をどんどん広げていきます。
また、金融機関としての側面ももち、巡礼者が大金をもつのは危険なので、ヨーロッパで現在の通帳のようなものを発行し、中東についたら騎士団の役所で現金が引き出せる、というサービスを始めました。
最終的に十字軍は失敗に終わりますが、テンプル騎士団は大変裕福な金融機関となったのです。
これに目を付けたのが、13世紀の終わり、中央集権化を進めていたフランス王、フィリップ4世。
整った顔立ちから、「端麗王」「美男王」( le Bel、ル・ベル)などと呼ばれましたが、外見とは裏腹に陰険な王でした。
英国との戦争で破綻状態に陥った財政を、テンプル騎士団の財産を没収して埋め合わせようと画策したのです。
1307年10月13日、フィリップ4世は騎士団員全員を「異端」の罪で一斉逮捕。
その頃、王はローマ教皇をフランス領内のアヴィニョンに移し(教皇のバビロン捕囚)、フランス人を教皇にして傀儡にしていましたので、異端の判断を出させることは容易でした。
1314年3月に、最後の総長、ジャック・ド・モレーを火刑に処して、フィリップ4世はついにテンプル騎士団を壊滅させ、その莫大な財産を奪ったのです。
総長モレーは、処刑に臨んで、フィリップ4世と教皇クレメンス5世を呪ったと伝わりますが、ふたりとも同じ年内に相次いで急死したので、「ジャック・ド・モレーの呪い」として世間を震撼させました。
「タンプル塔」はテンプル騎士団のパリにおける本部だったところであり、そんな恐ろしい因縁のある場所なのです。
フランス王家がここに閉じ込められることになったのも、「呪い」のせいなのでしょうか。
幸せだった頃の思い出
しかし、宮殿も併設され、マリー・アントワネットの頃には王弟アルトワ伯(のちのシャルル10世)が管理しており、王妃も何度も遊びにいき、パーティーや舞踏会が開かれていました。
大広間(四面の間)の壁には、この場でこの館を所有していたコンティ公が開いた英国式茶会(アフタヌーンティ)を描いた、有名な絵「コンティ公のお茶会」が掛けられていました。
この絵には、1764年に〝神童〟としてパリを訪れた8歳のモーツァルトがクラヴサン(チェンバロ、ハープシコード)を巧みに弾いて、列席者を驚かせている場面が描かれています。
ちなみにコンティ公は、ブルゴーニュの素晴らしいワインが作れる畑を、ポンパドゥール夫人と競売で争い、競り落としました。
これが世界で一番高価なワイン「ロマネ・コンティ」です。
しかし、ルイ16世一家の住まいとなったのはその宮殿ではなく、テンプル騎士団が要塞として築いた塔の方でした。
重い切石で作られた難攻不落の城塞で、鉄の頑丈な扉、小さい窓、陰気な庭は、まさに中世暗黒時代を思わせる、幽霊でも出そうな建物です。
でもパリ市の当局は、元国王一家ができる限り快適に過ごせるよう、壁紙を貼ったり、家具調度を運び込んだりしました。
食いしん坊のルイ16世のために、食事も毎食たっぷり用意され、充実した書庫も備え付けられました。
元王子、元王女たちは、中庭であれば外遊びもできます。
しかし、誇り高い元王妃にとっては、屈辱的な処遇でした。
クラヴサンもあり、マリー・アントワネットは自分で弾いたり、子供に教えたりして慰めとしました。
譜面置きには、彼女が好んだため、「フランス王妃」と名付けられたハイドンの「シンフォニー第85番」の第2楽章の楽譜が置かれていましたが、元王妃はそれを指して、『この曲を弾くと、幸せだった頃を思い出すわ』と述懐していたということです。
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恐怖政治の始まり
意に添わぬ幽閉ではありますが、これは暴徒から一家を守る措置でもありました。
事実、革命はますます過激になってゆきます。
1792年9月、オーストリア軍がヴェルダン要塞を陥とすと、パリ市民はパニックになりました。
革命指導者のひとり、ダントンが、もっと大胆にならねばフランスは救われない、と演説をすると、それに触発された一部の民衆は暴徒化します。
人民の敵、と見做された人物は、簡単で一方的な裁判にかけられ、次々と処刑されてゆきます。
マリー・アントワネットの友人で、高報酬の「王妃家政機関総監」の任にあったランバル公夫人は、裁判所から出るや否や群衆に撲殺され、首が刎ねられ、遺体も切り裂かれました。
群衆は、誹謗中傷の塊タブレット誌で、夫人はマリー・アントワネットのレズビアンの相手だとされていたのを信じ、彼女に生首にキスをさせようと、首を槍先に刺してタンプル塔に押し寄せます。
しかし、頑丈で高い塔にいたお陰で、マリー・アントワネットはその凄惨な光景を見ずにすみました。
でも、衛兵に何の騒ぎか聞くなり、失神したということです。
ここから、「恐怖政治」が始まってゆきます。
「歌」で進んだ革命
革命を過激化させていったのは、手工業者、職人、小店主、賃金労働者などの無産市民たちでした。
彼らは、貴族がはく半ズボン「キュロット」をはけないため、「サン・キュロット」と貴族層から馬鹿にされましたが、悪口上等、とばかりに自称するようになりました。
サン・キュロットたちは、歌で団結し、革命を推進していきました。
ここでは、代表的な3曲、「ラ・マルセイエーズ」「ラ・カルマニョール」「サ・イラ」を取り上げます。
言わずと知れた、フランス革命を象徴する歌であり、今のフランス共和国の国家でもあります。
前回書いたように、列強との戦争に宣戦布告したものの、戦況が悪化して革命がピンチになり、立法議会が緊急事態宣言を発すると、各地から義勇軍が集まりました。
ストラスブール市長フィリップ=フレデリク・ド・ディートリヒ男爵が、当地に駐屯していた工兵大尉クロード=ジョゼフ・ルジェ・ド・リールに依頼し、出征する部隊を鼓舞するために、一夜にして作詞作曲したとされています。
最初のタイトルは『ライン軍のための軍歌』 で、リール大尉はこの曲を当時のライン方面軍司令官ニコラ・リュクネール元帥に献呈しましたが、またたくまに広がり、勇猛なマルセイユ義勇軍が歌ったため、その名で呼ばれるようになりました。
〝暴君を倒せ〟という内容なので、続くナポレオン帝政時代や、復興王政時代は禁止ないし制限されましたが、共和政になると国歌となり、今の第五共和制憲法でも国歌と規定されています。
歌詞は7番までありますが、国歌として歌われるのは1番までが多いそうです。
行こう 祖国の子らよ
栄光の日が来た!
我らに向かって暴君の血まみれの旗が掲げられた
聞こえるか、戦場の残忍な敵兵の咆哮を?
奴らはお前たちの元に来て、
お前たちの子と妻の喉を掻き切る!
武器を取れ 市民らよ
隊列を組め
進もう、進もう!
汚れた血が我らの畑の畝を満たすまで!
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ラ・カルマニョール
2曲目は、「ラ・カルマニョール」です。
長ズボンをはいていたサン・キュロットたちの上着がカルマニョールで、イタリア、ピエモンテ地方のカルマニョーラという町の名に由来します。
フランスで、イタリア人の労働者が着ていたところから、革命派の人たちに着用されました。
歌詞はちょうど、ヴァレンヌ逃亡事件で国王一家が信望を失い、さらに憲法に「拒否権(ヴェトー)」を行使して認めず、国民に怒りを買った頃に流行った歌で、革命歌のひとつとされました。
王妃マリー・アントワネットは「拒否権夫人(マダム・ヴェトー)」、国王は「拒否権氏(ムッシュ・ヴェトー)」と揶揄されています。
歌詞から、サン・キュロットたちはまだルイ16世には好意的で、外国人であるマリー・アントワネットの方を憎んでいたのが分かります。
ラ・カルマニョール
マダム・ヴェトーは誓った
パリじゅうを絞め殺すと
しかし彼女の攻撃は失敗した
われらの砲兵のおかげで
(繰り返し)
ムッシュ・ヴェトーは誓った
国に忠実であると
しかし彼はしくじった
命を助けるのはやめよう
(繰り返し)
アントワネットは決心した
われわれをやっつけようと
しかし彼女の攻撃は失敗した
彼女のほうが返り討ちにあった
(繰り返し)
そうだ、俺はサン・キュロットだ
俺は王様の友達ではあるが
マルセイユ人万歳
ブルターニュ人、法律万歳
(繰り返し)
友達よ、手をつないでいこう
敵を恐れずに
もしわれわれを襲ってきたら
われわれがやつらを吹っ飛ばしてやろう
(繰り返し)
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サ・イラ
3曲目は「サ・イラ」です。
原曲は「ル・カリヨン・ナショナル」というコントルダンス(田園舞曲)で、ボージョレ劇場のバイオリン奏者のベクールが作曲しました。
この曲は流行し、マリー・アントワネットもしばしばクラブサンで演奏したということです。
このメロディに、兵士出身の辻歌手ラドレが、即興で自作の替え歌を作ったとされています。
「サ・イラ(ça ira うまくいくさ)」というフレーズは、アメリカ独立戦争の支援を求めるためにパリを訪れた、ベンジャミン・フランクリンの口癖でした。
独立なんか本当にできるの?と貴婦人たちに尋ねられると、彼は軽く、「サ・イラ、サ・イラ」と答えたのが面白く、流行語となったのです。
バスティーユ襲撃1周年記念に催された、1790年7月14日の全国連盟祭で広まりましたが、最初の歌詞はまだ穏健でした。
それが、革命が激化してゆくと、サン・キュロットによって過激なものになっていったのです。
この熱狂で、ランバル公夫人はじめ、貴族や反革命分子とみなされた人々は血祭りに上げられていったのです。
サ・イラ
ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく
貴族どもを街灯に吊るせ!
ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく
貴族どもを縛り首にしろ!
吊るすのでなけりゃ
奴らを壊そう
壊すのでなけりゃ
奴らを燃やそう
ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく
貴族どもを街灯に吊るせ!
ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく
貴族どもを縛り首にしろ!
もう貴族も聖職者もいらない
ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく
平等があまねく支配するだろう
オーストリアの奴隷もこれに従うだろう
ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく
そしてそれらの忌々しい連中は
地獄に落ちるだろう
ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく
貴族どもを街灯に吊るせ!
ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく
貴族どもを縛り首にしろ!
そして全員を吊るしてやったら
奴らのケツにシャベルを突き刺してやれ!
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革命を乗り切った宮廷音楽家たち
さて、この血を血で洗う恐怖の革命の中、音楽家たちはどうしていたのでしょうか。
王や貴族に仕えていた彼らは無事だったのでしょうか。
革命が、上記のように歌と音楽で団結を強めていく中、仕事は失いつつも、彼らはこれらの「愛国歌」をうまくアレンジして、何とか生き延びたのです。
その一人が、ジャン=バティスト・ダヴォー(1742-1822)です。
ヴァイオリンの名手であり、1767年にパリに出て王家に仕え、数々の公職に就きました。
1785年には2つのオペラ・コミックを作曲、好評を博します。
特に得意としたのが、サンフォニー・コンサルタント(イタリア語でシンフォニア・コンチェルタンテ、協奏交響曲)でした。
複数の独奏楽器をもつ大規模なコンチェルトで、モーツァルトが「パリ・シンフォニー」を演奏した公開演奏会「コンセール・スピリチュエル」や、ハイドンに「パリ・セット」を委嘱した「コンセール・ドゥ・ラ・ロージュ・オランピック」で大喝采を浴びました。
モーツァルトもサンフォニー・コンサルタントを作曲し、コンセール・スピリチュエルの支配人ル・グロに楽譜を渡しましたが、陰謀によって紛失されてしまいました。
それをあとで思い出して不完全な楽譜にしたのが「オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットのための協奏交響曲 変ホ長調 K. 297b(Anh.C 14.01)」と考えられています。
さらに、ザルツブルクに帰ってから書いた「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調 K. 364(K6. 320d)」も、パリの香りいっぱいです。
ダヴォーはなんと、先に挙げた〝3大愛国歌〟を取り入れたサンフォニー・コンセルタントを作曲し、1792年4月29日に国民劇場で演奏し、大喝采を浴びました。
これで彼は、革命支持派ということを示すことに成功したのです。
何とも素晴らしい保身術、変わり身といえますが、革命の嵐を生き延びるためには、やり方は選んでいられないのです。
様式は、旧体制時代のロココ調なのに、過激な歌の旋律が使われているのは、混沌とした時代状況を今に伝えているように感じます。
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ダヴォー:愛国的歌曲によるサンフォニー・コンセルタント(協奏交響曲) ト長調
Jean-Baptiste Davaux:Sinfonie concertante melee d'airs patriotiques in G Major
演奏:ジュリアン・ショーヴァン (指揮と第1ソロ・ヴァイオリン)、シュシャーヌ・シラノシアン(第2ソロ・ヴァイオリン)、ル・コンセール・ドゥ・ラ・ロージュ【2018年録音】
ソロ楽器はふたつのヴァイオリンです。優雅な調べに不思議な力強さが加わります。やがて音楽は「ラ・マルセイエーズ」をなぞり、登場したふたつのソロが絡み合いながら、変奏を繰り広げてゆきます。ソロとトゥッティが、革命歌のフレーズを絶妙に掛け合い、盛り上げてゆきます。当時の観衆の熱狂が伝わってきます。
第2楽章 アダージョ・ウン・ポコ・アンダンテ
この緩徐楽章の旋律も愛国歌から取られたもので、当時流行した、ニコラ・ダライラック作曲のオペラ・コミック『ルノー・ダスト』のロマンスです。これにも、愛国的な歌詞がつけられて、巷間歌われたのです。ダライラックは貴族出身でしたが、革命が起こると、国民を鼓舞する演目を次から次へと上演し、生き延びることに成功しました。ふたつのヴァイオリンの絡みが優雅です。
最初はオーケストラが「ラ・カルマニョール」の旋律を軽やかに奏でます。やがて入ってくるふたつのソロ・ヴァイオリンは、見事にそのメロディを変奏し、味付けして技巧の限りを尽くします。あの野卑な歌詞はどこへやら、何も背景を知らずに聞いたら、天真爛漫な音楽としか思えません。やがて音楽は「サ・イラ」に変わり、ソロはさらに楽し気にさえずり、革命の凄惨さをまるで感じさせないうちに見事に曲は終わります。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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