引き続き、舞台は夜の庭。暗くて相手がよく分からないという設定です。
バルバリーナが独り現れて、庭にある小屋に入っていきます。
彼女は、ケルビーノと小屋で逢引の約束をしているのです。
バルバリーナが去ると、フィガロがバルトロ、バジリオの男ふたりを連れてきます。
そして、合図をしたら松明をもって駆けつけてくれ、と頼みます。
これからここで、伯爵と新妻スザンナの逢引が行われるので、その場をみんなでおさえる、というのがフィガロの計画なのです。
もちろん、伯爵とスザンナの取り持ち役をしていたバジリオは、ははーん、と気が付きます。
フィガロが退場すると、バルトロは、あいつは上にたてついてばかりいて、大丈夫だろうか、と父らしく心配します。
バジリオは、うんうん、この世の中では、上が白と言ったら、黒でも白と言わなければね、と、自分の哲学を歌い始めます。
第25曲 バジリオのアリア『まだ理性がそれほどに』
バジリオ
まだ理性がそれほどに
発達していない年頃には
私にも人並みの情熱があった
その頃はバカだったが
今はちがう
若い頃はいろいろあったが
あるとき賢い女性に出会った
この女は
私の頭から気まぐれや思いつきを取り去ってくれた
ある日彼女は
私を小さな小屋に連れて行き
壁から一枚のロバの毛皮を外して私に渡し
『これ、あげる』と言って立ち去った
私は何のことか分からず
ただこの贈り物を見つめていると
にわかに空がかき曇り
雷が鳴って雹交じりの雨が降ってきた
そこで、さっきもらったロバの毛皮をかぶると
嵐をやり過ごすことができた
嵐が去って歩き出すと
いきなり恐ろしい猛獣が現れた
大口を開けて私を食べようとしたが
ロバの毛皮の嫌な臭いに食欲を失くし
私を軽蔑した目で見ながら森へ去っていった
私は運命に学んだ
恥も、汚染も、危険も、死も
ロバの皮で逃れることができるということを
(バジリオとバルトロ退場)
バジリオ流処世術
このアリアも、この長大なオペラにあっては、前曲のマルチェリーナのアリアと一緒に、上演ではカットされることが多いです。
歌詞もダ・ポンテらしからぬ、ちょっと理屈っぽいものですが、なかなか味のある歌です。
伯爵にゴマをすり、ご機嫌を取って、女性を口説くお先棒を担ぐ、イケ好かない役ではありますが、それもこの歌で、自分の処世のため、と哲学を披露します。
会社で、上司に取り入って出世しようとするサラリーマンが、周囲から嫌われるのは覚悟の上で、家族のため、あえて耐え忍んでやっている、という姿と重なります。
フィガロの結婚には、現代の会社などにも通じるものが多くあります。
嫌がるスザンナに権力をチラつかせながら口説く伯爵。ケルビーノにクビだ、と怒鳴ったり、左遷させたりする伯爵は、まさにセクハラ、パワハラ上司です。
フィガロはそんな伯爵に何度もたてつき、追及されますが、毎回ごまかして逃げることができています。
伯爵は、やはりフィガロの才覚は認めざるを得ないし、第一の部下として、その力が必要なため、罰することができないのです。
実力ある部下は、上司に正しいことを直言して、内心生意気な、と思われても、上司は受け入れざるを得ないわけです。
それに対してバジリオは、フィガロのような実力は無いため、周囲から軽蔑されても茶坊主、太鼓持ちで生きていくしかありませんが、それもむろん好きでやっているわけではなく、自分はそれしかない、と割り切っています。
それをしっかり主張したこのアリア。
実力が足りないときは、ロバの皮をかぶってやりすごすことも、生きるためにはけっして卑怯なことではない。
これもひとつの立派な生き方として、拍手を送りたくなります。
誰もがフィガロのように優秀ではいられませんからね。
モーツァルトは、この人間ドラマで、そんな生き方にも、しっかりスポットライトを当てているのです。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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