モーツァルトのオペラ『フィガロの結婚』(全4幕)をご紹介してきましたが、いよいよ第3幕に入ります。
ちょうど折り返し地点なので、これまでのあらすじを振り返っておきます。
原作は、18世紀後半、フランス革命前夜、フランスの劇作家にして風雲児、ボーマルシェが作った演劇。
貴族の横暴を平民がこらしめる、という内容に国王ルイ16世は激怒。
〝この劇を上演するくらいならバスティーユ監獄を破壊する方がマシだ!〟と上演禁止にしますが、王妃マリー・アントワネットが〝上演すればいいじゃない〟とねだるし、貴族たちも自分たちをコケにする話をブラックジョーク的に面白がるしで、ついに上演解禁。
平民フィガロの活躍に、民衆は熱狂。
ルイ16世が心配した通り、フランス革命の引き金を引くことになります。
モーツァルトは、フランス以外の国でも上演禁止になったこの芝居から、〝危険思想〟を抜いてオペラ化したと言って、台本作家ダ・ポンテとともに皇帝ヨーゼフ2世を説得し、ウィーンでの上演にこぎつけます。
確かに、ボーマルシェが封建体制を批判した過激なセリフは削除されていますが、平民が領主をやりこめる、というあらすじは原型のままです。
『フィガロの結婚』は、前作『セビリアの理髪師』の続編。
前作は、貴族の孤児ロジーナが、後見人である医師のバルトロによって、監禁され無理やり妻にされようとするところ、町の何でも屋で床屋のフィガロの知恵と策略で、バルトロをやりこめ、彼女に恋するアルマヴィーヴァ伯爵とめでたく結婚する、という話です。
『フィガロの結婚』では、前作の縁でアルマヴィーヴァ伯爵に仕えることになったフィガロが、伯爵夫人付きの美人で機知に富んだメイド、スザンナと結婚することに。
劇は全て、その結婚式当日の出来事です。
フィガロは、順調だと思っていた結婚に、思わぬ邪魔が入っていることをスザンナから知らされます。
伯爵夫人に飽きた浮気者の伯爵が、領主の力を使って、スザンナと関係を結ぼうとしているというのです。
これを知ったフィガロ、ふたつの作戦で伯爵のもくろみの粉砕を計画。
作戦1は、伯爵夫人が不倫をしている、という偽の情報を伯爵に流し、伯爵がそちらに気を取られている間に、伯爵が何かと理由をつけて引き延ばそうとしている式を挙げてしまおうというもの。
作戦2は、伯爵の不興を買って軍隊行きを命じられた小姓の美少年、ケルビーノを女装させ、庭でスザンナの代わりに逢引させて、その浮気現場を伯爵夫人に押さえさせる、というもの。
しかし、作戦1は伯爵に早々にバレてしまい失敗。
作戦2も、ケルビーノを女装させているところを伯爵に踏み込まれ、ケルビーノは窓から飛び降りてギリギリのところで逃亡、という始末。
そこに、バルトロの元愛人で、今は若いフィガロにぞっこんの熟女、マルチェリーナが、フィガロに大金を貸した際に証文に書かれた〝借金を返せなかったら結婚する〟という文言の履行を伯爵に訴え、フィガロに恨みをもつバルトロと、伯爵にゴマをする音楽教師バジリオがこれに結託。
伯爵も、領主裁判でフィガロの結婚を無効にしてやると、ほくそ笑んでいるところで第2幕が終わります。
フィガロの結婚シリーズ、1回目はこちら。
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幕が開くと、アルマヴィーヴァ伯爵が、ひとり歩き回りながら、訳のわからんことばかりだ…と愚痴っています。
謎の匿名の手紙。小姓がいるという部屋から出てきたのはスザンナ。奥方はあわてているし、窓から誰かが飛び降り、別の男がそれは自分だと言う…。
奥方も、ちょっと疑ったくらいで大激怒するし…。
では、私の名誉はどうなるのだ…、と。
舞台袖では、伯爵夫人がスザンナに何やら言い含めています。
作戦2は、女装役のケルビーノが逃亡したので頓挫していますが、伯爵夫人は、ケルビーノの代わりに、自分自身がスザンナに変装して逢引に行くというのです。
そして、スザンナに、伯爵にOKを出すよう命じます。
バレないよう、フィガロにも内緒でね、と。
スザンナは戸惑いますが、伯爵夫人のたっての願いなので、断りきれず、勇気を出して伯爵のもとに行きます。
※レチタティーヴォ(叙唱)は、イタリアオペラにおいて、歌と歌の間のセリフの部分にメロディをつけたものです。チェンバロの通奏低音のみの伴奏の〝レチタティーヴォ・セッコ〟と、オーケストラの劇的な伴奏のついた〝レチタティーヴォ・アコンパニャート〟があります。
(レチタティーヴォ)
伯爵(歩き回りながら独白)
まったく分からんことばかりだ
差出人のない手紙
鍵のかかった部屋にいたメイド
奥方のあの混乱
すると別の男が現れて
それは自分だという
何がどうなっているのか、まったく分からん
たぶん、家来のうちの誰かが…
こういう手合いはどいつもなかなか…
しかし奥方も…
いや、あれを疑ったら怒りおる
あの女のプライドは高すぎる
では、私の名誉、私の名誉は…
こいつだけはどこかへ行ってしまった
(伯爵夫人、スザンナ登場。伯爵に見つからないように、舞台奥にいる)
伯爵夫人
さ、しっかりね
今夜、庭で待っていると言っておいで
伯爵(傍白)
ケルビーノのやつめ
セビリアに着いたのか、確かめるために
バジリオの奴を使いに出したが
スザンナ
ああ、でもフィガロが知ったら…
伯爵夫人
あれには何も言わないでいいのよ
お前の代わりに私が行くんだからね
伯爵(傍白)
夕方までには帰ってくるだろう
スザンナ
でも、私はやっぱり…
伯爵夫人
私の心の安らぎはお前にかかっているのよ
(伯爵夫人退場)
伯爵(傍白)
そういえばスザンナは?
あいつは私の秘密を洩らしたかな
もしそうなら、フィガロをあの婆さんと結婚させてやるがな
スザンナ(傍白)
マルチェリーナのことね
スザンナ
伯爵様!
伯爵
何か用か?
スザンナ
怒っていらっしゃいます?
伯爵
用を言いなさい。
スザンナ
奥方様が、ご気分が悪いので、嗅ぎ薬の瓶をお借りしたいと。
伯爵
持っていきなさい。
スザンナ
では、あとでお返しにまいります。
伯爵
いや、お前がもっていなさい。
スザンナ
私に? 私は気分は悪くありません。
伯爵
花婿を失うことになってもか?
スザンナ
伯爵様が私にくださるという持参金で、マルチェリーナにはお支払いします。
伯爵
そんな約束をしたかな? いつ?
スザンナ
そう伺ったように思います…
伯爵
そうだな、お前が私の望みを受け入れてくれたらな!
スザンナ
それは私の義務です。
ご主人様の望みが、私の望みでございます。
第16曲 スザンナと伯爵の小二重唱『ひどいぞ、どうしてそう』
伯爵
ひどいぞ
どうしてそう、私をじらせたのだ
スザンナ
女は〝はい〟と言うまで、時間のかかるものでございます
伯爵
では、今夜庭に来てくれるか?
スザンナ
はい、まいります
伯爵
約束を守るな?
スザンナ
はい、守ります
伯爵
来るね?
スザンナ
はい
伯爵
来ない?
スザンナ
いいえ
伯爵
来ないことはないね?
スザンナ
いいえ
伯爵
いいえ?
スザンナ
はい、参ります
伯爵
ああ、うれしさと喜びで、胸がいっぱいだ
スザンナ(傍白)
だましてごめんなさい、愛の理解者でおられる伯爵様…
(レチタティーヴォ)
伯爵
どうして今朝は、あんなに私につれなくしたのだ
スザンナ
だって、小姓がいましたもの
伯爵
それから、バジリオにもな
あいつは我らの間をとりもってくれておるのに
スザンナ
私たちの間にバジリオなど要りませんわ
伯爵
そうだ、そのとおりだ
今度こそ約束を守れよ
あ、奥方が薬を待っておるだろう
スザンナ
それは口実ですわ
お話するための
伯爵(抱きしめようとして)
かわいいやつだ!
スザンナ(かわして)
誰か来ますわ!
伯爵(傍白)
もう、俺のものだ!
スザンナ(傍白)
よだれをお拭きになったら!
いやらしい伯爵様!
愛と偽りのデュエット
ふつう、デュエットは愛するふたりが歌いますが、この曲では、表面的には両想いながら、女性は男をだましているわけです。
スザンナの演技にすっかり伯爵は篭絡されてしまいますが、スザンナには〝魔性の女〟的な香りは感じられず、ただただ伯爵夫人のために一生懸命がんばっているのです。
伯爵のうれしさを表したメロディは幸せいっぱいで、そのあまりの喜びように、スザンナも少し後ろめたさを感じています。
来る?来ない?のやりとりでは、二重否定に対しイエス(Si)で答えるか、ノー(No)で答えるか、紛らわしいところで、スザンナは1度間違えてしまい、動揺を示しています。
滑稽でありながら、逢引をする、しない、といったきわどい内容のデュエットで、その機微を表現できるのはモーツァルトくらいでしょう。
さて、通りかかったのは、ほかならぬフィガロでした。
(レチタティーヴォ)
フィガロ
おい、スザンナ、どこに行く?
スザンナ
シーッ! 弁護士を頼まなくても裁判に勝ったわよ!
(退場)
フィガロ
どういうことだ?
(スザンナを追って退場)
スザンナの最後の言葉を聞きつけた伯爵は、またもだまされたことに気づいてしまいます。
そして、レチタティーヴォのついた大アリアを歌います。
これは、このオペラでひとつのクライマックスを形作っているアリアで、私がモーツァルトの全アリアの中でも2番目に好きな曲なのです。
(1番は、『ドン・ジョヴァンニ』の中のドンナ・エルヴィーラのアリアです。いつかご紹介したいと思います。)
第17曲 アルマヴィーヴァ伯爵のレチタティーヴォとアリア『裁判に勝っただと~私がため息をついている間に』
アルマヴィーヴァ伯爵
(レチタティーヴォ・アコンパニャート)
〝裁判に勝った〟だと?
どういう意味だ?
罠にはまったのか!
不届き者たちめ!
仕返しをせねば。
判決は私の思い通りにするぞ。
しかし、あいつが婆さんに金を払ったらどうする?
払う? どうやって?
それにアントニオもおる。
あいつはフィガロのような馬の骨に
自分の姪をくれたりしないだろう。
あのアホの自尊心をちょっとくすぐってやればいい。
万事はこちらに好都合だ。
やってやるぞ!
(アリア)
私がため息をついている間に
召使いが幸せを得てもいいのか?
私が欲しても得られない幸せを
召使いが手に入れていいのか?
こんなに愛しているのに、
私には少しも愛情を抱いてくれないあの女が
あんなつまらない男と結ばれるのを見るのか。
いや、そんなことは許さない!
お前を平和のうちに満足させておくことなどしないぞ!
向こう見ずな奴め、お前は私に苦しみを与え
私の不幸を笑うために生まれてきたのではないぞ。
今やあいつに復讐することだけが
この心を慰め、喜びを与えてくれるのだ。
(退場)
伯爵のアリア、クルレンツィス版もご紹介しておきます。
男の苛立ちのアリア
アルマヴィーヴァ伯爵は、恋愛で負けた相手に、権力で報復してやろうと決意し、法服をまとって颯爽と法廷に向かいます。
貴族の理不尽な横暴ぶりを表したアリアですが、モーツァルトの音楽の高貴なこと!
封建権力を身にまとった伯爵。まさに騎士の怒りといった趣きです。
俺がこんなに欲している女を、召使いが手に入れるなど許さない、という、まことに身勝手な理屈ではありますが、男なら誰しも、似たような気持ちになったことがあるはずです。
モーツァルトの音楽は、オペラの登場人物の感情を超えて、聴く人ひとりひとりの心の中に共感を生んでいきます。
ドロットニングホルム宮廷劇場(マルク・ミンコフスキ指揮)
『フィガロの結婚』アルマヴィーヴァ伯爵のレチタティーボとアリア
Florian Sempey "Hai gia vinta la causa" 2015
次回、判決が言い渡されます。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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