人類の宝、モーツァルトのオペラのうち、一般的に上演の機会が多いのは7つです。
ジャンル別に3つに分けられるので、これまでも触れてきましたが、あらためて整理しておきます。
まず、『オペラ・セリア』。
これは〝正歌劇〟といわれ、ギリシア神話や古代ローマの英雄物語がテーマです。
〝セリア〟は英語では〝シリアス〟ということ。
古代文化に憧れ、その復活を目指した古典主義の典型です。
オペラがはじめて作られたのは17世紀初頭のイタリア・フィレンツェにおいてですが、古代ギリシア演劇の復活を意識したものですので、題材が古代になるのは当然です。
18世紀のヨーロッパ人にとっては歴史ものの大河ドラマといったところでしょうか。
基本的には悲劇なのですが、18世紀には原作をまげてでもハッピーエンドになっています。
19世紀になると、『椿姫』『リゴレット』『トスカ』のように悲しい結末の方が好まれますが、それも前近代と近代の時代性の違いでしょう。
次に『オペラ・ブッファ』。
こちらは『喜歌劇』と訳され、本来は正歌劇の幕間に演じられる、余興のような軽い寸劇でしたが、ペルゴレージ(1710-1736)の『奥様女中』が大人気となり、メインの演目に成長したものです。
セリアもブッファも当然イタリア語です。
そして、『ジングシュピール』。
今回の『後宮よりの誘拐』がこれに当たり、ドイツ語の歌芝居です。
オペラでは、アリアや重唱、合唱の間のセリフの部分も〝レチタティーヴォ〟という、通奏低音での伴奏による軽い節回しつきで歌われるのですが、ジングシュピールは基本が芝居ですから、歌と歌の間はふつうの地のセリフになります。
7曲は上演順に次のようなジャンル分けになります。
『クレタの王イドメネオ』K.366(1781年)【オペラ・セリア】
『後宮からの誘拐』K.384(1782年)【ジングシュピール】
『フィガロの結婚』K.492(1784年)【オペラ・ブッファ】
『ドン・ジョヴァンニ』K.527(1787年)【オペラ・ブッファ】
『コジ・ファン・トゥッテ』K.588(1790年)【オペラ・ブッファ】
『皇帝ティートの慈悲』K.621(1791年)【オペラ・セリア】
『魔笛』K.620(1791年)【ジングシュピール】
この『後宮』は、モーツァルト最後のオペラ『魔笛』と同じ、ジングシュピールということになります。
ジングシュピールには、ドイツ文化を興隆させたいという皇帝ヨーゼフ2世の並々ならぬ意気込みがあったことは前回触れましたが、その狙い通り、ドイツ国民にとりわけこよなく愛されたのはやはりこの2曲だったのです。
太守セリム(パシャ・セリム)
オスマン・トルコ帝国の、地中海に面した、とある地域を治める太守。実は元はスペイン人のキリスト教徒だったが、祖国を陰謀で追われ、トルコに亡命、イスラム教に改宗し重用されている。歌を歌わない語り役。モーツァルトの自筆譜には『太守セリム、歌うべきものをもたない』と書かれている。
コンスタンツェ(ソプラノ)
スペインの令嬢でベルモンテの恋人。航海の途中、侍女のブロンデ、ベルモンテの召使いペドリロとともに海賊に捕まり、セリムに売られる。後宮(ハーレム)に入れられ、セリムに愛されるが、その愛を拒み続けている。
ブロンデ(ソプラノ)
コンスタンツェの侍女で、イギリス人。捕えられたあともずっとコンスタンツェの世話をしている。
ベルモンテ(テノール)
スペイン貴族の子息で、コンスタンツェの恋人。コンスタンツェの行方を捜している。
ペドリロ(テノール)
ベルモンテの召使い。セリムに信頼され、庭園の番人を任されている。
オスミン(バス)
太守の別邸の番人で、奴隷頭。
初演をめぐって
初演の歌手も最初から決まっていました。
ヒロインのコンスタンツェ役は、カテリーナ・カヴァリエリ嬢(1760-1801)。モーツァルトはこのオペラの歌を『彼女のなめらかな喉に捧げた』といっていることで有名です。
映画『アマデウス』でも重要な役柄で、ウィーン一のプリマ・ドンナとして登場し、サリエリは密かに彼女に恋していましたが、それをモーツァルトに奪われた、という設定になっています。
オペラがはねた後、舞台上で皇帝から花束を受け取った彼女は、モーツァルトが結婚することを知り、その花束をモーツァルトに投げつけるのです。
この話はフィクションであり、ふたりが深い仲だったことをうかがわせる史実はありませんが、彼女のための歌を聴くと、格別な思い入れがあるように感じられるのも事実です。
でもそれは、モーツァルトが自分を売り込むためのスタンドプレイであり、そのための格好の媒体を得た、ということでしょう。
カヴァリエリ嬢は、以前ご紹介したようにその後も『ドン・ジョヴァンニ』のウィーン再演でのドンナ・エルヴィーラや、『フィガロの結婚』の伯爵夫人など、モーツァルトのオペラの主要な役を演じています。
ベルモンテを歌ったのはヨハン・ヴァレンティン・アダムベルガー(1743-1804)。かつてミュンヘンで『イドメネオ』の大祭司を歌ったので、モーツァルトとは旧知でした。彼の曲は華麗なコロラトゥーラで彩られているので、さぞかし甘く抒情的なテノールだったのではないかと思います。
あと高名なのは、愛すべき悪役、オスミン役のヨハン・イグナツ・ルートヴィヒ・フィッシャー(1745-1825)です。
彼については、ザルツブルク大司教コロレードがかつて『バス歌手としては低く歌いすぎる』と評したので、モーツァルトはこの素人評をせせら笑って『次回からはもっと高く歌うようになりましょう』と皮肉で返したことがありました。
彼には演技力もあり、『後宮』の4回目の上演を観たある貴族は『フィッシャーの演技は素晴らしい。アダムベルガーは彫像のごとし。』と日記につけています。
ほかの初演歌手は、ブロンデ役がタイバー嬢、ペドリロ役がダウアー、太守セリム役はヴァルターでした。
モーツァルトは、いったん作曲した後、歌手たちに歌わせてみて、修正や削除を行っています。
それはまるで、オーダーメイドの服を作るのと同じで、モーツァルトはその作業を『服がぴったり合うように、曲がその喉にぴったり合うのがうれしい』と述べています。
その結果、後世の我々はどの楽譜を聴いたらよいのか戸惑ってしまうわけですが、今回ご紹介する録音は、モーツァルトの最初の楽譜を復元した『新モーツァルト全集』に基づいたものなので、初演歌手に合わせたカットを復元して演奏しています。
そのため、聴き慣れた歌と違う曲もあって、少なからず戸惑いますが、まぎれもなくモーツァルトが作ったオリジナルの曲なのです。
初演歌手の歌を聴けない我々としては、モーツァルトがいったん良かれと思って作曲した楽譜で聴いてみるのもひとつの選択といえるでしょう。
物語の設定
さあ、幕を開けましょう。
舞台はオスマン・トルコ帝国支配下のトルコ。地中海に面した、このあたりを治めている太守(パシャ)セリムの別邸前です。
ヒロインのコンスタンツェと、侍女ブロンデ、召使いのペドリロの3人は、航海中に海賊につかまり、奴隷として売り飛ばされます。
しかし、3人は不幸中の幸いで、寛容なトルコの太守セリムに一緒に買われます。セリムは元スペイン人で、陰謀により祖国を追われ、オスマン・トルコに亡命した人物だったので、このヨーロッパ人一行を憐れみ、離れ離れにならないよう一緒に買い上げたのです。
セリムはコンスタンツェの美しさの虜となり、後宮(ハーレム)に入れ、側室にしようとしますが、コンスタンツェは太守の愛を拒み続けています。
太守はブロンデとベドリロのことも気に入り、別邸でそれぞれ役目を与えています。
それが気に入らず、胡散臭い目で見ているのが、太守の家来、オスミン 。
彼は根っからのトルコ人で、太守の寛容なやり方を危なっかしく思っています。
ブロンデのことを気に入っていますが、彼女もオスミンを拒み続けています。
そして、ブロンデと仲の良いペドリロを目の敵にしています。
そんな中、コンスタンツェの婚約者ベルモンテが、ようやくコンスタンツェのいる場所を突き止め、沖合に帆船を密かに待たせて、恋人を救出すべくやってくるところから、物語が始まります。
W.A.Mozart : Die Entführung aus dem Serail K.384
演奏: ジョン・エリオット・ガーディナー指揮 イングリッシュ・バロック・ソロイスツ、モンテヴェルディ合唱団
John Eliot Gardiner & The English Baroque Soloists , The Monteverdi Choir
幕が開くと、そこは海に面した太守セリムの別邸の前庭。
宮殿は高い塀で囲まれ、門は固く閉ざされています。
そこにひとり、ベルモンテが登場します。
彼の歌は、序曲の中間部を長調に移調したもので、恋人の居場所にたどりついた感慨を歌います。
もともとの台本では、ここはモノローグで始まるのですが、モーツァルトは小さな歌で幕が開くようにしたのです。
第1曲 ベルモンテのアリア『ここで君に会えるのだ』
ベルモンテ:スタンフォード・オルセン(テノール)
ベルモンテ
ここで君に会えるのだ、コンスタンツェ!私の幸せ!
ああ神よ、彼女に会わせてください!
私に安らぎを与えてください!
愛する人よ、私はあまりにつらい苦しみに耐えてきたのです。
神よ、今は喜びを与え、私を彼女のもとへ導いてください。
しかし、どうやって宮殿に入ったものか?どうすれば彼女に会えるのか?
途方に暮れていると、ひとりのでっぷりとしたトルコ人が梯子をかついで登場。
門の前のイチジクの木に登って、歌いながら実を採り始めます。
第2曲 リートと二重唱
オスミン:コーネリアス・ハウプトマン(バス)
オスミン
可愛くて、浮気をしなくて、まじめな女ができたら、
たくさんキスをしてやりな
楽しい思いをさせてやりな
いい友達になってやりな
トララレラ、トララレラ!
ベルモンテ(セリフ)
ちょっと君。ここは太守セリム様のお屋敷かい?
オスミン(無視して)
だけど悪い虫がつかないように、
外には出さずしまっておけよ
悪い男は蝶々と見ればほっておかない
他人の酒を飲みたがるものさ
トララレラ、トララレラ!
ベルモンテ(セリフ)
おいおい、聞こえないのかい!? ここは太守セリム様のお屋敷かい?
オスミン(彼を見て、やはり無視して)
月の晩など一番いけない
悪い男が忍び寄ってくる
そして馬鹿な子ウサギを手なずける
そうなりゃ、もう操はおさらばさ!
トララレラ、トララレラ!
ベルモンテ
その歌はもうたくさんだ!もう俺には聞き飽きた!
俺の質問に答えてくれ!
オスミン
こんちくしょう、何をうるさく威張りちらしているんだ?
早く言え、もう俺は行くぞ
ベルモンテ
ここは太守セリム様のお屋敷かい?
オスミン
はあ?
ベルモンテ
ここは太守セリム様のお屋敷かい?
オスミン
ここは太守セリム様のお屋敷だよ。(去ろうとする)
ベルモンテ
ちょっと待ってくれ!
オスミン
まだなんだってんだ?
ベルモンテ
もう一言!
オスミン
さっさと言え、もう行くぞ
ベルモンテ
君は太守に仕えているのか?
オスミン
はあ?
ベルモンテ
君は太守に仕えているのか?
オスミン
はあ?
ベルモンテ
君は太守に仕えているのか?
オスミン
俺は太守に仕えている。
ベルモンテ
それなら、ここで働いているベドリロに会わせてくれないか?
オスミン
あんな野郎は首をへし折ってやればいい。
自分で探すんだな
ベルモンテ(傍白)
なんてひどいオヤジだ
オスミン(傍白)
こいつも奴の一味だな
ベルモンテ
いや、彼はいい男だよ
オスミン
いい男すぎて、串刺しにしてやりたいわ
ベルモンテ
あんたはペドリロをよく知らないんだよ
オスミン
知りすぎてて、焼き殺したいわ
ベルモンテ
彼は本当にいい奴さ!
オスミン
あいつの頭は杭にぶらさげるのがいい!(去ろうとする)
ベルモンテ
ちょっと待ってくれ!
オスミン
まだ何だ?
ベルモンテ
私はぜひ・・・
オスミン
私はぜひ、お屋敷のまわりを窺って、隙あらば女をさらっていきたいのですが、だと?
失せろ、失せろ、失せろ!お前らに用はない。
ベルモンテ
あんたは本当にどうかしている。
逆上して、そんなひどいことを、面と向かってよく言えるもんだ!
オスミン
お前の魂胆はお見通しだ!
ベルモンテ
馬鹿言うな、脅すのはやめろ
オスミン
とっとと失せろ!さもなきゃ鞭で打ってやる!
今ならまだ間に合うがな!
ベルモンテ
あんたは本当にどうかしている!
人がものを尋ねているのに、なんて態度だ!
常識をわきまえてくれ、わきまえてくれ!
(ベルモンテ追い出される)
前半のオスミンのリート(小唄)は、おとぎ話を語るような異国情緒あふれるものです。
歌詞には、これからのストーリーが暗示されていますが、武骨なオヤジ、オスミンにはちょっと似つかわしくないもので、それがかえって滑稽です。
オスミンは、ベルモンテに何度も話しかけられても無視し、ようやく二重唱になって会話が始まりますが、なかなかかみ合いません。
異文化同士で意思疎通がうまくいかないさまが、これも楽しく表現されています。
ペドリロの名前を聴いたオスミンはなぜか激高し、ふたりの言い争いはさらに激しくなり、音楽もどんどん盛り上がっていくのです。
劇の始まりから聴衆を引き込んでいくモーツァルトの〝ツカミ〟はここでも素晴らしい効果を上げています。
次回、ベルモンテによってイラつかされたオスミンのところに、ペドリロが飛んで火に入ってきます。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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