孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

トルコとお酒の微妙な関係。モーツァルト:オペラ『後宮からの誘拐』あらすじと対訳(7)『ばんざいバッカス!バッカスばんざい!』

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台本作者ゴットリープ・シュテファニー(弟)(1741-1800)

素敵な韻を踏んだアリア

モーツァルトオペラ『後宮よりの誘拐』、あらすじと対訳の7回目です。

第2幕も後半に入ってきます。

コンスタンツェ太守セリムの激しい応酬のあと、静けさを取り戻した部屋に、ブロンデがひとり戻ってきます。

『あら、コンスタンツェ様と太守はどこに行ったのかしら? もしかしてふたりは仲良くなってしまったの? いや、そんなはずはないわね、ベルモンテ様一筋のコンスタンツェ様だから…』などとつぶやいていると、そこに恋人ペドリロが、あたりを窺いながら忍び込んできます。

そしてブロンデに、ベルモンテが助けに来たこと、今夜には船で逃げ出す段取りであることを告げます。

ブロンデは思いがけない展開に喜びますが、オスミンが見張ってるのに、大丈夫かしら…?と心配します。

するとペドリロは小瓶を取り出し、この眠り薬でオスミンを眠らせ、うまくいったら、まずは庭でコンスタンツェ様をベルモンテ様に会わせよう、と作戦を伝えます。

ブロンデは、いよいよここから逃げられることが現実となってきたことを実感し、狂喜してアリアを歌います。

詩は音楽の忠実な娘でなければならない

このアリアは、ブロンデの若くて元気な魅力がはちきれるばかりにまぶしい歌ですが、ドイツ語の歌詞の韻が音楽にマッチしていて、それがまた素晴らしいのです。

Lachen...Schrzen

schwachen...Herzen

のあたりは最高です。

〝野蛮〟なドイツ語がイタリア語に負けないということを示した、このオペラの面目躍如です。

しかし。にもかかわらず、モーツァルトは詩人が韻にこだわるのに我慢がなりませんでした。

オペラの台本を書く詩人は、うまく韻を踏むのが腕の見せ所なわけで、ちょうどこの『後宮』が上演された1782年に世を去った、オペラ・セリアの台本作家、ピエトロ・メタスタージオ(1698-1782)は、その権威でした。

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ピエトロ・メタスタージオ(1698-1782)

彼の人気作品では、ひとつの台本に最大70以上の作曲家が音楽をつけたのです。

モーツァルトの最晩年のオペラ『皇帝ティートの慈悲もメタスタージオの作品で、モーツァルトを含めて40通りほどの音楽がつけられていました。

つまり、オペラにあっては、音楽よりも台本が大事だったわけです。

しかし、モーツァルトはこの風潮に真っ向から反抗し、挑戦した作曲家でした。

特にこの『後宮』では、台本作者のシュテファニーに、遠慮なく改変を行わせているのです。

作曲中に父に宛てたこの手紙は、モーツァルトの作曲ポリシーを示したものとして有名です。

さて今度はオペラのテキストについてです。シュテファニーの仕事についておっしゃることはごもっともです。しかし歌詞は、馬鹿で無作法で意地悪なオスミンの性格にぴったり合っています。そして、その詩型が最上のものでないことは、ぼくにもよく分かっているのですが、それは丁度よく、ぼくの楽想(前からぼくの頭の中で動き回っていた)とぴったり合ったので、何としてもぼくの気に入ったわけで、これが上演されたら、だれも不足は言わないだろうと、賭けをしてもいいくらいです。作品そのものに含まれている詩情はと言えば、それは本当に馬鹿にできないものです。ベルモンテのアリア『ああ、なんと心配な』(注:第4曲)は、音楽としてほとんどこれ以上には書けないでしょう。『さっさと』と『憂いは私の膝にやすらう』(憂いがやすらうなんてことありません)を除けば、そのアリアも悪くはありません――とくに最初の部分が。オペラにあっては詩は絶対に音楽の忠実な娘でなければならないのですが、イタリアのコミック・オペラが、台本から言えば実につまらないのに、いたるところで、あんなに好かれるのはなぜでしょう。パリでさえ、そうです――ぼくはこの目で見たのですが。それは、オペラでは音楽が全く支配して、そのためすべてを忘れさせるからです。それだけにいっそうオペラは、作品の構想がよく練り上げられ、言葉が音楽のためにだけ書かれていて、あっちこっちでへたな韻をふもうとして(韻は、神かけて、たとえどんな価値だろうと舞台上の演出に、寄与するものではなく、むしろ害をもたらすものです)作曲者の楽想全体をぶちこわすようないくつかの言葉あるいは詩節を加えるようなことがなければ、かならず聴衆に喜ばれるはずです。歌詞は音楽にとって、何よりも欠くことのできないものですので、韻のための韻は、もっとも有害なものです。そんなに杓子定規に作品に取りかかる先生方は、かならずその音楽もろとも、没落してしまいます。

そこでいちばんいいのは、演劇の何たるかを心得て、みずから意見を述べることのできるすぐれた作曲家と、真のフェニックスとも言うべき賢明な詩人が、手を組むことです。そうなれば何も知らない者からも、大丈夫喝采を受けます。ぼくには詩人は、まるで自分の芸で茶番をやっているラッパ吹きのように思われます!われわれ作曲家にしても、いつもいつもわれわれの規則に(規則は、それ以上のものが知られていなかったころは、大いによかったのですが)忠実に従おうとしたら、かれらが役に立たない台本を作るとちょうど同じく、役に立たない音楽を作ることでしょう。(1781年10月13日 父レオポルト宛)*1

詩と音楽の微妙な関係

父レオポルトはどうも台本作家シュテファニーのよくない噂を聞いていたらしく、彼について否定的なことを言ってきたことに対する反論です。

シュテファニーは、モーツァルトの台本改訂要求に快く応じてくれていたのです。そもそもこの台本は他人(ブレツナー)の作品だったのですから、彼が気分を害するいわれはないわけですが。

ともあれ、音楽優先、というモーツァルトのポリシーがはっきり示されています。

サリエリとのオペラ対決

時に1786年、皇帝ヨーゼフ2世は、モーツァルトと、そのライバル、アントニオ・サリエリに、それぞれオペラを作らせて、同時に上演させて競わせます。まさに、音楽の直接対決です。

モーツァルトに与えられた台本は、この『後宮』と同じく、シュテファニーの作ったドイツ語のジングシュピール劇場支配人』だったのですが、サリエリの方はイタリア語のオペラ・ブッファで、なんと題は皮肉なことに『まずは音楽、お次がせりふ』という、モーツァルトの信条そのもののテーマでした。

台本もサリエリの方が出来がよく、どちらかというとサリエリ有利な結果だったようです。

真のフェニックスとの出会い

しかしながらモーツァルトは、先の手紙に書いた〝真のフェニックス〝というべき詩人と出会うことができました。

それが、かつて『フィガロ』のところで取り上げたロレンツォ・ダ・ポンテ(1749-1838)です。

彼とのコンビは、『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』『コジ・ファン・トゥッテの不朽の3作を生み出します。

ダ・ポンテ3部作、と呼ばれます。

コジ・ファン・トゥッテ』のみ、題材がダ・ポンテのオリジナルで、皇帝ヨーゼフ2世から『フィガロの中のひとつのせりふからオペラを作れ』と無茶ぶりをされて作ったこともあり、一見くだらない筋書きなのですが、モーツァルトの音楽が極上で歌詞とぴったりなので、やはり傑作とされているのです。

韻は、詩を音楽的に朗詠するときに効いてくるものですから、確かに音楽があるオペラでは、これにこだわる意味はありません。

漢詩の韻

漢詩にも押韻平仄の厳しいルールがありますが、これは中国語で朗誦する場合の効果ですので、日本語の書き下し文で味わう場合には無意味です。

人口に膾炙している王維の『元ニの安西に使いするを送る』では、「塵・新・人」が押韻です。

 渭城の朝雨 軽塵をうるおす

 客舎 青々 柳色新たなり

 君に勧む 更に尽くせ一杯の酒

 西のかた 陽関を出づれば故人無からん

でも日本の詩吟では、結句を〝無からん、無からん、故人無からん。西のかた陽関を出づれば、故人無からん〟と、繰り返すことによって韻のようにして味わうわけです。

前置きが長くなってしまいましたが、このブロンデのアリアでは、韻と音楽が一致した稀有な例といえるでしょう。

オペラ『後宮からの誘拐』第2幕第6場

W.A.Mozart : Die Entführung aus dem Serail K.384

演奏: ジョン・エリオット・ガーディナー指揮 イングリッシュ・バロック・ソロイスツ、モンテヴェルディ合唱団

John Eliot Gardiner & The English Baroque Soloists , The Monteverdi Choir

第12曲 ブロンデのアリア『なんて幸せ、なんて喜び』 

ソプラノ:シンディア・ズィーデン

ブロンデ

なんて幸せ、なんて喜び

私の胸はうれしさでいっぱいよ!

一刻も早く、このお知らせをあの方にお届けしなくては

笑いながら、ふざけながら、

あの方の弱くてくじけそうな胸に、

喜びと幸せをお約束しましょう

(退場)

オスミン酔いつぶし作戦

ペドリロは、恋人ブロンデの喜ぶ姿を見て、何が何でもこの作戦を成功させなければ、とあらためて心に誓います。

作戦は、オスミンに眠り薬入りのワインを飲ませて、酔いつぶすこと。

しかし、失敗したら命はない、死地。

勇気を振り絞り、自分を鼓舞するために勇ましいアリアを歌います。

トランペットが華やかに、彼の勇気を奮い立たせます。

第13曲 ペドリロのアリア『さあ、戦いだ!さあ、武器をとれ!』 

テノール:ウヴェ・ペッパー

ペドリロ

(せりふ)

すべてが無事に終わってくれてたらなぁ!

もう海を遠く沖の方に出て

恋人たちを抱きしめて

この嫌な国を遠く離れていたらなぁ!

しかし、勇気を出さねば

今やらなきゃいつやるのか

ためらう者は負けるのだ!

(アリア)

さあ、戦いだ! さあ、武器をとれ!

ひるむのは臆病者だ

どうして震えてなどいられるか?

命など賭ける勇気はないか?

いや!いやいや、やってやるぞ!

ひるむのは臆病者だ

さあ、戦いだ! さあ、武器をとれ!

トルコ風酒樽叩き

そこに、ターゲットのオスミンがやってきて、なんだこの馬鹿野郎、ずいぶんとご機嫌じゃねえか、とからみます。

ペドリロは『酒さえあれば、奴隷の身もまた楽し、となるのさ。あんたのところのマホメット様は、酒を飲んじゃならんと、つまらん法律を作ったそうだが、そりゃ間違いだ。そうでなきゃ、あんたと俺で、この酒を楽しく飲むっていう手もあったのに』とカマをかけます。

オスミンは、お前と酒だと!くそくらえ!と悪態をつきますが、酒瓶を見て、ゴクッと生唾を飲み込んでいます。

ペドリロは大小2本のワインの瓶を持っており、大きいほうに眠り薬が入っています。

くそくらえ、ばかり言ってないで、少しは利口になりなよ、と言いながら、ペドリロは小さい瓶のワインを飲みます。これはキプロス産の上等なワイン、最高だ、と。

オスミンは警戒しながら、大きいほうも飲んでみろ、と言うので、ペドリロは毒でも入っていると思うのかい、と、ちょっとだけ飲みます。

するとオスミンは、もう我慢ができなくなって、ペドリロから大きな瓶をひったくります。

それでも躊躇するオスミンに『もうマホメット様はお休みで、あんたの酒瓶のことなんか気にしちゃいないさ!』と言って、ふたりで愉快な2重唱を歌います。

この曲についてモーツァルトは手紙に『ウィーン人向きで、何のことはない、ぼくのトルコ風酒樽叩きです』と書いています。

ウィーンの居酒屋、ホイリゲの雰囲気もほうふつとさせる歌です。

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第14曲 ペドリロとオスミンの二重唱『ばんざいバッカスバッカスばんざい!』 

ペドリロ

ばんざいバッカスバッカスばんざい!

バッカスはいい男だった!

オスミン

やってもいいのか?

飲んでもいいのか?

アッラーの神はご覧になっているかな?

ペドリロ

何をためらっているんだよ?

飲めよ、飲んじまいなよ

いつまで考えているんだよ!

(オスミン飲む)

オスミン

とうとう飲んでやったぞ

よくやったもんだ!

俺の勇気はたいしたもんだ!

ふたり

女の子、ばんざい!

ブロンドも、茶色も

女の子、みんなばんざい!

ペドリロ

こいつはうまい酒だ!

オスミン

まったくうまい酒だ!

ふたり

これこそ神の飲み物だ!

ばんざいバッカスバッカスばんざい!

酒を発明したバッカスばんざい!

女の子ばんざい!

歌が終わると、オスミンが酔いとともに、眠り薬が効いてきて、陽気に、そしてフラフラになってきます。

最後には、あれほど憎んでいたペドリロに、『おい兄弟、これはマホメット様に…じゃなくて、太守様には内緒だぞ、頼んだよ、お休み、兄弟…』と言いながら、家に帰っていきます。

まさに、人間関係を改善させ、深めてくれるのは酒の最大の効用です。

扱いを間違えると悪化させることもありますが…。

トルコ人と飲酒

さて、オスミンはイスラムの禁酒の戒律を気にしつつも、ペドリロにそそのかされて飲酒してしまいます。

ムスリムイスラム教徒)は飲酒を禁じられていますが、どの程度厳格に守るかどうかは、国、民族、個人によっても違い、トルコは比較的ゆるいことがこの当時から知られていました。

そもそも、ムハンマドマホメットイスラム教を創始した頃は、アラブ人たちは酒好きでしたので、いきなり禁酒はできなかったようです。

イスラム教が拡がる過程で、酒は人智を惑わし、神や、神に対する礼拝を忘れさせるとして、段階的に禁止になったことが聖典コーランクルアーンからも読み取れるそうです。

トルコ民族はもともと中央アジア遊牧民族で、古代にはさんざん中国の漢民族を苦しめましたが、時代とともに西遷し、西アジアに腰を落ち着けてイスラム教徒となります。

しかし、それまで馬乳酒など、酒が不可欠の生活をしていましたから、禁酒の戒律はあまり守れなかったようです。

酔っ払い皇帝

前回ご紹介したレイマン大帝皇后ロクセナラーナの息子で、第11代スルタンになったセリム2世は、英邁な父に似ない不肖の子といわれ、政務をみずに放蕩と飲酒にふけっていたため〝酒飲み〟〝酔っ払い〟というあだ名をつけられました。

そして、宰相の反対を押し切って、キプロス島に遠征しますが、イスタンブールの市民からは、名産のワイン目当てだろう、と陰口をたたかれます。

ペドリロがオスミンに飲ますのも、キプロス産のワインです。

しかし、キプロスの陥落に危機感を持ったヨーロッパ諸国は、スペインを中心に攻勢をかけ、オスマン・トルコはレパントの海戦(1571年)で敗れ、それから衰退の途をたどることになります。

そしてセリム2世は晩年、ワインを1本空けたのちに、浴場で濡れたタイルに滑って頭を打ち、亡くなります。

飲み過ぎには気を付けましょう…

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セリム2世(1524-1574)

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レパントの海戦が描かれたクラヴィコード

現代のトルコも国民の99%がムスリムですが、共和国となるにあたって、建国の父ケマル・アタチュルクムスタファ・ケマルケマル・パシャ 1881-1938)が政教分離の近代化政策をとったこともあり、日常生活におけるイスラムの戒律はゆるく、特に敬虔な人以外はふつうに飲酒しています。

ラマダン(断食月)のみ禁酒して、そこで信仰心に折り合いをつけている人も多いとか。

トルコの国父、ケマル・アタチュルク

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ムスタファ・ケマル・アタチュルク(1881-1938)

ケマル大統領は、日本ではあまり知られていませんが、トルコ人には大変敬愛されています。

以前ネットゲームをプレイしていて、それには様々な国の人が参加してくるのですが、あるときトルコ人プレイヤーが私たちのグループに入ってきました。

日本人のリーダーがチャットで、トルコをほめようとして『オスマン帝国はグレートだね!強い!』と書き込みました。

するとトルコ人は喜ばず、『オスマン帝国は好きじゃない。尊敬しているのはアタチュルクだ』と返してきました。

ケマル・アタチュルクのことは誰も知らなかったのです。

トルコの人にオスマン帝国をほめるのは、日本人に〝江戸幕府すごいね〟とほめるようなものだったのです。せめて〝坂本龍馬すごいね〟の方がうれしいでしょう。

トルコは、エルトゥールル号事件以来、日本にとても好意を持ってくれている国ですので、こちらももっとトルコへの理解を深めたいものです。

 

今回もお読みいただき、ありがとうございました。

 

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*1:柴田治三郎訳