孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

フランスバロック最大にして最高の作曲家、ラモーとは。ラモー『クラヴサン曲集第1巻』〝プレリュード〟~ベルばら音楽(18)

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ルイ15世

最愛王、ルイ15世の時代はじまる

時計の針を進めまして、ルイ15世(在位1715-1774)の時代に入ります。

その治世は、ルイ14世の74年には及びませんが、58年の長きにわたりました。

ルイ15世は、偉大な曽祖父のような力量は無く、政治は放縦、文化・芸術にも造詣は浅く、力を入れたものといえば〝女性〟だけでした。

有名な愛妾ポンパドゥール夫人には政治も任せ、宰相並みの権限を与えました。

晩年の愛人デュ・バリー夫人と、王太子マリー・アントワネットとの確執は『ベルサイユのばら』でも描かれています。

他にも、自分専用の娼館『鹿の園』をもつなど、その女好きぶりは〝最愛王〟の異名をとりました。

もっとも、アジアの君主には側室がいるのが当たり前で、日本でも明治天皇までは側室がいたわけですから、王様なんてそんなものとも思いますが、そこはキリスト教国。

一夫一婦制をないがしろにするのは神の掟に逆らうことですから、本人にも一応、罪の意識はあったようです。生活を改めることはありませんでしたが。

在世中には破局は訪れませんでしたが、お気に入りの言葉『余のあとには大洪水がくるだろう』に象徴されるように、〝あとは野となれ山となれ〟で享楽的に過ごしました。

予言通り、次の代にはフランス大革命が起こりますが、本人は平和のうちに世を去りました。

世界史をみると、数々の王朝が興亡を繰り返していますが、政治・経済の最盛期が過ぎ、破滅に至る前の無風時代に、文化・芸術が爛熟期を迎える、というのがパターンです。

ルイ15世のフランスもまさにそんな時代で、華やかなロココ芸術が乱れ咲いたのです。

音楽でこの時代を代表するのは、フランスバロック最大にして最高の作曲家、ジャン=フィリップ・ラモー(1683-1764)です。

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ジャン=フィリップ・ラモー(1683-1764)

バロックとは思えないほど斬新で現代的な響き

ラモー生誕は、バッハ、ヘンデル、ドミニコ・スカルラッティたちが生まれた大いなる年、1685年の2年前です。

ラモーは、ほぼ同い年といっていい彼らに、勝るとも劣らない偉大なる巨匠で、私もその音楽を愛してやみません。

実にフレッシュで、現代的といってよいくらい斬新な音楽。

それは、ラモーが作曲家であると同時に哲学者、理論家であり、和声について実に深い研究を行い、論文、理論書を表わしていることが大きな要素となっています。

音楽におけるハーモニーの重要性は、まさにラモーによって見出されたといっても過言ではないのです。

ラモーは、ハーモニーに宇宙の秩序と神秘を見出し、その世界を追い求めて数々の曲を生み出しました。

それには、当時の人が面食らった、耳慣れない和音が満ちていました。

その時代の先をいく挑戦は、現代人の耳にも、クラシックとは思えないほどフレッシュに聞こえるのです。

私もラモーの音楽を知ってからは、その魅力に病みつきになってしまいました。

これまで取り上げてきたフランスのバロック音楽は、ドイツやイタリアに比べてとっつきにくく、一般的には敷居が高くて敬遠されがちでしたが、近年の古楽ブームで見直され、素晴らしい演奏、録音が続々と出てきて、特にラモーはこれからどんどんポピュラーになってくること必定だと思います。

50歳まで下積み!ラモーの生涯

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ラモーの生涯は、音楽家として異色のキャリアでした。

なんと、50歳まで下積み人生で、大きく世に出たのはそれからだったのです。

生まれたのは、スーパーで売っている〝マイユのマスタード〟の産地で、ブルゴーニュ公国の首府、ディジョン

父ジャンディジョンのふたつの教会のオルガニストをしており、音楽一家として最初から音楽教育を受けました。

イエズス会教会学校に入りましたが、そこではローマ教皇直轄の教団ということもあって、生徒によってイタリア・オペラが上演されていました。

そんな縁もあってか、18歳のときに学校は中退してイタリアに行きますが、ミラノに数ヵ月いたのみで、早々に帰ってきてしまいました。

その理由は謎なのですが、ラモー自身は、もっと長くイタリアにいて、オペラの本場ヴェネツィアなどでもっと当地の音楽に触れればよかった、と後悔していたようです。

もっとも、フランスにいても、イタリア様式を学ぶ機会は十分あったようですが。

帰国後、ラモーはオーベルニュ、クレルモン・フェランといった小都市の教会オルガニストを務めます。

50歳までは、日の当たらない人生

しかし、その仕事にあきたらず、契約の最後まで務めるのがイヤさに、わざとすさまじい調子っぱずれの演奏をするなど、まるで中二病のようなことをして大都会パリに飛び出します。

それが23歳のときで、パリでそれまで書き溜めたクラヴサン曲を出版。これがクラヴサン曲集第1巻』ですが、たいして評判にならず、故郷に舞い戻って、父の後を継いでディジョンオルガニストになります。

しかし、弟が自分が好きだった女性と結婚する、というショッキングな事件があって、また故郷を去って、再びクレルモンのオルガニストに。

そして、1723年に再びパリに出るまで、この地にとどまります。

いわば地方に埋もれて薄給で地味な活動をしていたわけですが、その間も、和声の研究を続け、音楽理論を構築する、という大望に取り組んでいました。 

まさに、ドサ回りのたたき上げ音楽家、という一面と、学者肌で、哲学者といってもよい一面をあわせもった人物でした。

性格的にも、頑固で偏屈、実に付き合いづらい人間、という評判が一生ついてまわりましたが、その求道的な、尋常ではない努力とパワーには、ベートーヴェンを思わせるものがあります。

音楽理論の探求

1722年には、ついに念願の、最初の音楽理論『和声論』を出版。

これがそこそこの評判となると、満を持して翌年再びパリに出ます。

1724年には『クラヴサン曲集第2巻』を、1728年には『クラヴサン組曲を出版。

そして、その間1726年、理論書の第2作『音楽理論の新体系』を出版し、これは大きな反響を呼んで、音楽理論家としての名声を確立しますが、同時に多くの論敵も生み出すことになります。

その最大の敵手は、世界史に名高い『社会契約論』の著者、ジャン=ジャック・ルソーでした。

これからのラモーは、音楽創造と論戦に残りの生涯を捧げることになります。

ラモーの運は開けてゆき、同年42歳のラモーは王室音楽家の娘、19歳のマリー=ルイーズ・マンゴと結婚。

私腹を肥やしたとは限らない、徴税請負人

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アントワーヌ・ラヴォアジエ

さらにその人生を運命づけたのは、徴税請負人ラ・ププリニエールとの出会いでした。

徴税請負人とは、政府に代わって税金を徴収する、個人契約の税務署長のようなもので、莫大な手数料を得ることができ、貴族以上の大金持ちでした。

当然民衆からは恨まれ、フランス革命のときには、徴税請負人だったという理由で、偉大な科学者ラヴォアジエが問答無用でギロチンにかけられています。利益は全て科学の発展に使ったのに、と訴えながら。

ラ・ププリニエールは、その利益を芸術・文化の振興や、パトロンとして芸術家の後援につぎ込んでいました。

私的なオーケストラを運営しており、ラモーはその才能を見込まれて、その楽長に任命されました。

そして1733年、50歳にして満を持して、画期的なオペラ『イッポリートとアリシー』を上演し、以後、80歳で亡くなるまでオペラ作曲家として活動したのです。

つまり、作曲家としては、前半生はクラヴサンを、後半生にはオペラを作ったわけです。

では、年代を追って、まずクラヴサン曲から聴いていきたいと思います。

フランスのクラヴサンチェンバロハープシコード)の小品は、クープランが謎めいた標題をもった愛らしい組曲(オルドル)をたくさん作曲し、これまでも聴いてきましたが、ラモーは作品数は少ないものの、見事にその後を継ぎ、素晴らしい曲を生み出しています。

ラモーのクラヴサン曲は、3巻、5つの組曲から成っています。(それ以外にも数曲あります)

クラヴサン曲集第1巻(第1組曲所収)(1706年出版)

クラヴサン曲集第2巻クラヴサン曲集と装飾音法)(第2、第3組曲所収)(1724年出版)

クラヴサン曲集(第4、第5組曲所収)(1728年出版)

順番に聴いていくと、どんどん進化していくのが分かります。

まずは、若い頃の処女作、第1組曲を抜粋して取り上げます。 

ラモー:クラヴサン曲集第1巻(第1組曲 イ短調

Jean-Philippe Rameau:Premier Livre de Pieces de Clavecin

演奏:スティーヴン・ディヴァイン(クラヴサン)Steven Devine

第1曲 プレリュード

第1組曲クープランがまだまだ活躍していた頃の作品で、若い頃の第1作ということもあって、あまり有名な曲は少ないのですが、この前奏曲は人気があります。

虚空に響く孤独な音色は、どこまでも高貴で、心に突き刺さるようです。

アニメの『ベルサイユのばら』で、誰かが死ぬ場面で使われていた、と言っている人がいましたが、未確認です。

でも、確かに運命的なものを感じさせる劇的な曲です。

フランス風序曲の形式通り、前半はゆっくりじっくりと聞かせ、最後は速いテンポになります。

第3曲 第2アルマンド

組曲は定石通り、アルマンドから始まりますが、これは前曲に装飾を加え、展開させたもので、変奏といってもいいでしょう。

右手と左手が呼び交わす切ない旋律が心に沁みます。

第7曲 ヴェネツィアの女

組曲は、アルマンドのあと、クーラントジーグ、サラバンドと続きますが、ここでいきなり標題をもった曲が初めて登場します。

まさにクープランさながらです。

ヴェネツィアの女〟(ヴェネツィエンヌ)という、これも謎のタイトルですが、明るい曲で、仮面をつけて陽気に騒ぐカーニバルを思わせます。

ラモーが5年前のイタリア旅行時、行けばよかった、と後悔していたヴェネツィアへの憧れでしょうか。

この曲のあとは、また組曲の定石に戻り、ガヴォット、メヌエットで締めくくられます。

 

ラモーの世界はこれからです。

 

今回もお読みいただき、ありがとうございました。


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