
パリ・テュイルリー宮殿(1850年の絵)※1871年にパリ・コミューンで焼失
巨星墜つ
1715年9月1日、フランス絶対王政の黄金時代を築いたルイ14世が薨去しました。
貴族たちを、王権に反抗しかねない「領主」から「廷臣」にして骨抜きにし、中央集権を実現しました。
そして、音楽をその統治の道具として大いに利用したのです。
しかし、在位はギネス記録の72年に及び、晩年にはその無理に無理を重ねた拡張政策のツケが相当回ってきていました。
国民は果てしない治世にうんざりし、パリの街角では〝イギリス人を見習おう〟という小唄が流行ったということです。
英国では1649年の清教徒革命で国王チャールズ1世を処刑していたことを指します。フランスで実現するのはずっと後、1793年になりますが。
また、ルイ14世はパリから宮廷をヴェルサイユに移してから、ずっとパリには行かず、ヴェルサイユに閉じこもりっぱなしでした。
貴族、廷臣たちも、音楽家たちもヴェルサイユに張り付きを余儀なくされ、彼らは彼らでうんざりしていました。
ちなみに、ルイ14世は侍医のアントワーヌ・ダカンの『歯は全ての病気の温床である』という自説により、結果的に全ての歯を抜かれてしまいました。
確かに歯周病菌は糖尿病の原因になるなど、あなどれない怖さではありますが、歯自体は必要です。
ポ〇デントなど無い頃ですから、ルイ14世の口臭はひどかったということです。
さらに、咀嚼が十分にできないため、常に消化不良に悩まされ、排便数は1日に14~18回に及びました。
ヴェルサイユ宮殿にはトイレはありませんから、各部屋にある便器で用を足しながら、超多忙な政務をこなしたわけです。
廷臣たちは王に近づくときにはハンカチに香水をしみこませ、鼻に当てたそうです。華やかなヴェルサイユの裏の側面です。
ルイ14世がついに世を去っても、悲しむ者はおらず、せいせいした気分がフランスを覆ったということです。
これは、そんなルイ14世が臨終を迎えるまでの数週間を描いた珍しいテーマの映画です。

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解放の時代

摂政オルレアン公と幼いルイ15世
さて、ルイ14世は長生きだったのと、子や孫が天然痘などで次々に先立ってしまったため、次に位に即いたのはひ孫、ルイ15世でしたが、幼いためオルレアン公フィリップ2世が摂政に就きます。
オルレアン公は宮廷をパリに戻し、ルイ15世は市内のテュイルリー宮殿に住まわせ、自身はパレ・ロワイヤルに居をかまえました。
オルレアン公は軍歴が長く、イタリアに遠征したときにすっかりイタリア音楽に魅せられていました。
そして、自らヴァイオリンやクラヴサンを弾き、オペラの作曲までしたのです。
世替わりによって、音楽界も大きく変わりました。
これまでヴェルサイユに閉じ込められていた音楽家たちもパリにやってきました。
また、貴族たちも、ルイ14世が相次いで起こした征服戦争によって経済的に困窮し、パリで力をつけてきた富裕な商人、つまりブルジョワと持参金目当ての婚姻関係を結びました。
まさに、貴族になりたい成り上がりの商人を描いたモリエール&リュリ作『町人貴族』の世界です。
1722年に12歳のルイ15世は成人式を前にヴェルサイユに移りますが、もう音楽の中心地はパリから動きませんでした。
なぜなら、音楽の消費者が王から市民に移ったからです。
「コンセール・スピリチュエル」開幕!
そんな音楽の新時代を象徴する出来事が、「公開演奏会」つまり、今に続くコンサートのはじまりで、その元祖とされるのが、1725年に設立された演奏会組織「コンセール・スピリチュエル」です。
訳すと、「聖楽演奏会」あるいは「宗教音楽演奏会」ということになりますが、それは、イエスの40日間の荒野での断食修行をしのんで、禁欲生活と精進潔斎を行う四旬節に、オペラなど世俗の娯楽音楽が自粛となる間、宗教音楽に限っての演奏会を行うということで、王の許可を得たことによります。
創始者は、音楽家一族フィリドール家のひとりアンヌ・ダニカン・フィリドール。
テュイルリー宮殿の「スイス衛兵の間」という大広間を使用し、この時期に手の空く王立音楽アカデミー(オペラ座)や宮廷音楽隊に所属する音楽家を駆り出す勅許を得たのです。
そして、一人4リーヴル(今の日本円に正しく直すのは不可能ですが、感覚的には2000~5000円くらい)の入場料を払えば誰でも聴ける、史上初めてのコンサートでした。
曲目は、リュリの後継ぎ、ミシェル=リシャール・ドラランド(1657-1726)が宮廷礼拝堂のために作ったラテン語の宗教曲、グラン・モテ(イタリア語でモテット)が主役でしたが、曲の合間にはちゃっかり流行りのイタリアの器楽曲が挿入されました。
記念すべき第1回コンサートは1725年3月18日。
開幕プログラムは、フランス代表ドラランドのグラン・モテと、イタリア選手代表、コレッリの『クリスマス・コンチェルト』だったのです。
ここでは、そのプログラムを再現し、ドラランドの短いモテと、以前も取り上げたコレッリの『クリスマス・コンチェルト』をもう一度掲げます。
ドラランド:天の女王(レジナ・チェリ)
Michel-Richard Delalande:Regina Coeli
ジェフリー・スキッドモア指揮エクス・カセドラ・バロック管弦楽団・合唱団
Jeffrey Skidmore&Ex Cathedra Baroque Orchestra, Ex Cathedra Choir
第1曲 レジナ・チェリ
Regina coeli laetare, alleluia:
天の女王よ、喜びたまえ、アレルヤ
「レジナ・チェリ」は、カトリックの日々の典礼に使われる聖歌で、聖母マリアに捧げられる4つのアンティフォナ(交唱)のひとつです。
〝天の女王〟または〝天の元后〟と訳され、旧約聖書には異教の神という扱いで記されていますが、カトリックでは聖母マリアのことを指すとされています。
各行の最後にアレルヤ(神を讃える言葉。英語でハレルヤ)がつく、4行の短い讃美歌です。
深みのある曲の多いドラランドの音楽ですが、ここでは軽快で、テノールの二重唱が先導し、合唱が続きます。
第2曲 キア・クェム
quia quem meruisti portare, alleluia:
御身に宿りし方が、アレルヤ
テノールがソロで情感豊かに、マリアがイエスを宿した奇蹟を歌い上げます。
第3曲 レジュレジット
resurrexit, sicut dixit, alleluia:
復活されたゆえ、アレルヤ
テノールとソプラノが、イエス復活の喜びを歌います。
第4曲 オラ・プロ・ノビス
ora pro nobis deum, alleluia.
我らがために神に祈りたまえ、アレルヤ
しっとりとした合唱が、マリアの慈愛を求めて清澄な祈りを捧げます。締めくくりは、これまでより速度を上げたアレルヤで神を讃えます。
このような〝まじめな〟宗教音楽をメインとしながらも、実のお楽しみはイタリアのコンチェルトでした。
コレッリの『クリスマス・コンチェルト』は、最終楽章にイエス誕生の夜の、羊飼いたちの様子を描写したパストラ―レ(田園交響曲)がついているので、少しでも宗教色があるということで、様子見として取り上げられたと思われます。
演奏は前回、前々回に取り上げた『コレッリ賛』『リュリ賛』を素晴らしく聞かせている、アマンディーヌ・ベイエです。
コレッリ:コンチェルト・グロッソ 作品6 第8番 ト短調〝クリスマス・コンチェルト〟
Arcangelo Corelli:Concerto grosso no.8 in G minor, op.6
演奏:アマンディーヌ・ベイエ(ヴァイオリンと指揮)アンサンブル・リ・インコーニティ
Amandine Beyer & Gli Incogniti
第1楽章 グラーヴェーヴィヴァーチェ
トゥッティ(全合奏)による深刻な始まり方ですが、これは、明るい曲の多いコレッリには珍しい劇的な表現です。
イエスの受難に思いを馳せるべき四旬節に合わせて、この曲が選ばれた理由のひとつでしょう。〝まじめな曲を演る〟というのが条件ですから。
続いて、まさに厳粛な雰囲気の繋留音が重々しく奏されますが、ここには楽譜にわざわざ〝弓を十分に保って、書かれている通りに〟と指示があります。
それは、バロック音楽の慣習だった、演奏者の即興による装飾はやめてね、ということなのです。
それだけコレッリがこの箇所にこだわっていたということです。
一転、焦燥感あふれる速い音楽になります。
ソロのチェロの8分音符の上を、ふたつのソロ・ヴァイオリンが絡み合い、くんずほぐれつ走っていきます。
後半はトゥッティで盛り上げていきます。
また一転、前楽章の嵐がうそのように鎮まり、これぞコレッリ、というべき、抒情豊かなアダージョが奏でられます。
と、中間部で再び胸騒ぎが。
・・・それもつかの間、再び穏やかな世界に戻っていきます。
嵐のあとの静けさに、胸がいっぱいになります。
なんというドラマでしょうか。
速めのサラバンドのリズムで、優雅な舞曲になります。
これまで聴いてきたフランスのサラバンドと違い、ストレートに訴えてくる気がします。
第5楽章 アレグローパストラーレ(ラルゴ)
さらに速い、ガヴォットから始まります。
この曲の速い楽章に共通する、焦り感がここに極まります。
救い主に早く来て欲しいという焦燥なのでしょうか。
ソロ・ヴァイオリンが妙技を見せます。
曲は途切れず、そのまま第6楽章に続いていきます。
ハイドンが後に〝告別シンフォニー〟で真似をしました。
「パストラーレ」は、イタリア語で羊飼いを意味する「パストーレ」からきました。
イタリアではクリスマスの朝、羊飼いたちがバグパイプでシチリアーノ(シチリア舞曲)を吹いてまわる習慣があり、そこからクリスマスを象徴する音楽になりました。
もともとはクリスマスとは、のどかで牧歌的な行事だったのです。
他の多くのバロック作曲家が、このようにコンチェルトの最後にパストラーレ楽章を置いて、クリスマスの音楽に仕立てていますが、コレッリのものが最も有名です。
コンサートは止まらない
こうして始まったコンセール・スピリチュエルは大好評、大成功でした。
これまでヴェルサイユ宮殿でしか演奏されなかった音楽を、市民が聴くことができるようになったのです。
また、イタリアやドイツなどの新しい音楽に触れられる貴重な場となりました。
スタートして2年後には早くも、フランス語の世俗声楽曲がプログラムに入っています。
これは、ラテン語の宗教曲のみ、という許可の条件を破っていますが、王自身も楽しんでおり、もはやこの流れは止まりませんでした。
「聴衆」という新しい絶対君主に音楽家が従う時代がやってきたのです。
今のアーティストたちも、音楽で生計を立てていくためには、「聴衆」という暴君に気に入られなければならないわけです。
それは、場合によっては、王や皇帝たちよりも残酷で気まぐれといえるかもしれません。
新人の登竜門として
ともあれ、「コンセール・スピリチュエル」は、新進の音楽家にデビューの場を与え、今の国際コンクールのように、新たなスターを生み出す場ともなりました。
1736年にはプログラムにヘンデルの名が現れ、1743年にはヘンデルのコンチェルト・グロッソが演奏された記録があります。
1764年からはハイドンのシンフォニーが取り上げられて大喝采、1778年には就活のためパリを訪れたモーツァルトの〝パリ・シンフォニー〟が初演されたのはこのブログの最初あたりに書きました。
www.classic-suganne.com
「コンセール・スピリチュエル」の活動はフランス革命によって中断しますが、ナポレオンの失脚後に復活し、1821年にはベートーヴェンのシンフォニー第2番を初演することになります。
まさに、コンサートの元祖にふさわしい業績なのです。
こちらも、ルイ15世時代の「コンセール・スピリチュエル」の音楽を再現したアルバムです。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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