バッハが演奏したコーヒーハウス
前回は、コーヒーの起源と、ヨーロッパに入ってきたプロセスに触れ、「コーヒーハウス」が、英国では近代市民社会への扉を開き、フランスでは革命の口火を切ったさまをみました。
今回はドイツです。
北ドイツへのコーヒー輸入の道筋は、前回ご紹介した4ルートのうち、〝オランダ東インド会社ルート〟です。
ヘンデルと違ってイタリアに行ったことのないバッハが、ヴィヴァルディなど、イタリア最先端の音楽を知ったのは、当時、世界の情報と物産が集まったアムステルダム経由でしたが、コーヒーも同様に、アムステルダムからハンブルクを経て入ってきたのです。
音楽もコーヒーも、嗜好品として同じ流れをたどっているのが面白いですね。
ライプツィヒには、18世紀前半には8軒のコーヒーハウスがあり、そのうち3軒で音楽がライブ演奏されていたということです。(当時はライブしかありませんが…)
ライプツィヒのコーヒーハウスは、英国でのように、情報交換、議論、商取引の場であったと同時に、音楽など文化・芸術の発信源でもあったわけです。
バッハが、コレギウム・ムジークムを指揮して毎週金曜日の夜、いわば〝花金〟に演奏していたツィンマーマン経営のコーヒーハウスは、カタリーナ通り14番地にあり、1715年頃に建てられました。
4階半建てのバロック建築で、ワンフロアに2部屋があり、それをつなぎ合わせていました。
1部屋は8×10m、もう1部屋は5.5×10mだったということですから、あわせて135平米、ざっと80畳間くらいの広間ということでしょうか。
ここにオーケストラと聴衆が集まったわけで、テーブルやイスもあったでしょうから、かなり緊密な空間だったでしょう。
バッハはここで、これまで取り上げたコンチェルトやフランス風序曲の数々を演奏しましたが、まさにコーヒーにちなんだ、コーヒーハウスの出し物として作曲されたのが、有名な『コーヒー・カンタータ』です。
バッハはなぜオペラを作曲しなかったのか?
〝カンタータ〟は、その名の通り〝歌われるもの〟といった意味ですが、ジャンルとしては、一定の筋があり、独唱や合唱を組み合わせた比較的大規模な作品を指します。
レチタティーヴォで物語が進められていくのはオペラと同じですが、演技はありません。
何といってもバッハの作品は、教会での典礼や行事のために書かれた膨大な「教会カンタータ」が有名ですが、宗教とは関係ない内容の「世俗カンタータ」も何曲か書いており、このカンタータはそのうちの1曲です。
内容は、喜劇風の〝小噺〟ですが、オペラを約50曲書いたヘンデル 、約40曲書いたテレマン に比べて、1曲も書かなかったバッハにあっては、貴重な作品です。
〝バッハがオペラを書いたら、こんなだったかも〟と想像させてくれる曲なのです。
では、バロック音楽の真髄ともいうべきジャンルであるオペラを、バロックの大家であるバッハがなぜ書かなかったのでしょうか。
確かに、数々の教会カンタータや『マタイ受難曲』をはじめとするバッハの宗教音楽の荘厳、厳粛さに触れると、荒唐無稽な神話やくだらない色恋沙汰がテーマになりがちなオペラは、とてもバッハには似合わない、と思う人は多いでしょう。
ベートーヴェンもオペラからは縁遠く、『フィデリオ』1曲しか書きませんでしたが、これは芸術的理由からでした。
ベートーヴェンは、モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』や『コジ・ファン・トゥッテ』の〝不道徳〟な内容に我慢がならず、〝モーツァルトはくだらない作品にせっかくの才能を浪費した〟といって残念がりました。
〝音楽性の違い〟ってやつです。
一方で、ベートーヴェンが満を持して作曲した『フィデリオ』は、貞淑な妻がわが身を犠牲にして夫を救う、という〝崇高〟な筋書きでしたが、ほとんど聴衆受けはせず、商業的成功は収めませんでした。
しかし、自身の芸術的ポリシーに基づいて作曲する、というのは、ベートーヴェンが近代市民社会を背景に始めたことですので、バッハの時代にはありえません。
職人バッハは、注文さえあれば、どんな曲でも作曲できました。
オペラを作らなかったのは、単に〝頼まれなかったから〟だと思います。
バッハのこれまでの職場は田舎の宮廷ばかりですから、大都市の華であるオペラ劇場そのものがありませんでした。
ライプツィヒには、かつてオペラ座が存在し、盛んにドイツ語オペラが上演されていたのですが、バッハが来る直前、1720年には経営的に行き詰まり、閉鎖されていました。
これが存続してたら、バッハが作品を提供したのも十分ありえることです。
〝自分はあらゆる作品を作れる〟と自負していたバッハが断ることは考えられません。
もちろん、世間的にウケるかどうかは別で、ヘンデルやラモー、モーツァルトのように、聴衆の気まぐれに苦しめられたかもしれませんが。
でも『コーヒー・カンタータ』を聴くと、しゃれたオペラを作っていたのではないか、と想像がふくらみます。
バッハには珍しい、愉快な曲
さて、『コーヒー・カンタータ』の内容ですが、登場人物は3名。
そのうち1名は、受難曲のエヴァンゲリスト(福音書記家)のような〝語り部〟で、実質は、父(バス)と娘(ソプラノ)の会話がすべてです。
父の名はシュレンドリアン氏で、〝旧弊氏〟などと訳されますが、〝古い石頭の頑固親父〟といったような意味です。
娘はリースヒェンといい、これが大のコーヒー狂いで、朝から晩まで飲んでいて、それを親父が怒ってやめさせようとするのが、このカンタータの筋書きです。
前回の記事では、英国の妻たちが、夫のコーヒー・ハウス通いをやめさせるよう、コーヒー禁止運動を起こした、という話を取り上げましたが、これは逆で、娘のコーヒー好きを父親がとがめているのです。
当時のドイツでもコーヒーは男の飲みものとされていたはずですが、だんだんとそれが家庭にも広がり、女性も嗜む時代になっていったようです。
古臭い考えの親父はそれが気に入らず、〝コーヒーなんて若い娘の飲むもんじゃない〟と説教。
しかし娘は、頑固親父の娘だけあって、頑として聞き入れません。
親父は、外出禁止にするぞ、服や装飾品を買ってやらないぞ、などと脅しますが、娘は屈しません。
そこで最後の手段、結婚禁止を言い渡すと、娘は降参。
逆に、コーヒーはもう飲まないから、早く素敵なお婿さんを探してきて、と父親のお尻を叩きます。
当時は結婚は親が手配するものだったようです。
しかし娘は内心〝コーヒーを自由に飲ませてくれることを、相手に結婚の条件として約束させればいいわ〟とほくそ笑む、というオチです。
そして、女だってみんなコーヒーが大好き、というコーヒー賛歌で終わります。
まさに、コーヒーハウスのCMソングのようなもので、女性もどんどんコーヒーを飲みましょう、〝女が飲むもんじゃない〟なんて価値観は古いですよ、という内容なのです。
当時、女性がコーヒーを飲むと不妊になる、などといったデマも流れていたので、自身もコーヒー好きだったといわれるバッハも、コーヒー普及に一役買ったというわけです。
それでは、曲を聴いていきましょう!
バッハ「コーヒー・カンタータ」BWV211『おしゃべりはやめて、お静かに』
Johann Sebastian Bach:Coffee Cantata, BWV211 “Schweigt stille, plaudert nicht”
演奏:クリストファー・ホグウッド指揮(チェンバロ)&アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック、エマ・カークビー(ソプラノ)、ロジャース・カヴィ・クランプ(テノール)、デイヴィッド・トーマス(バス)
Christopher Hogwood & Academy of Ancient Music, Emma Kirkby, Rogers Covey-Crump, David Thomas
語り部
おしゃべりはやめて、お静かに
今から始まることの次第をお聞きあれ
ほら、その名もいかめしい、シュレンドリアン(古臭い頑固親父)氏がお出ましだ
娘のリースヒェンの首根っこをぐいっとつかんで
まるでミツバチの巣をひっつかんだ熊のよう
どんな仕打ちを娘に受けたのか
理由はすぐに分かりましょう
まず、語り部のテノールがレチタティーヴォで、〝おしゃべりはやめて、お静かに〟と呼びかけます。
まさに、議論やおしゃべりが白熱していた当時のコーヒーハウスを彷彿とさせてくれます。
おもむろに出し物が始まるよ~ということで、拍手が巻き起こったことでしょう。
頑迷オヤジが、娘を追いかけて入場してきます。
第2曲 アリア(バス)
シュレンドリアン
さても子供というやつは
厄介千万、きわまりない
毎日毎日、口をすっぱくして
娘のリースヒェンに言い聞かせても
右から左へ聞き流しおる
オヤジは自分の言うことをきこうとしない娘に手を焼いているさまを歌います。弦のリトルネッロが、親のイライラを見事に表現しています。自由なダ・カーポ形式のアリアです。
シュレンドリアン
この不良娘め、はねっかえりめ
ああ!いつになったらお前はわしの言うことをきいて
コーヒーをやめてくれるのか!
リースヒェン
お父さま、そんなに厳しくおっしゃらないで!
もしも私が日に三度
いつものコーヒーを飲めなくなったら
それこそ私つらくって
干からびたヤギの肉みたいになっちゃうわ
娘はオヤジの怒りなどまったく恐れず、コーヒーがなかったら死んじゃう、と言い、小粋なアリアを歌います。
第4曲 アリア(ソプラノ)
リースヒェン
ああ!コーヒーのおいしさったら
千のキッスより甘く
マスカットワインより優しい
コーヒー、コーヒー
あなたなしではいられない
私に何かしてほしいなら
コーヒー淹れてくれるだけで十分よ
娘のアリアは、フルートのオブリガートがついたロ短調で、バッハのまさに〝鉄板〟の曲です。先のオヤジのアリアがニ長調なので、ふたりは対立しながらも、やはり家族ということで、親近調が選ばれているのです。ドイツは甘い白ワインが有名ですが、それよりもコーヒーが美味しい、ということです。また、甘さが強調されているので、当時は砂糖をたっぷり入れて飲んでいたこともうかがえます。暗く重い調をあえて選んだことで、コーヒーへの愛が、気高くも切なく歌われます。
シュレンドリアン
お前がコーヒーをやめないのなら
パーティーにも行かせないぞ
いや、外出だって許さん
リースヒェン
ええ、けっこうよ!
でもコーヒーだけは許してね!
シュレンドリアン
何という態度だ、生意気娘め!
流行りのスカートももう買ってやらないぞ
リースヒェン
それでも平気よ
シュレンドリアン
窓辺から町を眺めるのも禁止だ!
リースヒェン
なんでもないわ
でもお願い、コーヒーだけは許してね!
シュレンドリアン
もうわしのこの手で
金や銀のリボンを帽子につけてやることもないぞ!
リースヒェン
ええ、それでもいいわ、お父さま!
でも私の楽しみだけは取り上げないで!
シュレンドリアン
なんと手に負えない娘だ、リースヒェンめ
コーヒーのほかには何もいらんというのか?
娘のアリアを苦々しく聴いていたオヤジは、様々に娘を脅します。歌詞からは、それまでオヤジがどれだけ娘を溺愛し、甘やかしていたかも暗示され、わがまま娘に育ってしまったのも自業自得…というわけです。
第6曲 アリア(バス)
シュレンドリアン
わがままで自分勝手な娘ども
言うことをきかせるのもひと苦労
だが、最後の泣き所をグッと突けば
おお、そうだ、きっとうまくいくだろう
ホ短調、通奏低音のバッソ・オスティナーソだけを伴奏としたアリアで、オヤジの絶望感を表わしています。しかし、オヤジは最後の手段を思いつきます。
シュレンドリアン
では聞くがよい、この父の言うことを!
リースヒェン
何でもおっしゃって
でもコーヒーのこと以外ならね
シュレンドリアン
そうか、それなら覚悟せい
一生結婚できぬとな
リースヒェン
あら!お父さま、結婚ですって!
シュレンドリアン
そうだ、結婚させんと言っておる
リースヒェン
私がコーヒーをやめないうちは?
まあそれなら!コーヒーもこれかぎり!
お父さま、聞いて
私はもう決して飲みません
シュレンドリアン
やったぞ、それならお前にいい婿殿を見つけてやろう!
オヤジの最後通牒は、結婚させない、ということでした。当時の結婚は、親の許可はもちろんのこと、見合い話も親頼みだったようです。これには娘もあっさり降参。それどころか、逆に父親に、早く素敵なお婿さんを探してきて、と急かします。
第8曲 アリア(ソプラノ)
リースヒェン
きょうのうちにも、お父さま
どうかそうしてくださいな!
ああ、素敵なだんなさま!
それこそ、ほんとの私の願いなの!
コーヒーやめたご褒美に
話がトントン拍子にうまく進んで
今夜ひとりでベッドに入る前に
いいひとが見つかりますように!
ト長調で、チェンバロが通奏低音の域を超えてオブリガートの役割を果たし、娘の結婚に対する憧れと、逸る気持ちをきらびやかに表現します。きょう中に、きょう中に、とせがむ様は、コーヒーよりもしょせん男か!と聴衆を沸かせたことでしょう。
語り部
こうしてシュレンドリアン氏は
その娘リースヒェンのために
ただちに花婿探しに出かけました
しかし、リースヒェンはそっと独り言
〝どんないい男性が現れてもすぐには家に入れないわ
『私の好きなときにいつでもコーヒーを飲んでいい』
と約束して、結婚証書に書いてくれなくちゃ〟
この曲の歌詞は、当時のライプツィヒの流行詩人で、『マタイ受難曲』の詞も書いたピカンダー(1700~1764、本名はクリスティアン・フリードリヒ・ヘンリーチ) ですが、実は彼のテキストは前曲までで、この第9曲と第10曲は、誰の手によるものなのか不明なのです。しかし、このくだりが無いと、物語のオチがつきません。もしかすると、バッハ自身が書いたのかもしれません。
第10曲 合唱(ソプラノ・テノール・バス)
猫にゃネズミ捕りやめさせられない
娘にゃコーヒーやめさせられない
ママがコーヒー好きなら
おばあちゃんも大好き
なのに娘だけやめさせられるわけがない!
合唱なので、シュレンドリアン氏も加わって、フルートの音色も楽し気に、コーヒー賛歌を歌います。娘だけ禁じても、お母さんもおばあさんも好きなのだから、コーヒーの縁は切れないよ、と愉快に結ぶのです。
当時、この曲を楽しみながら飲むコーヒーの味は、格別だったことでしょう。
こちらの全日本コーヒー協会のHPにさらに詳しい曲の解説があります。
http://coffee.ajca.or.jp/webmagazine/wonderland/music/music70
自筆譜のマグカップを見つけました。これでコーヒーを飲みたいものです(笑)
フリードリヒ大王とコーヒー
『コーヒー・カンタータ』は人気曲となり、ドイツ各地に広まって演奏された記録が残っています。
しかし、その後のドイツではコーヒーは受難の歴史をたどります。
バッハの次男、カール・フィリップ・エマニュエル・バッハが仕えたプロイセンのフリードリヒ大王もコーヒー好きでしたが、シャンパンを入れて沸かし、最後に胡椒をかけて飲んだということです。さすが英雄、真似できない飲み方です…
フリードリヒ大王は、オーストリア女帝のマリア・テレジア、フランス王の愛妾ポンパドゥール夫人、ロシアのエリザヴェータ女帝の、3人の女性権力者による〝3枚のペチコート作戦〟で包囲され、苦戦を強いられますが、軍国主義の富国強兵策で対抗します。
その中で、国民のコーヒー消費により、アムステルダムから年間70万ターラーもの大金が流出するのを問題視し、国民に対し、コーヒーには毒がある、と言いふらしました。
しかし、同じくフリードリヒ大王が国民食とするべく普及奨励していたじゃがいもにも、芽に毒があるので、あまり説得力がありませんでした。
それでも、無理矢理コーヒー禁止令を出すなりしたので、チコリーやテンサイなど、苦い作物や、あらゆる穀物を焦がすことで、〝代用コーヒー〟を作ることがドイツでは広まっていきました。
フリードリヒ大王の死後、これが役に立つときがきます。
それは、ナポレオンの大陸封鎖です。
英国を経済的に孤立させるための政策ですが、これによって、ヨーロッパ大陸にはコーヒーが入ってこなくなりました。
そのため、ドイツの代用コーヒーは一大産業となり、〝ドイツ・コーヒー〟といえば代用コーヒーを指すようになり、ヨーロッパ中に広まりました。
もっとも、コーヒーのもつ覚醒作用はカフェインによるもので、これはヨーロッパに従来ある作物には一切含まれない成分だということは、1819年に、文豪ゲーテからもらったコーヒー豆を分析したフルードリープ・ルンゲによって発見されました。
一方、密輸は横行しており、〝ペストによる死者のもの〟とされてハンブルクの港に持ち込まれ、検査を逃れた棺の中身はコーヒーだった、というエピソードもあります。
しかし、ナポレオン時代、本物のコーヒーは庶民には手の出ないものとなってしまいました。
ベートーヴェンは、一杯のコーヒーを飲むのに、豆を必ず60粒数えて淹れたといわれています。
これは彼の偏屈さや几帳面さを示すエピソードというより、コーヒーの貴重さを示す話なのかもしれません。
当初、人民のために戦うナポレオンを尊敬し、『シンフォニア・エロイカ(英雄交響曲)』を彼のために作曲したベートーヴェンでしたが、自分で皇帝に即位したときいて、怒って楽譜の表紙を破いた、というのは有名な話ですが、〝奴はコーヒーの値段まで高くしやがって…〟と毒づきながら豆を数えていたのかも。
後にロシア遠征で敗けたナポレオンを、ドイツ連合軍が破って失脚に追い込んだライプツィヒの戦いについて、カール・マルクスは『砂糖とコーヒーの欠乏が、ドイツ人をナポレオン打倒に立ち上がらせた』と評しています。
確かにドイツ人のコーヒー好きもかなりのもので、晩年、貧窮の底にあったモーツァルトの遺品目録の中にも、2つのコーヒー・ミルが含まれています。
ドイツ人からコーヒーを奪ったナポレオンは、戦い破れ、大西洋の絶海セント・ヘレナ島でその生涯を閉じますが、その最後の日にもコーヒーを欲しがったということです。
彼の部下の証言です。
その朝、彼はコーヒーを飲ませてくれと20回ほども頼んだ。
『だめです』
『医者はスプーン1杯ならば、許してくれるのではないだろうか?』
『だめです、とにかくいまはだめです。あなたの胃は大変悪くなっているから、おそらく吐いてしまいますよ』*1
スプーン1杯だけでも、とは、なんともあわれな英雄の末路ですが、ヨーロッパ人に、そして世界の社会、文化に、コーヒーがこんなに影響を与えるなんて、〝アラブの偉いお坊さん〟はとても想像できなかったに違いありません。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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