宮廷の寵児に、嫌がらせの数々
時計職人から、一気に国王の姫君たちのお気に入りにまでなった、カロン・ド・ボーマルシェ。
そんな宮廷の寵児には、廷臣たちの嫉妬や陰謀、陰口が待っていました。
ある貴族は、ボーマルシェに恥をかかせようとして、自分の懐中時計が壊れたから、直してくれたまえ、と満座で迫ります。
お前はしょせん職人上がりではないか、というわけです。
ボーマルシェは、自分不器用ですから、と辞退しますが、貴族はここぞとばかりに強要します。
すると、彼はわざと手から時計を落とし、高価な時計は床で壊れてバラバラに。
「ほらご覧なさい、自分は不器用だからと申したではござらぬか」と、呆然とする貴族を残してシレっと立ち去ったということです。
また、ボーマルシェを贔屓にしていた国王の姫君たち(メダム)に、ボーマルシェは父親から勘当されているのですよ、と告げ口をされた際には、父をヴェルサイユ宮殿に連れてきて、親し気に案内し、姫君の目に止まるように演出までして打ち消したのです。
大金持ちの養子に!
さらに、あるとき、パーリ・デュヴェルネーという大金持ちと出会いました。
彼はフランス王国軍の御用商人として巨万の財を築いたのですが、国王ルイ15世に不興を買ってしまい、自分が創った士官学校を王が無視するのに困っていました。
ボーマルシェはその解決に一役買い、王の姫君たちに士官学校視察を持ち掛け、見事に成功させました。
有意義な時間を過ごした姫君たちは、さっそく国王にも訪問を勧め、娘たちに促されたルイ15世はついに学校を訪問。
士官学校が公的なものと認められ、デュヴェルネーは窮地を脱したのです。
これを恩に着た彼は、ボーマルシェを息子のように遇し、遺産相続人のひとりに指名し、終生莫大な援助を欠かさなかったのです。
スペインに乗り込み、姉の名誉回復!
その後、彼は、スペインに住む自分の姉が、クラビーホという男に婚約破棄をされたときいて、デュヴェルネーに旅費と工作資金を工面してもらい、単身スペインに乗り込みます。
そして、クラビーホに婚約履行を迫り、いったんは承諾させますが、その後、その婚約者は逃げ回ったり、先延ばしにしたり、小細工を弄します。
ボーマルシェはこれをひとつひとつつぶし、最後にはスペイン宰相にまで訴えて、クラビーホの社会的地位を奪ってしまいます。
この冒険譚は、みずから旅行記にして出版し、大人気となり、若いゲーテにも影響を与えます。
のちの「セビリアの理髪師」「フィガロの結婚」の、権力者の裏をかいたり、陰謀を覆したりする話は、実体験を元にしているのです。
両作品とも、舞台はスペインですが、それはこのスペイン旅行の実体験が影響しているのです。
面白くないわけがありません。
遺産をめぐって裁判、女性をめぐって取っ組み合い
スペインから戻ってきたボーマルシェを待っていたのは、恩人デュヴェルネーの死でした。
子供がおらず、ボーマルシェを息子のように思っていた彼は、遺言で財産の多くをボーマルシェに遺贈していましたが、何の血のつながりもない、胡散臭い男の相続には、親戚がいちゃもんをつけてきました。
そして、幾多の裁判を経て、ついに敗訴。
相続できないどころか、詐欺師として莫大な課徴金を課されることになってしまったのです。
さらに、ひとりの女性をめぐって、ショーヌ公爵と裁判になり、異常な性格だった公爵は家にやってきて、ボーマルシェに飛び掛かり、顔に爪を立てて血だらけにし、彼も反撃して殴り合いとなりました。
公爵の方に非がありましたが、相手は大貴族。
喧嘩両成敗で、双方とも投獄の憂き目をみたのです。
裁判に負けるは、投獄されるは。
まさに人生最大のピンチです。
お上のご威光に逆らうと…
喧嘩両成敗といっても、ボーマルシェは役人とはいえ爵位を持たない市民、相手は大貴族。
当時としては、それでも画期的なことでした。
しかし、ボーマルシェには、正義、その表れとしての法の裁きは、身分や階級で左右されたり、手心を加えられたりするべきではない、という信念がありました。
日本でも江戸時代、代官や藩主の横暴に対し、度々一揆が起こり、農民が幕府に直訴したこともありました。
幕府の調査の結果、代官や藩主に非があった場合、彼らは罰せられましたが、農民の方も、たとえ正しくても「お上の威光を恐れず上訴した罪」によって、代表者は見せしめとして打ち首獄門、あるいは磔になりました。
問答無用で上が正しい、という中世とは違い、ヨーロッパでも日本でも、近世になれば上もちゃんと裁かれる例も出てきましたが、下も同時に罰せられて、秩序と体制維持のためバランスが取らるということはあったのです。
ボーマルシェの投獄にも、そんな例があり、宮内大臣ラ・ヴリイエール公爵は彼を危険人物とみて、なかなか出獄を許しませんでした。
出獄できなければ、先に負けた裁判の控訴もできません。
彼は宮内大臣に、早く釈放してくれるよう上書しますが、そこには『正当な言い分を持つという大きな過ちによって私は処罰されたのです。*1』と書かれていたので、余計に大臣の不興を買いました。
八方ふさがりの中、獄中のボーマルシェに、無署名で次のような忠告の手紙が届きます。
『市民として、正当な権利を奪われたといって訴える限り、宮内大臣の態度は変わらない。絶対王政下にあっては、権力者には恩赦を乞い、卑下した態度を示すことが必要だ』
ボーマルシェの悔しさはいかばかりか。
彼がのちに「フィガロの結婚」で、貴族の傲慢さをケチョンケチョンにやっつけるのは、ここに原点があります。
ボーマルシェは、しぶしぶ宮内大臣に、不興を買った自分の行動を悔い、ひたすら恩赦を求める卑屈な手紙を書きました。
すると効果てきめん、彼は保釈されたのです。
裁判官に会うのに金が必要?
さっそく、彼は起死回生を狙って、とても不利な状況の中、控訴します。
控訴審の裁判官はグズマン判事。
彼は、裁判を有利に進めるべく、判事に面会を求めます。
当時、贈収賄は犯罪でしたが、関係する判事への面会は自由でした。
しかし、何度訪問しても、判事は居留守を使って会ってくれません。
途方に暮れるボーマルシェに、判事の家に出入りする出版業者、ルジェ氏が声をかけます。
ルジェは、グズマン判事の妻に贈り物をすれば、面会の便宜を図ってくれるだろう、と助言し、仲介役を買ってでます。
ボーマルシェは致し方なく、ルジェの言うままに、ルイ金貨100枚を渡します。
その結果、ようやく判事に会えたボーマルシェは、事情を説明することができました。
ところが、もう一度面会を求めたところ、夫人からまた贈物を要求されます。
ボーマルシェは、ダイヤモンドつきの時報装置つき時計を夫人に渡しましたが、さらに、書記に渡すからといって15ルイドールを要求されます。
ところが、全て条件に従ったのに、もう判事には会えず、門前払い。
そうこうするうち、夫人からは、もし判決前に会えないようであれば、もらった金や贈物はすべて返す、と連絡がありました。
これは、敗訴するからでは…?
嫌な予感は的中、控訴審の結果は、ボーマルシェの敗訴でした。
強欲な判事夫妻を敵に回して
グズマン判事夫人は、後ろめたかったのか、書記に渡した15ルイドール以外を返却してきました。
ボーマルシェは今度こそ窮地に陥ります。
宮内大臣の判断によって、保釈から正式な釈放になったものの、莫大な賠償金を背負い、地位も名誉も失って路頭に迷う事態に追い込まれたのです。
ボーマルシェは、窮余の策として、グズマン夫人が未返却の15ルイドールの返却を求めました。
夫人としては、これは夫の書記の事務経費であって、自分は関係のない立場であると釈明しましたが、ボーマルシェとしては、それには納得できない、として、判事夫妻の批判キャンペーンを始めます。
彼はパリの社交サロンを渡り歩いて、グズマン夫妻が、面会をたてに金品を巻き上げるアコギな連中だと言い触らします。
これに驚いたのはグズマン夫妻。
さっそく反撃を開始します。
ボーマルシェの間に入っていたルジェ氏に、『ボーマルシェは判事を買収するために金貨100ルイや高価な時計をルジェに渡したが、グズマン夫人に拒絶され、ルジェは仕方なくこれをボーマルシェに返却した』という虚偽の陳述書を作成させ、これを証拠として高等法院にボーマルシェを告訴したのです。
贈賄未遂罪は、死刑以外の刑罰は何でも課せられる可能性がある重罪。
お金や贈物を出したことは事実ですから、ボーマルシェにとって不利な条件ばかりです。
自分がマスコミとなって、世論を味方に!
いよいよ、高等法院で裁判開廷。
かわいそうなのはルジェ氏で、顧客であるグズマン夫妻に頼まれてウソの陳述書を出したものの、法廷で追及されては、一市民としてはこれ以上耐えることはできませんでした。
ついに虚偽であることを認めます。
しかしそれでも、被告は判事ですから、裁判所は自分を守る意味でも、判事の非を簡単に認めるとは考えられず、身内をかばうことが予想されました。
さらにこの裁判は非公開でしたから、裁判所はいくらでも闇に葬ることができました。
ボーマルシェは先手を打ち、世論を味方にすることにしました。
彼にとってわずかに有利なのは、夫人が15ルイドールを返していないこと。
この少額が命綱となりました。
ボーマルシェは、自分にふりかかった一連の事件を、38ページの「覚書」として出版します。
卓抜した筆致で、グズマン夫妻の強欲ぶりを、まるで喜劇のように面白おかしく書いたのです。
この〝ルポ〟は大評判となり、1週間で売り切れて即増版。
パリ中のカフェ、社交サロン、宮中で話題となったということです。
彼はさらに続編も出し、そこでは、『夫に会いたいのなら金を寄越せ』という夫人の強欲ぶり、そして不利になったら開き直って『贈賄罪だ』と訴えてくる、という夫妻の理不尽さが、理路整然と述べられていました。
グズマン判事も、自分で反論を書き、夫人の名前で発表しますが、いかにも裁判官が書いたような文章で、夫人名で出したことも世論の嘲笑を浴びます。
新聞の中にはボーマルシェの批判をする記事も出ましたが、彼は第3の覚書を発行し、すべてについて冷静に反論し、さらに公権力の腐敗を糾弾します。
そして最後に出された第4の覚書は、自分の半生も振り返り、皮肉と諧謔と嘲弄が入り混じった、じつに面白い読み物で、いまやボーマルシェはパリで大人気のジャーナリストにして文筆家となっていました。
ヴォルテール、ジャン=ジャック・ルソーといった当代一の啓蒙思想家たちも、ボーマルシェを賞賛します。
ルイ15世の愛妾デュ・バリー夫人は、ボーマルシェとグズマン夫妻の裁判を滑稽な道化芝居に仕立て、ヴェルサイユ宮殿で何度も上演して楽しんだといわれています。
いよいよ、運命の判決!
パリ中、いや、今や全ヨーロッパが注目する判決の日。
高等法院の判事たちは、誰も起きていない朝6時に入廷しますが、朝8時には法院中の広間は人々で埋め尽くされています。
審理は紛糾し、判事たちは、裁判官を笑いものにし、その権威を失墜させたボーマルシェを何とか敗訴にしたいものの、裁判所を取り巻き、判決を今か今かと待ち望んでいる群衆の反発を恐れて、なかなか結論を出せません。
12時間の審理の末、出された判決は以下のものでした。
グズマン夫人は譴責処分および15ルイドールの返却、ただし金は貧者への施しに使われる。ボーマルシェも同じく譴責処分と「覚書」の没収焼却。また両者ともに貧者への施し金を義務付ける。グズマン判事は高等法院判事を解任。出版業ルジェは説諭。
また「喧嘩両成敗」で、ボーマルシェも譴責や著書の発禁処分を受けましたが、贈賄未遂という重罪は免れ、訴えたグズマン判事は職を失ったのですから、まずは勝訴といえました。
判事たちは、群衆の怒りを恐れて裏口からこそこそと退出。
ボーマルシェはパリの市民から凱旋将軍のように迎えられ、コンチ大公やシャルトル公爵といった大貴族は彼の勝訴を祝って盛大な祝宴を催した、ということです。
高等法院は絶対王権の牽制機関でもありましたから、王や大貴族はその失点を喜んだ面もありました。
一方、この裁判で一躍有名人となったボーマルシェですが、譴責処分は公民権剥奪の意味もありましたから、さらに挽回の必要がありました。
そんな彼に、なんと国王ルイ15世から密命が下ります。
それは次回にして、モーツァルトのオペラ『クレタの王イドメネオ』の続きを聴きましょう。
※イタリア語表記、()内はギリシャ語
イドメネオ(イドメネウス):クレタの王
イダマンテ:イドメネオの息子
イリア:トロイア王プリアモスの娘
エレットラ(エレクトラ):ミケーネ王アガメムノンの娘、イピゲネイア、オレステスの妹
アルバーチェ:イドメネオの家来
Wolfgang Amadeus Mozart:Idomeneo, Re di Creta, K.366 Act.1
演奏:ジョン・エリオット・ガーディナー(指揮)イングリッシュ・バロック・ソロイスツ、モンテヴェルディ合唱団、アンソニー・ロルフ・ジョンソン(テノール:イドメネオ)、アンネ・ゾフィー・フォン・オッター(メゾ・ソプラノ:イダマンテ)、シルヴィア・マクネアー(ソプラノ:イリア)、ヒラヴィ・マルティンペルト(ソプラノ:エレットラ)、ナイジェル・ロブスン(テノール:アルバーチェ)、グレン・ウィンスレイド(バス:祭司長)【1990年録音】
(レチタティーヴォ)
イリア
(囚われのトロイア人が連れてこられるのを見て)
敵の猛威を逃れたトロイアの哀れな生き残り…
イダマンテ
いま、わたしがあの足かせを取り去り、
すぐ皆さんに安らぎを与えましょう
(独白)
ああ、なんと、同じことが自分のためにできぬとは!)
イダマンテ
鎖を解いてやりなさい
そしてきょうこの日、
われらがクレタの忠臣たちよ、
ふたつの栄光ある民族が、
真の友情に結ばれて和合するのを、
世に見せるとしよう
よいか、ヘレネはギリシャとアジアに武器を取らせたが、
今、新たな素晴らしい女性が、
ヘレネにも増して美しく優しい王女が、
今、アジアとギリシャに武器を降ろさせ、
和睦させてくれるのだ
敗戦国トロイアの捕虜が連れてこられ、トロイアの王女イリアはイダマンテに、この哀れな姿を訴えます。
クレタの王子イダマンテはもとより、捕虜を解放するつもりで呼んだのです。
囚われ人の鎖、足かせを取るように命じつつ、独白で、イリアに心を囚われている我が身に同じことができぬのか、と嘆きます。
そして、これまで敵同士だった両国は、これから真の友情に結ばれるのだ、と宣言します。
そもそも、トロイア戦争は世界一の美女ヘレネをめぐって勃発したので、ギリシャとトロイアは別に仇敵ではなかったのです。
イダマンテは、美女が起こした戦争を、今度はヘレネ以上の美女、イリアが収めるのだ、と皆に告げます。
第3曲 合唱
トロイア人とクレタ人
われらは平和を喜び
そして愛の神に勝利を
今こそ、誰の心も、
喜びに沸いている
ふたりのクレタ人
感謝を捧げましょう
戦いの松明を消したひとに
今こそ、この地は、
きっと安らぐことでしょう
全員
(繰り返し)
ふたりのトロイア人
あなた方のお陰です、
お慈悲深い神々よ、
そしてあの美しい瞳のお陰です、
自由を得られたのは
全員
(繰り返し)
(レチタティーヴォ)
エレクトラ
(嫉妬に苛立ちながら)
王子よ、あなたは全ギリシャを侮辱なさっておいでです
敵を庇護なさるとは
イダマンテ
敵が敗れるのを見て、
それで十分と思ってください
そして、王女よ、
さらにわたしのやり方を見る覚悟をなさってください
敗者が幸せとなるのを見ていただきます
(アルバーチェがやってくるのに気づき)
アルバーチェが来る
だが、あの涙は何を告げているのだろう?
アルバーチェ
王子、何より恐ろしい災いが…
イダマンテ
もはや父上は生存しておられない?
アルバーチェ
王はもう…
戦いの神マルスでもなされなかったことを、
今執念深い海の神ポセイドンがなされました
英雄の中の英雄であったあのお方は、
どこか人知れぬ海辺で溺死されました
(退場)
イダマンテ
イリア、ここにいるのは、
この世で最も哀れな男です
だが、これで今、あなたは天によって報われるのです
惨い運命よ!
これから海に急がねば…
ああ、もう絶望だ!
イリア
わたしはアジアが蒙った苦しみを強く感じているけれど、
それでも偉大な英雄の名を聞き、
その不幸を知れば、心が動かされる
あの方のため、嘆かずにはいられない
(深くため息をつきながら退場)
エレクトラ
(ひとりで)
イドメネオ王が亡くなられた…?
天は何もかもわたしに悪いように仕組まれる!
イダマンテ様が国も私事もご自分の思いのままになされたら、
わたしには一縷の望みもないのでは?
わたしの意に反して、
ギリシャにとっても不名誉なことだが、
わたしは見ることになるのか?
トロイアの奴隷女を、玉座の側に、新婚の床に?
そしてエレクトラは、
甲斐もなく、心変わりしたあの方を愛し続けることに?
他国の王たちを従える大王お娘たるエレクトラは、
ただ見て苦しむのか、
卑しい奴隷女が望みを達するのを?
ああ、怒りに、動揺に、苦しみに、
わたしはもう耐えられない!
第4曲 アリア
エレットラ
心の中にわたしは感じる、お前たちを
恐ろしい地獄の復讐の三女神を
これほど大きな苦しみに遭えば
愛や慈悲や同情は心から遠のく
わたしからあのお人を奪った者よ、
そしてわたしの心を裏切ったお人よ、
思い知るがよい、
わたしの怒りが招く復讐の残忍さを
(断崖に囲まれた、まだ波が高い海辺。船の残骸が打ち上げられている。)
第5曲 合唱
近くでの合唱
お慈悲を、神々よ、お慈悲を!
なにとぞ、お助けを、
正義の神々よ!
われらに目をお向けください…
遠くでの合唱
お慈悲を、神々よ!
天が、海が、風が、
われらを恐怖でおしつぶす…
近くでの合唱
お慈悲よ、神々よ、お慈悲を!
惨い死の腕の中へ、
邪悪な運命がわれらを押しやる…
(海上に海神ポセイドンが現れる。海神は風に自分たちの洞穴に戻るように合図をする。すると海は次第に静まってゆく。イドメネオは海神を見ると、その力を貸してほしいと懇願する。ポセイドンは険しい、威嚇するような目つきで彼をじっと見据えながら波間にもぐり、姿を消す。)
(レチタティーボ)
イドメネオ
我々はついに救われた
(家来たちに)
そなたたち、マルスやポセイドンの怒りに触れたとき、
勝利したとき、
苦難のとき、
常にわたしの忠節な供だったそなたたちだが、
少しの間ここでわたしにひとり、
息をつかせてほしい
そして故郷の空に、
これまでの苦しみを打ち明けさせてほしい
(家来たちは退場し、イドメネオはただひとりで思いにふけりながら海辺を歩く)
海は静かに、
甘い穏やかさの中を優しい微風が吹き、
金に輝く神が青い海辺をきらめかせ、
わたしの見渡すところ、
すべてが平安に抱かれて憩い、
喜びに満ちている
だがひとり、
わたしだけは、この人気のない海辺で、
苦悩と困惑に苛まれ、ポセイドンよ、
御身の支配する海の国で祈願して得た平安を、
ここでは味わうことができずにいます
ああ、恐ろしい狂気の祈願よ!
残忍な誓いよ!
ああ、神々のうち誰ならわたしをこの先、
命ながら得させてくれよう
誰ならせめても、
わたしに助けの手を差し伸べてくれよう?
鎖を解かれたトロイア人と、戦争の終結を喜ぶクレタ人は抱き合い、ともに平和の到来を喜ぶ歓喜の合唱を歌います。
途中、クレタ人のソロふたりが平和を、トロイア人のソロふたりが自由を、それぞれにもたらした王子と王女の徳を讃えます。
ああ、ウクライナやパレスチナの地で、このような歌が響くのはいつになるのでしょうか。
人々が歓喜に沸く中、水を差すように、ひとりの王女が登場します。
それこそ、ギリシャ軍総大将にしてミケーネ王アガメムノンの娘、エレクトラです。
先に取り上げたグルックのオペラ、「オーリードのイフィジェニー」「トーリードのイフィジェニー」の主人公、イフィジェニー(イピゲネイア)、オレステスの妹です。
これも何度も取り上げているように、戦い終わって帰還したアガメムノンは、妻クリュタイムネストラと、その愛人アイギストスに殺されます。
オレステスとエレクトラは、協力して父の仇である母を討ち果たします。
しかし、母殺しの実行犯であるオレステスは復讐の女神に呪われ、トーリードの地へ逃れます。
一方、エレクトラも、実際に手は下していないものの、ミケーネにいることができなくなり、このクレタの地に逃れ、父の僚友であったクレタ王イドメネオに保護されています。
イドメネオは、ミケーネとの友好のため、エレクトラを王子イダマンテと結婚させようと考えています。
実母を討ったエレクトラは、ギリシャ神話の中の〝烈女〟のひとりで、モーツァルトのオペラの登場人物の中でも一番悪い役とされていますが、それだけドラマチックなキャラクターです。
幼少期の少女が、父を好きになり、母に対抗心や敵意を示す心理状態を「エレクトラ・コンプレックス」と呼ぶのも、この神話から来ています。
エレクトラは、敵を保護するイダマンテを責めますが、イダマンテは平和友好の必要性に理解を求めます。
そうこうするうち、父王の忠実な配下、いわば留守家老のアルバーチェがやってきて、イドメネオ王の軍船が近海で沈没した、と告げます。
音楽はここでドラマチックなレチタティーヴォ・アコンパニャートとなり、絶望する王子イダマンテは海岸に急ぎ、敵である王の死に複雑な思いを抱くイリアは、相次いで舞台を去ります。
ひとり残ったエレクトラは、イドメネオ王は自分をイダマンテの妻にしようとしてくれていたのに、亡くなってしまったら、イダマンテが新王となって自分の意のままにできるようになり、イリアを王妃にしてしまうだろう、と、また絶望します。
そして、ニ短調の劇的なアリアを歌います。
エレクトラは、敵の王女でありながら、自分の思い人を奪おうとしているイリアに、激しい憎悪と復讐の念を燃やします。
彼女の人生は復讐の宿命にあるのです。
エレクトラのアリアは終わることなく、そのまま、嵐に襲われるクレタ艦隊の場面に移ります。
心の嵐が本物の嵐に転換してゆくという、グルックをさらに超えたドラマといえます。
舞台では、激しい風雨に揉まれて沈没寸前の軍船が、遠景と近景に描かれます。
それぞれの船に乗った人々の断末魔の叫びが、遠くから、近くから、交互に聞こえてきて、凄惨な嵐の場面が音楽的にも迫力満点でリアルに描写されています。
遠くの船は男声4部、近くの船は男声2部で、それぞれ必死に神に祈り、救いを求めます。
そして、弦が吹きすさぶ風と波浪を、管が閃く稲妻を表現。
まさに、若きモーツァルトの野心的な試み!
この嵐は、海神ポセイドン(ネプチューン)が起こしたものでした。
嵐の中、海上に怒ったポセイドンが現れ、イドメネオが何かを祈ると、海神は風を収め、消えてゆきます。
この間は26小節のパントマイムとなります。
嵐が収まり、九死に一生を得て岸にたどり着いたイドメネオは、「助かった!」と安堵の声を上げます。
王は、苦難を共にした家来たちを労いつつ、少し独りにしてほしい、と下がらせます。
イドメネオは、独り海岸で、これまでのことを振り返り、述懐します。
恐ろしい遭難から神は助けてくれたが、心は少しも平穏ではないのです。
それはなぜか?
彼は、恐怖のあまりポセイドンに「命を助けてくれたら、陸に上がって最初に出会う人間を生けにえに捧げます」と祈ってしまい、海神はそれを聞き届けて嵐を収めたからです。
いくら自分の命が惜しいとはいえ、引き換えにまったく罪のない人を殺さなくてはならないという、恐ろしい誓いを立ててしまった我が身に、イドメネオの憂いは収まらないのです。
いったい王は誰に出会ってしまうのか。
それは次回に。
動画は、アルノルト・エストマン指揮、スウェーデンのドロットニングホルム宮廷劇場の上演です。18世紀の上演スタイルを忠実に再現しています。
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