具体的な曲のご紹介に入る前に、私の好みについて語らせてください。
私は、「古楽器」で演奏された曲を中心に聴いています。
「古楽器」とは、「オリジナル楽器」ともいいます。英語では「period instruments」と表記されていることが多いです。
いくつかの定義はありますが、私は“作曲された当時に使われていた楽器”ととらえています。
そのまま残っている当時のものもあれば、その忠実な複製も含みます。
また演奏法も、出来る限り当時のやり方を研究して再現しています。
ですから、バッハやモーツァルトが使っていた楽器や奏法に近づける、というコンセプトです。
その音はどう違うのか?
明らかに違います!
「古楽器」に対する「現代楽器」とはいつの時代のものかというと、だいたい19世紀後半から20世紀のものを指すと考えていただいていいかと思います。
時代と音楽
歴史的な話になりますが、18世紀までと19世紀以降では、クラシック音楽のあり方が社会的に大きく変わりました。
それは、ざっくり言えば、音楽が「娯楽(エンターテインメント)」から「芸術」に変わった、ということです。
社会の動きで言えば、18世紀までは「貴族社会」で、産業革命や、フランス革命などの市民革命によって、19世紀以降は「市民社会」に移行し、そこから現代に続いています。
音楽も、王侯貴族のものから、一般庶民のものになっていきました。
イメージ的には、「貴族=芸術」「庶民=娯楽」かもしれませんが、クラシック音楽は逆なのです。
特に、ジャズが生まれてからは、庶民の娯楽としての音楽のジャンルが増え、従来のクラシックは芸術に特化していきました。
コンサートの違い
それは、現代のコンサートの雰囲気の違いでよく分かります。
現代の、ロックやポップスなどのコンサートで、じっと座って黙って耳を傾けている人などいません。聴衆全員がノリノリで立ち上がり、アーティスト以上に絶叫し、踊りまくっています。
しかるに。
クラシックのコンサートの堅苦しさはどうでしょう。
演奏中には私語どころか咳ひとつ出来ませんし、身じろぎもできない雰囲気で拝聴しなければなりません。
それは、「芸術鑑賞」だからです。
もちろん、ロックにも芸術性はありますし、芸術鑑賞も娯楽の一種ともいえます。
芸術とは何か、とは人類の永遠のテーマであり、芸術論の専門家のみならず多くの方が持論をお持ちのはずなので、簡単に定義づけることなどできませんが、私としてはひとつの目安として、「娯楽作品」は、“他人のために作られたもの”、「芸術作品」は、“自分を表現するために作られたもの”と整理しています。
コンサートの話に戻りますと、モーツァルトは、パリで行った自作の曲のコンサートの様子を、故郷の父への手紙でこんな風に報告しています。
シンフォニーは始まりました。(中略)最初のアレグロのまん中に、これはきっと受けると思っていたパッサージュが一つあったのですが、はたして聴衆は一斉に熱狂してしまいました。そして拍手喝采です。(中略)この土地では最後のアレグロはみな、最初のアレグロと同じく、全楽器同時に、しかも大抵ユニゾンで始まると聞いていましたので、ぼくはそれをヴァイオリン二本だけでピアノで始めました。それも八小節だけです。その後にすぐフォルテが来ます。すると(ぼくが期待していたとおり)聴衆は、ピアノの時はシーッシーッと言っていましたが、それからすぐフォルテが来たのです。フォルテが聞こえるのと拍手が沸き起こるのと同時でした――嬉しさのあまり、ぼくはシンフォニーが終わるとすぐにパレ・ロワイヤルへ行って、上等のアイスクリームを食べ、願をかけていたロザリオにお祈りをしてから、家へ帰りました。
*1
『パリ・シンフォニー(交響曲第31番)』を初演したときの有名なエピソードですが、聴衆は演奏の最中でも遠慮なく拍手や歓声を上げ、時には容赦なくブーイングも浴びせたことがわかります。
現代のロックコンサートと同じ、演者と聴衆の一体感が感じられます。
昔の〝現代音楽〟
これは社会的なひとつの例ですが、当然のことながら、モーツァルトの音楽は今ではクラシック(古典)でも、当時は現代音楽だったわけです。
これに対し、18世紀から19世紀の橋渡しを担ったベートーヴェンは、自分の作曲したヴァイオリン・コンチェルトが難しすぎる、と愚痴ったヴァイオリニストに対し、『神が私の魂に語りかけているときに、お前の哀れなヴァイオリンのことなど気にかけていられるか!』と一喝したそうです。
もっとも、さらにベートーヴェンは演奏ギリギリまで作曲を続け、この哀れなヴァイオリニストは難曲を初見で演奏する羽目になったにもかかわらず、見事に演奏して大喝采を浴びたそうですが。
これは、ベートーヴェンが自己の内面の表現を追求した現代的な“芸術家”のはしりだったエピソードだと思います。
モーツァルトはギリギリ貴族社会にいましたので、その土地の歌手や聴衆の好みに合わせた曲のアレンジは喜んでやっていました。
これは、自分の表現より、聴衆を楽しませることを優先した姿勢と思いますが、モーツァルト以前の音楽家は、王侯貴族や教会に雇われることもあり、むしろ当然の行為でした。
さて、そんな背景があるので、18世紀までの音楽は、宗教曲を除いてはおおむね軽く、気軽に聴けるものが多いです。
そのため、現代人のストレス解消にはもってこいなのです。
楽器の変化
では、古楽器の話に戻ります。
楽器も奏法も、19世紀以降大きく変わりました。
ヴァイオリンなどは形が変わっていませんが、今はスチールやナイロンで作られた弦も、当時は羊や牛の腸から作ったガット弦でした。
奏法ではヴィブラートもあまり使用していなかったようです。
オーケストラも、聴衆が少人数の王侯貴族から、大人数の市民になりましたので、大音量が必要で、大編成になってきました。
曲もそうした状況に合わせて作られたのです。
これに対し、18世紀以前の曲については、当時の楽器、当時の奏法、当時の編成を再現した方が、作曲者の意図が分かるのではないか、というのが古楽器復活運動で、これが素晴らしく、私が高校時代の1980年代にはクラシック界の大ブームとなりました。
何が素晴らしい、というのは曲を聴いてみていただくしかないですが、まさに目からうろこ(聴くのは耳ですが…)という思いでした。
美術界でも
ある古楽器演奏家が、絵画の洗浄作業に例えていました。美術館にあるルネサンスなどの古い絵は、長年の保存のため、後世に粗悪なニスが塗られたり、不適切な修復、修正が加えられたりしたものが多くあります。それを、現代の技術で洗浄、復元したところ、全く違う印象の絵になってビックリ!という例がたくさん出てきました。
レンブラントの『夜警』も、暗い画面が汚れのせいで夜の風景だと思われてその題名がつけられていましたが、復元してみたら昼の風景だった…という例もあります。
世界遺産も、近年は思い切って当時の姿に復元したものが多くなってきましたね。
真っ白な姫路城や、極彩色の平等院を見てショックを受けた方も多いでしょう。
確かに以前の古色蒼然とした風情の良さもありましたが、平等院などは、当時の人々が極楽浄土をどんな風に考え、憧れていたかが実感でき、身近に感じられるように思います。
古くて、新しい
音楽の場合、古楽器演奏は現代人によりダイレクトに、フレッシュに響き、共感が高まるように感じるのです。
これはあくまでも私の感覚でしかないですが、古楽器の音は、脳にジンジン響き、作曲者のやりたかったことがダイレクトに伝わってきて、癒されることこの上ないです。
高校時代以来、私はずっと古楽器のとりこになってきました。
長々となってしまいましたが、こんな理由で、私はこのブログでは古楽器演奏の曲、つまり結果的には19世紀前半以前の音楽を中心にご紹介していくことになります。
実は、私は聴く専門で、楽器は何もできないどころか、楽譜もロクに読めません。
音楽の専門的な知識もありません。
ですので、クラシック演奏に携わっている方にはただの素人の言ですが、あくまでも聴衆側の感想とご承知おきください。
また、歴史が好きなので、作曲された時代や作曲家のエピソードなどをご紹介して、曲を楽しむお手伝いができればと思っています。
どうかお付き合いよろしくお願いします。
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