誰が名付けた? イギリス組曲
グレン・グールドによるバッハの3大組曲、最後は『イギリス組曲』です。
この組曲は、これまでの〝深淵〟な『パルティータ』や〝優雅〟な『フランス組曲』に比べて、〝堂々〟〝貫禄〟などと形容されます。
それは特に、各組曲の冒頭に、壮大なプレリュード(前奏曲)があることからきています。
バッハ自身もこの組曲を〝プレリュードつきの組曲〟と呼んでいました。
フランス組曲と同様、イギリス組曲という名前はバッハが付けたわけではありません。
これも諸説があり、バッハの伝記を初めて書いたフォルケルは、この曲がある高貴なイギリス人のために書かれたからだ、としています。
また、ロンドンで活躍した末子ヨハン・クリスティアン・バッハが所有していた写譜にも、〝イギリス人のためにつくられた〟と書かれています。
また、組曲の冒頭にプレリュードを持ってくるのはイギリスで一般的で、ヘンリー・パーセルや、チャールズ・デュパールら英国の作曲家の作品の影響を受けた、という説もあります。
さらに、ある学者は楽譜の音部記号の組み合わせが、通常バッハが用いていた『ドイツ式』ではなく、『イギリス式』になっている、と指摘しています。
また単に、ドイツ人から見て、この曲の曲想や厳格な構成が、イタリアやフランスではなく、英国風のイメージだった、というだけだ、という人もいます。
バッハがつけたのならともかく、名付けた人も分からないので結論は出ませんが、少なくとも、曲が〝英国風〟であるということは言えそうです。
いずれにしても、ヨーロッパの音楽を集大成したバッハの曲にふさわしい名前です。
組曲の中で一番スケールが大きい曲ですが、3組曲の中では一番早く作られました。
アンナ・マグダレーナのための楽譜帳には出てきませんので、それ以前の作と考えられています。
作曲にまつわる情報も一番少ないのですが、演奏の平易なフランス組曲のように、家庭の楽器クラヴィコードでの演奏には適しておらず、かなり大型のチェンバロでなければ演奏できません。
すると、ケーテン時代に殿様の命でベルリンに特注し、ブランデンブルク協奏曲第5番を生んだあの大チェンバロが思い浮かびます。
元の曲はそれ以前に出来ていた可能性もありますが、素晴らしい器楽曲が生まれたケーテン時代に成立したと考えられます。
ブランデンブルク協奏曲第5番についてはこちら。
www.classic-suganne.com
イギリス組曲は全6曲で、明るい長調の曲は第1番と第4番のみ。短調の曲が多いのも特徴です。
バッハ『イギリス組曲 第1番 イ長調 BWV806』
Bach : English Suite no.1 in A major, BWV806
演奏:グレン・グールド(ピアノ) Glenn Gould
第1曲プレリュード
指の練習のようなフレーズから始まりますが、まさにこれから大曲を弾くにあたってウォーミングアップをしているかのようです。そしてテーマが4声で模倣し合うさまは、だんだん世界が広がっていくような思いになります。曲の終わりも粋で、次の曲に余韻をつなげていきます。
旋律は流れるようですが、優雅で落ち着いた風情です。
美麗な鐘を鳴らすように響く曲です。第3曲から第6曲までは、このクーラントの様々なヴァージョンになっています。
前曲に、より装飾がなされています。クーラントはⅠとⅡ、このあとのドゥーブルもⅠとⅡ、どちらか片方ずつを弾けばよい、という説もありますが、グールドは全て弾いています。
第5曲 ドゥーブルⅠ
〝ドゥーブル〟とは変奏という意味で、クーラントのヴァリエーションです。
第6曲 ドゥーブルⅡ
ヴァリエーションの第2パターンというわけで、グールドは特にスタッカートを小気味よく効かせています。
しっとりと情感豊かな歌です。バッハは後年、この曲のモチーフをイエス降誕の物語『クリスマス・オラトリオ』の中でイエスの子守唄に転用しました。
第8曲 ブレーⅠ
明るく軽快な曲。高音部が心に響きます。
第9曲 ブレーⅡ
イ短調の重々しいブレーで、ブレーの中間部となっており、後半にブレⅠが回帰します。
第10曲 ジーグ
テーマが2声で追いかけっこをするのはバッハのテーマの定番で、エコーの効果も狙っています。後半はやや複雑な構成になり、前半のテーマをさっと戻して、この大曲を締めくくります。
バッハ『イギリス組曲 第2番 イ短調 BWV807』
Bach : English Suite no.2 in A minor, BWV807
演奏:グレン・グールド(ピアノ) Glenn Gould
第1曲 プレリュード
『イタリア協奏曲』のように、オーケストラのコンチェルトをクラヴィーアで再現したような、スケールの大きな前奏曲です。まさに、チェンバロ協奏曲第1番を思わせるような、悲壮感と推進力をもっています。
バッハのアルマンドらしい、流麗な曲です。
静かに語るかのようなフレーズが、装飾豊かに展開します。
クーラントと同じテーマが、最初はシンプルに、続いて華麗な装飾をまとって登場します。
第5曲 ブレーⅠ
この組曲のハイライトといえる曲で、活発ですが、〝狡猾なユーモア〟〝痛い足を引きずって踊っている〟などと形容されている印象的な曲です。
第6曲 ブレーⅡ
中間部は哀愁深いテーマです。
第7曲 ジーグ
スキップをしているように軽快ですが、フーガ的な、対位法を駆使した充実なシメの曲です。
バッハ『イギリス組曲 第3番 ト短調 BWV808』
Bach : English Suite no.3 in G minor, BWV808
演奏:グレン・グールド(ピアノ) Glenn Gould
第1曲 プレリュード
213小節に及ぶ長大な前奏曲です。これもイタリアのコンチェルトの影響を深く受けています。進むほどに激情がほとばしるさまもイタリアの情熱を表しているかのようです。
グールドの弾くアルマンドは、いずれも玉を転がすかのように、キラキラした音が流れていきます。
抑制された感じの舞曲ですが、抑えていた感情が噴き出すような一瞬もあります。
ゆっくりとした、荘重な曲ですが、和音の解決を遅らせることで、他の曲には見られない、ファンタジックな世界を作り出しています。さらにグールドの演奏は、クラシックとは思えない現代的な響きです。
第5曲 ガヴォットⅠ
有名な曲です。Ⅰ-Ⅱ-Ⅰの三部構成ですが、やや皮肉っぽく聞こえるⅠと優しいⅡの対比が面白いです。
第6曲 ガヴォットⅡ
〝ミュゼット〟と題され、田園的、牧歌的な雰囲気です。
第6曲 ジーグ
例によってフーガ風のジーグです。軽快でありながら、憂いを含んだ味わいのある終曲です。
スタジオは子宮の中
グレン・グールドが、イギリス組曲第1番のサラバンドをスタジオで録音している貴重な映像がありますのでご覧ください。
Glenn Gould - J.S. BACH, English Suite No1 in A major, Sarabande
コンサートドロップアウト宣言し、聴衆の前から姿を消したグールドは、スタジオにこもって、信頼する数名のプロデューサー、録音技師と音楽作りに没頭しました。
テイクを何度も録り、テープを何度も聴き、意にかなった部分をつなげて決定稿を作っていったのです。
このような〝切り貼り〟は邪道だという人はいましたが、グールドは目的は最高の音楽が出来ることでしたので、意に介しませんでした。
そして聞く我々にも、最高の恩恵こそあれ、何の不都合もありません。
グールドは『スタジオのプライバシーと孤独感、そして子宮的な安心感の中にいると、どのコンサート・ホールよりも直接的で個人的なやり方で音楽を作ることができる*1』と述べています。
我々が堪能しているのは、まさにその子宮で育まれた、かけがえのない演奏なのです。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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