顕現節とは
きょう1月6日は、キリスト教では『顕現節』『顕現日』『公現祭』などと呼ばれる祝日です。
前項で触れたように、幼子イエスを東方三博士が礼拝したことを記念しています。
この日をもって、クリスマス以来、キリスト教でのイエス生誕を祝う行事がいったん終了、ということになり、6部構成のバッハの『クリスマス・オラトリオ』も、この第6部でめでたく終わり、となります。
日本の行事としても、クリスマスから大晦日、お正月、そして松の内が終わるということで、ちょうどお祭り気分の年末年始期間と一致していますね。
では、2017年→2018年への年越しを振り返りながら、1月6日用に作曲された終曲を聴きたいと思います。
バッハ『クリスマス・オラトリオ BWV248 第6部』
顕現節(1月6日)用
J.S.Bach : Weihnachts-Oratorium / Christmas Oratorio BWV248
演奏:ジョン・バット指揮ダニーデン・コンソート
John Butt & Dunedin Consort
第54曲 合唱『主よ、おごれる敵の迫り来るとき』
トランペットが華やかに、そして軽やかに奏せられるなか、合唱はフーガ風に、主への信頼を歌います。勝ち誇った敵が押し寄せても、堅い信仰をもっていれば、神と救い主が守ってくれる、という確信と神への信頼にあふれています。最終部にふさわしい、堂々とした曲です。
第57曲 アリア『主の御手の前では』
これに先立つレチタティーヴォでは、ヘロデ王が、来訪した東方三博士に対し、ユダヤの王となる救い主を見つけたら、自分も拝みたいから教えてくれ、と欺いているくだりが語られます。ソプラノがヘロデ王を〝裏切者〟と非難します。
続いて、神の計画の前での人間の奸計の愚かしさ、脆さを歌うのがこの曲です。
第59曲 コラール『われは飼い葉桶のそばに立つ』
ついに、星に導かれ、三博士は馬小屋の中のイエスを探し当て、黄金、乳香、没薬を捧げて礼拝します。幼子イエスに捧げる宝は逆にイエスから賜ったものなのだ、我らの心と魂こそ、受け取っていただきたい、というルター由来のコラールです。
第62曲 アリア『おごれる敵は恐れおののき』
三博士は、お告げによって、ヘロデ王のもとに帰らず、帰国してしまいます。それを知って怒るとともに、自分の地位が脅かされる恐怖から、ヘロデは嬰児殺しを命じます。それは救い主を守るためとはいえ、あまりにも痛ましい、そして尊い犠牲でした。ヘロデの悪行を非難し、その奸計は何の役にも立たないことを、強い調子で訴える、怒りに満ちたテノールのアリアです。
第64曲 コラール『いまや神の報復はすべて遂げられた』
合唱
いまや神の報復はすべて遂げられたり
汝らを苦しめ悩ましたる敵どもの上に
そはキリスト、汝らを責めおりし
すべての敵を打ち破りたまえればなり
死と悪魔と罪と地獄は
ことごとく牙を抜かれぬ
かくて神のみもといその終の棲家を得たり
すべての人の子らは
器楽総奏による、華やか、かつ力強いコラールです。思わず体が踊ってしまうようなノリの良い曲です。いまや、我々は救い主を得た。死、悪魔、罪、地獄、すべての敵はイエス・キリストが打ち破った。そして我々は、神のもとに安住を得たのだ。クリスマスからたどったイエス誕生の物語は、信ずれば何も怖くない、という確信で幕を閉じるのです。
クリスマス・オラトリオは、バッハが以前作った世俗曲が多く流用されていますが、ここでも、宗教曲というより、世俗の香りでいっぱいです。しかし、だからこそ、人々に親しみやすく、イエス生誕のお祝い曲として受け入れられていったのでしょう。
キリスト教を信じようと信じまいと、音楽の力は、誰の心にも響き、感動を与えてくれる普遍性をもっています。
バッハによる年越しはいかがでしたでしょうか。新しい年を迎えて、がんばる力がもらえたと私は思っています。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
にほんブログ村
クラシックランキング