自分で企画した作品
ベートーヴェンのオラトリオ『オリーブ山上のキリスト』の続きです。
イエスが捕縛される直前に、自分が十字架にかけられる運命を予知し、死の恐怖と、神の意思によって人類のために犠牲になるという使命との間で、苦悩する場面を音楽化したものです。
聖書の中で、超人的な奇蹟を起こし、人々を導くイエスが、ふつうの人と同じように、死の恐怖に怯える人間的な弱さを見せる劇的な場面です。
この曲は誰かからの依頼ではなく、自己主催のコンサートのために、自分でテーマを選んで自主的に作曲したものです。
ベートーヴェン自身に具体的な作曲の意図、この曲で表現した思いがあったのは明らかです。
イエスの、『神は自分に、人類を救えと使命を与えておきながら、なぜ凄惨な死に追いやるのか』という思い。
ベートーヴェンの、『神は自分に、人々に感動を与える類まれな音楽の才能を与えておきながら、なぜ一番大切な聴覚を奪うのか』という思い。
このふたつの思いをオーバーラップさせた作品なのではないか、という解釈で聴いていきます。
なぜオラトリオか
この曲は、ベートーヴェン唯一の『オラトリオ』です。
オラトリオは、受難節など、キリスト教で禁欲を求められる時期に、オペラなど世俗的、享楽的な催しは自粛になるため、代わりに、演技はなく、音楽で宗教的な物語を上演するものです。
オペラの代わりですので、内容は宗教的でも教会音楽ではなく、劇場で演じられる〝娯楽作品〟です。
ヘンデルのものが有名ですが、この時期はハイドンの『天地創造』の人気がヨーロッパを席巻していて、弟子ベートーヴェンが自作を比べているととられるようなことを言って、師ハイドンをムッとさせたエピソードは前述しました。
ベートーヴェンは、それなら自分もオラトリオを作って挑戦してやる、と思ったかもしれませんが、この時期の彼は、オペラ作曲に取り組んでいました。
オペラの話をベートーヴェンに持ち掛けたのは、興行師エマニュエル・シカネーダー。
彼はかつてモーツァルトと組んでオペラ『魔笛』を上演したことで有名です。
台本を書き、自分もパパゲーノ役を演じました。
映画『アマデウス』でも活躍しています。
彼は、モーツァルト亡き後、次のパートナーとしてベートーヴェンに白羽の矢を立て、自分が劇場監督を務めるアン・デア・ウィーン劇場の一室にベートーヴェンを住まわせ、缶詰状態にして作曲させます。
オペラの題は『ヴェスタの火』といいましたが、例によってシカネーダーの台本は通俗的で、ストーリーも『魔笛』と同様破綻気味だったので、到底ベートーヴェンの芸術性とは相容れず、作曲途中で破談になってしまいます。
ベートーヴェンは、自分にはおとぎ話や享楽的なオペラより、まじめなオラトリオの方が向いている、と実感して、この作品に取り組んだ可能性があります。
後年、唯一のオペラ『フィデリオ(レオノーレ)』を作曲しますが、これも夫を救う英雄的な妻、という高尚なテーマで、娯楽を求める観衆からの支持を得るには、ベートーヴェンの意に反して何度も書き直しを余儀なくされました。
ベートーヴェンにはオラトリオの方が性に合っていたはずなのに、この曲以外に書いていないのは残念ですが、人類の至宝『第九』は、シンフォニーとオラトリオの融合ともいえます。
本当に〝やっつけ〟の作品か?
さて、『オリーブ山上のキリスト』は、上演時の評判は芳しくありませんでした。
数年後に出版するときに、ベートーヴェンは『2週間程度』で作曲した、と出版社に書き送っています。
弟子のリースも次のように証言しています。
『ベートーヴェンは当初にすぐ私を使うことができると見て、私はよく早朝5時に呼ばれ、そのオラトリオの上演当日もそうだった。私は彼がベッドの中で1枚ずつの紙に書いているのに出くわした。私がそれは何ですかと尋ねると彼はこう答えた。「トロンボーンさ」――トロンボーンは上演においてもこの紙片から吹いたのである。*1』
これらの記録から、このオラトリオはベートーヴェンが〝やっつけ〟で書いたというイメージになり、今日でも評価が低く、上演の機会や録音が極端に少ない原因になっています。
しかし、ベートーヴェンの〝2週間で書いた〟というのは、出版に際して何度も書き直しを行った言い訳でした。
確かに初演コンサートにギリギリになってしまったのは事実で、初演の評判も芳しくありませんでしたが、ベートーヴェンはその後大幅に書き直し、出版後はヨーロッパ各地で大好評で上演されるようになりました。
いま私たちが聴くのは、かなりの推敲の後の改訂版なのです。
また、2週間、というのは、楽譜に書き起こした時間であって、構想はもっと以前から練られていたと考えられます。
ベートーヴェンが、『ハイリゲンシュタットの遺書』に綴った苦悩を具現化した作品として貴重ですし、音楽も素晴らしいので、これから見直しが進んでいくのではないでしょうか。
では、物語の続きを聴いていきましょう。
ベートーヴェン:オラトリオ『オリーブ山上のキリスト』作品85
Ludwig Van Beethoven:Christus am Ölberge, Op.85
演奏:フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮 シャンゼリゼ管弦楽団(古楽器使用)、コレギウム・ヴォカーレ・ヘント(合唱)
セラフィム(ソプラノ)
おののけ、大地よ!
主の御子がここに横たわっている。
その顔は深く塵の中に圧され、
父から完全に見捨てられ、
言語に絶する苦難を忍んでいる。
善なる者、その御方は非業の死を遂げる
覚悟ができている。
それによって、その御方が愛する人間たちは、
死から蘇り、そして永遠、永遠に生きる。
オリーブ山上でひとり父なる神に苦悩を訴え、祈るイエスのもとに、天使セラフィムが現れます。この場面は聖書の記述にはないのですが、絵画作品には必ずイエスの前に現れた天使が描かれているので、古来からのイメージのようです。セラフィムは9階級ある天使の最高ランクで〝熾天使〟と訳されます。ミカエルとか、ガブリエルとか、ポピュラーな〝大天使〟たちは、実は下から2番目の〝下っ端〟なのです。
この曲でのレチタティーヴォは、『天地創造』のような通奏低音だけではなく、全てドラマチックなオーケストラ伴奏を伴う『レチタティーヴォ・アコンパニャート』です。ここにもベートーヴェンの気合が感じられます。
天使は、天地を震わすティンパニの轟きととも現れ、イ長調でイエスの悲しみと悲壮にして崇高な覚悟を讃えます。そして、この犠牲によって人類が救済されることをニ長調で高らかに宣言するのです。
第5曲 セラフィムのアリアと天使たちの合唱
セラフィム(ソプラノ)
讃えよ、救い主の御心を。
讃えよ、人間たちよ、その恩寵を。
その御方は汝らのため、愛ゆえに死に赴く。
その御方の血は汝らの罪を贖う。
(天地たちの合唱とセラフィムの交唱)
おお、幸あれ、汝らに、汝ら救われし者たちに。
汝らを至福が待ち受ける、
汝らが神の仲介者の教えに忠実であるならば。
しかし、悲しい哉!
無礼者たちが血を汚している。
それは彼らのために流されしもの。
彼らを審判者の怒りが見舞う、
劫罰が彼らの運命なのだ。
アリアに移り、最初はラルゲットで優しく、イエスを讃えます。やがて天使の歌はアレグロに移り、高潮していき、やがて尊い犠牲によって与えられる人類の至福を幸福感いっぱいに歌います。天使のソプラノは『魔笛』の夜の女王を思わせるような技巧的なコロラトゥーラで、オペラ的です。独奏フルートが名人芸でさらに花を添えます。このあたりは、若い頃に書いてハイドンから見出されるきっかけになった『レオポルト2世戴冠カンタータ』に先例があり、それを発展させたと見られます。後半は厳しい調子になり、そんなイエスを迫害し、捕らえ、死に追いやろうとする者たちを非難します。セラフィムの言葉は、さらに集まってきた天使たちの合唱が繰り返します。この曲は、初演時からかなり校訂されたということです。
イエス(テノール)
セラフィムよ、告げてくださいますか?
私に永遠の父の憐れみを。
あの御方は死の恐ろしさを私から取り除いてくださるのでしょうか?
セラフィム(ソプラノ)
主はかく語りき。
贖いの聖なる秘蹟が成就しないうちは、
長きにわたり人類は地獄に堕ち、
そして永遠の生命は奪われる。
イエスは、降臨したセラフィムに、父は私を憐れんでくれないのでしょうか?と、哀切に訴えます。弦の伴奏も弱々しくなります。これに対し、セラフィムは決然と、神の厳しい言葉を伝えます。伴奏は、以前は教会でしか用いられず、最後の審判のラッパとされるトロンボーンが勤めます。リースの証言では、このパートは初演の朝にベッドの中で書いたとのことですが、〝神の楽器〟による神の言葉であり、もっとも厳粛な場面なのです。イエスの犠牲無くして人類は救われない、という非情な通告です。
イエス(テノール)
ならば、下したまえ、厳かに、
私の上に、父よ、あなたの審判を。
注ぎたまえ、私に苦しみの嵐を。
ただ、アダムの子孫を恨みたもうな。
セラフィム(ソプラノ)
心動かされて、私は崇高なる者を見る、
死の苦しみに包まれているのを。
私は震えている、そして墓場のおぞましさが私を包む。
それはその御方が感じているもの。
ふたり
大きいのは苦悩、不安、恐怖。
神の御手が私(彼)の上に注がれる。
しかし、さらに大きいのは私(彼)の愛、
私(彼)の心でこの世を抱く。
神の意思を従容と受け止めるイエスの言葉を、優しいチェロが伴奏します。そして、イエスは私に苦しみを与える代わりに、アダムの子孫、すなわち人類を許してください、と訴えます。セラフィムはこの言葉に深く感動し、イエスに和して、悲痛な中にも天国的なデュエットとなります。
イエス(テノール)
ようこそ、死よ!
そして私は十字架上で
人々の救いのため、血を流しつつ死にゆく。
おお、汝らの冷たい墓穴のなかで祝福あれ。
それを永遠の眠りがその両腕でつかんでいる。
汝らは喜んで至福に目覚めるだろう。
弦だけの伴奏で、イエスの定まった覚悟が歌われます。イエスはもう迷うことはありません。神の意思に納得し、自分の使命をあらためて自覚したのです。
第9曲 兵士たちの合唱
兵士たち
我らは奴がこの山に向かっていくのを見たぞ。
左に道を取れ。
奴はすぐそばにいるに違いない。
遠くから人々のざわめきと金属のこすれる音が聞こえてきます。イエスを憎む祭司長や長老たちが差し向けた兵士たちが、イエスを捕らえようとやってきたのです。この兵士はローマの兵士ではなく、ユダヤ側の武装した手下たちです。先導するのは弟子の中の裏切り者ユダですが、このオラトリオでは登場しません。音楽は『行進曲風に』とされ、暗闇の中、松明を掲げて迫る兵士たちがリアルに描かれています。
イエス(テノール)
私を捕らえ、引き立てようとする者たちが
いま近づいてくる。
わが父よ!
おお、速やかに導いてください。
受難の時が私のところを通り過ぎて、消え失せるように。
暴風が雲を追い立てて、
あなたの天空に引っ張られるように。
しかし、私の意思ではありません、違います!
御心のみ行われますように。
イエスが追っ手に気づきますが、言葉はしばらく同じ行進曲のテンポを変えずに語られます。追跡の中でイエス側にスポットが当たる効果を上げています。
イエスは、さすがにわが身に迫る恐怖に耐えかね、暴風が吹き自分を雲のように天に吹き上げてほしい、と願い、オーケストラも暴風を模します。
しかし、イエスは即座にその迷いを否定し、音楽もロ短調に転じ、これは自分の意思ではない、ときっぱりと否定し、神の意思がすべて、と宣言します。
第11曲 兵士と弟子たちの合唱
兵士たち
奴がここにいるぞ、追放者が。
民の中で大胆にも
ユダヤの王と名乗った者が。
奴を捕らえて縛れ。
弟子たち
あの騒ぎは何だ?
我々はもうダメだ!
戦士たちに取り囲まれている!
どうなってしまうのだろう?
兵士たちはついにイエスを見つけ、取り囲み、捕縛しようとします。
弟子たちは、イエスが苦悩に苦しんで祈っている間、起きて待っているよう命じられたのですが、事態の深刻さが分かっておらず、眠りこけていました。しかも、イエスは2度戻ってきたときに、寝ている弟子を起こし、『あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。(マタイによる福音書:新共同訳)』と諭したのに、また眠ってしまっていたのです。
音楽はアレグロ・モルトとなり、兵士たちの雄叫びと、弟子たちの狼狽が重なり、緊迫していきます。
ペテロ(バス)
罰せられずには済まないぞ
大胆不敵な軍団め
あなた、輝かしき人、あなた、わが友にして主なる人を
無礼な手で捕らえるとは。
イエス(テノール)
おお、お前の剣をさやに納めなさい!
もしわが父の御心が
敵の暴力から私を救うことならば
天使の軍勢がすぐにも私を救い出しにくるだろう。
慌てふためき、混乱を極める弟子たちの中から、ペテロがひとり抵抗します。ペテロは弟子の中でも一番血気盛んでした。これに先立ち、最後の晩餐で、イエスが自分の身に迫った危険を告げると、真っ先に、他の皆が逃げても、自分だけはあなたを守ります!と見栄を切りますが、イエスは悲しげに『あなたは今夜、鶏が鳴く前に3度私を知らないと言うだろう。』と予言します。それを聞いたペテロは、『あなたと一緒に死ぬことはあっても、知らないなどと言うことは絶対ありません!』と誓い、ほかの弟子たちも同調します。
いざ、兵士たちに取り囲まれると、さすがペテロは剣を抜き、兵士に斬りかかり、ひとりの耳を切り落とします。このくだりは物語のクライマックスなのに、このオラトリオの台本からは割愛されていて、フーバーのテキストの欠陥といわれています。
イエスは暴力に訴えるペテロを制止します。父なる神が私を救おうと思えば、天の12軍団が直ちに遣わされるのだから、無駄な抵抗はやめなさい、と諭します。その厳かな言葉は、『魔笛』のザラストロを彷彿とさせます。
第13曲 三重唱
ペテロ(バス)
私の血管には渦巻いています、
抑えられない怒りと憤りが。
私に復讐させてください、大胆な者の血で。
イエス(テノール)
復讐してはならない。
私はお前たちにひたすら教えたはず、
すべての人を愛しなさいと。
敵を喜んで許しなさいと。
セラフィム(ソプラノ)
耳を澄ましなさい、おお、人よ、
そして聞きなさい。
ただ神の口だけがこのような聖なる教えを告げるのだ、
隣人愛を。
イエスとセラフィム
おお、人の子らよ、守りなさい、この聖なる掟を。
愛するのだ、お前たちを憎む者を。
それだけを好むのだ、お前の神は。
ペテロ
私の血管には渦巻いています、
抑えられない怒りと憤りが。
私に復讐させてください、大胆な者の血で。
ペテロは収まらず、抵抗の許しを求め、それをたしなめるイエスと天使を加えた三重唱になります。イエスは有名な『汝の敵を愛せ』という教えを思い出させようとし、天使もイエスの教えに同調します。イエスと天使は頼もしいほどに明るい曲調で語り、ペテロは怒りに我を忘れた曲調で抵抗し、その対比が見事です。
第14曲 兵士と弟子たちの合唱
兵士
立て、起きろ!
裏切り者を捕まえろ、
ここにもうこれ以上留まるな!
さあ先へ、この罪人とともに
奴を急いで裁きに引っ張っていくのだ。
弟子たち
ああ!
我らは彼のために憎まれ、追われるだろう。
我らは捕まり、拷問にかけられ、
そして死に委ねられるだろう。
イエス
私の苦しみはやがて消え、
救済の仕事は成就する。
まもなくすべては乗り越えられ、
そして冥土の力が勝利する。
ペテロの抵抗はイエスによって制止され、兵士たちは勢いづいてついにイエスを捕まえ、縛り上げます。それを見た弟子たちは、もはや師を守る気持ちが失せたばかりか、自分の身の危うさにうろたえ、四散してしまいます。イエスが予言した、旧約聖書にある救世主についての預言『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう。』が成就したことになります。
このあと、ペテロも、周囲から『あんたも、たしかイエスの一味じゃないか?』と3度とがめられ、『あんな人は知らない!』と言い逃れをしてしまいます。すると3度目に夜明けの鶏が鳴き、ペテロはイエスの言葉を思い出して大泣きに泣きますが、この一幕はこのオラトリオにはなく、バッハの『マタイ受難曲』の名場面となっています。
イエスが捕まったことは、聖書の記述の成就であり、それはイエスが救世主であることの動かぬ証拠となります。イエスはこの曲の最後に、それを厳かに宣言し、人類の救済が成ります。これをもって、このオラトリオの結末となります。
第15曲 天使たちの合唱
天使たち
世は歌う、感謝と栄光を。
崇高なる神の御子のために。
威厳に満ちたマエストーソの男女4部合唱によって、預言の成就を讃える天使の終結合唱となります。イエスの処刑は、キリスト教徒にとっては敗北ではなく、勝利なのです。
第16曲 天使たちのフーガ
天使たち
彼を讃えよ、汝ら天使の合唱よ、
大きく、聖なる歓喜の音楽で。
ヘンデルやハイドンのオラトリオと同様、合唱の終わりはフーガで荘厳に締めくくられます。高い声部からはじまり、一通り進んだ後、今度は低い声部から高い声部へ重なるカノンとなり、各声部が交錯しながら歓喜を高らかに歌って、幕となります。
このイエス・キリストの物語は、ベートーヴェンが、死を思うまでの絶望から〝芸術によって引き戻された〟という『遺書』の記述とオーバーラップします。
ベートーヴェンは難聴の苦悩を乗り越え、『聖なる歓喜の音楽』を人類のために創作していくことを、自己の使命と確信し、それをこの曲で世に宣言したのだと思えてなりません。
動画は、フランスの指揮者ジェレミー・ロレールによる古楽器演奏です。
www.youtube.com
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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