私はノンフィクションが好きなので、あまり現代小説は読まないのですが、村上春樹氏が昨年久しぶりに出した長編小説『騎士団長殺し』は、一目見てモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』がテーマと分かり、読んでみました。
村上作品をちゃんと読んだのは、浪人時代の『ノルウェイの森』以来でした。
当時は大変なブームで、どうしても読まないわけにはいかないくらいの雰囲気だったのです。
しかし、あまり内容には心を動かされず、予備校の現代文の先生を始め、酷評する人も多く、それ以後、氏の本を手に取ることはありませんでした。(先生は本にカバーをしない主義のため、車内で目立って仕方がない、ともこぼしていました。笑)
しかし、彼が雑誌に連載していたクラシックの批評などは愛読していました。
よく知られているように、村上春樹氏は音楽への造詣が深く、特にクラシック音楽がよく作品に取り上げられるので、なかなかヒットの出ないクラシックのレコード会社やCD店は、村上春樹の小説が出るたびに速攻チェックし、作品に出てくるCDを店頭に並べるのだとか。
そんなわけで、私には村上春樹作品の論評などできないのですが、読んでみると、この作品はとても面白く、その独特の世界にはまってしまいました。
同時に、ノーベル賞の時期になると今年こそ村上春樹が文学賞を取れるか??ということが話題になりますが、なかなか取れない理由もちょっとわかる気がしてます。
面白過ぎて、文学作品というより、娯楽小説と捉えられてしまうのではないでしょうか。
しかし、何という深い教養と趣味に満ちた娯楽でしょうか。平易な文章ながら、筋は難解で、色々な解釈が楽しめます。
騎士団長とは誰か
読んでみて、やはり主題は『ドン・ジョヴァンニ』でした。
〝騎士団長〟はドン・ジョヴァンニに殺された、ドンナ・アンナの父親ですが、オペラの役名の訳語としては昔から〝騎士長〟がポピュラーなので、私もそれを使いました。
しかし、何の長なのか、ちょっとあいまいです。
原語は、小説の中でも紹介されていますが、イタリア語で『Il Commendatore(コメンダトーレ)』です。英語ではコマンダーですので〝司令官〟と訳されることもあります。
村上春樹もおそらく、騎士長ではわかりにくいため、熟慮の末に騎士団長を選んだのでしょうが、一般的に騎士団と言うと、世界史に出てくる、十字軍に由来する『聖ヨハネ騎士団』や『テンプル騎士団』、『ドイツ騎士団』などの騎士修道会が思い出されます。
しかし、これらの騎士団は広大な領地を保有し、実質的に国に匹敵する規模であり、騎士団長は国家元首に等しい地位でした。
ドンナ・アンナの父はそこまで偉くありませんので、一定の地域のトップである〝騎士団管区長〟が実態に合った訳語と思います。
しかし、それでは長ったらしいので〝騎士団長〟にしたのでしょう。それは妥当な選択なので、オペラの方もそろそろ騎士団長にしてもよいのではないでしょうか。
さて、ネタバレに気を付けながら内容に触れていきますが、あれだけクラシック、特にモーツァルトが好きな村上春樹氏が、モーツァルト作品の中でも最も謎に満ち、ドラマティックな『ドン・ジョヴァンニ』にインスピレーションを掻き立てられないはずがなく、長年温めていた構想が、ようやく形になったという気がします。
主人公の画家は、ひょんなことから、認知症になって施設に入った日本画壇の長老の家に、留守番として住み始めます。そして屋根裏から、画伯の未発表の作品を見つけるのです。その絵は日本画ですので、描かれた人々は飛鳥時代の服装を身にまとっていますが、明らかに、『ドン・ジョヴァンニ』の冒頭、〝騎士団長殺し〟の場面が描かれているのです。
そしてそこから、オペラの筋を通奏低音のようにして、不思議な物語が展開していきます。
小説は2部に分かれていて、それぞれ副題がついています。
第1部が『顕れるイデア編』、第2部が『遷ろうメタファー編』です。
村上作品は、まさに〝イデア〟と〝メタファー〟が交錯していて、そこが難解であり、面白いところでもあると思うのですが、特に、クラシック音楽に基づいた〝メタファー〟(暗喩)が魅力的です。
『ドン・ジョヴァンニ』のメタファーについては、私も読み解けたとはいえませんが、オペラを知らないとおそらく前提が分かりませんので、これから読む方も、すでに読んだ方も、17回にわたって『ドン・ジョヴァンニ』を取り上げた私のブログをぜひお読みください。笑
薔薇の騎士
画伯の晩年は孤高のうちにあり、そのアトリエにこもって、ほとんど世間との交際を避けていたのですが、部屋にはクラシックのレコードがたくさんありました。
それも、オペラと弦楽四重奏曲が中心という、クラシック愛好者の中でも特に通な嗜好でした。
当然、『ドン・ジョヴァンニ』もその中にありました。そして、それを題材とした、未発表の作品。そこには、戦前・戦中を生きた画伯の激動の過去が秘められていたのでした。
そして主人公は〝顕れたイデア〟によって、画伯の人生、そして『ドン・ジョヴァンニ』の一場面を自ら追体験することになります。
作品には、画伯のコレクションを聴くという形で、何曲ものクラシックが取り上げられます。
『ドン・ジョヴァンニ』の次に重要な役割を果たすのが、リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)のオペラ『薔薇の騎士』です。しかも、演奏はゲオルク・ショルティ(1912-1997)指揮のウィーン・フィルが名指しされています。リヒャルト・シュトラウスが生きていた時代のウィーンも、物語に重要な意味をもつのです。激動の戦前・戦中を生きた画伯の人生を追うのも、この小説の大きなファクターになっています。また、両オペラとも、不倫の恋をテーマにしていますので、これも主人公の女性関係をめぐる何らかのメタファーなのでしょう。
演奏:サー・ゲオルク・ショルティ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1969年録音)
隠された第3のオペラ
この作品で取り上げられるオペラは『ドン・ジョヴァンニ』と『薔薇の騎士』なのですが、第2部を読み進めると、どうしても、あるオペラを思い起こさざるを得ない場面が出てきます。
それは、クラウディオ・モンテヴェルディ(1567-1643)の『オルフェオ』か、クリストフ・ヴィリバルト・グルック(1714-1787)の『オルフェオとエウリディーチェ』です。
両オペラともギリシア神話の『オルフェウス物語』を題材にしていますが、モンテヴェルディのものは、史上初のちゃんとしたオペラといえるほど、オペラ草創期の作品で、グルックは、モーツァルトが『ドン・ジョヴァンニ』作曲によって任じられた帝室作曲家の前任で、モーツァルトの先輩筋にあたります。
これらのオペラは、素晴らしい曲ですので、またいつかあらためて取り上げたいと思いますが、名前は出てこないものの、別な意味でこの小説では〝二重メタファー〟になっているのではないか、と私は勝手に思ったので、村上作品の幻想的な雰囲気を感じた曲だけご紹介しておきます。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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