〝ト短調〟との出会い体験
モーツァルトの〝3大シンフォニー〟の2曲目は、第40番ト短調です。
今夜、この文章を書いている窓には、春の月が輝いています。
月の光の神秘さは、まさにこの曲のイメージです。
この曲の美しさには、これまで百万言が費やされてきました。モーツァルトの最人気曲といってもよいでしょう。
たくさんの人が、この曲との強烈な出会い、そして自分の人生にとってのかけがえのなさを語ってきました。
ところが、人後に落ちぬモーツァルティアンを自任する私は、どういうわけかこの曲については、それほど強烈な体験を持っておらず、そうした人たちをうらやましく思っています。
私がモーツァルトにハマった高校生から大学生の頃、母と友人がこの曲について、全く同じことを言っていたのを思い出します。
『この曲を初めて聴いたとき、この世にこんなきれいな音楽があるのか、と思った』
身近にもこんな体験をしている人がいるわけで、焦りのようなものを感じました。
音楽が触れる心の琴線は、本当に微妙なものです。
小林秀雄の評論『モオツァルト』を引用してきましたが、彼もこの曲に痛烈な体験をしており、第4楽章について、有名な一節があります。
もう二十年も昔のことを、どういう風に思い出したらよいかわからないのであるが、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。僕がその時、何を考えていたか忘れた。いずれ人生だとか文学だとか絶望だとか孤独だとか、そういう自分でもよく意味のわからぬやくざな言葉で頭を一杯にして、犬の様にうろついていたのだろう。兎も角、それは、自分で想像してみたとはどうしても思えなかった。街の雑沓の中を歩く、静まり返った僕の頭の中で、誰かがはっきりと演奏した様に鳴った。僕は、脳味噌に手術を受けたように驚き、感動で慄えた。百貨店に駆け込み、レコオドを聞いたが、もはや感動は還って来なかった。自分のこんな病的な感覚に意味があるなどと言うのではない。モオツァルトの事を書こうとして、彼に関する自分の一番痛切な経験が、自ら思い出されたに過ぎないのであるが、一体、今、自分は、ト短調シンフォニイを、その頃よりよく理解しているのだろうか、という考えは、無意味とは思えないのである。
小林は〝病的な感覚〟と言っていますが、突然頭の中に曲が鳴りだし、その曲が無性に聴きたくなるのは、誰にでもある経験です。
小林秀雄の評論は、今のブログのような文章であり、個人的なことも自由に盛り込んで綴っているので、それが当時としては、逆に斬新で画期的だったのだと思います。
今だったら、さだめし名ブロガーとしてたくさんのフォロワーがついたことでしょう。
私も高校生の頃、模試の帰り、夜のバスの中で突然頭の中に『ドン・ジョヴァンニ』のフィナーレの六重唱が鳴り、涙が出てきた覚えがあります。
感受性の強い頃には、モーツァルトは脳味噌にぐいぐい刺激を与えてくれました。
珍しい短調のシンフォニー
モーツァルトのシンフォニーで通番のついている41曲のうち、短調のものは2曲だけ、しかもいずれもト短調です。
ト短調は、モーツァルトにとって宿命的な調といわれ、彼がこの調で書くとき、必ずそれは特別な意味を感じる曲になります。
もう1曲は若い頃の作品、第25番で、こちらは第40番と区別するため、〝小ト短調シンフォニー〟と呼ばれています。映画『アマデウス』で冒頭に使われたため、アマデウスのテーマとして知られています。
第40番は、超有名曲で誰でも知らない人はいないと思いますが、愛称がないので、クラシックに興味のない人は曲名はなかなか答えられないでしょう。
〝運命〟とか〝悲愴〟とかついていれば名が知れたでしょうが、〝モーツァルトのト短調〟が一番多い呼び名でしょうか。ト短調の名曲は他にもあるのですが。
作曲は、第39番変ホ長調を完成させた一か月後、1788年7月25日に完成されたという日付が残っています。
モーツァルトの生前に演奏されたはっきりとした記録は無いのですが、この曲にはクラリネットを加えてオーボエ・パートを改変した第2版が残されていますので、1回も演奏されずに改訂版を作るとは考えにくく、どこかのタイミングで演奏されたのはほぼ確実です。
しかし、この世紀の名曲を聴いた、当時の聴衆の感想が何も残されていないのは、讃辞に満ちたハイドンとは対照的で、この曲の悲劇性をさらに深めているのです。
W.A.Mozart : Symphony no.40 in G minor, K.550
演奏:ルネ・ヤーコプス(指揮)フライブルク・バロックオーケストラ
Freiburger Barockorchester & Rene Jacobs
ヴィオラの1小節半の序奏のあとに、有名な、哀切極まりないテーマが奏でられます。いったいこのテーマは何を表現しているのか? 何度聴いても、聴けば聴くほど分からなくなります。ただ、情緒的な思いをできる限り排除して聴くと、アラビアンナイトの世界のような、妖しいエキゾチックな香りを感じるのです。当時流行っていたトルコ趣味を盛り込んでいるのでしょうか。そして、テーマは闇の中にふと現れた、わずかな希望の光に向かって疾走していくのです。そして感動の渦になる展開部。目まぐるしい転調の中で、メインテーマが、これまで担っていたヴァイオリンを離れ、ヴィオラ、チェロ、コントラバスに移っていくさまは、人の魂を揺さぶってやみません。
もしも自分に指揮者が出来るとしたら、振ってみたいという曲はたくさんあるのですが、この曲は全く表現できる気がしません。
第2楽章 アンダンテ
どこまでも穏やかなテーマが、最初はヴィオラ、そして第2ヴァイオリン、第3ヴァイオリンと1小節ずつずれてカノンのように奏でられます。その抒情は、ため息のようで、心身ともに疲れ切ったときに聴くと、心の底から癒されます。そのテーマには、3曲セットの最後の作品〝ジュピター〟のフィナーレの、有名な〝ジュピター音型〟が隠されているのです。管楽器の呼び交わす声は、この世の憂さを忘れるため、深い眠りの世界にいざなってくれるかのようです。そこは、楽しい夢も、悪夢もない、無の世界なのです。
第3楽章 メヌエット:アレグレット
シンコペーション・リズムが鋭く刺す、ナイフのようなメヌエットです。宮廷舞踊とは程遠いですが、目に涙をたたえた貴婦人が踊るかのよう、という形容もあります。トリオは管と弦との対話がほのぼのとした明るさを示して、心癒してくれます。
第4楽章 フィナーレ:アレグロ・アッサイ
若き放浪時代の小林秀雄の頭に突然鳴ったテーマです。これも踊りのようなテーマですが、ピアノとフォルテの対比が、コンチェルト・グロッソのソーリとトゥッティのように、目まぐるしく交代しながら展開していきます。ひとしきりの疾走が終わると、どこまでも優しい第2テーマが弦によって奏でられ、やがて管に受け継がれていきます。胸がいっぱいになるくだりです。展開部に入ると、驚くべき転調の連鎖が悪魔的に続きます。ハ短調→ト短調→ニ短調→イ短調→ホ短調→ロ短調→嬰ヘ短調→嬰ハ短調→嬰ト短調と、5度ずつ上へと転調し、今度は逆に5度ずつ下へと降りていきます。あまりにも高度で複雑な音楽の遊び。モーツァルトが、いたずらっぽい笑みを浮かべながら書いているさまが思い浮かびます。それは神の悪戯か、悪魔の仕業か。いずれにしても、聴く者は大きな渦潮に巻き込まれた船のように、否応なく引き込まれてしまうのです。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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