〝ジュピター〟との出会い体験
モーツァルトの〝3大シンフォニー〟の3曲目は、モーツァルトの最後のシンフォニーでもある、第41番ハ長調〝ジュピター〟です。
この曲は、第40番ト短調と並んで、モーツァルトの、いや、古今西欧クラシック音楽の最高傑作といっていいでしょう。
私にとってはト短調よりも思い入れの深い曲です。
特に最終楽章は、単純極まりない「ド・レ・ファ・ミ」といういわゆる〝ジュピター音型〟を使って、バッハが完成させた西欧音楽の伝統の精華というべきポリフォニー(多声音楽)のフーガと、新時代の音楽である古典派のホモフォニー(主旋律にハーモニーを加えた音楽)のソナタ形式を見事に融合させ、聴く人を興奮の渦に巻き込み、遥か時空の彼方にいざなっていく偉大な音楽です。
憧れのオケがなんと地元に
私がこの曲を初めてコンサートで聴いたのは、高校を卒業した春、1988年、地元のホール『パルテノン多摩』ででした。
演奏は、当時、初めて古楽器によるモーツァルトのシンフォニーの全曲録音を行って、クラシック界に一大センセーションを巻き起こした、クリストファー・ホグウッド率いるアカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックでした。
彼の全集は、当時の奏法を研究してモーツァルトの時代の響きを極力再現したばかりか、これまでシンフォニーに数えられていなかったセレナードやオペラの序曲などを改作したものや、新発見の曲まで網羅したものも加え、シンフォニーの概念にも古くて新しい風を吹き込んだものです。
それはちょうど、古い名画に、長い年月についた汚れや、塗られた粗悪なニスなどを洗浄する技術が完成した頃と重なり、ルネサンスなどの名画に完成当時の輝きを取り戻す作業と同じ偉業でした。
ボッティチェリの『プリマヴェーラ(春)』は、びっくりするほどの鮮やかさを取り戻し、そこに描き込まれた草花の特定までできるようになり、レンブラントの『夜警』は、洗ってみたら、実は『昼景』!?という発見もありました。
音楽学者でもあるホグウッドの演奏は、まさに、目からウロコの落ちるような説得力のある演奏だったのです。
CD全集は6万円近くするので、とても手が出せるものではなく、CD1枚ずつの切り売りを、少しずつ買って聴いていました。今ではApple Musicなどのデータ配信サービスで聴き放題なのですから、本当にいい時代になったものです。
そんなホグウッドが、何と我が町にやってくるというではないですか!
何日も前から眠れぬほどドキドキし、夢のような心地で聴きに行きました。
プログラムも、ハイドンのシンフォニー第90番に始まり、モーツァルトのヴァイオリン・コンチェルト第5番〝トルコ風〟、そしてこの〝ジュピター〟という豪華なものだったのです。
文字通り、夢のような時間があっという間に過ぎました。
ちなみに最初のハイドンの曲は、フィナーレがいったん終わるとみせかけ、まだ続くという仕掛けがある曲なのですが、やはりみんな初めて聴く曲だったでしょうから、ひっかかり、拍手をしてしまいました。
恥ずかしい思いをしましたが、あとで、まさにそれを狙ったハイドンのいたずらであることを知り、少しホッとしました。
さて、いよいよジュピターのフィナーレ。全ての楽器があちこちでジュピター音型を鳴らし、それがやがて火の玉のように一体化し、まるで宇宙の姿が目の前に現れたかのよう。
あるいは、きれいな花火がこっちからも、あっちからも上がり、目くるめく思いをしているうちに、最後に一斉に全天を光の洪水が埋め尽くす、花火大会の圧倒的なエンディングを観ているかのよう。
終演のあと、しばらく体の震えが止まらず、席から動けずにいましたが、近くにいた同年代の男子二人組も『俺、もうこれから何をしでかすか分からない…』と震えていたのを思い出します。
今も〝ジュピター〟を聴くたびに、あの感動が蘇ってきます。
〝ジュピター〟の名付け親
このシンフォニーに〝ジュピター〟という愛称をつけたのは、ハイドンをロンドンに招聘した、あのヨハン・ペーター・ザロモン(1745-1815)と言われています。
ジュピターは、ギリシア神話のゼウス、ローマ神話ではユピテルと呼ばれる、神々を統べる主神です。
ザロモンは、数あるシンフォニーの中でも最高のものとして、この名で呼んだのでしょう。
今の日本で〝ジュピター〟といえば、ホルストの組曲『惑星』のなかの『木星(ジュピター)』や、この曲をもとにした平原綾香の歌の方がポピュラーかもしれませんが。
ハイドンをあれほど評価したザロモンも、ハイドンのシンフォニーにはそのような名付けはひとつもしていないので、このシンフォニーを特別視していたのでしょう。
モーツァルトがもっと長生きしてれば、きっとロンドンでハイドンのような成功を収めたのは間違いありません。モーツァルトが誰からの依頼もなく3大シンフォニーを作曲したのは、特定の王侯貴族ではなく、市民、大衆のためと思われてならないのです。
そして、当時、この曲の真価を知っていたのは、間違いなくハイドンでしょう。
ハイドンは『ロンドン・セット』のうち、第98番の第2楽章にこの曲の第2楽章を、第95番のフィナーレにこの曲のフィナーレを投影させているといわれます。
モーツァルトはハイドンの『パリ・セット』に感銘を受けて〝3大シンフォニー〟を作曲し、さらにハイドンは逆にそれらの曲からインスピレーションを受けたわけです。
英雄、英雄を知る。巨匠、巨匠を知る、ということでしょうか。
バッハとヘンデル、ハイドンとモーツァルト。巨匠たちが互いに影響を受けながら傑作を生み出すさまは、さながら大自然の生態系の神秘を見るかのようです。
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小林秀雄の〝ジュピター〟評
小林秀雄も、当然ながらこの曲に言及しています。鑑賞のよすがに、また評論『モオツァルト』を引用します。
ベエトオヴェンは、好んで、対立する観念を現す二つの主題を選び、作品構成の上で、強烈な力感を表現したが、その点ではモオツァルトの力学は、遥かに自然であり、その故に隠れていると言えよう。一つの主題自身が、まさに破れんとする平衡の上に慄えている。例えば、四十一番シンフォニイのフィナアレは、モオツァルトのシンフォニイのなかで最も力学的な構成を持ったものとして有名であるが、この複雑な構成の秘密は、既に最初の主題の性質の裡にある。《譜例》第1ヴァイオリンのピアノで始まるこの甘美な同じ旋律が、やがて全楽章の嵐のなかで、どの様な厳しい表情をとるか。
主題が直接に予覚させる自らな音の発展の他、一切の音を無用な附加物と断じて誤らぬ事、しかも、主題の生まれたばかりの不安定な水々しい命が、和声の組織のなかで転調しつつ、その固有な時間、固有の持続を保存して行く事。これにはどれほどの意志の緊張を必要としたか。しかし、そう考える前に、そういう僕等の考え方について反省してみる方がよくはないか。言いたいことしか言わぬ為に、意志の緊張を必要とするとは、どういう事なのか。僕等が落ち込んだ奇妙な地獄ではあるまいか。要するに何が本当に言いたい事なのか僕等にはもうよく判らなくなって来ているのではあるまいか。
むしろ小林が何を言いたいのかが難しいですが、確かにベートーヴェンの音楽は、人間が考えに考え、努力に努力を重ねて作り上げた作品という印象を受けます。
しかしモーツァルトのものは、そんな苦労のあとを感じさせず、大自然が偶然創り上げた絶景を眺めるような気がします。
仏像の名工が、さながら木の中に元々おわす仏を掘り出すかに作品を創るように。
しかしそこには考え抜かれた人間の〝意志の緊張〟なくしてはあり得ない〝力学的構成〟が見受けられるために、小林は混乱しているのでしょう。
これこそ天才の天才たるゆえんというものかと思います。
W.A.Mozart : Symphony no.41 in C maior, K.551
演奏:ルネ・ヤーコプス(指揮)フライブルク・バロックオーケストラ
Freiburger Barockorchester & Rene Jacobs
編成にはクラリネットは入っておらず、トランペットとティンパニが加わります。序奏はなく、主和音の堂々たる3回打ちで始まります。私には、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』のフィナーレで、石像がドアをノックする音に似ているように聞こえます。しかし、続く足取りは亡霊のものではなく、神の勝利の行進のようです。まさに神々の戦いに勝った大神ユピテルのイメージです。武骨なフォルテと、繊細なピアノの対比がこの曲の真骨頂です。モーツァルトらしいロココ調の優雅な貴族趣味はここにはなく、近代的な様相を感じます。大学時代、クラシックは好きでもモーツァルトは聴かなかった友人に聴かせたら、『これは本当にモーツァルトか?まるで初期のベートーヴェンのようだ。』と言っていました。真似をしたのはベートーヴェンの方なのですが。私は大晦日にこの曲を聴きたくなります。第九もそうですが、過ぎし1年に思いを馳せ、新たなる年を迎える気持ちを作るのに最適な音楽なのです。
わざわざカンタービレ(歌うように)と指示されているように、どこまでもしっとりとした歌です。さりげない調子で始まりますが、弱音器をつけた弦と管楽器がからみあい、せつない音楽を紡ぎます。この曲を天上的、と評する人も多いですが、私には憂愁に満ちた、人の心の中にある、漠然とした不安や愁いというものを感じます。テーマには実はフィナーレのジュピター音型が埋め込まれており、そこが手の込んだ力学的構成のひとつになっています。これは神の歌ではなく、弱き人間の歌に思えてなりません。
第3楽章 メヌエット:アレグレット
惑星の運行を示すかのような壮大なメヌエットです。この楽章でも、メヌエットにも、トリオにもジュピター音型は隠されています。とくにトリオの後半でははっきりとしていて、フィナーレの爆発を予告しているのです。
いよいよ、フガートによる宇宙的な最終楽章です。「ド・レ・ファ・ミ」が第1ヴァイオリンによってはっきりと示され、3つのテーマが次々に組み合わさり、驚くべきポリフォニーを展開します。上昇音型は壮大かつ雄渾で、高い山から雄大な景色を見渡すように、聴く人に元気と勇気を与えてくれます。全ての楽器が主役となり、それぞれ対等に与えられた役割を果たしていくさまは、オーケストラの一人ひとりが心をひとつにしているのが伝わってきて、涙が出ます。スポーツで、チームが一丸となってついに勝利の栄冠を勝ち取った瞬間を見るかのようです。そして展開部。短調のフーガが張り詰めた緊張の時間を作ります。まるで人生の厳しさを示すかのように。そして、展開部のあと、異例の長いコーダに突入。トランペットが高らかに吹きならすジュピター音型。苦悩のあとの勝利。全ての楽器が歌う、生命のいぶき。なんという、なんという輝かしさでしょう。
8歳作の最初のシンフォニーにも
このジュピター音型は、特にモーツァルトのオリジナルというわけではなく、よく好まれたものでした。しかし、モーツァルトがもっとも効果的に使ったということです。
モーツァルトの最初のシンフォニー、つまり第1番はなんと8歳のときの作ですが、この曲にジュピター音型が出てくるのです。
この第1番は、今に残されているもので一番古いもので、本当に最初に作曲したものは別にある可能性もありますが、最初のシンフォニーと最後のシンフォニーに同じ音型が使われているのは、偶然とはいえ、神秘的な事実です。
このシンフォニーは、モーツァルトが神童として父レオポルトに連れられてヨーロッパ演奏旅行(いわゆる「西方への大旅行」)をした際、1764年にロンドンで作曲されました。
ロンドンはこの頃からシンフォニーがもてはやされており、大バッハの末子ヨハン・クリスティアン・バッハが活躍していて、幼いモーツァルトにも手ほどきをしてくれました。
この曲にも、クリスティアン・バッハの影響が大きいといわれています。
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W.A.Mozart : Symphony no.1 in E flat maior, K.16
リチャード・エガー指揮アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック
元気なファンファーレで始まり、抒情的に受け継ぎ、はつらつと走り回るさまは、まさに無邪気な子供のようですが、子供が作ったとはとても思えない音楽です。
第2楽章 アンダンテ
さらに子供離れしているのがこの楽章です。3連音の悲しい悲劇的な音楽。ここのホルンが、ジュピター音型を奏でるのです。展開部の第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンの掛け合いなどは〝大人の音楽〟であり、8歳の少年の作とはとても信じられません。
第3楽章 プレスト
3拍子の元気な舞曲風のフィナーレです。構成は単純ですが、強弱のめりはりなどは、習作の匂いは全くせず、完成された奇跡の音楽です。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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