出世欲から生まれた聖なる傑作
バッハの「世俗カンタータ」を聴いてきましたが、そこからは〝厳粛な宗教音楽家〟バッハのイメージとは違った、親しみやすい姿が見えました。
しかし、〝神聖な〟バッハの宗教曲の最高峰に位置づけられる『ロ短調ミサ』の成り立ちにも、一連の世俗カンタータと同じ〝俗っぽい〟事情がからんでいるのです。
バッハの〝4大宗教曲〟と呼ばれるのは、『ヨハネ受難曲』『マタイ受難曲』『クリスマス・オラトリオ』、そして今回取り上げる『ロ短調ミサ』です。
かつて『バッハは死後長い間忘れられてしまい、没後80年になろうという1829年に、メンデルスゾーンによってマタイ受難曲がリバイバル上演され、それではじめてその価値が見直された』という〝都市伝説〟がありましたが、それは、バッハが大コンサートのメジャーな演目になりうるという〝見直し〟であって、バッハはそれまでずっと音楽愛好家たちのリスペクトの的でした。
1817年、スイスの音楽評論家ネーゲリは、ロ短調ミサについて『あらゆる時代と民族の最も偉大な芸術作品』と最大級の賛辞を呈しています。
この言葉は、その7年後、1824年にベートーヴェンが作曲した『第九』にも当てはまるように思いますが、モーツァルトやハイドン、ベートーヴェンがそのほとんどの主要作品を世に送った後にさえ、バッハはこのような評価を得ていたのです。
まさにバッハの、いや全ての音楽作品の、最高峰といっていい曲でしょう。
〝永遠〟を感じさせるこの大作を、年越しを挟んで聴いていきたいと思います。
作曲にまつわる謎の数々
そんなロ短調ミサですが、その成り立ちにはたくさんの謎があります。
第1の謎は、なぜプロテスタントのバッハが「ミサ曲」を作曲したのか?ということです。
ミサ曲は、言うまでもなくカトリックの典礼の音楽であって、バッハが務めていたライプツィヒのトーマス教会では絶対に演奏されないものでした。
これは、これまで「世俗カンタータ」の記事で取り上げてきたように、プロテスタントのザクセン選帝侯が、カトリック国のポーランド王を兼ねた、という複雑な事情がからんできます。
しかし、それだけで謎は解けません。
第2の謎は、ミサの歌詞に、反カトリック的な文言が含まれている、曲の構成がカトリックの典礼に従っていない、という点です。
つまり、このミサ曲は、カトリック、プロテスタントどっちの教会でも、典礼音楽としては演奏できないのです!
第3の謎は、そもそも曲が長すぎて、礼拝では使用できない、ということです。
今回取り上げる演奏は、古楽器使用でテンポは速めですが、全27曲聴くのに1時間42分かかります。
ベートーヴェンのミサ・ソレムニス(荘厳ミサ)でも1時間12分(ガーディナー版)です。
コンサートならともかく、当時の典礼ではこの時間はありえません。
モーツァルトの主君ザルツブルク大司教コロレードは、トイレが近いためミサ曲は20分以内に収めるように、と命じたほどです。
実際、バッハの生前に全曲が通して演奏された記録はないのです。
それはなぜか?を考えながら聴いていきたいと思います。
バラバラに作られた大曲
このミサ曲は、最終的には間違いなく1つのまとまりとしてバッハも意識して構成されているのですが、成り立ちはバラバラでした。
構成は通常のミサ曲の5部構成ではなく、次の4部から成ります。
第1部「ミサ」(キリエ、グロリア)
第2部「ニケーア信条」(クレド)
第3部「サンクトゥス」
第4部「オサンナ、ベネディクトゥス、アニュス・デイとドナ・ノビス・パチェム」
こうなった事情は次の通りです。
まず、バッハは1733年に第1部の「ミサ」を作曲します。これは、キリエとグロリアだけですので、ミサ通常文5章のうちの最初の2章にあたります。
これで用は済んだのですが、バッハは最晩年、死の2年前の1748年8月に、この旧作を引っ張り出して、ミサ通常文の残りの章を付け加え、「ミサ・トータ(完全ミサ曲)」とすることを思いつきました。
そして、残りの部分を、新たに作曲したり、旧作を流用したりして完成したのです。
第3部の「サンクトゥス」は、ライプツィヒに来たばかりの1724年に独立して作曲したものを流用したため、本来その章に含まれるオサンナやベネディクトゥスを、別の部のアニュス・デイ、ノビス・パチェムにくっつけたため、異例の4部構成になったのです。
ではまず、第1部の成り立ちから見ていきます。
バッハが転職したワケ
1723年、ライプツィヒ市のカントル(音楽監督)に就任したバッハは、聖トーマス教会をはじめとした市内の教会での全ての典礼音楽の提供や、名高い聖トーマス学校の生徒の教育も任されていました。
トーマス・カントルとも呼ばれます。
学校では音楽も重要な科目のひとつですが、カントルは基本教師ですから、ラテン語も教えなければなりませんでした。
作曲、演奏、教育、管理と、カントルの職務は多忙を極めました。
それでもバッハはライプツィヒに求職するにあたって、市当局に対して次のことを書面で約束したのです。
1.私は少年たちに正直で控えめな生き方の模範を示し、学校に勤勉に奉仕し、少年たちを良心的に教えます。
2.この市の主要なふたつの教会の演奏技術を、できる限り向上させます。
3.恐れ多くも賢明な参事会に対し、全面的に敬意と服従を示し、その名誉と評判を守り向上させるために最善を尽くします。また参事会議員が少年たちの演奏を望まれる時は、ためらわずにこれを提供しますが、それ以外の場合は現職の市長殿と学校理事殿の事前の承知と同意がない限り、少年たちが葬式や結婚式のために町外に出るのを決して許しません。
4.学校の査察官殿と理事殿が参事会の名前で出される指示には服従いたします。
5.音楽の基礎ができていなかったり、全く音楽教育に適していない少年は学校に入れませんが、査察官殿と理事殿の事前の承知と同意がなければ、この措置はとりません。
6.教会が不要の出費をしないように、少年たちに声楽だけでなく器楽も誠実に教えます。
7.教会に良き秩序を維持するため、音楽演奏は長すぎないように配慮し、オペラの印象を与えるよりは、聴衆に敬虔の念を起こさせるような音楽を演奏いたします。
8.神と聖者の住処である教会にすぐれた学生を提供します。
9.少年たちを親切かつ慎重に扱いますが、彼らが服従しない場合は穏やかに訓戒するか、しかるべき部署に報告します。
10.学校の規則および学校が私にやれということは何事であれ、これを忠実に守ります。
11.そして私自身がこれを実行できない時は、参事会や学校に経費負担をかけることなく、他の有能な人物にやらせるよう配慮します。
12.現職市長殿の許可なしに町の外に出ることはいたしません。
13.少年たちと葬式におもむく際は、慣例が許す限り、歩いて行きます。
14.そして参事会の同意なしに大学の職を受諾したり、これを望んだりはしません。
なんともすごいコミットメントです。
生徒を指導するときはパワハラにならないようにします、とか、出張演奏に行くときはタクシー(馬車)は使いません、とか、細々と!
今の教員も教育委員会や市町村議会、あるいは学園理事会に対してこれに近い責任を負っているかもしれませんが…。
しかもバッハは、ここまでしてライプツィヒの職を得た一方、前職の、はるかに好待遇だったケーテンの宮廷楽長の職をなげうっているのです。
それは、バッハのことを大変評価してくれた音楽愛好家の主君が結婚し、その妃が音楽嫌いだったから、と本人は言っていますが、俸給は年額420フローリンから115フローリンに大幅に減収になりました。
また、宮廷楽長から町の音楽監督へは、社会的地位もダウンになります。
大都会では副収入があり、天候が穏やかだと葬式が減って困る、とバッハが嘆いた話は以前ご紹介しましたが、お金にシビアだったバッハがそう簡単に転職するはずはありません。
引っ越しは子供の教育のため
最大の転職理由は、子供の教育でした。
自分が大卒でなかったことにコンプレックスを抱いていたバッハは、子供たちはいい大学に入れたいと思い、聖トーマス学校のあるライプツィヒに家族で引っ越してきたのです。
そして、自らその教員になれば、音楽を生業としたバッハ一族の一員として、子供たちの前途も洋々たるものになります。
子供も含めて、バッハは後進の指導に大変力を入れました。それは、中世の徒弟制度以来、今も続くドイツの職人魂といってもいいかもしれません。
教育のために転職、引っ越しをするとは、中国の故事〝孟母の三遷〟を思い出します。
そのため、先程のような〝なんでもやります〟といった約束を市当局にしたのです。
上司、当局との激しい確執
しかし、実際に就職したら、バッハはその約束を破ってばかりでした。
学生たちはどんどん副収入稼ぎのアルバイトに駆り出しますし、ラテン語の授業も金で代役を雇い、押し付けます。
一方、市参事会の方も、新入生の入学試験に際し、バッハが推薦した者を何人も落とし、代わりに音楽の才能の無い者を、参事会議員のコネで5人も裏口入学させます。
バッハは激怒し、市参事会や学校当局に噛みついたり、仕事をボイコットしたりしたので、参事会はバッハの不服従や業務怠慢を非難し、行動制限や減俸を決議します。
寄らば大樹の陰?
当局との対立が抜き差しならぬところまできたときに、折しも1733年2月、以前も取り上げた強王、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世(ポーランド王アウグスト2世)が薨去しました。
その服喪期間に、バッハは「ミサ(キリエとグロリア)」を作曲し、7月半ばにザクセンの首都ドレスデンを訪れ、同年6月から長男ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハがオルガニストを務めていたソフィア教会で、これを演奏しました。
「キリエ」は亡き王の追悼のため、「グロリア」は新王即位の祝賀のためでした。
そして7月末、新たに即位した息子、フリードリヒ・アウグスト2世(ポーランド王アウグスト3世)に、次のようなうやうやしい献辞をつけて捧げ、「宮廷楽長」の称号の授与を請願したのです。
選帝侯閣下、
慈悲深き主君、
国王陛下に対したてまつり、私が音楽において得ましたる学識のこれなるささやかな成果を、畏みて捧げたてまつります。どうかこの作品を、つたなき出来栄えによってではなく、世に名高きご寛大と、お慈悲の目をもってご覧あそばされ、私を陛下の力限りなきご庇護のもとにおかれますよう、伏してお願い申し上げる次第でございます。私は数年来、ライプツィヒの両主要教会の音楽監督を務めてまいりましたが、罪もなく1、2の制限が加えられ、この職に関連する臨時収入の削減に甘んじねばなりません。さりながら、国王陛下が私にお慈悲を示され、陛下の宮廷の称号をお与えたまい、その旨の訓令を伝えよとのご命令を当局に発せられますれば、かかる事態は完全に回復することでございましょう。もし私の身を伏してのお願いを慈しみ深くもお聞き入れくださるならば、私は限りなき尊敬をお捧げ申し上げ、恭順の限りを尽くして、いかなるときも陛下のお望みに応え、教会音楽の作曲にもオーケストラ音楽の作曲にも、私のあくなき勤勉をお示し申し上げ、私の全力を尽くして陛下にお仕えするために身を捧げる所存でございます。国王陛下に限りなき忠誠をお誓いたてまつります。
ドレスデンにて
1733年7月27日
最も恭順なる下僕
ヨハン・セバスティアン・バッハ
先にライプツィヒ市当局に出した文書といい、バッハは音楽だけでなく、文章もずいぶん調子よく書けるもんだと感心しますが、生活がかかっているので必死なのでしょう。
なんとしてでも、王様から「宮廷楽長」の肩書を得て箔をつけ、自分を軽んじるライプツィヒ市のお偉方たちをぎゃふんと言わせてやろう、というわけです。
これに対し、王の返事は、しばらくなしのつぶてでした。
1734年10月の新王のライプツィヒ市訪問に際し、バッハが御前演奏のため張り切って突貫工事でカンタータを書き、その無理がたたってトランペッターが急死してしまったのは以前ご紹介した通りです。
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その甲斐あってか、請願から3年経った1736年に、バッハはめでたく「宮廷楽団作曲家」の称号を得ました。
その辞令は次の通りです。
辞令
ヨハン・セバスティアン・バッハを、国王陛下の宮廷楽団の作曲家に任ず
本状により、ポーランド国王兼ザクセン選帝侯閣下は、ヨハン・セバスティアン・バッハを、同人による恭順なる求めに従いて、その見事なる技能によりて、宮廷楽団作曲家の称号を恵み深くも授与したまう。よって、同人に対し国王陛下ご直筆のご署名と、刷り込まれた御璽をもちたる本辞令を交付するものなり
以上、1736年11月19日付
G.W.メンツィル
アスグスト王
(捺印)ド・ブリュール
メンツィル
1736年11月19日清書。同28日、原本はフォン・カイザーリンク男爵閣下宛に送付
ずいぶん待たされましたが、無給の名誉職であっても望みどおりの肩書を得たわけです。
プロテンスタントのバッハが、なぜカトリックのミサ曲を書いたのか、という謎については、カトリックに改宗したザクセン選帝侯におもねるため、というのが通説ですが、実はこの「キリエ」「グロリア」については、ルター派でも礼拝に使われていました。
これに続くベネディクトゥスの章での典礼上の秘儀「聖変化」をプロテンスタントは認めていないため、ミサ通常文の全ては使用できませんが、それ以外の部分は改革者ルターも認めていたのです。
つまりバッハは、プロテンスタントのザクセン選帝侯が、カトリックのポーランド国王を兼ねるという異常事態に対処し、プロテンスタントでもカトリックでも使える「ミサ曲」を書き、捧げたわけです。
あくまでも先に成立したこの部分だけで、後に拡大されたロ短調ミサ全体となると、そういうわけにはいきませんが。
バッハは、夫君の王位欲しさの変節に従わず、信仰を守ったまま亡くなった王妃に哀悼の感動的なカンタータを捧げたことも取り上げました。
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政治情勢を読み、使える権力は全て使って自分の地位を有利にしようとするバッハの世渡り術には、まさに現代のサラリーマンも舌を巻くしかありません。
しかし、ドヤ顔だったであろうバッハの立場に大きな変化はなく、市当局との対立はますます激化していくのです。
にもかかわらず、音楽にはそんな世俗の匂いは微塵もせず、その偉大さに圧倒されるばかりです。
それではまず、最初の「キリエ」から聴いていきましょう。
合唱とソロは、ソプラノがふたりで5部という異例の編成です。
取り上げた演奏で使われた楽譜は、賛否両論のリフキン版ですが、それについては次回触れたいと思います。
バッハ:ロ短調ミサ BWV232 『キリエ』
Johann Sebastian Bach:Mass in B Minor, BWV232, Mass(Kirie)
演奏:ジョン・バット(指揮)ダニーデン・コンソート&プレーヤーズ、スーザン・ハミルトン(ソプラノ)、セシリア・オズモンド(ソプラノ)、マルゴット・オイツィンガー(アルト)、トーマス・ホッブス(テノール)、マシュー・ブルック(バス)
John Butt & Dunedin Consort & Players
使用楽譜:ジョシュア・リフキン校訂ブライトコップ版/2006年
第1曲 キリエ・エレイソン
5部合唱
主よ、憐れみたまえ
「キリエ」は、ラテン語のミサ通常文の中で唯一ギリシャ語で、『主よ、憐みたまえ。キリストよ、憐みたまえ。主よ、憐みたまえ。』のたった3行です。「憐みの賛歌」といわれます。キリスト教においては、人類は生まれながらに罪を背負っており、ただただ神に許しと憐みを乞う存在でしかない、とされています。初詣をして神様仏様に願いごとをする、などというのは大それたことなのです。1行を一つの曲として、この章は3部構成になっていますが、バッハはそれぞれに全く違った技法で仕上げているのです。
この最初の「キリエ」は当時のバッハの斬新な工夫がつまっており、2曲目の「クリステ」は、まるで劇場のオペラのような最先端の流行曲、3曲目は、中世以来の教会音楽の伝統を今に蘇られたかのような古風な作りで、バッハは、自分はどんなタイプの曲でも作れますぞ、ということを王にアピールしているのです。
ロ短調の悲壮な冒頭の叫びは、一度聴いたら忘れられない強烈な印象を与えます。先王の死の衝撃を表わしているのでしょう。そのあと、憂愁というだけでは足りない、複雑な感情を込めた器楽だけの奏楽がしばらく続きます。そして、届くかどうかも分からない、天上はるかにおわす神に向かって、テノールが弱々しく憐みを乞いはじめ、アルト、ソプラノⅠ、ソプラノⅡ、バスの順で続くフーガとなります。旋律はまるで香の煙のように、複雑に絡み合いながら天に昇っていきます。
第2曲 クリステ・エレイソン
二重唱(ソプラノⅠ、Ⅱ)
キリストよ、憐れみたまえ
ニ長調で、ふたりのソプラノがイエス・キリストに向かって祈る二重唱になります。前曲から一転、曇天に薄日が差すようですが、ここには、神の怒りを取りなしてくださるイエスに対する期待、甘え、癒しといった感情が表現されています。前述のように、これは都会のオペラでの最先端曲といってよく、現世と来世をつなぐイエスの役割を、流行を取り入れることによって人々に示したわけで、まさに聴衆はホッとした気持ちになったことでしょう。
第3曲 キリエ・エレイソン
4部合唱
主よ、憐みたまえ
さらに一転、嬰ハ短調の厳粛な雰囲気に戻りますが、バッハがルネサンス期教会音楽の巨匠、パレストリーナの古典的な対位法を学んだ 成果が余すところなく発揮されています。バス、テノール、アルト、ソプラノ順で入るフーガで、どんなに頑固な保守派、守旧派も納得してしまう「スティレ・アンティコ(古様式)」で書かれ、最先端の流行曲も、古いスタイルの曲も、自在に操れることを誇っているかのようです。まさにバッハには、それまでのすべての西洋音楽が流れ込んでいることを実感できる楽章です。
来し方を振り返るようなキリエで年越しし、新年は賑々しいグロリアで明けたいと思います。
今年も当ブログをお読みいただき、ありがとうございました。
どうかよいお年をお迎えください。
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