本場の風格、イタリア音楽
前回までバッハを聴き、バッハには中世以来のヨーロッパのあらゆる音楽が流れ込んでいる、という話になりましたが、その大海に注ぐ2つの大河は、イタリア音楽とフランス音楽です。
フランス音楽については、リュリ、ドラランド、シャルパンティエ、クープラン、ラモーを〝ベルばら音楽〟として過去記事で取り上げましたが、イタリア音楽はさらに歴史が古く、あまたの音楽家を輩出しています。
両者のライバル関係についてはこれまでも触れてきましたが、イタリアの方ではフランス音楽など眼中にはなく〝音楽の本場〟の風格を保ち続けてきました。
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当時から絶大な人気のヴィヴァルディ
その中でも、〝最先端の音楽〟としてバッハに大きな影響を与えたのは、ヴィヴァルディです。
バッハは若い頃、主君の王子、エルンスト公子がオランダ留学から持ち帰ったヴィヴァルディの楽譜を、その依頼でオルガン曲に編曲しました。
当時、世界最高の品質を誇ったアムステルダムの印刷会社による出版楽譜によって、ヴィヴァルディの音楽は全ヨーロッパを席捲していたのです。
今も、ヴィヴァルディの『四季』は、一般にはバッハ以上に親しまれているかもしれません。
バッハのミサ曲と、ヴィヴァルディの宗教曲をぜひ聴き比べてみたいと思います。
アントニオ・ヴィヴァルディ(1678-1741)は、バッハやヘンデルより7歳年上で、バッハの死より9年前に亡くなっていますので、ほぼ同時代のちょっと先輩、といった感じです。
ヴィヴァルディは、イタリアの水の都、ヴェネツィア(ヴェニス)で生まれました。
ヴェネツィアは、中世以来、地中海貿易を独占し、西欧からオリエントに開かれた唯一の窓でした。
王様はおらず、有力商人たちで統治する共和国だったことも特長です。国家元首は「ドージェ」と呼ばれ、終身制でしたが世襲はできず、評議会員による選挙で選ばれたのも特徴的です。
もともとは西ローマ帝国が滅亡したあと、フン族など異民族の来襲から逃れた人々が、海の潟(ラグーン)に、杭をたくさん打ってその上に住居を作るという、大変な苦労をしてできた町でした。
それ以来、海洋国家として発展、地中海に勢力を伸ばして〝アドリア海の女王〟と呼ばれ、発展し、ナポレオンによって滅ぼされるまで千年の歴史を保ちました。
音楽の分野では〝ヴェネツィア楽派〟を形成し、ナポリ、ローマと並ぶ発信地でもありました。
ただし、ヴィヴァルディが活躍したころには、オスマン・トルコに東地中海の覇権を抑えられ、ポルトガルのインド航路発見やスペインの新大陸発見によって、東方貿易独占の旨味は失われ、ヴェネツィア共和国は政治的には斜陽の一途をたどっていました。
しかし、政治的な衰退期が、文化の爛熟期となるのは世界史のセオリーです。
ヴェネツィアは今も人気の観光地であり、東京ディズニーシーもそれを再現していますが、ヴィヴァルディの時代にはすでに、ヴェネツィアは旅行先人気ナンバーワンでした。
大流行した「グランド・ツアー」とは
この時代、英国貴族の子弟が、将来社会のリーダーとなるための学業の仕上げとして、ヨーロッパ大陸を旅する「グランド・ツアー(欧州大旅行)」が流行し、その他の国にも広がっていきました。
そのメインの目的地はイタリアであり、そこでヨーロッパ文化の源流というべき古代文明の痕跡と、古典文化に触れるのが大きな目的でした。
永遠の都ローマ、そしてナポリ、古代都市ポンペイ、ギリシャ文明の残るシチリア島などをめぐり、最後にヴェネツィアで最先端の流行に触れて、たくさんの土産物を手に帰国するのです。
そのためヴェネツィアでは巨大な土産物マーケットが誕生し、カナレットやグアルディらの描く風景画と、ヴィヴァルディらの新曲の楽譜がその代表でした。
今ではヴェネツィアン・グラスがそれを担っていますね。
グランド・ツアーは英国に始まり、ネーデルラント(オランダ・ベルギー)、北欧諸国、ドイツの王侯貴族、富裕層が、われもわれもとイタリアに押し掛け、イタリアの都市文化を〝田舎〟に持ち帰ったわけです。
今は富裕層でなくとも海外旅行に行けるいい時代です。私も大学時代にはじめてヨーロッパ11ヵ国を旅した経験が、その後の人生の基礎になっています。ヨーロッパはどこも素晴らしいですが、白眉はやはりイタリアで、その後6、7回は訪ねましたが、人、文化、芸術、歴史、食、その魅力はまさに別格です。
ヴィヴァルディの生い立ち
さてヴィヴァルディは、ヴェネツィアの象徴サン・マルコ寺院のヴァイオリニストの息子として生まれました。
当時の旅行ガイドブックには、父子で名ヴァイオリニストとして紹介されているくらいですから、若いうちからひときわ優れた楽才をみせていたようです。
しかし、ヴィヴァルディは生まれつき難病を患っていたようで、15歳から僧籍に入り、聖職者の道を歩みますが、同時に音楽家としても修行を積みました。
25歳のときに司祭に叙階されますが、その病気のせいでミサは行えず、実質的には聖職者の仕事はせずに、音楽家として生計を立てていきます。
あだ名は〝赤毛の司祭〟でしたが、〝在俗の司祭〟という微妙な立場でした。
その持病はなんだったのか分かりませんが、喘息というのが有力な説です。
ヴィヴァルディは1703年から「ピエタ慈善院付属音楽院」のヴァイオリン教師となりました。
「ピエタ慈善院」は、いわゆる孤児院なのですが、実は、これが当時のヴェネツィアの大人気観光スポットだったのです。
慈善院の孤児たち
慈善院(オスペダーレ)は当時のヴェネツィアに4つあり、ピエタ慈善院はその代表格で、設立されたのは14世紀でした。
孤児や私生児、捨子を養育するために作られ、国によって運営されていました。
子供を育てることのできない親は、「スカフェッタ」と呼ばれる、日本でも一時期議論になった赤ちゃんポストに子供を入れます。
その際、親はいつか引き取りに来られるようになったときのために形見の品を添えましたが、それが実現したケースは少なかったようです。
後には男子も受け入れるようになりましたが、基本は、保護がより必要な女子です。
孤児の女子たちは、女子修道院でもあるこの施設で、読み書き、信仰、糸つむぎや裁縫とともに、音楽教育を受けました。
まずは合唱、そして音楽的才能のある娘には楽器が与えられました。
音楽教育は、生活訓練というよりも、慈善院そのものの運営、収入のためでした。
国費の補助や寄付があるとはいえ、経営状況は不安定なものであり、これらの女子による合唱隊、オーケストラの演奏に客を呼び、その収入が慈善院の運営にあてられたのです。
ヨーロッパ中で評判となった演奏
この慈善院での演奏が、旅行者たちによって、世界一という称賛を受け、評判が評判を生み、18世紀にヴェネツィアを訪れる人は、この音楽を聴くのを目的のひとつとしていました。
ある北欧の王様は、到着したその日に荷物も解かず真っ先に慈善院に駆けつけたといいます。
慈善院について書かれた旅行記はあまたありますが、いくつかをご紹介します。
ヴェネツィアには女性の修道院があって、そこでは修道女たちがオルガンや他の楽器を演奏し、また見事に歌う。世界中のどこに行ってもこれほど優しく心地のよい響きの歌には出会えないだろう。
〈ロシア貴族ピョートル・アンドレヴィッチ・トルストイ 1698年〉
日曜と祝祭日には必ずこれらの慈善院の礼拝堂では、娘たちによる声楽や器楽の演奏会が催される。彼女たちは聖歌隊席に座を占めるが、聴衆たちの視線は目の詰まった鉄格子によってさえぎられている。その演奏はまったくもって見事なものである。彼女たちの多くは素晴らしい声に恵まれているし、またこのように姿が見えないために、すべてはよけいに魅力的なのである。
〈英国の旅行者エドワード・ライト 1720年〉
4つの慈善院、すなわちピエタ、メンディカンティ、オスペダレット、インクラービリにおける教会の音楽は、土曜、日曜、祝日に必ず行われる。それが午後の4時頃に始まり、6時過ぎまで続く。この中でピエタ慈善院が、現在のところ最も重要である。ここではおよそ900人の娘たちが養われている。すべて孤児たちであるが、例外的に、貧しい家庭から寄宿生として送られてきた者もいる。(中略)彼女たちの多くが声楽ばかりでなく、器楽においても秀でているのはまったく驚くべきことである。彼女たちはヴァイオリン、チェロ、オルガン、テオルボ、さらにオーボエやフルートも見事に演奏する。現在特に有名な者は、ポローニアとゲルトルーデ、オルガンではトニーナ、テオルボではプルデンツァ、オーボエではスザンナ、ヴァイオリンではアンナ・マリアである。このアンナ・マリアに関しては、我々男性のヴィルトゥオーゾでも彼女に匹敵するものはまれである。
〈ドイツの旅行者ヨハン・クリスティアン・ネマイツ 1726年〉
この地で群を抜いて優れた音楽といえば、慈善院の音楽です。慈善院は4つあり、どれも私生児、孤児、さらに両親に扶養能力のない娘たちで溢れています。彼女たちは国の費用で養われ、音楽に秀でるためにのみ訓練されます。ですから娘たちは天使のように歌い、ヴァイオリンやフルート、オルガン、オーボエ、チェロ、ファゴットなどを演奏します。大きいからといって彼女たちをためらわせる楽器は存在しません。娘たちは修道女のように隔離されて暮らしています。演奏は彼女たちだけで行われ、それぞれの演奏会に出るのは40人ほどの娘です。あなたに誓ってもいいですが、耳にざくろの小さな花束をつけ、白衣をまとった若く可愛いひとりの修道女が、じつに優雅に、そして本当に正確にオーケストラを指揮し、リズムを取るのを眺めるほどの喜びというのは、ほかにありません。
〈フランスの政治家シャルル・ド・ブロス 1739年〉
これだけの証言を読むだけでも、その演奏の素晴らしさが伝わってきます。
鉄格子の向こうの、彼女らの運命
孤児たちの中には、グランド・ツアーで訪れた各国の王侯貴族の〝ご落胤〟も少なからずいたといわれています。
楽器の演奏や作曲は、当時の王侯貴族の教養、嗜みのひとつで、プロ並みのディレッタント(愛好家)も多くいましたから、そんなDNAを受け継いだ子もいたはずです。
バッハのところで登場したザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世(ポーランド王アウグスト2世強王)も、1716年から1717年にかけて、17ヵ月もヴェネツィアに滞在しました。
彼が作った私生児は365人から382人ともいわれ、認知もしなかったといいますから、慈善院に入った子もいたかもしれません。
まさにやんごとなき孤児たちですが、あまりに演奏技術のレベルが高いため、子女を院に入らせる金持ちもいたそうです。
旅行記に名前が挙げられたアンナ・マリアは、アンネッタの愛称で、キアーラ(キアレッタ)とともに、名ヴァイオリニストとしてヨーロッパ中に名が轟いていましたが、いずれもヴィヴァルディの愛弟子でした。
ヴィヴァルディは、この慈善院の孤児たちに音楽を教え、彼女たちのために作曲したのです。
しかし、慈善院での勉強を終えた彼女たちには、音楽を職業として生きる道はほとんどありませんでした。
宮廷や教会のオーケストラは女子禁制ですし、オペラ歌手も芸能人として特殊な存在でした。
良縁を得て嫁いでいくか、慈善院に残って後進の指導に務めるか、選択肢はふたつしかありません。
そのため、慈善院の女子演奏家たちは薄幸で可憐な少女、というイメージがありますが、70歳の老女も含まれていて、平均年齢は40歳くらいだったといわれています。
聴衆の男たちは、旅行記の証言にあるように、鉄格子で姿の見えにくいオルガン桟敷で可憐に歌い、妙なる調べを奏でる女性たちに憧れたのです。
輝かしい、ヴィヴァルディの『グロリア』
ヴィヴァルディは、生涯で800を超える曲を作曲しましたが、聖職者でありながら宗教曲はとても少ないです。
『四季』をはじめとする500曲以上のコンチェルトのほか、現存するだけでも54曲あるオペラ(ヴィヴァルディ自身は94曲作曲した、と手紙に書いていますが、さすがに盛っているようです)がその中心です。
今回聴く『グロリア』は珍しい宗教曲で、20世紀になってから発見されました。
バッハのロ短調ミサでも、最初はバッハは「キリエ」と「グロリア」だけ作曲しましたが、これも「グロリア」の1章だけです。
単独で演奏されたのか、他者のミサの一部として使われたのかは分かっていません。
しかし、今ではヴィヴァルディの作品の中でも『四季』に次ぐ人気を博す、ポピュラーな曲です。
底抜けに明るい冒頭の合唱は、初めて聴いたときには、ほとんど宗教曲とは思えず、ふざけているのか!?とさえ思いましたが、続く曲の美しさには引き込まれてしまいます。
何のために作られたのかも分かりませんが、ヴェネツィアが押され気味だったオスマン・トルコとの海戦に勝利した記念、というのが有力な説です。
はしゃぐような明るさはそこからきているのかもしれません。
またテノールやバスの男声が含まれており、慈善院の女子メンバーだけでは演奏できないので、演奏に際して男性歌手も呼んだのか、あるいはまったく別の教会のために作られたのか、それも謎です。
では、バッハの『グロリア』との違いを意識しながら聴いていきましょう。
ヴィヴァルディ:グロリア ニ長調 RV589
Antonio Vivaldi:Gloria in D Major for soloists chorus and Orchestra, RV589
演奏:リナルド・アレッサンドリーニ(指揮)コンチェルト・イタリアーノ、サラ・ミンガルト(アルト)
Rinaldo Alessandrini & Concerto Italiano
第1曲 グロリア
合唱
いと高きところに栄光、神にあれ
ノリノリのリズムで、グローリア!グローリア!と叫ぶ 、能天気とさえ思える合唱ですが、何度でも聴きたくなってしまう魔力を持っています。何度も言いますが、最初に聴いたときは思わずのけぞってしまいました。まさに、ヴェネツィアの陽気なカーニバルそのものの音楽です。ドイツの作曲家には真似できない、ラテン的解放感に満ち溢れています。
第2曲 エト・イン・テラ・パクス
合唱
しかして地には平和、善き心の人々にあれ
一転、ロ短調のアンダンテとなり、バスが主導し、カノン風に合唱が、うっとりするほどに美しいハーモニーを奏でます。信仰心にあふれながらも、実に官能的で、これこそが本場の音楽、という思いです。
第3曲 ラウダムス・テ
ソプラノ二重唱
われら汝を頌めまつる
われら汝を讃えまつる
われら汝を拝しまつる
われら汝を崇めまつる
さらに一転、オペラから飛び出したような華やかなソプラノのデュエットですが、教会音楽らしい抑制された美しさも秘めています。
第4曲 グラツィアス 第5曲 プロプテル・マグナム
合唱
われら汝に感謝を捧げまつる
大いなる汝の栄光のゆえに
再び短調の暗い合唱となり、アダージョで始まりますが、それはたった6小節で終わりますので、第5曲への序奏といえます。アレグロとなり、カノン風にテーマが歌い継がれますが、最後は長調の明るい和音で終わります。
第6曲 ドミネ・デウス
ソプラノ独唱
主なる神、天の王、全能の父なる神よ
オーボエのオブリガートを伴ってソプラノが歌う、天国的なアリアです。のどかなパストラル(田園)のリズムに心底癒されます。
第7曲 ドミネ・フィリ
合唱
主なるひとり子、いと高きイエス・キリスト
この曲の中でも白眉の音楽で、大好きな合唱です。アルトとバスが歌い出し、ソプラノとテノールが呼応して、イエスへの確固たる信頼を高らかに表現しています。馬がギャロップするかのような楽し気なリズムに乗り、人々の声が天にも届けとばかりに響いていきます。
第8曲 ドミネ・デウス・アニュス・デイ
アルト独唱、合唱
主なる神、神の子羊、父の御子
前曲の高揚から一転、初めてアルトの独唱が登場します。その声はどこまでも深く、宗教的思索に満ちています。合唱がそれに和し、神の子であるにもかかわらず生贄となった子羊、イエスに思いを致します。
第9曲 クイ・トリス
合唱
汝、世の罪を除く者よ、われらを憐みたまえ
汝、世の罪を除く者よ、われらの願いを受け入れたまえ
その犠牲は人類の罪を贖うものである、そんな罪びとである我らを憐れんでください、と訴えるホ短調の合唱です。調性は揺れ動き、思いまどう愚かな人間の心を表わしています。この曲の核心ともいえる楽章です。
第10曲 クイ・セデス
アルト独唱
汝、父の右に座したもう者よ、われらを憐みたまえ
再び、あらためてアルトのアリアがイエスに憐みを乞います。人々の最後の訴えであり、技巧は少なく、ストレートな祈りの歌であり、それだけに深い感動を与えます。
第11曲 クォニアム
合唱
聖なるはひとり汝のみ
主なるはひとり汝のみ
至高なるはひとり汝のみなれば、イエス・キリストよ
曲は終盤となり、冒頭の合唱が回帰しますが、形は簡略に変えられ、最後の締めの合唱につなぎます。まさにヴィヴァルディの粋な技といえます。
第12曲 クム・サンクト・スピリトゥ
合唱
聖霊とともに父なる神の栄光のうちにおわす
アーメン
バッハのロ短調ミサでも、ここは壮麗な合唱になりますが、ヴィヴァルディも、トランペットも高らかにフーガで締めていきます。人々の声は重なり、天に昇る階段が目の前に現れるかのようです。ただし、この曲は同時期のジョヴァンニ・マリア・ルッジェーリという作曲家の作品をアレンジしたものです。
最後に演奏の動画をふたつ挙げておきます。
まずこちらは、ピエタ慈善院での演奏を再現したもので、鉄格子の向こうの孤児たちが一生懸命演奏している往時の姿を彷彿とさせてくれます。
Vivaldi Gloria at La Pieta, Venice
続いて、今回取り上げたアレッサンドリーニ指揮、コンチェルト・イタリアーノによる演奏の動画です。ヨーロッパを旅していると、教会や宮殿でリハーサルに出くわす幸運が時々ありますが、こちらはそんな雰囲気で始まりながら、意表を突く展開が素晴らしい演出で、グロリアの世界に引き込まれていきます。ヴィヴァルディのグロリアには同じニ長調でRV588という曲もあるのですが、この演奏ではそこからも数曲が取り上げられています。演奏も素晴らしいものです。
Vivaldi - Gloria
比較のため、バッハ『ロ短調ミサ』「グロリア」冒頭合唱の動画も掲げておきます。バッハの高度で複雑な構造がもたらす音楽、ヴィヴァルディの直截的な感情に満ちた音楽、それぞれに味わいがあります。
Bach - MASS in B minor, BWV 232: IV. GLORIA, ET IN TERRA PAX - Laurenscantorij - (Hohe Messe)
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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