孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

最愛の母を亡くして。ベートーヴェン『リギーニのアリエッタ〝愛よ来たれ〟による24の変奏曲』

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ベートーヴェンの両親

気丈な母の〝悲しみの鎖〟

ベートーヴェンの母、マリア・マグダレーナ(1746-1787)は、トリーア選帝侯料理長ヨハン・ハインリヒ・ケフェリヒの娘で、17歳のとき同じくトリーア選帝侯に仕える近侍のヨハン・ライムと結婚しますが、夫とは2年で死別してしまい、19歳で未亡人となってしまいます。

子供もひとり産みましたが、ほどなく亡くなっています。

死別の2年後、21歳のとき、ベートーヴェンの父となるヨハン・ヴァン・ベートーヴェンと結婚し、5人の男児と3人の女児が生まれていますが、無事に成人したのはベートーヴェンも含めて男子3人だけでした。

マリアはそんな大切な人の死の連続を〝悲しみの鎖〟と言っていたそうです。

そして、ヨハンは偉大な父と息子に挟まれて、音楽の才能もイマイチ、宮廷での出世もままならないイライラを、DVと飲酒で紛らわせます。

マリアの心身の苦労は言語に絶しますが、当時の女性は多かれ少なかれ同じような境遇でした。

毎年妊娠しながら家事と育児、貧しい家計のやりくりと夫、舅、姑への奉仕に追われる毎日。

子供の死亡率は50%以下。

大人になってのベートーヴェンの傍若無人で粗野なふるまいは、母親にネグレクトされたからだ、という評もありますが、それは酷というものです。

幼いベートーヴェンは実質的な長男として、その才能で家計を支え、母とは〝戦友〟のような絆で結ばれていたといわれています。

憧れの都に届いた悲報

1787年春、恩師ネーフェと、モーツァルトファンだった主君の選帝侯マクシミリアン・フランツの後援により、ウィーンに研修旅行に行くことができた16歳のベートーヴェン

モーツァルトの前で演奏ができ、大いに称賛されて(その称賛はモーツァルトが友人に語ったもので、本人には伝わらなかったようですが)、前途洋々の瞬間、父からの手紙を受け取ります。

そこには、母が危篤なのですぐ帰れ、と記されていました。

ベートーヴェンの心中は察するにあまりあります。

あわてて荷物をまとめ、ウィーンを後にします。

ウィーン滞在はほんの2週間でした。

途中、アウクスブルクでは、モーツァルトがその楽器に惚れ込んだピアノ製造者、シュタインの工房を慌ただしい中で訪ねることができました。

6月頭にボンに帰ったベートーヴェンは必死で母親の看病をしますが、その甲斐なく、7月17日にマリア・マグダレーナは亡くなります。

ベートーヴェンの最初の手紙

ベートーヴェンは、ウィーンからの帰途、アウクスブルクで出会った弁護士の好意で、旅費を借りたようです。

その返済がまだできないことを陳謝する手紙が、今遺されているベートーヴェンの最初の書簡なのですが、そこには母への思いが悲痛に綴られています。

ヨーゼフ・ヴィルヘルム・フォン・シャーデン博士宛

高貴な、わけても親愛なる友よ!

貴方がわたしをきっとどう思っていらっしゃるか、容易に推察できます。わたしのことを快く思っておられぬのはもっともなことで、わたしはそれに抗弁することはできません。どうしてわたしは自分の弁明を聞いていただける望みを捨てないでいるのか、その訳をお話ししないで赦していただこうとは思いません。アウクスブルクを立ってから、私は喜びと健康をともに失い始めたことを告白しなければなりません。故郷に近づくにつれ、母の容態は思わしくないからなるべく旅を急ぐようにとの手紙を、しきりと父から受けました。それでできるだけ急ぎました。わたし自身も身体を損ねていましたので。病める母にもう一度会いたいとの切なる願いが、あらゆる障害を突破させ、最大の困難にも打ち勝つのを助けてくれました。母に会えはしましたが、ひどく惨めな容態でした。肺病だったのです。多くの苦痛と悩みに耐え忍んだあげく、7週間ほど前についに亡くなりました。わたしにとっては実に良い親切な母であり、最良の友でした。おお!母の懐かしい名を声に出して呼ぶことができ、それが母に聞き止められていたあの頃、わたし以上に幸福な者はなかったでしょうに。しかし、今は何に向かって呼びかけ得ましょう!自分の想像力で思い浮かべる、黙せるいろいろな母の面影にでしょうか?わたしはここへ帰って以来ずっとろくに楽しい時もありません。絶えず喘息に悩んでいます。それがもとでさらに肺病にならぬかと心配です。その上さらに、メランコリーに襲われています。それはわたしには病気に劣らぬ大きな災いです。今のわたしの身になってお考えくだされば、長のご無沙汰も赦していただけると思います。ひとかたならぬご好意と友情におすがりしてアウクスブルクでお貸し願った3カロリンは、なおしばらくご猶予いただきたく存じます。旅費にずいぶんかかりました。しかもここでは、それを償うに足るものは得られず、また得る望みは少しもありません。このボンでわたしは幸運に恵まれておりません。

勝手なことを長々と書き失礼いたしましたが、どれもこれもお赦しいただくのに必要なことだったのです。

願わくば、今後相変わらず尊敬すべきご友情を賜らんことを。また貴下のご友情の万分の一にでも値せんことをこいねがっております。

心から敬意を捧げ 貴下の忠実なる下僕にして友なる

ケルン選帝侯宮廷オルガニスト L. v. ベートーヴェン*1

文中の『わたしにとっては実に良い親切な母であり、最良の友でした。』という言葉は、ボンにあるマリア・マグダレーナの墓の、後世建て直された墓碑に刻まれています。

16歳にしてずいぶん大人びた、かつ感動的な文章です。

苦境のベートーヴェンを助けた、このシャーデン博士という人物については、これ以外何も分かっておらず、結局お金は返せたのか、それともこれを読んでチャラにしてくれたのかも分かりませんが、ベートーヴェンとの関わりによって歴史に名を残しているわけです。

3カロリンは、ベートーヴェンの年俸の5分の1にもなろうという大金でした。

帰途は、研修を自己都合で切り上げたので、旅費は自弁しなければならなかったのでしょう。

それにしても、旅の途中で次々に父からの手紙を受け取ることができたとは、当時の郵便事情にも驚かされます。

母は享年40歳、当時は不治の病であった肺結核でした。

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ベートーヴェンの母の墓(ボン)

アル中の父と弟たちをかかえて

母の死によって、父ヨハンはますます酒におぼれるようになります。

母の死の4ヵ月後には妹のマリア・マルガレーテが1歳半で亡くなり、残された弟ふたり、15歳のカスパル・アントン・カールと、13歳のニコラウス・ヨハンの面倒も、ベートーヴェンの肩にかかってきています。

2年間は、ベートーヴェンは父をかばい、がんばってきましたが、父が自分の給与を呑みつくすばかりか借金までするようになって、ついに耐え切れず、宮廷に嘆願を出します。

それは、父の給与の半分を父に渡さず自分に支払ってもらうことと、父を酒の入手しにくい田舎に隠棲するよう勧告していただきたい、ということでした。

これに対し、父の勤務評定も悪く、息子の方を評価していた宮廷は、選帝侯の名で次の布告を出します。

選帝侯殿下におかせられましては、請願者の願いをお慈悲をもって聞き届けられ、以後、その父の仕事をすべて免じ、選帝侯領内の村に引退させるものとす。また請願者の望みに従い、来るべき新年から、これまで彼が受給してきた年俸のうち100ライン・ターラーのみを彼に支給し、残りの100ライン・ターラーは請願者たる息子に、彼が目下兄弟を扶養するために得ている俸給と、穀物3袋に加えて支給されるべく、お慈悲をもって命ぜられる。*2

ベートーヴェンはこの〝お慈悲〟を父に示したところ、さすがに反省したようで、この布告を有効にする手続きをしないでくれるなら、自分の給与は必ず渡すと約束しました。

父ヨハンはその後もベートーヴェンと同居していますので、この約束は守られたようです。

高まる評価と名声

先の手紙では、ベートーヴェンはボンでの評価が低いということをこぼしていますが、それは報酬面であって、その才覚は選帝侯以下、衆目の認めるものだったと考えられます。

1791年9月、ドイツ騎士団でもあった主君の選帝侯マクシミリアン・フランツは、メルゲントハイムで開かれたドイツ騎士団大会に、自慢の宮廷楽団を伴ってでかけます。

当然ベートーヴェンもお供をしています。

選帝侯は途中、マインツ近郊のアシャッフェンブルクに立ち寄りましたが、そこには当代きっての有名なオルガニストシュテルケル司祭がいました。

ベートーヴェンはその名手の前で変奏曲を演奏し、大変な喝采を浴びたと伝えられています。

選帝侯も鼻が高かったことでしょう。

ベートーヴェン自身もこの曲を気に入り、後にウィーンデビューしたときにも、改訂を加えてしばしば演奏していたとのことです。

今回はその大変奏曲を聴き、母を亡くし、父に代わって若くして一家の大黒柱となったベートーヴェンの仕事ぶりを偲びます。

ベートーヴェン:リギーニのアリエッタ〝愛よ来たれ〟による24の変奏曲 WoO65

Ludwig Van Beethoven:24 Variations on "Venni amor" WoO65

演奏:ロナルド・ブラウティガム(フォルテピアノ) Ronald Brautigam

テーマを引用したリギーニの作品は、1789年頃にマインツで出版された『12のイタリア・アリエッタ集』に収録されていました。リギーニ自身も1788年にボンを訪れており、ベートーヴェンはその時に知ったのかもしれません。

『愛よ来たれ、きみの王国に、されど恐れもありて』というイタリア語歌詞の歌曲の旋律は、下降音階でできており、変奏はこれにさまざまな和声をつけていくことで進行していきます。

第1変奏は4声部の充実した和音がつけられ、第2変奏はスキップをするように軽快です。第3変奏は低音域から天上に駆け上るよう、第4変奏は華麗なトリルが対旋律をつむぎます。第5変奏は3連符で大きくオクターブを広げ、第6変奏は左右の声部が掛け合いを行います。第7変奏はカノン風、第8変奏はシンコペーションのリズムが特徴的。第9変奏は半音階的に幻想的な雰囲気を醸し出し、第10変奏は6度から12度までの幅で跳躍。第11変奏は付点リズムで重々しいハーモニーを響かせ、前半第1部の締めくくりとなっています。

第12変奏と第13変奏は、中間部の位置づけで、ニ短調の幻想的な世界となります。第13変奏は名人芸風となり、聴く人を圧倒したことでしょう。

第14変奏はいわば後半、第3部の冒頭で、アレグレットとアダージョが交錯した凝った作りがベートーヴェンの労作を思わせます。第15変奏は本来の調性、リズムに戻り、装飾的です。第16変奏はアルペッジョに左手がシンコペーション風に展開、第17変奏はようやくテーマを回帰させます。第18変奏は元のテーマを残しつつもアルペッジョで変化をつけます。第19変奏は右手と左手の対話、第20変奏はスケルツァンドの指示があり、半音階的進行が特徴的で、第21変奏はロマン主義を先取りしたような大胆なコード進行。第22変奏はオーソドックスな変奏に戻り、第23変奏はアダージョ・ソステヌートで自由な即興風です。最後の第24変奏は144小節からなる長大なもので、4部構成。アレグロではじまり、やがてウン・ポコ・メーノ・アレグロにテンポを落とし、アレグロ・トリンジェンドを経て、華麗なプレスト・アッサイでめくるめくような盛り上がりをみせたあと、リタルダンドで小粋に曲を締めます。

この曲での工夫はきわめて野心的、画期的なもので、当時の聴衆が目を丸くした様子が目に浮かびます。

我々も、ひとつの壮大な絵巻物を見ているかのような思いになるのです。

 

今回もお読みいただき、ありがとうございました。

 

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*1:『新編ベートーヴェンの手紙(上)』小松雄一郎編訳・岩波文庫

*2:ベートーヴェンの生涯』青木やよひ・平凡社